月夜の円舞曲2
半刻、一刻と瞬く間に時が進み、空に浮かぶ月も徐々に沈み始めた頃。
「クッ!」
一人の演奏家に限界が訪れる。
ミラージュの体は万全とは程遠く、長時間の戦闘に耐え切れなかったのだ。
刹那、ゼノビアは少しだけ寂しそうな表情を浮かべるが、その剣先は止まる事無く、今にも崩れ落ちそうなミラージュの胴体に迫る。
「なっ!」
もし、余人がこの光景を見ていたならば、誰もがゼノビアと同じ驚愕の声を上げただろう。
ミラージュの胴体を薙ぐはずだったゼノビアの攻撃が空を切り、逆にその手に掴んでいたはずの剣が宙を舞っていたのだ。
「最初に言ったはずだよ。僕は本気で戦う、と。まぁ、ここまで追い詰められるなんて考えてもいなかったけど」
大鎌の刃がゼノビアの首筋を僅かに撫で、白い肌から鮮やかな赤い液体が垂れる。
敗北を悟ったゼノビアは両手を挙げ瞠目し、それを確認したミラージュはゆっくりと大鎌を引き上げる。
ミラージュとしては反則紛いの転移魔法など使うつもりは無かったのだが、ゼノビアの実力があまりにも想像を超えていたのだ。
拮抗した状態で長時間の戦いになってしまい、先に体の限界が訪れてしまった為、やむを得ず転移魔法を用いてしまった。
僅か十八年も生きていないゼノビアが、万全ではないにしても三百年生きているファルサを追い詰める。
それは正しく、ゼノビアの努力の成果といえるだろう。
「……あの瞬間、勝ちを確信した私の慢心が招いた結果だ。騎士団を辞める前にファルサ殿から勝ち星を拾っておきたかったのだがな」
「ようやく僕の名前を呼んでくれたね」
ファルサは相好を崩し、ゼノビアも笑みを浮かべるのだった。
「今更、意地を張るのも馬鹿らしいだろう。私の思い違いであればと何度も思っていたのだが……本当に魔族なのだな」
「正確には人間と魔族、半々だけどね」
「何だと? 人間と魔族との間に子を成す事ができるというのか!」
「そうらしいね。もっとも、僕以外には見た事も聞いた事もないから本当かどうかは知らないよ。ただ、僕の父さんが言うには、母さんは人間の女性だったらしいけど……っぷ、くく」
「な、何故笑うんだ!」
目を白黒とさせているゼノビアの様子に、ファルサは思わず吹き出してしまう。
あれだけファルサの前では仏頂面を浮かべ続けていたゼノビアが、いきなり表情をころころと変えているのだ。
当の本人は何故笑われたのか理解できていないのか、首を傾げながらファルサへと近づき、左目と右目を交互に見比べる。
「それにしても見事に違う色なのだな。普段は開発中のカラーレンズとやらで隠しているのか?」
「その通りだよ。まさか魔族に成りすます目的で研究されている物を、僕が使っているなんて思っていないだろうね」
古代技術で作られた瞳の色を変えるレンズだが、未だに黒目以外の再現に至っていない。
元々は、魔族の象徴である紅い瞳を再現する目的で研究されていた品を、ファルサが旅の途中で偶然手に入れて使用し始めたのだ。
一般に流通する事は無く、ヴァロワ王国や他の国々でも存在が秘匿されている品を手にしたのは、ファルサにとって僥倖であった。
何しろ、それまでは眼帯で左目を隠していた為、黒髪も相まって目立ち過ぎていたのだから。
また、多くの人間にとって魔族のイメージは、金色の角を持った悪魔族である。
ファルサの様に人間と変わらない容姿であれば、目の色を誤魔化していると疑われる事はなかった。
「だが、今はルウ殿がいる」
「そうなんだよ。ルウの姿は多くの人に見られているから、魔族の中には人間と変わらない姿をしている種族もいると広く知られてしまった。それに、僕の容姿が変わらない事に不信感を持つ人も出てくるはずだ」
ファルサが王国に仕えて五年、周囲からは十九歳から二十四歳になったと認識されている。
今ならまだ年齢的にも何とか誤魔化しは効くが、後五年か十年もすれば容姿に変化が無いのは明らかに不自然だと思われるだろう。
つい先日もダンピエール公に指摘され、魔法使いは老いが遅い等という迷信紛いの言葉で誤魔化したばかりである。
もっとも、まるっきり迷信という訳でもなく、魔法を日常的に使っている者は若々しく長生きしやすい傾向は確かにあるのだが、それでも人間なのだから老いは訪れる。
普通の人間が十年も二十年も変わらぬ姿で居るのは無理がある話なのだ。
「女である身からすれば、随分と羨ましい事だがな」
「君はこの数年で、可愛らしい女の子から素敵な女性に変わったし、これから先も年齢に応じた魅力を手にいれると思うよ。見た目の若さだけが女性の美しさとは限らないからね。それはそうと、こうして綻びが出始めてしまった以上この国に長居は出来ない。僕はルウを連れて魔族領に戻るつもりだよ。今日はお別れと、君との約束を果たす為に呼び出したんだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! ファルサ殿の正体に気が付いているのは私だけだし、誰にも話していない。それにルウ殿はシル殿の協力があれば何とかなる。彼は約束を反故にする様な人じゃない。アウレリア王女の目的を知った上で、それでも力を貸してくれると約束してくれた。私が……私がシル殿と、ダンピエール公と結婚すればそれで済む話なんだぞ! だから、ファルサ殿が今すぐ王国を出ていく必要はないんだ!」
動揺を一切隠しきれていないゼノビアの叫び声が、マルティールの丘に響き渡る。
上目づかいをして縋りつくゼノビアの姿を見て、ファルサは心苦しさを感じつつも自らの予想が正しかったと確信した。
当初、ゼノビアがダンピエール公からの縁談を受けた理由を、ファルサは自分がルウを魔族領に帰したがっているからだと思っていた。
勿論、根本的な部分は変わらないのだが、そこにファルサが魔族であるという前提が抜けていたのだ。
「僕なんかの為に自分を犠牲にしないでくれ。僕は君だけじゃなく、多くの人を騙し続けてきたんだ。そんな男を庇う必要なんかない」
ゼノビアは、ルウとのやり取りの中でファルサとミラージュが同一人物であると気が付いてしまったのだろう。
そして、ルウを攫った魔族がミラージュに成りすましていた事、ファルサが真っ当な手段でルウを親元に帰そうとしている事、その後のファルサの行動、それらについて考え一つの答えに辿り着いたはずである。
ファルサは人間としての生活を望み、同時に魔族としての生活も望んでいる、と。
今のファルサの様にルウを連れて魔族領に戻り魔族として生きる事も、素知らぬふりをしてルウを見捨てて人間として生きる事も出来たのだ。
しかし、ファルサはそのどちらも選ばずに、人間と魔族が交渉する道を模索した。
その道を進む第一歩として、ゼノビアとファルサの婚約し、クテシフォン侯爵の取り成しでダンピエール公らを含めた北部貴族との調整を進める予定だったが、突然崩れ去る事になってしまう。
結果として、ゼノビアはファルサの正体に関わる事を誰にも相談できず、一人で突っ走るという選択をしたのだ。
全ては、ファルサが人間のファルサとしてこれから先もヴァロワ王国で過ごす為に。
残された時間が少なかったとしても、ファルサがそう望むのならば、と。
「ち、違う! 私は……そう、私は幼い頃よりシル殿を好いていたが、所詮は片思いだと考えて諦めていたのだ。ファルサ殿は……それを紛らわす為の……偽りの気持ちで……その……だから……ファルサ殿の事なんか好き……じゃ……な――」
「――もういい、もういいんだ。君が僕の為に好きでもない相手と結婚する必要はない。僕の居場所を守る為に、自分を犠牲にしなくてもいいんだよ」
引きつった笑みを浮かべて必死に否定をするゼノビアの言葉を遮り、ファルサはおもむろにその体を抱きしめた。
ゼノビアは抵抗することなく、肩を震わせながらファルサの胸の中に包み込まれる。
「いやだ! いやだ、いやだ、いやだ! 人間でも、魔族でも、ファルサ殿が……ファルサ殿が幸せならそれで良いのに、何でそんな事を言うんだ! 私は……わだじばぁ……うぅ、ひっく……」
我儘を言いながら嗚咽を漏らすゼノビアは、誰もが憧憬の眼差しで見つめる騎士ではなく、一人の少女だった。
ファルサは小さな子供をあやす様に、ゼノビアの頭と背中を優しく撫でる。
いつも女の子を泣かせてばかりだな、とファルサは心の中で自嘲しながらも得も言われぬ充足感に満たされていた。
顔も知らぬ人間の母と、魔族である父と結ばれて自分が誕生した。
そして、自らの腕の中に収まる少女も自分が魔族であるという事実を受け入れてくれたのだ。
正体を隠し続けるというのはそれだけで精神が摩耗し、魔族としても人間としても中途半端な存在だと自覚する度に心を蝕んでいく。
しかし、ゼノビアはファルサの味方であろうと努め、己が身を犠牲にしようとしていた。
だからこそ、ファルサは喜びを覚えると同時に、ここでゼノビアを遠ざける必要があると判断する。
「ゼノビア、良く聞いてほしい。僕はルウを連れ帰った後、魔王軍でも正体を明かすつもりだよ。君も知っている通り、四天王の一人は人間に対して憎悪を抱いているし、僕が宮廷魔導士として魔王軍に対する利敵行為をしていたのも事実だ。だから、向こうで処罰される可能性は高いし、魔王軍をどうにか出来たとしてもユリアの事がある。僕は転移魔法でユリアの村に魔族たちを引き入れた張本人。とても許される過去じゃない。どちらにしても、ユリアからの裁きを受けるつもりだ。アウラには申し訳ないけど、僕の私財である古代文明時代の魔道具を全部譲れば、それで後は上手くやってくれると思う」
「やめろ……やめてくれ……」
「君はまだ若い、これから先、もっと素敵な人が現れるかもしれないし、ダンピエール公だって君の事を真剣に考えていたから悪い人じゃない。ただ、僕のせいで自らを犠牲にする様な判断をさせて、人生を狂わせたくない。君の意志でこれから先の人生を選ぶんだ」
「……ファルサ殿は私の事が嫌いなのか? 私はそんなに女として魅力がないのか? どうてもいい女相手に優しくするのか? 期待させるような言動をとるのか?」
「そんな事は……無いよ。あまり考えない様にしていたけど、君と過ごした時間はとても楽しかった。でも、君と僕とでは寿命も違う。それに……」
「……るさい」
「え?」
ファルサは一瞬、自分の耳を疑った。
ゼノビアを説得するには時間がかかると覚悟していたが、今の声色は涙を流して縋りついていた少女から出たとは思えないなかったのだ。
例えるならば、地獄の底から這いあがってきた亡者か悪鬼羅刹の様な、身を凍りつかせるような声。
「あぁもうごちゃごちゃとうるさいぞ馬鹿者が! 私はファルサ殿が好きだ! 愛している! ファルサ殿も私を憎からず思っている! 他の事なんてどうでもいいんだ!」
「いや、どうでもよく――」
「――この屁理屈男が! 魔族? 人間? 過去の罪? そんなものをいつまでもウジウジウジウジと女々しいぞ! まだ魔王軍で処罰されると決まった訳でもないし、ユリアがファルサ殿を断罪するかどうかもわからないじゃないか!」
「いや、常識的に考えて――」
「――常識だを言い訳にして楽な道を進もうとしている臆病者が! いいか、安易に死を選ぶような行為は唯の逃げだ、臆病者のやる事だ! そんなに怖いなら私も一緒に行ってやる。魔族領でもなんでも無理やり着いて行く。魔王だろうが勇者だろうが許してもらえるまで一緒に謝るんだ。駄目ならその時はファルサ殿を連れて逃げてやる。東方でも南方でもとにかく遠くに逃げて、それで逃亡先で沢山子供を産んで、国を作る。魔族とか人間とか関係なく皆が幸せに暮らせる国を。百人でも二百人でも、ファルサ殿の子を産んでやる。そして最期はファルサ殿や子供、孫やひ孫に看取られながら笑顔で死んでやるぞ。いいか、私は本気だ。もし私を置いてどこかに行ったら、地獄の果てまで追いかけてやるからな!」
滅茶苦茶な、と思いながらもゼノビアの言葉がファルサの心に染みていく。
恋愛感情など、所詮は勘違いや性欲、種としての生存本能が根本的な原因であり、そこに美辞麗句を並べ立てているだけだ、とファルサは思っていた。
しかし、目の前の少女が発する言葉は、そんな理屈を力任せに吹き飛ばした。
同時に何となく、何となくだが、寡黙で冷静な父が愛した母もこんな性格だったのだろう、とファルサは思ってしまう。
人間だとか、魔族だとか、種族の壁をその程度の事だと言ってのけるとんでもない女性。
そんな人が相手だったから、きっと、自分と同じ気持ちになったのか。
様々な思考や感情が頭の中をが駆け巡り、ファルサは大きな溜め息を吐いた。
「はぁ。君も大概、しつこい性格をしているね」
「ふっ、以前にも言っただろう? 私はこう見えてもしつこい女なんだ」
得意げな表情をするゼノビアを見て、そういえばそんな話をした覚えがある、とファルサは少し前の出来事を思い出す。
そして、もっと昔の事も。
初めて会った時は小さな子供だった。
敵意をむき出しにして、意地っ張りで、泣き虫で、恥ずかしがり屋で。
好意を隠しているつもりだけど全く隠しきれていなくて。
子供だった少女は少しずつ大人になった。
自分と肩を並べる様に強く在り続け、でもやっぱり泣き虫で意地っ張りなのは変わらない。
「本当だよ。でも、君が語る荒唐無稽な未来も、存外悪くないかもしれない」
「ふぁ、ファルサ殿、そ、それって」
ゼノビアは驚きと期待を混じり合わせた表情でファルサの顔を見上げる。
そして、ファルサもゼノビアの顔を見つめ、ふぅ、と息を吐く。
いつもの様なため息ではなく、緊張と覚悟が入り混じった吐息。
「ゼノビア、神に誓って君を幸せにする。だから僕の傍に死ぬまで居て欲しい。僕には君が必要だ!」
「は、はい、喜んで!」
了承の言葉と同時に、ファルサとゼノビアの影は再び重なり合う。
これから先、決して離れまいと誓う様に。
何が本当の幸せになるのか、ファルサにはまだわからない。
だが、少なくともこの両腕の中にある温もりを離さない事がきっと幸せなのだろう、とファルサは思う。
理屈や計算などでは語れない、酷く曖昧な感情。
具体的な単語で表せなかったが、傍に居て欲しいという気持ちだけは本物だった。




