ゼノビア・ド・クテシフォン8
「さて、どこから手を付けるかな」
宮廷魔導士に与えられている王宮の研究室にて、ファルサは苦笑いを浮かべて一人ごちる。
作業用に使用している木製の机の上には、王宮の保管庫から持ち出した書物や書類が山の様に積まれていた。
ファルサが一度は目を通した事もあるものも多いが、重要な内容以外は忘れている可能性もある為、再確認するつもりで用意したのだ。
特にゼノビアの兄レオナールと、その親友であったダンピエール公については、尤も重視して確認するべきだとファルサは思っていた。
「親友の妹の幸せ……か」
ダンピエール公が発した言葉を反芻し、ファルサはその意図を考える。
そもそもダンピエール公自身は今年で二十三歳、貴族としては遅すぎる結婚である。
仮に、かつて交友のあったゼノビアに秘めたる想いがあったとしても、既にゼノビアが成人して三年近く経ってから話を持ち掛けるなど不自然極まりない。
二人がレオナールの死後に交流が無い事からも、ダンピエール公が愛や恋といったものとは別の意図を持っているのは明らかなのだ。
言葉通り受け止めるなら、純粋にゼノビアを幸せにする為なのだろう。
「周囲に人が居るにも関わらず、縁談について喧伝した目的は僕への当て付け、だよなぁ。どう転んでも交渉どころの騒ぎじゃなくなってしまう」
既にファルサとゼノビアの噂は王宮内に流れている。
後を追う様にダンピエール公の話が出回れば、ゼノビアを取り合って争う二人という対立構造が出来上がる。
遭遇自体が偶然か必然かは今更判断できないが、話題の持って行き方からして、ダンピエール公がファルサとゼノビアが結ばれる事に不満があるのだろう。
アウレリア王女派に敵対する目的だったならばどちらにしても交渉が難航と言う理由でゼノビアを説得するのは容易だが、ファルサ個人へ悪感情を持たれているなら、非常に面倒な状況になってしまう。
もっとも、あの場での発言自体が演技、ブラフである可能性もあるのだが、自らの醜聞と引き換えにしてまで行うメリットがない。
「そもそもゼノビアの幸せって何だろう。僕と結婚したとしても、不幸になる可能性の方が高いんじゃ……」
後ろ向きな思考に陥りそうになったファルサは、頭を振って自らの言葉を否定しようとする。
しかし、自分に魔族の血が流れている事を考えると、明るい未来があるとは思えない。
ダンピエール公に元に行った方が、今は辛くても後々幸せになるのではないか、とファルサは頭の中に誰かが囁やいた様な気がした。
「僕は何を焦っているんだ。まずはダンピエール公爵家とクテシフォン侯爵家について情報を整理しなしてからでも遅くない。それに、ダンピエール公がゼノビアの為に行動しているなんて確証もないじゃないか」
自分に言い聞かせるように言葉を発したファルサは、机の上に手を伸ばし、次から次へと書物や書類を読み漁っていく。
騎士学校の演習記録、訓練場使用の申請書、舞踏会の参加者名簿、貴族名鑑、情報屋の報告書、ヴァロワ王国戦史、メイドたちによる噂話等々、純粋に事実のみを記載したものから、執筆者の主観が混じった内容まで多種多様である。
総頁数は万にも及ぶのだが、ファルサは全てに目を通すつもりだった。
ファルサの黒い眼が忙しなく左右に走り、紙の捲れる音と柱時計の振り子が刻む規則正しいリズムが部屋を支配する。
インクの香りと大量の古本から漂うカビの匂い、ファルサの生まれ育った家も同じ様な環境だった。
ファルサの父は几帳面な性格で書物の保管もしっかりしていたが、最初から保存状態の悪い本が市場に出回る事も多い。
それでも興味が惹かれる品は親子で買い漁り、家の本棚を次から次へと埋めていったっけ、とファルサは昔を懐かしむ。
何故父さんは人間と結婚したのか、と質問して困らせた事もあった。
山から下りる時に眼帯をするのは恥ずかしい、と駄々をこねた時もあった。
思わぬ郷愁に駆られてしまうファルサだったが、それでも動きが止まる事は無く、次に目を通す書物を求めて机の山に手を伸ばす。
「これは……ぶどう畑で捕まえて、の上巻か」
ファルサは表紙のタイトルを口に出し、ゆっくりと頁をめくる。
内容は良くある身分差の恋愛小説で、ぶどうが名産の領地を持つ侯爵家の長男であるアドルフが、行儀見習いに来た子爵家の令嬢であるサラと出会う場面から始まる。
アドルフには両親が決めた公爵家の許嫁が居たが、サラと恋に落ちてしまう。
当然、両親に反対されるアドルフだが、勘当を覚悟の上で駆け落ちをして王都で騎士団の副団長として働き、サラと共に慎ましやかな生活を送っていた。
しかし、面子を潰された公爵家から嫌がらせを受け、騎士団を退団に追い込まれてしまう。
更には多額の借金まで背負わされ路頭に迷いかけた時、サラが自分と別れて実家に戻る事を提案する。
三日三晩悩み続けたアドルフだったが、これ以上サラに苦労はさせられないと実家に戻る事を決意した。
既にサラのお腹には新たな命が宿っていたのだが、それを知らぬまま。
「おっと、いけない。流し読みするつもりがついつい耽読してしまった。それにしても、自分の過去を物語にされるのって恥ずかしくないのかな。僕だったら全力で拒否するのに」
引き籠もり時代に癖となったひとり言を口にしながら、ファルサは机の上に読み終えた本を置く。
何故このような恋愛小説がここにあるのか、それは物語の主人公がクテシフォン侯爵をモデルにしているからだ。
物語の結末は言うまでもなく、サラのお腹に宿った子供レオナールが生まれ、親子三人で幸せな生活を過ごしている場面で締めくくられる。
タイトルにもなっているぶどう畑で変わらぬ愛を誓い合うシーンが特に人気で、王都の劇場でも頻繁に上演されていた。
もっとも、レオナールの死後から今に至るまで、再演された事はないのだが。
いくら物語として多少の演出が加えられているとはいえ、大筋は実話を元にしている話であり、ファルサが同じ立場なら羞恥で悶える事になるだろう。
そして、気を取り直して作業に戻ろうとしたファルサだが、唐突に部屋の扉が勢い良く開かれ一人の闖入者が現れる。
「おい貴様! どういう事か説明して貰おうじゃないか!」
左右で編み込まれた金色の長い髪と、碧の瞳。
そして白を基調とした清廉さを思わせる鎧に、腰に佩いた装飾付きの長剣。
額に青筋を浮かべてファルサへとにじり寄り、その胸倉を勢い良く掴む女騎士。
その正体は数時間前までアウレリアの護衛をしていた、白百合騎士団副団長、セシリア・ド・モンモランシーである。
怒り心頭に発しているといった様子のセシリアだが、詰め寄られているファルサは平静そのものだった。
「いきなり来て、はっきりと内容を言わずにがなり立てられても困るよ。言葉足らずで通じ合えるほど、君と仲良くなった覚えはないけどね」
「当たり前だ! 貴様と慣れ合うくらいなら、死んだ方がマシだからな」
ファルサは興奮したセシリアに体を激しく揺さぶられ、頭が前後に大きく振れてしまう。
惚けた言葉を発したファルサだが、セシリアが頭に血が上り興奮するのはゼノビアの事以外に有り得ないと確信していた。
セシリアとゼノビアは騎士学校時代からの付き合いで、レオナールが亡くなった後に二人は出会っている。
昔のゼノビアは魔導士を憎み、兄の無念を晴らそうと剣に打ち込んでいたせいか、今よりも刺々しい性格をしていた。
男から言い寄られても実力でねじ伏せていたゼノビアの姿に、セシリアは惚れ込んだのだ。
もっとも、初めのうちはゼノビアに対して反目していたらしいのだが、二人の間に何が起きたのか、詳しい事はファルサも知らない、というよりは話が長くなると面倒なので聞かない様にしている。
「はぁ。それじゃあ、何で君は慣れ合うくらいなら死んだ方がマシな僕に会いに来たのかな」
「私がここに来た理由などゼノビアの事に決まっているだろう! どうしてぽっと出の男と結婚する等と言う話になっているのだ! 殿下やゼノビアの前では何とか平静を装っていたが、少しでも油断したら叫び出してしまうところだったぞ!」
「いや、結構顔に出ていたと思うけど。どうせ引継ぎの打ち合わせも、殆ど上の空だったんでしょ。とにかく、見ての通り、僕は調べ物をするのに忙しくて君に構ってる暇はないから帰ってくれないかな」
恋愛小説を読み耽ってた事を棚に上げつつ、暇がないと拒否をするファルサ。
随分とぞんざいな扱いにも思えるが、これはお決まりの対応であった。
ゼノビアを巡って――と言ってもセシリアの一方的な言いがかりによって――両者は過去に幾度となく衝突していた。
普段は真面目に仕事をする立派な副団長様なのだが、ゼノビアが絡むととにかく面倒くさい相手、それがセシリアなのだ。
暇で暇で死にそうな時であれば相手をするのも吝かではないが、今のファルサにそのような余裕はない。
勿論、暇さえあれば読書をするのがファルサである為、今までその様な機会が訪れた事はない。
「何を悠長に読書などしているのだ! ゼノビアがあんな男に取られても良いのか!」
「取られても良いなんて思ってないけど、そう簡単な話じゃないんだよ。今もこうして、解決の糸口がないか調べ物をしているくらいだからね」
訓練場使用者名簿、と表紙に書かれた書類の束をファルサはセシリアに押し付けた。
王都にある騎士学校の訓練場を使用した者の名前と、日時が記録されているだけの書類。
押し付けられたそれを見たセシリアは、苦虫を噛み潰したような表情になる。
本来であれば騎士学校に置かれているべきこれらの書類を、アウレリアの命で書き写したのは白百合騎士団なのだ。
騎士学校の監査という役目をもぎ取ってきたアウレリアは丁度いい機会だと、騎士以外閲覧できない書類を片っ端から複製して、手中に収める事に成功した。
騎士団の訓練と監査業務を行いながら、徹夜で書き写し作業を行なったセシリアたちは、暫く文字を読みたくないと愚痴を零していた。
「こんな忌々しい物を渡すなぁ! 大体、こんな記録を確認して何の意味があると言うのだ。ま、まさか……ゼノビアに捨てられて頭がおかしくなったんじゃないか?」
「捨てられてもいないし、おかしくなってもいないよ。例えば……君とゼノビアが騎士学校に通っていた頃の記録を見ると、君が一時期、ゼノビアを付け回していた事が分かる」
「ぴゃ! な、ななな、何を馬鹿げた事を、ををを」
あからさまに動揺しているセシリアを横目に、ファルサは幾つかの頁を見せて説明を開始する。
「君たちが入学した当初は、二人が訓練場を使用している時間はバラバラだよね。でも、ある日を境に、毎回ゼノビアの後に君が訓練場に来ているんだ。一度や二度なら偶然って事もあるけど、ほとんど毎日だとそれもあり得ない。でも、こっちの演習記録でゼノビアと同じ班になった日から、時間帯は一緒でもゼノビアが先になったり後になったりしているんだ。これは君たちが演習を切っ掛けに、一緒に訓練をする様な仲になったと推測できる。学生時代の交友関係は身分が違っていても根強く残ったりするものだし、こうした記録から表には出ていない繋がりを発見できたりもするんだよ。逆に、お互いが避けていたりしても、その特徴が顕著に現れる。まぁ、訓練場を頻繁に使う真面目な学生じゃないと意味はないんだけどね」
「そ、そんな過去を穿り返すだなんて貴様は本当に性格が悪いな! だ、大体、今はゼノビアの話をしているんだから誤魔化そうとするんじゃない!」
誤魔化しているのは君の方だよね、と言いたいのを我慢して、ファルサは小さく溜め息を吐く。
ファルサとしては煙に巻いて丁重にお帰り願いたいのだが、真面目に取り合わないと帰るつもりはないらしい。
間違いなく今夜の仕事を押し付ける事になるであろう副官に心の中で謝罪をして、ファルサは目の前に居る面倒くさい女騎士の相手をする覚悟を決める。
経験上、こうしてファルサの元に怒鳴り込んできたセシリアの相手をまともにして、短時間で終わった事は殆どない。
「はぁ、とりあえず話を聞くから適当に座ってよ。この部屋にはコーヒーくらいしかないから、大した持て成しは出来ないけどね」
「え? あ、あぁ、お、お構いなく」
急に態度を変えたファルサに、セシリアは少し動揺をした様子を見せながら、素直に従って近くの椅子に腰を掛ける。
ファルサが部屋の隅でコーヒーを入れている間、セシリアは物珍しそうに研究室を見渡して、嫌でも視界に入る机の上に積まれた書物と書類の山を漁り始めるのだった。
「お、これはゼノビアの父君の物語ではないか。私も擦り切れるほど読んだぞ。一度、兄君が亡くなっていると知らずに話題に出してしまい、物凄い剣幕で切りかかられた事があったな。あの時のゼノビアは、触れたものを切り裂く研ぎ澄まされた刃の様に鋭く、美しかった」
恍惚とした表情で昔の思い出を語るセシリアだが、常人とは少し違う感性を持っているようだ。
それでもゼノビアはセシリアを親友だと言っていた為、ファルサには理解できない何かがあるのだろう。
ヴァロワ王国騎士団の団員はその殆どが王都の騎士学校出身である。
騎士学校では身分に関わらず厳しい訓練を課せられ、卒業するまでに半数近くが脱落すると言われている。
王都を離れて行う演習も魔物を相手にした実戦形式が多く、山や森で野営をする事も珍しくない。
そうした過酷な環境で助け合った仲間同士だからこそ、同期生の絆はとても強く、年齢は元より身分や派閥の枠を超えた交友があったりするのだ。
逆に、お互いの本性を知ってしまい、仲違いをする輩もいるらしい。
「僕からすると、あまりに研ぎ澄まされていて、簡単に折れてしまいそうな印象だったけどね」
恵まれた才能が故、騎士学校の訓練を易々とこなし、本当の意味で窮地に陥った事のないゼノビアは、とても脆かった。
そう昔を思い出しながら、 湯気を漂わせているカップと陶器のミルクポット、砂糖の入った小瓶をセシリアの前に置き、ファルサは少し離れた場所に置かれた椅子に腰を下ろす。
「ふん、貴様に何がわかる。ゼノビアこそ、私の理想なのだ。派閥等という下らぬ問題で勝手に引退などされてたまるものか。それに私が団長になるのは、ゼノビアとの一騎打ちに勝った時以外にあり得ないからな」
鼻を鳴らしながら、たっぷりのミルクと砂糖をカップに注ぐセシリアの姿を見て、どこか昔のゼノビアに似ているな、とファルサは思う。
強気な割にどこか子供っぽく、目標となる相手に追いつこうと努力を重ね、常に対等であろうとする。
身分も役職も剣の腕も全てゼノビアが上であるが、セシリアは腐らずここにいるのだ。
ファルサやゼノビアが王都を離れている間、アウレリアの補佐と団長代理を務めていた副団長の名は伊達ではない。
欠点があるとすれば、仕えるべき王女よりもゼノビアに傾倒している事であるが、その辺りはアウレリアも把握しているので問題ないだろう。
ファルサやセシリアなど、忠誠とは程遠い者たちを率いるアウレリアも、ある意味器が広いと言える。
「君を見ていると、悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてくるよ」
「なんだ? 私を褒めても何も出せないぞ。それよりも貴様はさっさと、その小賢しい脳味噌を使ってゼノビアをどうにかする策を練って見せろ。貴様と力を合わせるのは虫唾が走るが、ゼノビアの為なら何でも協力してやる」
「何でも……ね。それじゃあ、まずはゼノビアとの打ち合わせしていた時の様子を利かせてくれるかな?」
自分の事を毛嫌いしているセシリアが協力してくれるのならば、否やはない。
全く期待していなかった協力者が出来た事で、ファルサは少しだけ光明が見えた気がした。
ゼノビアの幸せも、ダンピエール公の真意も未だ分からないままだが、見えない糸を手繰り寄せる為にファルサは行動する。
そして、何でもといった以上、ファルサはセシリアに遠慮をするつもりなど一切ない。
使えるものは何でも使い、効率よく行動するのがファルサの信条なのだから。




