ゼノビア・ド・クテシフォン5
「相手方の真意を問う必要はあるが、政略結婚による交渉は貴族ならば日常の出来事だ。私も良い歳なのだから、昔と違ってその程度の分別を弁えているさ。申し訳ないがファルサ殿、貴殿との結婚ごっこはここまでのようだな」
結婚ごっこ、つまりは今回のファルサとの縁談が偽装である事を自白したにも等しい。
自嘲するような笑みを浮かべるゼノビアの発言を、ファルサとクテシフォン侯爵は黙って聞いていた。
前者はここで慌てた姿を見せてゼノビアの発言が真実であると認めてしまう愚を犯さない為、後者はその程度の裏は最初から覚悟していたのだろう。
また、ダンピエール公の思惑がどの様なものであったとしても、公爵夫人の立場、それも正妻ともなれば北部の貴族に対してある程度の影響力を持つことになる。
魔族であるルウに対する反発を抑える手としては、ダンピエール公とゼノビアの婚姻は最適と考えても良い。
しかし、ダンピエール公が第二王子派である為、表向きはゼノビアがアウレリア王女の派閥から抜ける必要が生じるのだ。
アウレリア王女派としては優秀なゼノビアが抜けるのは痛手となるが、裏で北部貴族との強いパイプを手に入れる事が出来る為、総合的には利の方が大きい。
白百合騎士団に関しては約一年の間、団長代理を務めたセシリアへそのまま引き継ぐ事も出来る。
「確かに僕たちアウレリア王女派にとって、ダンピエール公からの縁談を受け入れるその選択は最適だね」
ファルサの目的、そしてアウレリア王女派の利益のみを追及する場合、ゼノビアの選択は何よりも効率的と言わざるを得ない。
だからこそ、今の発言は偽りならざる本心であった。
「そ、そうだろう、ファルサ殿ならそう言うと思っていたぞ。私も政治については父上やアウレリア王女の下でそれなりに学んできた。私一人の身で得られる利益を考えた場合、ここまで美味しい話は無いだろう」
「でも……僕は反対だ。君の選択は最適だが完璧じゃない。ゼノビアを駒として使う様な真似を、僕は絶対に認めない。誰かが犠牲となった上で成り立つ結果なんて、間違っている」
しかし、ファルサはゼノビアの提案を真っ向から否定する。
ダンピエール公との縁談が最適と言えるのは、あくまでもゼノビア個人の感情を考慮しない場合に限るのだから。
「ふ、ふざけるな! ファルサ殿の信条にも則った選択に何の不満があるというのだ!」
「君はそれを本気で言っているのかい? 僕が誰かを犠牲にして何かを成し遂げる様な方法を、嬉々として選ぶような恥知らずだとでも思われているとしたら心外だね」
ファルサは10の犠牲で100の命が救われるのならば、それを選択できるだけの冷徹な一面を持ち合わせており、実際に遂行した経験もある。
しかし、それはあくまでも他の選択肢が無い場合に限るのだ。
そのような判断を下す段階、窮地に陥ってしまう前に、問題を解決出来る様に知識と力を蓄えてきたのがファルサである。
「ふん、何を言うかと思えば、ファルサ殿は自分が恥知らずだと気が付いてなかったのか? 私以外にも数多の女性を毒牙に掛けている宮廷魔導士筆頭殿は、随分とお目出度い思考をしていたようだ。元々、此度の縁談も私を利用してアウレリア王女殿下からの評価を上げるつもりだった癖に。父上の前だからと言って偽りの仮面を被る必要はもうないのだぞ」
「ゼノビア、今の発言は訂正してくれないかな。僕は君の言っている様な思惑で行動を起こした事は一度たりともない」
「断る。私は事実を述べただけだ」
ファルサを貶すような発言をするゼノビアは、先程まで浮かれた様子を射見せていたとは思えない程、冷たい眼差しをしていた。
まるで、ファルサへの想いは全て演技であったかのように。
一方のファルサも聞き捨てならない台詞に対して反論をするが、少々感情が高ぶっているせいか語気が強まってしまう。
他の貴族に嫌味を言われるのは慣れているファルサだが、今の相手はゼノビアである。
人間の中では一番付き合いの深く、行動を共にしてきた女性なのだ。
期間にして約四年、しかしその四年は魔族として怠惰に過ごしてきた百年にも勝る濃密さだとファルサは自覚している。
だからこそ、余計にゼノビアの言葉がファルサの心に棘として刺さるのだ。
「二人ともいい加減にせぬか! ゼノビア、先の言葉通り、ファルサ殿との婚約を破棄しダンピエール公との縁談を進めるという事で本当に構わないのか。よもや、一時の感情で判断をしているわけではあるまいな?」
にらみ合う様に視線を交わす二人だったが、沈黙を貫いていたクテシフォン侯爵が一喝し、愛娘の意志を再確認する。
その表情は精悍さを増し、戦場で騎士団を指揮する武人の雰囲気を漂わせていた。
経験の浅い新兵などが相手ならば涙目になって震えあがり、嘘偽りなど述べる事は出来ないだろう。
「勿論です。都合のつく日があれば二人でお会いしたい旨を、ダンピエール公にお伝えください」
対するゼノビアは動揺を見せず、真っ直ぐに父親の瞳を見つめて回答する。
ゼノビアの美しい双眸には強い決意の意志が宿っていた。
「……そうか。お前がそう決めたのならばワシが口を挟む事は何もない。ファルサ君、申し訳ないのだが娘の意志が変わらない以上、今回の話は無かった事にしてもらおうか」
「はぁ、こうなってしまった以上は仕方がないですね。どちらにしてもこの様子ではまともに話も出来なさそうなので、今日は一旦帰らせてもらいます。クテシフォン侯爵、本日はこのような結果となってしまい申し訳ありませんでした」
クテシフォン侯爵から発せられる重苦しい雰囲気が霧散し、縁談について改めて断りの言葉が述べられる。
今の状況でどうにか出来る問題ではないと判断したファルサは、思わずため息を漏らしながら了承と謝罪を口にする。
その際、ちらりとゼノビアの方へ視線を向けるが、当の本人は一切目を合わせようとしない。
「いや、気にしてないと言えば嘘になるが、ここでどうこう言っても仕方あるまい。ワシも改めて娘と話し合っておこう」
「父上に何と言われようと私の意志は変わらない。ファルサ殿も今後はこの屋敷に来るのは止めて頂こうか。嫁入り前の淑女に入らぬ噂が立ってしまうからな」
「……それでは失礼致します」
頑なに態度を変えないゼノビアに対して若干呆れながらも、ファルサは一礼をして席を立つ。
食堂から出たファルサは、壁際で待機していた使用人たちに帰宅の旨を伝え、案内されるがままに屋敷を出る。
訪れた時にはファルサを歓迎していた美しい薔薇のアーチが、今は棘を身に纏って外敵を寄せ付けない意志を持っているかのような錯覚。
随分と感傷的になっているようだ、とファルサは自らの心の内を嘲笑いながら歩を進めていく。
「お待ちください、スペキエース卿」
「……どうかなさいましたか?」
あと一歩で屋敷の敷地から出るタイミングで背後から声を掛けたのは、屋敷に訪れた際にファルサを出迎えた老執事だった。
既に夜の帳が下り始めた涼しい時間帯のはずだが、その額には汗が滲んでいる。
「先の使用人としてあるまじき差し出がましい発言、改めてお詫び致します」
そう口にして老執事は深々と頭を下げる。
白髪混じりというよりは八割以上が白く染まった頭を眺めながら、ファルサは彼が来た理由を察する。
もっとも、ファルサにとっては気にする程の事ではないのだが、子爵位を持つ貴族としては謝罪を受け入れた方が相手の為だと判断する。
「貴方の誠意に免じて、その謝罪を受け入れますよ。ところでゼノビアは何か言っていましたか?」
「寛大なご配慮、ありがとうございます。それから大変申し上げにくいのですが、今後はスペキエース卿を屋敷内に招かぬ様、ゼノビアお嬢様に厳命されております」
「ははは、随分と徹底しているみたいですね。全く、あの頑固さは誰に似たのやら」
「私の口からは恐れ多くて申し上げられません」
ファルサは軽口を叩きながらも、目の前にいる老執事に対して感心する。
謝罪の内容は屋敷に訪れた際の会話について、つまりはゼノビアとの縁談について一介の使用人が主観を口にした事についてである。
老執事の発言は、ファルサとゼノビアの縁談を歓迎するような内容であったが、実際にはこうして破談となってしまった為、後顧の憂いを解消する為にも改めて謝罪をしたのだ。
悪意を持った貴族ならば使用人に侮辱を受けたと言いがかりを付ける場合もあり、老執事を雇っているクテシフォン侯爵の差し金だと非難する可能性もある。
あまりにも馬鹿げた話だが過去には似たような例が幾つもあり、目の前の執事はそうなる可能性を事前に潰したのだ。
ファルサに対しての発言はお嬢様可愛さに思わず口を滑らせた老人の戯言として、クテシフォン侯爵家に責が及ばない様に。
勿論、相手もファルサがその程度の事で言いがかりをつけるはずもないと理解しているはずだが、それでも誠意を示す為に謝罪をしたのだろう。
そしてファルサが感心した理由はそれだけではなく、執事としての立場を超えない範囲でファルサに友好的な態度を崩さない点であった。
主人の命令を馬鹿正直に伝えるなど普通はありえない。
ファルサが後日に屋敷を訪れたとしても、体の良い理由を並べて誤魔化すのが普通の対応になる。
最後の恐れ多くて口に出来ないという言葉も、使える主、つまりはクテシフォン侯爵も頑固であると遠回しに言っている様なものだ。
つまり、今ファルサの目の前にいる真面目そうな印象を受ける老執事は、仕える家に忠誠を誓いながらも、自身の判断で柔軟な対応も出来、ファルサに対して未だに好感を持っていると暗に仄めかしているのだろう。
ゼノビアお嬢様は間違っている、可能であれば何とかしてほしい、と。
本心を直接口にする事は主に対しての裏切り行為になってしまうからこそ、表向きは失礼な対応をした事への謝罪としての体裁を保っているのだ。
「ところで、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「はい、私はセバスティアン・フェルゲンハウアーと申します。普段はセバス、とお呼びください」
「セバスさんはこの家が、クテシフォン家がお好きなんですね」
「私が生涯をかけて仕えるべき家だと確信しております」
セバスの言葉は心の奥底から発せられたと思わせるだけの重みがあったが、実はファルサにとって忠誠心というものはあまり縁の無い代物である。
アウレリア王女の右腕と目されていながらも、元々はお互いの利害が一致しただけの関係なのだ。
それなりの付き合いで少なからず情は沸いているかもしれないが、忠誠を誓うつもりは一切ない。
そんなファルサの目には、誰かに忠誠を尽くす存在はどうしても輝いて映ってしまう。
「そうですか、それだけの忠誠を誓われている執事がいるなんて羨ましい限りです。さて、あまり長話をする訳にもいかないので僕は失礼させて頂きます」
もう少し話をしてみたいと尾を引かれるファルサだったが、遠目にセバスを追いかけてきたであろう他の使用人の姿が見えた為、適当に話を切り上げてその場から退散する。
待機していた馬車の御者に断りをいれ、ファルサは徒歩で貴族街の通りを歩いていく。
「フェルゲンハウアー、音の響きから察するにゲルマニアの出身か」
周囲に人気がないのを確認し、ファルサは小さな声で言葉を漏らす。
貴族が平民、それも使用人相手に名前を聞くのは珍しく、大抵は何らかの粗相を働いた苦情を言う為か、もしくは仕事を高く評価している場合になる。
ファルサは当然後者になるのだが、セバスがゲルマニア帝国人であるという思わぬ情報を得てしまったのだ。
東の隣国ゲルマニア帝国は同盟関係とはいえ、潜在的には敵国であるはずのヴァロワ王国で執事として貴族に仕えている。
ゲルマニア帝国は軍事侵攻によって領土を広げており、ヴァロワ王国とも過去には小競り合いが多発していた。
それでもヴァロワ王国へ本格的に侵攻せずに同盟まで結んでいるのは、魔族の脅威に対しての防波堤代わりに利用する魂胆があるという事に他ならない。
ヴァロワ王国と魔族を争わせるだけ争わせて両方の兵力が消耗した時期を見計らっている可能性すらある潜在的な敵国、しかし魔族の脅威を考えるとお互いに友好関係にならざるを得ない国。
そのような打算で結ばれた同盟国の人間が、執事とはいえ王国の有力貴族、それも帝国との国境を守護するクテシフォン侯爵家に仕えているのだ。
過去にどういった事情があってクテシフォン家に仕えているのかはファルサも知らないが、自らの立場を危うくするような名乗りをしたセバス。
ゼノビアの身辺調査をした時ですらセバスがゲルマニア帝国出身、しかも苗字を持っているなどとは判明していなかった。
「それにしても参ったなぁ。どうやら僕の性格を随分と知られているみたいだ」
自分たちがゼノビアの周囲に居る人物を調査した様に、クテシフォン侯爵もファルサに対して同様の事をしていたのは明白で、その中心にいたのがセバスなのだろう。
それ自体は何の問題も無い、それどころか寧ろ推奨される行為である。
公に知られているファルサの経歴は、旅の途中でアウレリア王女に魔法の実力を買われて宮廷魔導士に取り立てられた異国の魔法使い、という事だけなのだ。
他国の諜報員や暗殺者でないかと疑われた事も一度や二度ではなく、探りを入れられるのなど日常茶飯事とも言える。
あくまでもファルサの推測に過ぎないが、セバスという執事はファルサについて随分と詳しく調べ上げ、その性格や何を重視するのか見抜いていると考えられる。
ただでさえ経歴の怪しさから敵を作りやすいファルサは、他人を不当に裏切ったり貶めたりする行為を好まない。
また、不用意にエサをぶら下げられても簡単に食いつく様な真似もせず、基本的に何事にも疑ってかかる性格なのだ。
そしてこれまでは恩には恩を、信頼には結果で答えてきた。
セバスがゲルマニア帝国人である事が公になれば、間違いなく職を失う事になる。
クテシフォン侯爵自身が庇い立てをすればどうにかなるのかもしれないが、セバスの忠誠心がそれを拒否するだろう。
ただの執事が提示できる精一杯の誠意が自らの正体であり、権謀術数渦巻く貴族社会におけるファルサ・スペキエースという男は、他人を信頼する相手を無下に扱う様な相手ではない、そう判断されているのだ。
元々ゼノビアとダンピエール公の婚姻を受け入れるつもりなど毛頭ないファルサだったが、また一つ、逃げる事の出来ない理由が増えてしまう。
「上弦の月、か」
ファルサは月が静かに輝く夜空をおもむろに見上げ、その場に立ち止まる。
ゼノビアがダンピエール公との縁談を承諾したのは、間違いなく献身からくる判断だろう。
ルウを親元に無事な姿で帰したいというファルサの本心を知っているからこそ、自ら犠牲になろうとしているのだ。
下手な演技までしてファルサを怒らせ、とにかく自分から遠ざけようとする。
あの程度で僕が騙されるとでも思っているのか、いや、騙されなくとも覚悟を伝える目的もあったのかな、とファルサは金色に輝く月を眺めながらゼノビアの姿を思い浮かべるのだった。




