ゼノビア・ド・クテシフォン4
77話ゼノビア・ド・クテシフォン4
相手の真意を探るときに最も効果的なのは怒らせる事である。
クテシフォン侯爵は酒精を摂取した事で普段よりも理性のタガが外れやすく、ましてやここはクテシフォン侯爵家の屋敷なのだ。
周囲にいる使用人たちは全て侯爵家の味方であり、この場でクテシフォン侯爵がファルサに対して感情的に怒りをぶつけたとしても、外部に漏れる心配はない。
仮に漏れ出たとしても身の程知らずの成り上がりが、上位貴族に無礼を働いた結果の自業自得と思われるだけである。
今のファルサの発言は、クテシフォン侯爵の良識を疑っていると捉える事が出来るのだから。
「ふふ、ははは、はーっはっは! なるほど、噂には聞き及んでいたが随分と豪胆なようだ。いや、失礼、ワシにそのような口を利く相手は久しぶりでな。だがしかし、そうか、そう言う事か」
しかし、クテシフォン侯爵は豪快に笑い声を上げ、一人で何かを納得した様子を見せてから手元のワイングラスを口元へ運び、中身を一気に呷るのだった。
「ち、父上? 大丈夫ですか?」
「ゼノビア、ワシは至って正気のままだ。さてファルサ君、先の質問に対する解答になるが、ヴァロワ王国でも歴史のあるクテシフォン侯爵家当主としては此度の縁談については非常に悪い話だと思っている。しかし、ゼノビアの父親としては良い話だと思っているよ。親と言うものはいつだって、子供の幸せを願うものだからな。ゼノビアが貴族としての生き方を望むならばそれを応援し、一人の女として生きていくと言うなら、それでも構わんという事だ。それに……サラも、ワシの妻も同じ様に願っているのだよ」
「父上……私は、私は必ずファルサ殿と幸せになります。それにアウレリア王女殿下が王位をお継ぎになれば、血統派の影響力も更に弱まるはず。私たちの子供の髪や瞳が何色だろうと、決して不当な扱いを受けない国を目指していくつもりです」
強面には似合わぬ優しい表情のクテシフォン侯爵と、既に演技を忘れて感極まっている様子のゼノビアに、ファルサは複雑な感情を隠しながら愛想笑いを浮かべる。
仮にファルサがゼノビアとの間に子供を儲けたとして、生まれてくる子の瞳が赤色ではないという保証はどこにもない。
ゼノビアが想定しているのは、あくまでもファルサの黒髪や黒い瞳の事であり、魔族の血を引いた子供が生まれてくるなど考えてもいないだろう。
アウレリア王女の信条とも言える能力主義によってファルサは今の地位に就いているが、それはあくまでも人間としての身分になる。
魔族としての正体が露呈すれば死刑は免れず、そんなファルサが子供を作るなど不幸な結果しか生み出さないのだ。
そして、何も知らずに嬉しそうな様子で将来生まれるであろう子供の事を語るゼノビアの姿に、ファルサの心は罪悪感で満ちていく。
それでも内心を隠すことに長けたファルサは、動揺を微塵も感じさせる事無く平静を装うのだった。
「ゼノビア、少しは落ち着きなよ。それからクテシフォン侯爵閣下、先程の非礼をお詫びいたします。私は簡単に他人を信じられない臆病者なもので、話が上手く行き過ぎると邪推してしまうのです」
「この程度の事で頭を下げんでも良い。その風貌を見れば、宮廷でどれだけ苦労をしてきたのかは容易に察する事が出来るからな。しかし、素直では無いというか何というか。君が心配するのはもっともな話だが、随分とワシの事を甘く見ていないかね? だが、それだけ娘を大事に想ってくれているなら問題はないだろう」
「恐縮です」
子供を想う親が相手だと本当にやりにくい、とファルサは心底痛感する。
貴族の常識に当てはめて考えれば、父親であるクテシフォン侯爵から反対される事を覚悟の上でファルサはこの場に臨んだのだ。
ヴァロワ王国の王族や貴族の多くは金髪に碧眼という特徴を持っており、王家の直系ともなれば例外なく全員が同じ瞳と髪色である。
しかし、ファルサは黒髪黒目とヴァロワ王国では珍しい組み合わせである為、それだけでも忌避されやすく、その上成り上がりの元平民なのだ。
クテシフォン侯爵がしてきた苦労以上に、ファルサとゼノビアの結婚には周囲の反発が予想され、その苦労は当人、つまりは愛娘であるゼノビアに行く事になる。
親心として娘が自分以上に苦労する事が目に見えている縁談など歓迎するはずがなく、ファルサとしては引っ掛かりを覚えていたのだ。
調査で分かる事はあくまでも実際の出来事、つまりは事実の表面をなぞって推測するだけに過ぎず、人の本音などは正確にわかり得ない事である。
もっとも、先ほどの反応でクテシフォン侯爵がゼノビアの事を心の底から愛している事は、ファルサへと十分に伝わるのだった。
何故かファルサがゼノビアを気遣っているが故の行動との誤解が生じているのだが、その辺りはクテシフォン侯爵自身の経験に起因する好意的な解釈が原因なのだろう。
当事者であるゼノビアは、きょとんとした表情を浮かべ、得心がいかない様子である。
「はぁ。ワシの娘の事ながら、男女関係における心の機微に疎過ぎて呆れてしまうな」
「それについては同感です。日頃から随分と極端な反応をされますから」
「え? え? え? 父上もファルサ殿も突然二人だけでわかりあって、私だけ置いてけぼりにしないでくれ!」
兄を失い、宮廷魔導士を憎み、男を寄せ付けなかった娘が、自ら結婚すると言い出した相手が宮廷魔導士のファルサである。
ゼノビアの父親でもあり国王に忠誠を誓う侯爵家の当主としては、突然アウレリア王女が見出した若き魔導士について調べないはずがない。
その上でこうして顔を合わせて娘を任せるに足る男だと判断したからこそ、最初から婚姻について前向きになっていただけの話なのだ。
門の前で出迎えた老執事は、ゼノビアがファルサと出会ってから良く笑う様になったと言っていたが、そうした普段の様子も事細かに伝えられていたのだろう。
「不肖の娘は放っておいて、落ち着いたらワシの領地まで足を運ばないか? クテシフォン侯爵家に代々伝わる百年以上寝かせたワインがあるのだが……」
「それは楽しみですね。すぐには難しいと思いますが、必ず伺わせて頂きますよ」
「ちょ、ちょっと! 私を無視するなー!」
「ゼノビア、はしたないから大声を出すのは止めないか」
「ゼノビア、久しぶりにお父さんに会えて嬉しいのは分かるけど、さっきも言った通りもう少し落ち着こうよ」
「ぐ、ぐぬぬぬぬ。何故私が責められるのだ。普通は愛娘を貰いに来たファルサ殿に父上が、娘はやらん、どうしてもと言うならワシを倒してからにしろ、とか言うものではないのか。どうして二人の息が妙に合っているのだ。納得できないぞ」
不満顔のゼノビアを見ながら、結婚相手にそんな発言をする父親の方が珍しいよ、とファルサは心の中で突っ込みを入れる。
反面、実はそのような可能性もあるのかもしれない、と少しだけ考えていたのだ。
娘であるゼノビアが過去にファルサ対して決闘を挑んできたように、父親であるクテシフォン侯爵もその手の人種なのでは、と。
魔族に限らず人間の中にも、やたらと戦いで語りたがる戦闘狂は存在するのだ。
ファルサとしては体調が最悪の状態でそのような荒事は避けたかっただけに、こうして円満に話が進んで一安心するのだった。
「ワシとしてはそれでも面白いと思うが、魔導士相手に決闘など冷静さを失わなければワシら騎士の方が圧倒的に有利だからな。もっとも、どこかの未熟者は頭に血が昇って敗北を喫したと耳にしたが。最近の魔導士だとそうでもないみたいだが……それでも騎士と魔導士は畑違い。競い合う事に意味などない。それにファルサ君はつい先日、重傷を負ったとも聞いている。弱った相手に勝負をしかけるなど、騎士の名折れであろう」
「う。父上、その話はあまり、その、勘弁して欲しいです」
魔法を扱う事を生業とする者は遠距離での戦いを基本としており、決闘の様に近距離で戦う場合は圧倒的に不利なのだ。
どこかの女騎士は憎しみに囚われてどこかの魔導士に敗れたのだが、普通はその様な結果になる事はあり得ない話である。
また、ファルサがルウを庇って瀕死の重傷を負った事も既に伝わっていたようだ。
「ファルサ君のおかげでレオナールの無念も晴れ、ゼノビアもこうして立派に育ってくれた。本来であれば父親であるワシの役目でもあるのだが……恥ずかしながら当時のワシはそこまで気が回らなかったからな。ファルサ君、本当に感謝しているよ」
「いえ、私……僕一人で出来た事など些細なものですよ。アウレリア王女殿下やゼノビアが居なければ、ここまで短期間で進む事は出来なかったでしょう」
「それでも君が居てくれたお蔭だ。本当にありがとう」
そう言ってクテシフォン侯爵は、ファルサに向かって頭を下げる。
ゼノビアの兄であり、クテシフォン侯爵の息子であるレオナールの死因は、宮廷魔導士たちが戦線から逃げ出した事が原因である。
ファルサはこれまでに当時の宮廷魔導士たちの粛清、そして残った魔導士たちの育成に力を入れてきた。
攻撃魔法の上達だけではなく近接戦闘も全員に叩きこみ、従来の様に騎士を盾にして後方の安全圏から魔法を打つだけという運用方法から、前線にも立てる魔導士として育成しているのだ。
二度と、同じ様な悲劇が起こらない様に。
「頭を上げてください、閣下。我が国の重鎮である貴方に頭を下げさせたと知れたら、僕は宮廷でまた嫌味を言われてしまいます」
「全く、今更その程度の事を気にする様な小心者でもあるまいに。それに今のは貴族としてではなく、一人の親として頭を下げたのだ。大体、婿入りするのならば侯爵家の跡取り、つまりは義息子になるのだから問題は無かろう。それとも……更に上を目指す野心でもあるのかな?」
「ご冗談を。僕にその様な器はありません。今の立場ですら分不相応だと思っていますよ。正直申し上げますと、面倒事が片付いたらすぐにでも隠居したいくらいです」
「はっはっは、ワシより先に隠居とは随分と気の早い事だ」
「そ、そうだぞファルサ殿! ファルサ殿が隠居するにしても私たちの子供がクテシフォン侯爵家を継げる様になってからだ! 子供……ふぁ、ふぁるしゃどのとこじゅくり……」
自分で言葉にして勝手に恥ずかしがるのはやめて欲しい、さっきの感極まった様子はどこに捨てたんだ、とファルサは心の中で嘆息する。
いくらクテシフォン侯爵が好意的といっても、貴族としての節度は元より、娘が父親の前で男との子作りをする妄想をするなど、どう考えてもよろしくない事だろう。
ファルサがちらりとクテシフォン侯爵に視線を移すと、笑顔が苦笑いに変わっていた。
「……はっ! 違う、今のは違うんだ! 私はあくまでもクテシフォン家の未来を考えていただけで、決してふしだらな妄想などしていない!」
「ファルサ君……こんな娘だが今後も宜しく頼むよ」
「こちらこそ今後とも宜しくお願いします」
「頼む、頼むから父上もファルサ殿も無視しないでくれ!」
ゼノビアの悲痛な叫びを無視しながら、ファルサとクテシフォン侯爵は互いに右手を差し出して握手を交わす。
今までのやり取りを静かに見守っていた周囲の使用人たちは、主にゼノビアに対して少し困ったものを見る目をしながらも、仕えている主の幸せに対して喜びの拍手を送る。
とりあえずは最初の関門は問題なく突破できた、とファルサは少し安堵する。
クテシフォン侯爵の伝手を頼るにしても、ファルサ自身を認めて貰わない事には話が進まない。
これで北部貴族への働きかけを提案するのも大丈夫だろう。
そのようにファルサもゼノビアも思っていた矢先、クテシフォン侯爵の口から予想外の言葉が飛び出すのだった。
「こうして話も纏まったお蔭で、ワシもダンピエール公爵家からの縁談を断りやすくなった。流石に家格が上の相手、それも正妻に迎えるなどという話だと、理由も無く断るのには角が立つからな。しかし、既に相思相愛の婚約者がいると分かれば大きな問題になる事もなかろう」
ゼノビアの手からグラスが零れ落ち、ガラスの割れる高い音が食堂内に鳴り響く。
中に入っていた液体は床に広がり、使用人たちは慌ててゼノビアの元へと駆け寄り、手慣れた様子で片づけ始める。
しかし、自らの足元にいる使用人達には見向きもせず、ゼノビアは目を見開いて額に手を当てながら体を震わせていた。
「どうしたんだ、ゼノビア。そこまで動揺する事も無いだろう。ダンピエール公、シルヴェストル殿はレオナールの親友で、お前も良く知っている相手ではないか」
シルヴェストル・ド・ダンピエール公爵。
二十二歳にして公爵家の当主を務める若き英傑であり、ヴァロワ王国黒鉄騎士団の副団長を務める男である。
ゼノビアの亡くなった兄レオナールとは騎士学校時代からの親友同士で、ファルサも一応は面識がある人物だ。
公爵家は王家の血筋を受け継ぐ由緒ある家柄で、その当主ともなれば王族を娶る事が一般的なのだ。
いくら親友の妹が相手とはいえ、格下の侯爵家令嬢を正妻に迎えるなど不自然極まりないが、クテシフォン侯爵の様に恋愛結婚ならばまだ納得できる話だろう。
しかし、ダンピエール公とゼノビアの接点は兄のレオナールが亡くなってから殆どない。
同時期に前当主が亡くなり、シルヴェストルが急遽ダンピエール公爵家を継いで領地へと戻ってしまい、忙しさに忙殺されていたのか王都にはあまり顔を出さなくなったのだ。。
ダンピエール公爵領はヴァロワ王国の北部、つまりは魔族との争いが絶えぬ地域であり、常に厳戒態勢が敷かれている。
直接魔族領と接している訳ではないのだが、国境を守る他の貴族の領地が破られてしまえばヴァロワ王国に危機が迫る為、軍事面でも物資面でもダンピエール公が莫大な援助をしているのだ。 ファルサも宮廷魔導士として北部に赴いた時に少なからず言葉を交わしたが、腐敗した貴族が多いヴァロワ王国では珍しく、好感の持てる人物だったと記憶していた。
「ち、父上、実は私とファルサ殿にはもう一つ重大な話があるのだ。すまないが人払いをお願い出来るだろうか」
娘の様子が変わった事に不思議そうな表情をしているクテシフォン侯爵だったが、視線で使用人たちに退出する様に訴えかけると、全員が異を唱える事無く食堂から出ていった。
ファルサは防諜魔法を使い、万全を期した状態で説明を開始する。
「ゼノビア、ここから先は僕が伝えるよ。閣下もご存じの通り、僕とゼノビアはアウレリア王女の派閥に加わっておりますが、最近、王都に現れた魔族の少女を保護しております」
「うむ、それについては聞き及んでいる。ヴァロワ王国の貴族なら誰もが耳にしている情報だろうな。しかし、捕縛ではなく保護、か」
「はい。件の魔族はルウという名の幼い少女であり、人間に例えると十歳前後の子供です。魔族側で複雑な事情があったのか、誘拐されて王都まで連れてこられたそうです。まぁ、どういった経緯かは別の問題なので無視するとして、ルウが狼魔族という種族の族長の娘であるという事が判明しました。我々で例えると貴族の息女といったところでしょう」
「ふむ、魔族である事を抜きにした場合、身分のある者に関しては人質交換を持ち掛けるのが慣習だな。領地の割譲、金銭の要求、お互いの捕虜の交換、用途は多岐に渡る。しかし魔族を相手に交渉など……いや、アウレリア王女殿下はこれまでも常識を覆してきたお方だ、今回も同様なのだろう。だが、そうなるとダンピエール公からの縁談は最悪のタイミングと言わざるを得ないな」
「全くです。特に相手の意図が読めない事が何よりも厄介ですね。まるで狙い澄ましてきたかのように縁談を持ち掛けるなど、偶然とは言い難いですから」
既に酔いから醒めた様子のクテシフォン侯爵は、ファルサの言葉を聞いてある程度の事情を察知したようだ。
そもそも、クテシフォン侯爵自身も今回の話が縁談だけで終わるとは初めから露ほどにも考えていないだろう。
愛だ恋だと抜かす前に、なんらかの協力を取り付ける目的も少なからずあると推測できない人間が、歴史ある侯爵家の当主など務まるはずもないのだ。
過去に自らの縁談で大問題を引き起こしてなお当主の座にいるという事は、それだけ能力が高い証左でもある。
そして、件のダンピエール公は北部貴族に対して影響力のある人物で、魔族との交渉に対する反発抑止を目的として働きかけるには最適な相手である。
爵位が下とはいえ、亡くなった親友の父親が間を取り持った話を無下に断るはずがなく、交渉の余地が十分にある、とファルサは判断していたのだ。
また、レオナールの妹であるゼノビアを通さなかった理由としては、お互いの派閥の問題が生じる為である。
王位継承権第三位の第二王子はダンピエール公の姉が生んだ子共であり、甥と伯父の関係にあたるのだ。
そうなると必然的に敵対派閥であるゼノビアからの接触は悪手といえる。
仮にダンピエール公がゼノビアに好意を持っていたとしても、公爵という立場と派閥のしがらみによって交渉の余地がなくなってしまう。
しかし、クテシフォン侯爵は国王以外には王族であろうと中立を表明している上、過去に黒鉄騎士団の団長を務めていた。
貴族の面子や派閥争いは非常に面倒事が多いのだが、筋を通しておく事で周囲からの反発を緩和する事が出来るのだ。
だが、ダンピエール公からゼノビアへの縁談を断った上で交渉する等、到底不可能な話である。
最低でも相手の意図を知った上で何らかの対策をしない事には、どうする事も出来ないだろう。
どうしたものか悩むファルサとクテシフォン侯爵、そして同じ様に考え込んでいた様子のゼノビアが、意を決したように口を開くのだった。
「父上、ファルサ殿。こうなった以上、私はファルサ殿との結婚は取りやめてダンピエール公からの縁談を承諾しようと思う」
そう口にしたゼノビアの瞳には、強い意志が宿っていた。




