四天王として6
狼魔族の族長、ルヴトーさんは本当に強かったな、とミラージュはアスタルトの膝枕を堪能しながら先の戦いを改めて思い返す。
邪竜が纏っていた魔力装は竜の強靭な肉体と膨大な魔力があって初めて扱えるようなとんでもない魔法であり、それも伝説や神話に出てくるような化け物でないと無理な代物なのだ。
いくら体調が万全では無いとは言え魔力装を使用せざるを得ない状況など、それこそ邪竜を倒して以来の事だった。
「ミラージュ様、いつまでこのままの状態で過ごせばよろしいのでしょうか?」
不意にアスタルトが問いかける。
その新雪の様に汚れのない白い頬は未だ赤く染まっており、膝枕をする事にまだ恥ずかしさを感じているようだ。
幻覚魔法の訓練でミラージュとの身体的な接触は何度も経験があるはずなのだが、膝枕という行為はどうやらまた少し違うのだろう。
「もう少しこのままで……と言いたいところだけど、のんびりし過ぎるのも良くないよね」
そう言いながらミラージュは、ふらつく体で立ち上がろうとする。
阿吽の呼吸で自らの体を支えながら一緒に立ち上がるアスタルトの姿を見て、まるで孫娘に介護されているお年寄りになった気分だなぁ、と思いながらミラージュは仮面の下で苦笑いを浮かべる。
それと同時に改めて確信する。
仮面の無い状態、つまりはファルサの姿を見られた時は間違いなく正体がばれてしまうのだろう、と。
アスタルトはミラージュの動きの癖、声、体格、など顔以外の大よそ個人を特定するような部分に関しては完璧に把握しているからこそ、幻覚魔法を使って再現できるのだ。
今の様にアスタルトがちょっとした動作でも呼吸を合わせられるのも、これまでミラージュの観察をし続けてきた賜物と言えるだろう。
だからこそ正体を隠そうと思っても、無意識に行う仕草一つで見破られてしまう可能性が高く、ルウの様に匂いを誤魔化すとかそんな単純な事ではどうにも出来ないのだ。
「ミラージュ様、その、あんまり寄りかかられると少し」
「あぁ、ごめんね。思った以上に力が入らなくて」
「い、いえ。それでしたら仕方がありません。ちょっと重くて汗臭いですが私の寛大な心で許してあげましょう。不快な事には変わりありませんが、父の加齢臭に比べたら我慢できない程ではないですからね」
「それ、絶対にお父さんに言ったら駄目だからね。ショックで倒れるかもしれないよ」
「……承知しています」
いつもの様に毒を吐くアスタルトだったが思わぬところに飛び火してしまったので、ミラージュは念の為に忠告をする。
人間でも魔族でも、娘からお父さん臭いと言われてしまった父親が受ける心の傷は、計り知れないのだ。
「あぁ、そうだ。タルトちゃんにこれを渡しておくね」
「一体何を……そ、それはっ!」
アスタルトの肩を借りたまま立つミラージュは、懐から四角柱の形をした何かを取り出した。
手の平に収まるサイズのそれには随分と華美な装飾が施されており、中央には魔王軍の象徴である紅い瞳の意匠が大きく彫られている。
「四天王専用の決裁印。そんなに驚かなくてもタルトちゃんは何度も見た事があるでしょ?」
「勿論、父やミラージュ様がいつも使っておりますから。いえ、そう言う事ではなく、私が驚いたのはそれを渡すという行為そのものです。それはつまり――」
「――君を信じているからこれを預けるんだよ、アスタルト」
そう言ってミラージュは、アスタルトの胸元にあるポケットに決裁印を入れるのだった。
これはどの領地でも共通しているが、副官であるアスタルトやその下の士官たちが何らかの理由で軍を動かす際、必ず書面の提出が求められる。
軍を動かす目的や、使用する物資、兵の数や日程など、必要な内容は多岐に渡る。
規模や使用される予算に応じて階級が高い者の決裁が必要となるのだが、ミラージュが持つ決裁印は、平時でも東の地で魔王軍に所属する全ての兵を動かすだけの力があるのだ。
つまり、仮にアスタルトが決裁印を悪用しようとすれば命令書なども勝手に作成することも可能であり、不都合な事があれば全ての責任をミラージュに擦り付ける事も出来てしまう。
実際には書類にサインも必要となるのだが、アスタルトであればミラージュの筆跡を真似る事など容易に出来るだろう。
今まではあくまでもミラージュの代理としての役割を担ってきたアスタルトだが、決裁印を持つことで完全に四天王と同じ権力を有する事になるのだ。
「まさか、今まで以上に仕事を押し付けるつもりではないでしょうね?」
「え、いや、あれ? 普通はもっとこう、違う反応をするものじゃないのかな」
予想に反してアスタルトは訝しげな目つきで自分を見上げていた為、ミラージュは少し動揺しながら言葉を返す。
「日頃の行いを振り返ってみれば、自ずと分かるのではないでしょうか」
「それを言われちゃうと返す言葉もないけど、さっきまでのタルトちゃんからの信頼はどこに消えちゃったのかな」
「勘違いしないで下さい。私はミラージュ様の味方であり続けるとは言いましたが、何でも言う事を聞く様な都合の良い部下になりつもりはありません。駄目なものは駄目と上司に進言するのも部下の務めです。決裁印を副官に預けるなど、不正を助長するようなものですから」
この言葉を聞いて、本当にタルトちゃんが副官で居てくれて良かった、とミラージュは心底ありがたく思うのだった。
同時に、自分もしっかりしないといけないな、と気持ちを入れ直してアスタルトに掛けていた体を起こして両の脚に力を込める。
今度はアスタルトと向かい合う様な体勢になったところで、その小さな両手を包み込むように握りしめて、真っ直ぐに目を向けてゆっくりと言葉を紡いでいく。
「あくまでも預けるだけだから、仕事はこれまで通りこなすつもりだよ。ただ、万が一にも僕と連絡がつかない様な事態が起きた時には、君の判断でこれを使って欲しい」
まるで今後、アスタルトの元に帰らない事があるかのような物言いをするミラージュ。
正面に立つアスタルトの眉がぴくりと小さく動き、少し憂いを帯びた表情へと変化していく。
「また、私を置いて行くのですか?」
喉から絞り出すように震えた声でアスタルトは問いかける。
真っ赤な双眸は潤み、一段と輝きを増す。
そんな様子を見せられたミラージュはほんの少しだけ、ほんの少しだけアスタルトを抱きしめたくなる衝動に駆られるが、落ち着いて返事をする。
「そんなつもりはこれっぽっちもないよ。そうじゃなくて、僕が本当に困った時や窮地に陥っている時が来たら必要になるかもしれないからね。だから、持っていて欲しいのさ」
「本当ですか?」
「勿論、本当だよ」
「本当の本当に本当ですか?」
「本当の本当に本当だよ」
まるで休日に遊ぶ約束をする子供とお父さんのような言葉を交わすアスタルトとミラージュ。
父さんが亡くなった時も似たようなやり取りをした覚えがあったなぁ、あの時とは立場が逆だけど、とミラージュの脳裏には幼き日の思い出が甦りながらも、仮面の下で自嘲する様に笑う。
アスタルトは仮面の下から覗くミラージュの瞳をジッと見つめながら何かを考えている様子であった。
やがて、意を決したかのような表情に変わったアスタルトは、ふぅ、とため息を吐いてから口を開く。
「わかりました。正直申しあげますとミラージュ様の言葉など全く信用に値しませんが、ひとまずこれは私が預かっておいてあげます」
アスタルトは胸元に両手を当てて、ポケットの中にある決裁印を大事そうに包み込みながら了承の意を示す。
何はともあれこれで一安心かな、さて、今度は魔王様の所に事情を説明しに行こう。
ミラージュはそう言葉を口にしようとした矢先、ですが、と前置きをして、アスタルトが再び言葉を発する。
「私にとって決裁印を使用するのはおろか、こうして持ち歩くだけでも責任の重さから心労が嵩みます。だから……その……」
頬を赤く染めながら、もごもごと何かを言いよどむアスタルトであったが、ミラージュは黙って言葉の続きを待つ。
「わ、私をその気にさせてください!」
アスタルトはやけくそ気味に声を張ってそう言い放つと、目を瞑り少しだけ顎を上げる。
ミラージュはあまりに突然の出来事に混乱する。
これは夢か、それとも幻覚魔法の一種なのではないか、と。
女性が恥ずかしそうに目を瞑って求めている事を勘違いする程、ミラージュは子供ではない。
しかし、相手は日頃からミラージュに毒を吐くアスタルトである。
一昔前、それこそベルゼビュートの副官として過ごしていた頃ならば、好意に近い何かを持たれていた事はあるのでは、と思う節はいくつかあった。
四天王に就任してからは一転して、明らかに自分の事を嫌っていたが、最近はまた徐々に態度が軟化している事にも当たり前ではあるが気が付いている。
もっとも、気が付いていたと言っても男女のそれではなく、四天王と副官という上司と部下の信頼関係、あるいは精々が兄と妹のような関係であると思っていたのだ。
「本当にいいんだね?」
「あ、当たり前です! それよりも、あまり間を置かれると余計に恥ずかしいので早くして下さい!」
念の為、ミラージュは確認の言葉を口にするものの、アスタルトが怒ったような口調で返事をして更に頬を赤くするだけだった。
これは覚悟を決めるしかない。
そう決心したミラージュだったが、娘を溺愛しているベルゼビュートの姿や、口づけを交わしてしまったゼノビアの姿が脳裏をよぎる。
続いて、同じベッドで寝た事のある四天王ベディヴィアと副官フェオに勇者ユリア、更には聖女パルミナや四天王のラファール、王女であるアウラ。
他にも後輩の魔導士やメイド、暗殺者、本屋の店員など、次から次へと知人女性たちの怒った顔が浮かび上がったミラージュは、本当に自分なんかでいいのだろうかと再び悩み始める。
だがしかし、少なくともアスタルトはとてつもない勇気を出してこのような事をしたのだろう。
尊敬する父親にすら素直になれず、体が小さく周囲から舐められない様に気丈に振る舞い、誰かに甘えるのが下手くそなアスタルト。
多少の自己嫌悪よりも、アスタルトの心を尊重するべきだ、とミラージュは結論付ける。
ミラージュ自身、決してアスタルトの事が嫌いなわけではなく、寧ろ信頼をしているし尊敬している面も多い。
多少融通の利かない真面目な性格だが、いい加減な性格よりはよっぽど好感が持てる上、意外と子供にも優しい一面がある。
容姿については母親似の整った顔立ちと美しい銀色の髪が相まって、文句の付け所が無い。
身長が小さく愛らしさを感じさせる一方、猫の様にツンとした表情とキツイ物言いも、年下である事を考えれば寧ろ可愛らしく思える程だ。
つまり、アスタルトと言う女の子は異性として見た場合、非常に魅力的な存在であると言える。
「それじゃあ、いくよ」
「は、はい」
ミラージュの声に肩を震わせて、少し緊張した様子でアスタルトが答える。
背筋をぴんと伸ばし、両手は太もも辺りで固く握り拳を作っており、どれだけアスタルトが緊張しているのかミラージュにも伝わってきた。
これ以上女性に恥をかかせるわけにはいかない、そう思いながらミラージュはアスタルトの瞼を優しく抑えて仮面を外す。
そして中腰になったミラージュは、アスタルトの湿り気を帯びた薄桃色の唇に自らの唇を優しくあてて目を閉じる。
「ぅ……ん? んむっ! むふぇ?」
アスタルトの反応に対してミラージュは、柔らかな唇の感触を堪能しながらも違和感を覚える。
少なくともキスを求めてきたのはアスタルトであり、いくら緊張しているとはいえ、まるで予想外の出来事が起きたかのような声を漏らしたのだ。
ここでミラージュは、もう一度アスタルトの事を思い出す。
素直じゃないだけで、アスタルトは自分の父親が大好きなお父さんっ子である。
そして、同年代の異性との交流が極端に少ないという事は、男女関係における暗黙の了解を学べる機会などないという事だ。
そう考えるとアスタルトが求めているものが男性としての何かではなく、どちらかというと父性的な何かと言う可能性もあるのだ。
例えば、頭を撫でて欲しいという具合に。
一気に血の気が引いたミラージュは、慌ててアスタルトから顔を離して仮面を付け直す。
「タ、タルトちゃん?」
「い、いま、ミラージュ様が、わたし、頭、撫でて、ちがう。キス、され、された。はじめて、はじめてなのに。はじめてを、ミラージュ様が、みらあじゅさまが」
視線が泳ぎ、支離滅裂な言葉を口にするアスタルトであったが、言葉の断片から完全にミラージュの早とちりである事が判明した。
「も、申し訳ございませんでしたー!」
ルヴトーに下げた時とは比べ物にならない程、安い頭を下げて地面に這いつくばるミラージュ。
最早四天王としての威厳など、ひとかけらも存在しない勘違い男の姿がそこにはあった。
つい先日のゼノビアとのキス、そして身体的な不調による思考の鈍り、勘違いさせるようなアスタルトの言動、原因を上げるとすれば色々とあるだろう。
しかし、どんな言い訳を並べ立てても時間を戻す事は出来ない。
ミラージュに残された道は、激しい痛みで全身が悲鳴を上げている状態で、ひたすらアスタルトに土下座をするだけしか残されていなかった。




