【過去編】ミラージュとアスタルト6
竜、それは古来より魔物の中でも最強と呼ばれている種族である。
人間の国に伝わるお伽話では、魔王が竜を従えて姫君を攫う様な描写も多く見受けられるが、決してそのような事実はない。
竜に変身する竜魔族という種族は居ても、魔物である竜とは全くの別物なのだ。
魔物である竜は魔族にも牙を向け、時には街の一つや二つを簡単に滅ぼしてしまう。
もっとも、個体数がそれほど多くないのか、ワイバーンと呼ばれる下級翼竜に区分けされている竜以外は滅多に現れず、誰もが足を踏み入れない様な未開の地で密かに暮らしていると言われているのだ。
また、竜の体は宝の山であり、強靭な皮や鱗、爪や牙で作られた武具は高値で取引され、血液や肝は薬となる。
上位の竜、太古より生き続ける強い竜の肝や血液は万能薬になると実しやかに囁かれる程であった。
兎にも角にも竜は一匹現れただけでも手を焼く存在であり、不用意に手を出して良い相手ではない。
そして今回現れた竜は、その中でも群を抜いた凶悪さを持ち合わせていた。
『わずか三日で死者が二千名、内三割が魔王軍に所属している魔族……か。とんでもない数字だね、これは』
執務室内にはミラージュとアスタルト、そして不在中のベルゼビュートが連絡玉を介して話し合いの場を設けていた。
現在、ベルゼビュートは魔王リリスの勅命によって極秘の任務を遂行中で、城を空けている。
その矢先に今回の邪竜騒ぎが起きてしまったのは不運言うほかないだろう。
そして魔族は人間に比べて長命且つ体が丈夫であるが故に、あまり個体数が多くない為、人間で例えるならば二万人近い死者と同じくらいの被害状況と言える。
「魔物風情にここまで良い様にされてしまうとは……。お父様、亡くなった兵たち無念を晴らすためにも、全軍を動かして討伐に乗り出しましょう!」
アスタルトは拳を握りしめ、声を荒げて連絡玉の先にいるベルゼビュートへと提案する。
魔王軍に所属しているのは何も兵士だけではない、戦いに向かない魔族や子供も含まれているのだ。
ゲルマニア帝国領から魔族領へと移動した邪竜は、国境警備隊を全滅させ、更には周囲から援軍に駆けつけた部隊も退け、次々と村や街を襲い始めたのだ。
現在は猫魔族たちが縄張り争いをしていた地域に居るのだが、いつそこから移動をするのか戦々恐々とさせられている状況であった。
『私としてもすぐにも同法の仇を取りたいところではあるのだが……生憎、魔王様の勅命による任務があるからね。今回現れた竜……邪竜の対処は、先日解決した盗賊騒ぎと同じくアスタルトとミラージュ君に任せるよ。』
邪竜と言うのは便宜上付けられた名前であり、正式な種族は不明のままである。
漆黒の鱗に覆われ、体の表面からは邪悪な煙の様なものを噴き出している事から、邪竜と言う呼び名が付けられた。
そして、その邪竜の対応について四天王ベルゼビュートが出した答えは、ミラージュも予想していなかったものだった。
たったの三日でこれだけの被害が出ている以上、大将である四天王が戻らないなどあり得ない話であり、性質の悪い冗談だと言われた方が納得できる。
以前からベルゼビュートは何かと魔王リリスの命令で極秘の任務で動いていたのだが、ここ最近は特に不在にする事が増えていた為、副官であるアスタルトとミラージュは代理として多くの権限を与えられている。
しかし、それはあくまでも通常時の場合や緊急時における初動の指揮などが主な役割なのだ。
決して今の様な状況を想定しているわけではない。
「お待ちくださいお父様、今回は先の盗賊とは話が違います。対応を誤れば無辜の民や我が軍の兵、そして魔王様にも甚大な被害が及ぶ可能性があります!」
「僕もアスタルトに同感ですね。もし、帰還が困難な場所に居らっしゃるのでしたら、僕が多少無理をしてでもお迎えにあがりますよ?」
アスタルトやミラージュの意見は至極真っ当であり、誰が聞いても二人に賛成するだろう。
四天王とはお飾りの指揮官などではなく、その土地に住む魔族たちの誰よりも強い者でないと務まらない。
東の地における最強の魔族であるベルゼビュート無くして、邪竜討伐は始まらないのだ。
『君たち二人の意見は道理だよ。だが、君たちは何かを忘れてはいるんじゃないかな? 私は魔王様の勅命で極秘の任務に就いている。その上で、私は今回の報を聞いて戻れないと言っているんだ。だから今回の件は二人に任せるよ』
現在のベルゼビュートの任務が邪竜による危機よりも重要である、そう暗に言っているのだ。
四天王としての責務よりも重要な事、それは魔王リリス以外には存在しない。
ミラージュが知る四天王ベルゼビュートは、暴君と呼ばれるのも頷けるほど敵に対して容赦がなく、賢王と呼ばれるのに相応しく同胞に対して深い思慮を持っている。
相反する二つ名から付いたのが、煉獄のベルゼビュートと言う異名だった。
敵にまわすと地獄、味方にいるならば天国、そんな意味合いを込められた名は非常に言い得て妙である。
そんなベルゼビュートが考え無しにこのような事を言うはずがなく、どうやら説得は無理そうだ、とミラージュは判断して今後の事を考える為に頭を切り替えようとしたが、隣に座る小さな少女はまだ納得をしていなかったようだ。
「お、お父様! 私の方からも魔王様に直訴致します! ですから――」
『――アスタルト! 私は君たちに任せると言っているのだから何度も言わせないでくれ。それとも……いつまでも父親である私がいないと何も出来ないのかい?』
「あ……う……それは……」
執務室内に響く、連絡玉越しにでも感じ取れるベルゼビュートの突き放す様な冷たい声色。
ミラージュは、アスタルトに対してここまで厳しい態度をとるベルゼビュートは初めてであり、思わず、視線を隣に座る少女へと動かしてしまう。
アスタルトも突然の事で驚いているのか、いつもの凛とした表情から、親に怒られている子供の様な、はたまた迷子になった幼子の様な表情をしていた。
ミラージュはそんなアスタルトの様子を見て逆に幾分か冷静さを保てているが、それでも不安な気持ちは分からなくもない。
先日ゲルマニア帝国から感じた魔力と、今回の邪竜は容易に結び付けられる。
魔力の多寡が勝敗を決する訳ではない事は重々承知の上だが、少なくとも国を跨いで魔力を感知する程の魔法などミラージュの経験や知識には存在せず、今回現れた邪竜は歴史上でも類を見ない程の強さであると推測できるだろう。
また、国境警備隊からの報告では、ゲルマニア軍は邪竜を誘導する様に攻撃を仕掛けて魔族領側へと追いやったらしいのだが、その際に推定で五千を越える人間たちが屍の山を築いていたのだ。
目視できる範囲でそれだけの犠牲が出たという事は、この一ヶ月の間にどれだけの被害を被ったのかは想像に難くない上、邪竜の戦力がそれだけ強大である事が伺える。
万が一にも邪竜が東の地にいる内に対処できなければ、その後に進む方向如何では魔王にまで被害が及ぶ可能性があるのだ。
それだけの危機を前にして優先する任務がある四天王ベルゼビュートと、それを命じている魔王リリス。
任務の詳細を知らされていないアスタルトが苦言を呈するのは無理もないのだが、ベルゼビュートの意志が変わる事は無いようだ。
「ベルゼビュート様、一つ確認したいのですが」
『ほう、なんだいミラージュ君』
「万が一、対応の方針で僕とアスタルトの意見が違える様な場合、最終決定権はアスタルトにあると考えてよろしいでしょうか?」
「ミラージュ、貴方は何を言っているのですか?」
アスタルトは再び大声を出して疑問を口にする。
これまでベルゼビュートの代理として軍を指揮していた時に、ミラージュがアスタルトに反対するような事は無かったのだ。
仕事をサボろうとしておかしな提案をした事は何度かあったが、基本的にはアスタルトの指示に従う様にしており、いつしかそれが当たり前になっていた。
そして普段から責任感を見せない様なミラージュが、まるでこの話を了承するのを前提とした質問をしているなど、違和感しかないのだろう。
『ふーむ、なるほど、なるほどねぇ。その場合だけど、指揮下にある兵たちが従うなら各々の裁量で動いても構わないよ。もっとも、それで全体が混乱して収拾がつかなくなるのは賛成しかねるけどね』
「でしたら僕は問題ありません」
『そうかいそうかい、それは良かった。さて、ミラージュ君は快く了承したけど……アスタルトはどうするのかな?』
快諾ではなく仕方なくなんだけどなぁ、と思いながらミラージュは再度アスタルトの様子を確認すると、見るからに混乱している様子が伝わってくる。
ミラージュがベルゼビュートに先の質問をした理由は、正に今の状態を危惧しての事だった。
日頃から真面目で努力家のアスタルトは目立った過ちらしい過ちを犯した事は無く、それこそ模範的な優等生と言える働きをしている。
年齢を考慮すればその経験値は魔王軍の中でも一、二を争うものであり、正しく優秀な副官と評するのが適切であろう。
現にミラージュもそのように思っていたし、アスタルトと共に任務をこなす際には大きな不満は無かったのだ。
寧ろ、ちょっと素直じゃない妹が出来たようにも思えて、微笑ましく感じていた程である。
しかし、アスタルトとミラージュでは根本的な考え方が違う。
アスタルトは良くも悪くもベルゼビュートならばどうするか、つまりは模倣をする事を心掛け、ミラージュは自己中心的というか何というか、最終的に信じられるのは自分の力だと考えている。
いつもの様に危険の少ない任務であれば支障はないし、アスタルトの実力も相まって失敗する事などあり得ない。
だが、自分たちよりも遥かに上位の存在が相手の場合、つまり今回の邪竜についてはどうなるのだろうか。
全てを自らの意志で判断しているベルゼビュートとは違い、模倣であるアスタルトでは本当の窮地に陥った時、初めから犠牲を覚悟するような展開になった場合、それがそのまま不安要素になってしまうのだ。
「私は……私は……その……」
『無理ならそれでも構わないよ。幸い、ミラージュ君が私の代わりをしてくれるみたいだからね』
「……っ! や、やります! 私がお父様の代わりを務めあげてみせます!」
『そうかい、それじゃあ二人とも頼んだよ。私も忙しい身でね、暫くは連絡が出来ないと思うからそのつもりで』
一方的なベルゼビュートの言葉と共に連絡玉が光を失い、執務室は静けさを取り戻す。
何もアスタルトを挑発するような言い方をしなくても、とミラージュは自らの上司に対して心の中で非難する。
本人に直接言う事は無いが、アスタルトは父であるベルゼビュートを尊敬し、そして目標としているのだ。
だからこそ幼い頃から厳しい訓練にも耐え抜き、こうして若い身空でありながら四天王の副官に抜擢されている。
ミラージュがアスタルトと同い年くらいの頃は家に籠って書物を読み耽けり、父親が残した財産を食いつぶしていた。
魔王軍に入った理由もちょっと生活費を稼ぐ程度のものであった為、小さな体で父親に追いつこうと努力を重ねるアスタルトの姿は尊敬に値するとミラージュは思っている。
しかし、ベルゼビュートがあのような言い方をすれば、アスタルトの性格ならば断われるはずがないのだ。
実の父親であり目標でもある相手から失望されるなど、アスタルトにとっては何よりも耐え難い事なのだから。
だが、それは決して命を賭して挑む時に適した判断などではない。
「ミラージュ、貴方がどういう腹積もりなのかは知りませんが、負けませんからね。一先ずは今から二時間後に士官たちを集めて軍事会議を開きます。そこで今後の方針についてお互いの意見を交わしましょう」
「いや……うん、はい。じゃあ僕も色々と準備をしないといけないから失礼するよ」
副官と言う同じ役職、慣れない武器でも短期間で上達していく才能、常に余裕があるような飄々とした態度。
そして先程のベルゼビュートに対するミラージュの発言と、父親から失望される恐怖。
アスタルトの対抗心を煽るには十分すぎるほどの材料が揃ってしまい、ミラージュは執務室を出てから深いため息を吐く。
一先ずは相手の戦力を正確に測るとするか、とミラージュはすぐに思考を切り替えて行動に移す。
アスタルトが聞けば怒るだろうが、ミラージュには出世への欲も無ければ、ベルゼビュートに失望されようが知った事ではない。
ただ、日がな一日読書に耽る事が出来ればそれが理想なのだ。
しかし、それを求めるには世の中が平和でなければ成り立たない。
やらなくてはいいことはやらないし、どうしてもやらなくてはいけない事は手短に終わらせる。
その効率を追求する信条によって出世の道を歩むことになったミラージュだが、一つだけ欠点を挙げるとすれば、感情を軽視し過ぎる点だろう。
邪竜が切欠でアスタルトの欠点が浮き彫りになってきたが、それはミラージュとて同じ事であった……が、どちらも本人たちはその事実に気が付いていなかった。
『それにしても、随分と強引やったんとちゃう? 娘の方はともかくとして、息子の方は何かに気付いていると思うけどな』
小さな蝋燭の明かりだけが灯る薄暗い部屋の中、木製のテーブルに置かれた連絡玉から、特徴的な口調をした女の声が発せられる。
テーブルに置かれた連絡玉は二つ、しかし片方は既に光を失っていた。
「生憎、私は暫く身動きが取れません。どちらにしてもこうするのが最良ですよ。それに彼は頭が良い。何かに勘付いたとしても無闇に首を突っ込んでは来ないでしょう」
テーブルの前にはローブのフードを目深に被った男が鎮座し、連絡玉に向かって語りかける。
フードの下から時折覗くその瞳は、黒く染まっていた。
『……そんなに酷いんか? あのバカもそうやったけど、あんまりウチを置いてポンポン死なれると悲しゅうて泣き喚くで。それから周りの目が無いときはそないけったいな言葉遣いで話すのはやめーや。サブイボが出るわ!』
「あぁ、すまん。やはり調子が悪いみたいだ。もっとも、俺はそう簡単にくたばるつもりはないけどな。せめて子供たちの晴れ姿を見届けるまではしぶとく生き残ってやるさ。それに……妻にも怒られる」
男は椅子にもたれ掛る様にして天井を見上げ、口元に笑みを浮かべながら言葉を返す。
『ハッ! 未だに独身のウチに対する嫌味かいな!』
「……すまん」
『いや、素直に謝られても逆に傷つくわアホ! それよりもいつ頃に戻ってこれそうなん?』
「一月、いや可能ならば二月ほど頂けるとありがたい。それから例の件なんだが……」
『はいはい、わかっとるよー。ウチが憎まれ役をやったるから、アンタはゆっくりと養生しいや。もっとも、今回の件が上手く言ったらの話やけどな』
「助かる。ではまた落ち着いたら連絡を入れる」
『はいよー、ほなまたなー。』
もう一方と同様に、連絡玉は光を失い物言わぬ玉と化す。
先程まで明るい声が聞こえていたせいなのか、部屋の中は余計に静けさが強調されていた。
「さて、この判断が吉と出るか凶と出るか。それにしても、我ながら馬鹿な選択をしてしまったな」
男は二つの連絡玉をローブの中に仕舞うと、おもむろに立ち上がりながらひとりごちる。
自重するような言葉を口にしながらも、その声色はどこか嬉しそうに聞こえていた。
立ち上がった拍子にフードからは銀色に輝く長い髪が垂れ、男がおぼつかない足取りで歩くのに合わせて、ゆらりゆらりと揺れている。
男が部屋から出た後は、蝋燭の小さな明かりが瞬くだけであった。




