【過去編】ミラージュとアスタルト4
訓練後に魔力の尽きたミラージュとアスタルトはいつも通り、苦いマナポ―ションを飲みながら書類仕事に追われていた。
ベルゼビュートは既に別件で城を出ている為、執務室で二人きりの作業。
カリカリ、とペンを走らせる音と紙が擦れる音だけがその場を支配する。
「ミラージュ、あれは一体何だったのですか。一瞬とは言え、お父様が追い詰められた姿を見るのは……初めてです」
手はそのまま動かしながら、不意に口を開くアスタルト。
彼女の机には山の様に書類が積まれているせいで、小さな体が殆ど隠れてしまっている。
あれ、とは訓練中にミラージュが見せた最後の攻撃を言っているのだろう。
四天王であるベルゼビュートを追い詰めた一撃、少なくとも昨日までのミラージュと比較してあり得ない出来事なのだ。
「うーん、強化魔法に使う魔力を無理やり爆発、いや暴発させた感じ……かな。説明不足だとは思うけど僕も理屈の上でやった訳じゃなくて、何となく出来る気がしてやっただけだからさ。それにアスタルトも見ていた通り、後に続かない以上は意味のない行為だよ。寧ろ、武器を手放すなんて自殺行為にしかならないからね」
「爆発……ですか。正直、理解しかねますが……まぁ貴方が言うならそうなのでしょう」
ミラージュは魔法の専門家と言っても差し支えない程に精通しており、それはこの一年の間にアスタルトも理解していた。
元々、ミラージュは自宅に引きこもっていた間に魔法関連についての蔵書を数多く読みふけり、魔王軍に入隊してからは魔王城にある図書館に入り浸って知識を深め、それを実践していたのだ。
東の地に来てからもそれは変わらず、ベルゼビュートが個人で所有する書物なども読み漁り、アスタルトと意見を交わす事も珍しくない。
自然とお互いについての理解も深まっていき、生粋の理論派であるミラージュが魔法について曖昧な表現にしているという事は、それだけ不完全なものだとアスタルトも納得したのだろう。
そして短い会話のやり取りを終えると、二人とも再び無言で書類をし続けていくのだったが、またしてもアスタルトは口を開く。
「ところで、ミラージュは出世を望んでいたりはするのですか?」
今日は随分と話しかけてくるな、とミラージュは少し驚きながらも出世について考える……までもなく、答えは決まっていた。
「いや、全く、これっぽっちも望んでないよ。大体、僕は日頃から言っている通り、適当に働いて最低限の生活が出来ればそれだけで十分な訳だし、四天王の副官として休みなく働くなんてまっぴらごめんだね。まぁ……偉くなったおかげで禁書庫に出入り出来るのはありがたい話だけどさ。それでも目ぼしい物は大方読み終えたからそろそろ退役したいけど……僕には転移魔法があるから……ね。」
「はぁ。訓練を真面目にこなしているから少しは意識が変わったかと思いましたが、全く貴方は本当に救いようがないですね」
心底嫌そうに返事をするミラージュに対して、アスタルトは呆れているのか深いため息を吐く。
しかし、ミラージュからは書類の山が邪魔をして表情を読み取る事は出来ないが、その表情は呆れながらも若干の笑みが浮かんでいた。
そもそもミラージュが退役するつもりでも、そう簡単に許してくれるはずがない。
転移魔法で魔王軍の様々な施設に移動できる以上、防衛の面から見てもミラージュを野放しにする者などいる訳がないだろう。
仮に退役したとしても、魔王リリスの目が届くところに置かれるのは間違いなく、何だかんだ面倒事を押し付けられる未来がミラージュには想像出来ていた。
「僕が魔王軍に入った理由が理由だからね。本当にどこで道を間違えちゃったのかな。出世になんか興味がないし、何だったら仕事自体したくないのに。そもそも何で副官に任命されたのか、未だに意味がわからないよ。別に僕がいなくてもアスタルトだけでもどうとでもなるでしょ?」
出世欲の強い者からすれば反感を買う事間違いなしの態度を取るミラージュだが、ここにいるのはアスタルトだけである。
アスタルトは父親の後を継いで銀角の悪魔族たちを総べる族長に、そして四天王に就任する事を目標にしているのはミラージュも知っていた。
それは単純な出世欲などではなく、幼い頃から父親の背中を見て育ち、追いかけ続けてきた事が理由なのだろう。
「まぁ、確かに以前までは私だけでも十分でしたが……魔王様やお父様に何かしらの思惑があっての事でしょう。ところで……もし、もしもの話ですが、私がお父様の後を継いだ時が来たとして、その時に貴方を副官にすると言ったらどうしますか?」
もしも、とは言っても順当にいけばベルゼビュートの後を継ぐのは間違いなく実子のアスタルトであり、非常に現実味を帯びている質問だった。
幼い頃から父親にくっ付いて回り、古参の兵士にとっては娘同然に可愛がられているアスタルト。
しかし、現在の副官と言う地位は決して親の七光りなどではなく、実力で手にした事は誰の目にも明らかである。
同じ銀角の悪魔族はもとより、ベルゼビュートの配下となっている他の魔族たちからの信頼も厚いアスタルトが次期四天王になる事は、東の地に住む者の多くが望んでいる。
それは視察や任務で様々な土地を周っていたミラージュも目にしており、遠くない未来にそうなるだろうと確信していた。
特に城下町の住人からのアスタルト人気は絶大であり、老若男女問わずに好かれていると言っても過言ではない。
一見するとあまり感情を表に出さない冷たい印象があるのだが、長年の積み重ねによってアスタルトの実直さや、ひたむきに努力している事は十分伝わっているのだ。
「うーん、さっきも言った通り僕は仕事が好きじゃないからなぁ。君が四天王になった頃には既に魔王軍にいないかもしれないよ。まぁ仮にまだ在籍していたと仮定すると、下手に他の所に行くよりは、君の下で働くのも悪くないかもしれないね」
「そ、そうですか……。もしそうなった時には貴方の希望通り、は無理ですが、それなりに休暇を取れるように取り計らってあげますよ」
「随分と魅力的な話だね。それなら魔王様じゃなくてアスタルトに忠誠を誓ってしまいそうだよ」
「ば、馬鹿な事を言わないで下さい! まぁ……その……貴方の腐った性根は最早どうしようもないですが、その実力だけは認めているつもりです。それに私もいきなり見ず知らずの者が下に就くよりは、気心知れた貴方の方がマシですからね」
四天王であるベルゼビュートはまだまだ現役な上、アスタルトが希望したところで最終決定権は魔王であるリリスにある。
所詮は仕事中のちょっとした気晴らし程度の雑談ではるのだが、ミラージュは隣で書類に埋もれている小さな女の子の事が可愛らしく思えていた。
年齢を考えると魔王軍の新兵でもおかしくはない程に若い年下の同僚。
偉大な父親の下に生まれ、周囲の期待に押しつぶされそうになった事も何度もあっただろう。
少し素直じゃないところもあるが、それでもこうして真っ直ぐに育っているのだ。
そんなアスタルトに対して、ミラージュに悪戯心が芽生えるのは無理もない事だと言える。
「それじゃあ、いつかそうなった時はよろしく頼むよ、タルトちゃん」
「な、な、な……っ!」
アスタルトの両親や幼い頃からの顔見知りである年長者が呼ぶタルトという愛称なのだが、ミラージュがこの名で呼んだことは今まで一度も無かった。
動揺しているのは声だけでも十分ミラージュへ伝わっており、先程までは聞こえていたペンが走る音も止まっている。
そもそも、アスタルトは幼少の時分より訓練に明け暮れる事が多く、同世代の交友関係が極端に少なかった。
歳の近い者で魔王軍に在籍している者は、一部を除いて殆どが新兵や地位の低い者ばかりであり、四天王の娘で且つ副官のアスタルトに対して愛称で呼べる者がいるはずもない。
特に異性ともなれば余計に尻込みしてしまうだろう。
つまり、アスタルトは異性の若者からこの様に呼ばれる事に慣れていないのだ。
ミラージュの発言は効果覿面であり、アスタルトの白い肌は見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「わ、私の名前はタルトちゃんではなくアスタルトです。そのような呼び方はやめてください!」
「だめかなぁ? 可愛くて親しみを持ちやすくいから良い愛称だと思うけど」
「か、かわ……と、とにかくミラージュがその呼び方をするのは禁止です! 次に同じ言葉を口にしたらその首を刎ね飛ばしますからね!」
声を荒げながら勢いよく立ち上がるアスタルトだったが、彼女の周囲には書類が山積みにされているのだ。
手や腕がぶつかったのか、それとも机自体に衝撃が加えられたせいなのかはわからないが、書類の山は一気に崩れ落ちようとしていた。
「おっとっと。きちんと周りをみないと駄目だよ、アスタルト」
しかし、咄嗟にミラージュが移動してバランスの崩れた書類を抑え、アスタルトに注意を促す。
そして先程まではお互いの顔が見えない位置に居たのだが、今は目と鼻の先でミラージュとアスタルトは相対しているのだ。
愛称を呼ばれただけで動揺する初心な少女が、原因を作り出した男と接近して見つめ合った状態で平常心を保つ事が出来るだろうか。
「あ、う、し、失礼します!」
アスタルトが選んだ選択肢は逃亡であり、耳の先まで真っ赤に染まった状態で執務室を飛び出してしまう。
一人残されたミラージュは、流石にちょっとからかいすぎたかな、と反省をしながら、何も言わずにアスタルトの背中を見送っていた。
後程、アスタルトは体調不良で早退したと言付けを受けて、ミラージュは一人で膨大な書類の処理に追われる事となる。
更に不幸は続き、アスタルトが執務室から顔を真っ赤にして飛び出し、城の中を走る様子は多くの兵に目撃されており、当然の事ながらベルゼビュートの耳に入ってしまう。
何とか全ての仕事を終えて疲労困憊のミラージュに待っていたのは、娘を溺愛する父親からのお話という名の尋問だったのは言うまでもない。
余談ではあるが、その後三日間はアスタルトが口を利いてくれず、ミラージュはご機嫌取りに奔走する事になる。
こうして、多少の波乱があるものの、ミラージュの副官としての生活は続いていくのだった。




