四天王のお仕事3
ミラージュが練兵場に着いてから六時間ほど経った頃、ようやく最後の兵士を転移し終わったようだ。
「ふぅ、やっと終わったよ。……マナポ―ション飲み過ぎてお腹がタプタプしているなぁ」
自身の腹を擦りながら、ミラージュはぐったりとした様子でその場にへたり込む。
本来のミラージュの実力であれば、兵士百名を送るのなど簡単に出来る事なので、ここまで疲れたりはしない。
しかしマナポ―ションが即効性ではなく遅効性な事により、魔力の回復を待つ演技が必要となる。
百名の屈強な魔王軍の兵士に囲まれながら、数名転移させてはマナポ―ションを飲み瞑想をしているふりをして、時間が経てばまた数名という行動を繰り返していた。
練兵場は決して狭くはないが、百名も集まると当然その体温で周囲の温度と湿度が上昇してしまう。
また兵士の殆どが男の魔族で独特の匂いも漂ってくる上に、幾度となく苦い液体を飲み続けるミラージュの心労は筆舌に尽くし難い。
「でも……あんまり休んでいる訳にもいかないよなぁ。城に戻って書類を片づけないと」
ミラージュが城に戻ると言うときは、自身の居城である幻影城の事だろう。
四天王は大軍を預かる長であり、決裁を済ませる書類も大量にあるのが常である。
ある程度は副官のアスタルトが処理しているものの、四天王であるミラージュが直接押印する必要がある重要な案件も多い。
「はぁ……ゲート」
心底うんざりとした声を上げながら、空間に大きな裂け目を作り移動を開始する。
項垂れているその姿は、威厳のある四天王とは思えない程、情けなく写っていることだろう。
魔王城の練兵場から姿を消したミラージュが再び現れたのは、自身の居城である幻影城の執務室だ。
「ミラージュ様、おはようございます。魔王様の勅命は果たされましたか?」
早いどころか真夜中に執務室を訪れたミラージュの耳に、皮肉が交じった少女の声が届けられる。
声の主は軍服に身を包み、忙しなく手を動かしながら机の上にある書類を処理している。
転移してきたミラージュに声をかけたものの、視線は全く動かさずに書類の方へ向けている。
「ん、おはようタルトちゃん。無事に砦に兵士を送ったところだよ。それにしても凄い量の書類だね。手伝おうか?」
ミラージュは気難しい顔をしながら書類と格闘する少女――アスタルトに対して返事をする。
皮肉交じりなのはいつもの事なので、今更過剰に反応したりすることはないようだ。
そして普段から負担をかけているアスタルトに対して、ミラージュはそれなりに気を使っている。
「そうですね、元々はミラージュ様が処理するべき書類なので是非ともお願いしたいところですね」
気を使ったつもりが、まさかの藪蛇だったようで、ミラージュは二の句が継げなくなってしまう。
「まぁ、魔王様の勅命なので仕方がないと言えば仕方がないのですが……」
珍しく本人からフォローが入り、ミラージュは安堵しかける。
「最初から連絡玉の呼び出しに応じて頂ければ、そもそもこうなる事もなかったですけど、ミラージュ様はどう思いますか?」
現実はそう甘くはなく、漸くミラージュの方を向いたアスタルトは、本来は炎を想起させる紅い瞳を相当冷ややかなものにしている。
しかしミラージュは反論の余地があると判断したのか、そんなアスタルトに向かって果敢に立ち向かう。
「確かにタルトちゃんの言う通りだけど、そもそも魔王軍の勤務時間は日の入りから日の出まで、もしくはその逆と決まっているからね。別に時間外労働について追及されるような謂れはないはずだよ」
仮面の中ではおそらく得意げな笑みを浮かべていることが容易に想像できる声色で、ミラージュはアスタルトへ言葉を投げかける。
魔王軍という組織は勤務時間が二交代制で決められており、超過する場合には別途残業代が支払われる。
魔族はあまり睡眠を必要としない種族が多いため、こうした制度はかなり珍しいのだが、給与もそれなりに高く、勤務時間も他の仕事に比べて短いと魔族の間では大変好評な制度となっている。
言わずもがな、ミラージュが魔王軍の門を叩いたのは、勤務時間の短さに惹かれたのが一番の理由になる。
「確かに一般兵卒はそうですが、ミラージュ様は四天王で管理職です。魔王軍法の労働条件項、第四十一条第二号には監督若しくは管理の地位にある者は労働時間、休憩及び休日に関する適用を除外すると記載されております。つまりミラージュ様は日頃から軍法違反を犯しているという事です」
何故この子は空で魔王軍法――魔王軍内に適用される法律――の中身を言えるのだろうかと、ミラージュは疑問に思いながらも、今までそんな事を聞かされた覚えがなく驚いてしまう。
「えっと、僕が四天王になるときにそんな説明はなかったんだけどなぁ。いやー魔王様も人が悪いよね。流石は悪の大総統だよ」
人ではなく魔族であるが、ミラージュは誤魔化そうと話題をすり替え始める。
そもそもそんな規則があるのならば、四天王になどならなかった――いや、始めからなるつもりはなかったが、もっと激しく抵抗していたはずだ、とミラージュは思い至る。
「ミラージュ様が魔王軍に入る前にどのような場所で働いていたかは知りませんが、これは軍に限らずどこでも同じですよ。労働時間は違いますが、管理職の扱いは魔族であろうと仮に人族であろうと多くの国では共通の認識です」
ミラージュは親の遺産を食いつぶして生活をしていた為、魔王軍に入隊するまで働いた事はなかった。
人間――ファルサ――として働き始めた時も、出世するつもりは毛頭無かった為、わざわざ管理職の扱いについて知ろうと思う機会もなかったくらいだ。
宮廷魔道士筆頭になった時も、ファルサの魔法の力に畏怖した周囲が気を遣い、昼間はそれなりに忙しいものの、夜間に仕事をさせられるようなことはなかった。
そういった事情も手伝って、結果として忙しいながらも昼と夜を別の種族として働くことが可能になってしまったのだから、ままならないものである
「あー、そうだったのか、いや本当に知らなかったよ。そうとは知らずに僕はタルトちゃんに迷惑をかけていたようだね。それについては謝罪させてもらうよ、本当に申し訳ない」
出で立ちは滑稽だが、真摯な態度でミラージュはアスタルトへ頭を下げる。
一方のアスタルトは、四天王であるミラージュが部下である自分に素直に謝罪したことに驚いているのか、さきほどまでの険しい表情が崩れ、その紅い眼を見開いている。
「ん、んん。そもそも今まで咎められていないという事は、魔王様が問題ないと判断しているのですから、私に謝罪する必要はありません。規律を守る事も必要ですが、時にはそれが全てでないという事くらい、私にもわかります。それよりも四天王であるミラージュ様に頭を下げさせたと知れたら、私の方が何か言われてしまいます。今回の件については私も忘れますので、いい加減その軽い頭を上げてください」
咳払いをしたアスタルトは言葉に毒を含ませつつも、流石に居心地が悪いのか少し早口に捲し立てている。
ミラージュは働くことが嫌いだが、他人に迷惑をかける事もあまり良しとはしない性格だ。
比重としては怠惰な気持ちの方が大きいが、罪悪感も持ち合わせているからこそ、今の生活をやむを得ず続けている。
「そう言って貰えると助かるよ。とりあえず書類を片づけようか」
ミラージュはアスタルトの机にある書類を半分ほど手に取ると、隣の椅子に腰を掛けて書類の内容を確認し始める。
アスタルトはそんなミラージュの様子を見つめながら、少々気まずそうに切り出した。
「あの……この空気でこんな事を言いたくないのですが、その書類はミラージュ様には関係ない物です。手伝うならこっちにして下さい。そもそも確認もしないで勝手に判断しないで貰えますか」
これではどちらが上司かわかったものではない。
ミラージュは無言で書類を返すと、代わりの束を受け取って確認を再開する。
執務室の中ではしばらく、判を押す音と文字を記入する音、そして紙がこすれる音だけが響き続けていた。