陰謀の予兆2
「ぐ……がはっ! げほ! げほ!」
地面に大量の血を吐きながら、ファルサは見るからに苦しそうな表情を浮かべていた。
半分は魔族の血を引いているので人間よりは丈夫な体とはいえ、ユリアの短剣は背中から肺の辺りにかけて突き刺さっており、どう考えても致命傷となるほどである。
「ファ、ファル兄! なんで、どうして、魔族なんかを庇って……」
ユリアは突然の出来事に冷静さを失ったままではあるのだが、それでも先程とは様子が変わり殺気を纏わせていた雰囲気は霧散しているようにも見える。
庇われた狼魔族の少女ルウは一体何が起きたのか理解が追いついていない様子だが、それでも目の前で蹲る人物が自分を助けてくれたことだけはわかるのか、ファルサに向かって手を伸ばそうとする。
「あ、あの、大丈夫で――」
「――ファル兄に触れるな!」
バシン、と大きな音を立ててルウが伸ばした右手がユリアによって思いっきり叩かれてしまう。
フー、フー、と荒く息を吐き出しながら睨みを利かせるユリアに、ルウはその小さな体を更に縮れこませていた。
ルウは人間で言うならばまだ十歳にも満たない年齢であり、あからさまな敵意を向けられて怯えてしまうのは無理もないだろう。
「ユリア……落ち着くんだ……君が魔族を憎む気持ちは良くわかるよ。でも……」
「ファル兄! 今すぐ回復魔法をかけるから喋っちゃ駄目だよ!」
ユリアはファルサが声を発すると怪我をさせてしまった事を思い出したのか、すぐさま痛々しく突き刺さっている短剣を勢いよく引き抜いた。
「ッ!」
「女神フォルトゥナの名において傷つき倒れたものを癒したまえ! ハイヒール!」
ファルサが苦痛のあまり小さな悲鳴上げるのと同時に、ユリアは素早く回復魔法を唱え始める。
通常の治療であれば出血を考えて短剣を抜いてはいけないのだが、回復魔法を使用する際には体内の異物を取り出す必要がある。
回復魔法は肉体の自己治癒力を強制的に増幅・加速させる魔法と考えられており、その効果は術者の力量と女神からの加護の大きさにも左右される。
力量に関しては人体の構造について学び、回復魔法をかける相手に効率よく魔法を浸透させられるかどうかで決まり、加護に関しては持って生まれた才能と言うほかない。
回復、浄化、結界の三種類ある神聖魔法の内、通常は一種類しか使えないのだが、ユリアやパルミナの様に女神フォルトゥナに愛されている者は、稀に三種全てを使う事が出来る。
しかし、使える事と使いこなす事は全くの別物であり、ユリアの唱える回復魔法はファルサの傷を完全に塞ぐまでには至っていなかった。
「ど、どうしよう、血が、血が止まらないよ。ファル兄が、ファル兄が……ボクのせいで……ボクのせいで……」
魔法の行使には魔力を適した効果を生み出すために練り上げる工程があり、それは大変精密な作業になる。
魔法使いは常に冷静さを失ってはならない、これは魔法を習う者が初めに教わる言葉であり、極意でもあるのだ。
ユリアの様に魔族の出現で興奮し、更にファルサに怪我を負わせたことで動揺した精神状態では、繊細な調節を出来るはずもない。
これが普通の怪我ならまだしもファルサの負っている様な致命傷とも言える重症の場合には、僅かな心の乱れすら影響してしまう。
既にファルサの顔からは血の気が失せており、短剣を抜いた事でより多くの血を流しすぎたのか意識が朦朧とし始めているようだ。
「ユ、ユリア……僕は……最後に……君にあやま……ら……ない……と……」
「嫌だ、いやだ、イヤだ! 最後だなんて言わないでおくれよ、ファル兄! ハイヒール! ハイヒール! ハイヒール!」
ファルサにとってユリアの攻撃を止める手段などいくらでもあった。
正体が露呈しても構わないのであれば転移魔法でルウを安全な場所に移動させる、もしくはユリアを強制的に移動させる事も可能である。
そうでなくても、強化魔法を使用したファルサがユリアを止める事はそこまで難しくない。
咄嗟の事とはいえ、ユリアの体を蹴飛ばして妨害するなどの方法も考えられるのだが、それでもファルサが取った行動はルウを庇い敢えてユリアの攻撃を受けるというものであった。
結果としてユリアは正気を取り戻し、未だ冷静ではないとはいえ魔族への恨みよりファルサの体を優先している。
万が一、ユリアをただ妨害するような真似をしていたら、同じ様な結果には至らなかっただろう。
下手をすると逆上したユリアがファルサを魔族の味方だと認識する可能性もあり、そうなってしまうと最悪の事態に陥ってしまう。
勿論、僅かな間にファルサがそこまで考えたわけではなく、ユリアの憎しみを最初に受け止めなくてはいけないのは自分であると日頃から思っているからこそ、自然と体がそのように動いていたのだ。
そんなものは唯の自己満足であり尤も愚かな行動ではあるのだが、既に意識を失いかけている当の本人は未だに気が付いていない。
「ユリアちゃん、そこをどきなさい! ハイヒール!」
未だに避難もせず遠巻きに様子を伺っていた野次馬たちの中をかき分けるようにして、修道着を纏った女性が飛び出しユリアと同じ回復魔法を唱えながらファルサに駆け寄った。
「パ、パル姉……」
ユリアが涙声でその名を呼んだ通り、フォルトゥナ教の聖女パルミナが額に汗を浮かべながらファルサへ治療を施していく。
ファルサの周囲は既に血の海と化しており、パルミナの修道着は赤に染まっていくのだが、本人はそんな事を一切気にせず魔法を使い続けている。
回復魔法を使用する際に、術者の手の辺りは魔力が可視化して光り輝いている様に見えるのだが、パルミナのそれはユリアの時とは比較にならない程眩しく、そして神々しい雰囲気が漂っていた。
「ふう、何とか傷は塞ぐことは出来たわ。でも……随分と血を流しすぎたみたいだから数日は安静にする必要があるけれどね」
回復魔法では失った血液までは戻らない上、傷が塞がったと言っても魔法で無理やり治している為、体にかかる負担は大きい。
特に今回のファルサは命に係わるほどの大怪我を負っているのだから、数日でも寧ろ短いくらいである。
これがパルミナ以外の術者であったならば、体調が完全に回復するまでに何倍、何十倍もの時間を必要としてもおかしくないのだ。
しかし聖女たる所以とも言えるパルミナの回復魔法は、瀕死の重傷者であっても短期間で完治させるほど強力であり、今まで救ってきた命は数えきれないほど多い。
そんな聖女パルミナは地面に横たわるファルサの頬を愛おしそうに撫でると、おもむろに立ち上がってルウの方へと近づいていく。
「い、いや……来ないで……」
ルウはパルミナが近づいてくることに気が付いて、怯えた様子で拒絶の言葉を口にする。
既に逃げるだけの体力も魔力も無く立ち上がる事も出来ないルウには、本能的に身を守ろうとして体を小さくする以外の選択肢は存在しなかった。
狼魔族の特徴である獣の耳はペタンと折りたたまれて、尻尾と体はプルプルと震えている。
おそらくユリアの時と同様に襲われるのだろうと勘違いしているのだが、パルミナはそんなルウの様子を見て微笑みを浮かべていた。
「大丈夫、大丈夫よ。もう、誰もあなたを苛めたりはしないわ。私の名前はパルミナって言うのだけれど、貴女の名前を教えてくれるかしら? それと怪我をしているみたいだからすぐに治してあげるわね」
「ちょ、ちょっとパル姉、そいつは……魔族だよ! ボクたちを何百年も苦しめてきた魔族なんだよ!」
「そ、そうだ! いくら聖女様とはいえ魔族の治療はやり過ぎだ! フォルトゥナ様の教えに反している!」
「勇者様の言う通りだ! ワシの家族も魔族に殺されたんだ! そんな奴らに慈悲は必要ない!」
「殺せ! 魔族を殺せ!」
「聖女様、どうか考え直してください!」
ユリアの言葉に同調するように、周囲の人々が一斉に口を開いて魔族への糾弾を始めだす。
魔族と人間の争いが始まってからおよそ三百年、特にユリアと同じ王国の北部出身の人間にとっては穏やかでいられないのも無理はない。
故郷や家族を失って王都に流れ着いたものも多く、そうでなくても魔族の行ってきた残虐な行いは周知のものであった。
フォルトゥナ教の教義でも魔族は女神の加護を受ける事の出来ない種族、つまり女神に反する存在と見做されており、ヴァロワ王国の国民は幼い頃からそのように教えられているのだ。
それだけ魔族と人間の確執は根深いものであり、仮にファルサが一人で和平を唱えたとしても意味は無く、寧ろ魔族に与する者として捕縛される可能性もある。
ファルサは宮廷魔導士になる前に五年ほど人間の国を旅して周っていた為、人間たちが持つ魔族への感情については痛い程知っていた。
戦争においてお互いが正義を掲げ、相手を絶対的な悪と見做すことは珍しくない。
そしてヴァロワ王国の民は魔族が魔王の下でどのような生活をしているかなど知る由もなく、魔族は残虐非道な悪魔のような存在としての認識しか持っていなかった。
「ええい、静かにせぬか! そこの魔族の身柄は我ら白百合騎士団が預からせてもらう! ヴァロワ王国にとっては魔族の情報を得る重要な存在であり、今この場で害しようとする者は白百合騎士団団長、ゼノビア・ド・クテシフォンが相手をしてやろう! どうだ、誰か意を唱える者はいるか?」
人々の怒声をかき消すように大声を上げて現れたのは、大勢の騎士を引き連れたゼノビアであった。
その姿は凛々しく、そして美しさも兼ねそなえており、ヴァロワ王国最強の騎士と謳われるだけの迫力を有していた。
当然、そんなゼノビアと後ろに控える大勢の騎士たちに圧倒されてしまい、反論を唱える者など誰一人としていない。
そして、自然と勇者パーティである四人がこの場に揃う事となった。




