くんくんタルトちゃん
魔王軍の中で最も強い四天王は誰なのか。
この手の話題は魔王軍に限らずありとあらゆる物事で議論が交わされる事があり、そして何かと意見が分かれるものである。
魔族の場合には得手不得手がはっきりしている事も多く条件によって変わる為、一概に誰が強いとは言えないのだが、それでも幻影のミラージュと言う存在は一目おかれているのだ。
密かに行われていた陰の努力があったにせよ、他者から見た場合のミラージュは魔王軍に入隊してから物凄いスピードで出世を続け、種族の壁を打ち破って四天王の地位に着いた天才中の天才である。
その上、同じ四天王であるラファールや、ベディヴィアを御している様にも見られることがあり、更には魔王リリスからの信頼も厚い。
そうした理由から、本気を出せば四天王どころか魔王軍でも最強ではないのかと一部の強者――ミラージュの実力をある程度知っている者の間――では噂されている。
随分と高い評価をされている当の本人は現在、幻影城の私室にあるベッドの上に寝かせられていた。
それもいつぞやと同じように、仮面を着けているが上半身は裸の状態である。
「あのータルトちゃん、前にも同じような事を言ったけど君は女の子で僕は男。もう少しその辺りに気を遣わないといけないと思うんだけど……」
「ミラージュ様は私に不埒な真似をなさるおつもりなのですか?」
「いや、そんな事はしないけどさ……」
ミラージュは自身の体の上に跨っているアスタルトに対して苦言を呈するが、アスタルトは答えのわかりきっている質問で一蹴する。
万が一にでもアスタルトに手を出そうものなら、娘を溺愛している父親に何をされるかわかったものではない。
しかし、この状況も十分マズイ、とミラージュは思っていた。
事の発端はミラージュが幻影城の執務室に転移してきた時まで遡る。
既に魔王リリスからミラージュの休暇の件と遺跡調査の事を聞いていたアスタルトは、顔を合せるや否や怒り始めたのだ。
勝手な真似をさせると予定が狂う、四天王としての自覚が足りない、魔王様の気遣いで頂いた休暇を無駄にしたなどなど、ミラージュの悪いところを語らせたらアスタルトの右に出るものはいない程であり、次から次へと罵詈雑言が飛んでいた。
しかしミラージュにはアスタルトが自身の体を心配しているのがわかっているので、この状態をぷんぷんタルトちゃんと名付けて内心微笑ましく思っていたのだ。
当のアスタルト本人はそんなミラージュの内心に気づかずに延々とお小言を繰り返していたのだが、埒が明かないと思ったのか、途中で切り上げる事にして三つの約束をミラージュに誓わせた。
せめて明日の朝までは幻影城で大人しくしている事、休日の内、最低でも一日はアスタルトの目の届く範囲で休む事、そして魔法の修練に協力する事である。
これは今回のミラージュに対しての罰であり、以前に約束をした二回何でも言う事を聞くのとは別物であった。
結果としてミラージュはベディヴィアたちに事情を説明した後に、遺跡調査に向かう明日の朝まで自室でゆっくりとする事になるのだが、夜も更けた頃に仕事を終えたアスタルトが尋ねてきたのだ。
――魔法の修練をしに来ました――と言い放ったアスタルトに対して、ミラージュは自身が騙されたことに初めて気が付いた。
ミラージュの中では、魔法の修練は実戦形式で行う模擬戦に近いものを想定しており、おそらくは休日のどこかで行うのだろうと思っていたのだが、アスタルトの言っている魔法とは幻覚魔法の事だったのだ。
幻覚魔法は五感に働きかける強力な魔法であり、ミラージュの不在時にはアスタルトの作り出した幻覚によって、本人が居るかのように見せかけていた。
今では視覚、聴覚、触覚にまで働きかけられるようになってのだが、ここで問題となるのが臭覚である。
これまで幻影軍の中には極端に鼻の利く種族は在籍していなかったのだが、先日の狼魔族との一件で彼らが纏めて幻影軍に加入する事が内々で決まっているのだ。
つまり今後は臭覚すらも誤魔化す必要が出てきており、真面目なアスタルトがその事を放置する訳がない。
しかし、先日行った触覚の確認ですらミラージュはあまり良い顔をしていなかった為、何でも言う事を聞くと約束した内の一つを使う予定だったのだろう。
そんな矢先、ミラージュの休暇という絶好の機会を手に入れたアスタルトは、罰と称して自分の都合を上手く取り入れていたのだ。
「触覚に関してはそこまで難しい訳ではありませんでしたが、今度は狼魔族が相手ですからね、ミラージュ様の体臭を完全に再現してみせます」
そう言ってアスタルトはミラージュの首元辺りに顔を近づけて、スンスンと鼻を鳴らしながらじっくりと匂いを嗅いでいく。
これは決して特殊なプレイなどではなく、あくまでも幻覚魔法の神髄に近づくための修業の一環であるはずなのだが、正直言ってこの絵面は危険である。
アスタルトの身長は大よそ百五十センチほどであり、それに対してミラージュの身長は百八十以上もある。
四天王のベディヴィア程ではないにしろ、その身長差は大人と子供にしか見えないのだ。
「タルトちゃん、息が当たってくすぐったいよ。それと前みたいに角も当たっているよ」
「我慢してください、今晩は朝まで付き合ってもらいます。お疲れでしたらこのまま眠って頂いても構いませんよ」
こんな状態で眠られるわけがないじゃないか、とミラージュは思っていた。
アスタルトは小柄ながらも魔族としては一応大人と言っても差し支えない年齢であり、いつも無表情でいるのだが、母親似で大変美人である。
小さな体でいつも一生懸命に仕事をこなし、幼い頃から父親の手伝いをしているアスタルトの姿は、年配の兵士には娘の様に可愛がられている。
若い兵士の一部には、小柄ながらも仕事に厳しくツンとした態度が堪らないという通称タルトちゃんに罵られ隊という特殊な者たちもいる程だ。
そしてミラージュにとっては、お世話になった前・四天王の大事な娘であり魔王軍の所属年数では先輩で立場としては部下、年齢差を考えると可愛い妹の様な存在である。
しかし、今のアスタルトはその小さなお尻をミラージュの下腹部辺りに乗せており、匂いを嗅ぐために顔を動かすと同じように揺れ動くのだ。
小振りで可愛らしいアスタルトのお尻は軍服のズボンに包まれていながらも、その柔らかさを十分に発揮しており、女性であることを強制的にミラージュへと思い知らせていた。
「あ、朝まで続けるつもりなんだね……。ところで僕の匂いってどんな感じかな? 実はちょっと気になっているんだよ」
なるべく余計な事は考えない様にする為、ミラージュはアスタルトと会話をする事を選択した。
まかり間違っておかしな反応をしてしまっては、今後の仕事に支障が出るどころの騒ぎではなく、唯でさえ冷ややかなアスタルトの態度が、極寒の大地へと変貌してしまう。
そして思わず口に出した内容は、ベディヴィアも言っていた自身の匂いについてであり、言った傍からミラージュは後悔した。
これで親父くさいなどと言われてしまっては、間違いなく立ち直るまで時間がかかってしまうだろう。
特にアスタルトは辛辣な事を口にしやすいのだから。
「匂い……ですか。そうですね、父と違って不思議な香りがします。父の場合はどうしても……その……おじさん臭がしてしまうのですが、ミラージュ様は……すみません、適切な言葉が見つかりません」
「そうか、そうなんだ、それなら別に構わないよ」
アスタルトの発言に、どうやら加齢臭はしないようだ、と思わずほっとするミラージュだったが、同時にこの事は本人に言えないなと、アスタルトの父親の事を思い浮かべるのであった。
加齢臭は人間で例えるならば三十代から四十代ごろに発生し始めるものであり、主に男親が娘に言われてショックを受ける原因になる忌まわしき存在である。
魔族は人間に比べて肉体的な衰えが遅い為、アスタルトの様に子供が成熟してからようやく加齢臭が発生しても、気を遣われて指摘されない事が多いのである。
特にアスタルトは父親の事を尊敬いるからこそ、面と向かってそのような事は言うはずがない。
世の中には知らない方が幸せな事はいくらでもあるのだ。
「急な質問でしたが、何か気になる事でもありましたか?」
「いや、実はさっきベディに、僕が使ったベッドは匂いがするって言われてね。僕って実は体臭がきつかったのかなって少し心配になったんだ」
会話をしながらもアスタルトはミラージュの体に鼻を近づけており、首の辺りから肩、そして脇の辺りまで移動していく。
無表情で仮面を被った上半身裸な男の脇を嗅いでいる軍服姿の少女、やはり何度見ても犯罪の香りしかしない。
しかし、そんな犯罪仮面ミラージュの発言に、被害者の少女アスタルトはピタリと動きを止める。
「はぁ、もしミラージュ様の体臭がキツイのであれば、私が真っ先に指摘していますよ。それにこうして匂いを嗅ぐはずがありません。寧ろ……いえ、これは必要ないですね。愚かで滑稽なミラージュ様には聞かせるまでもありません」
「後に続く言葉が何なのか気になるけど……まあ、大丈夫なら別にいいのかな」
「ところで私からも一つお伺いしたいことがあるのですが、ミラージュ様はどなたかと結婚するご予定でもございますか?」
まるでミラージュの様なため息を吐いたアスタルトは、冷たい眼をしてさらっと毒を吐く。
確かに毒舌のタルトちゃんが言わない内は平気そうだ、と少し安心していたミラージュにアスタルトはとんでもない質問を投げかける。
ここは魔族領であり、人間の国であるヴァロワ王国の話は中々入ってこない。
一番情報が入ったとしても南のクリューエルであるが、そもそもゼノビアとの結婚話について知っているのは極々少数であり、信頼のおける人物しかいないのだ。
アスタルトが知り得るはずもない情報なのだが、ミラージュには一つだけ心当たりがあった。
「もしかして、魔王様が何か言っていたのかな?」
「ええ、何でも魔王様を裸にしてベッドに寝かせてその上に跨っている時、結婚についてどう思うか聞いたそうですね。魔王様に私とミラージュ様が結婚する予定でもあるのかと聞かれまして、そんな事は死んでもあり得ないですとお答えしておきました」
魔王様は面白がってわざと誤解を生む言い方をしているな、とミラージュはため息を吐いた。
どうやらミラージュの発した結婚についての質問は魔王リリスにとって違和感を覚えるものであり、連絡ついでにアスタルトへ揺さぶりをかけたのだろう。
そもそも幻覚魔法で他者を再現するような真似をするには相当な努力が必要であり、仮に夫婦や家族であっても難しいものなのである。
認識を誤魔化す程度ならまだしも、勲章の授与式では多くの魔族が幻覚魔法で騙されており、リリス自体は掛からずとも相当な再現度である事は認識されているのだ。
魔王リリスが結婚について質問したミラージュに不自然さを感じて、その対象がアスタルトであると考えるのは極々当たり前の事であった。
半分以上はからかい目的であり、面白い事にならないかなと悪戯気分なのは間違いないのだが、どうやらその目論みは成功したようである。
「いくつか誤解が生じているみたいだけど、魔王様が裸になっていたのは東方に伝わるオイルマッサージをしていたからだよ。これが結構好評で、気になるようならタルトちゃんにも……いたい! 痛いよタルトちゃん!」
「私を裸にするなんてセクハラです! 不快です! 不愉快です!」
ミラージュがリリスにしていた行為について説明するものの、案の定セクハラと訴えられ脇腹をギリギリと抓られてしまう。
僕を裸にしているのにそれは理不尽じゃ、と思いながらも、ミラージュは大人しく受け入れていた。
ミラージュには少し変な雰囲気を醸し出している様にも思えたアスタルトが、ようやく普段通りの調子で反応している事で、いつもの安心感を得る事が出来るのだ。
元々、アスタルトは異性との身体的接触をするタイプではなく、ミラージュの体に跨るなど普段の態度からは考えられない事である。
前回の触覚の時と同じようにベッドに腰を掛けて隣り合うだけでも匂いを嗅ぐ事が出来るのに対して、今回はいきなりベッドの上に押し倒されているのだ。
しかし、そのような行動に至った理由についてはアスタルト本人しか知りえない事である。
「更に誤解させちゃったみたいだけど、別に裸にならなくても腕とか脚とかだけでもいいんだよ。魔王様の場合は……ほら、アレだからさ」
「……それならそうと早く言ってください。やり方については後で聞きますが、それよりも結婚についてはどうなんですか?」
「それは……うーん、どうやって説明しようかな。別に今すぐ誰かと結婚するつもりはないけど僕も結構良い歳だからさ。先日のルヴトーさんと奥さん、それに娘さんを見ていてああいうのが幸せっていうのかなって思ってね。本当に助ける事ができて良かったよ……本当に」
アレ、の一言であっさり納得されるほど、魔王リリスについてはアスタルトも良くわかっているのだろう。
そしてミラージュの語る狼魔族の現族長であるルヴトーとその家族は、病気が治り元気になってからはとても仲睦まじく幸せそうであった。
母親の顔を知らずに育ち、自らの父親を幼い頃に亡くしているミラージュにとって、家族で過ごす経験は殆どない事である。
だからこそ子供と親が死別するようなことは、幼いうちには経験して欲しくないと思い、必死に狼魔族の治療に取り組んでいたのだ。
誰よりも家族という存在を渇望し孤独を感じていたからこそ、ミラージュの心に火をつけたと言っても過言ではない。
ゼノビアとの事は意図的に話さなかったにしろ、ミラージュの語る内容はそのどれもが本心であり、それが伝わったのかアスタルトも真剣な表情で聞き入っていた。
「……ミラージュ様は家族が欲しいと思っているのですか?」
「うーん、どうだろうね。自分でもよくわからないんだ」
「よくわからないとは不思議な答えですね。てっきりそう言う事かと思ったのですが」
「多分、欲しいと思う。だけど、その前にその資格があるのかって考えると二の足を踏むって言うのが正解かな。ほら、僕って結構いい加減なところがあるし、タルトちゃんにも怒られてばかりだからね」
ジッと眼を合わせて見つめながら質問をするアスタルトに対して、同じ様に仮面の中から真紅の瞳を覗かせるミラージュは、何ともあやふやな回答をする。
最後にはおどけたような態度をとり、言外にこの話はこれ以上する気がない事を伝えていた。
しかしアスタルトはしばらく考え込んだ後に、再度ミラージュの方を見やりその小さな口を開いて言葉を発する。
「私にはミラージュ様のお考えはわかりませんが、もし家族が欲しいようでしたら父に言って適切な方を紹介して貰いますよ。様々な種族に顔が広い父の事ですから、理想的な女性を紹介して頂けると思います」
「そうだね、その時はお願いするよ」
「ただし、その時はそのセンスの欠片も無い仮面を外して頂きます」
アスタルトの父親は元四天王であり、ラファールの父親を含めた様々な種族と交流を持っている。
魔族としては珍しいのだが、だからこそ発足当時から魔王軍の四天王を務められていたとも言え、優秀な四天王の一人として魔族の統一に貢献していたのだ。
今は様々な理由から娘のアスタルトではなくミラージュへと四天王を譲っているのだが、相談役のような立場で陰ながら魔王軍を支えている重要な存在でもある。
ミラージュとしても本気で誰かを紹介して貰う様なつもりはないのだが、話を切り上げるタイミングと判断してアスタルトの言葉に同意しただけなのだろう。
しかし、そのアスタルトから返ってきた言葉は、少々深く踏み込んできた内容であった。
ミラージュが仮面で隠している素顔は魔王軍の誰もが知らず、四天王となった今では外す様に要求する者は滅多にいない。
それこそミラージュの事を知らない新米兵士か、魔王軍所属ではない初対面の魔族くらいのものである。
だからこそミラージュは驚き、仮面の隙間から覗く瞳を大きく見開いてしまうのは仕方がない事だろう。
「まさかそんな事を言われるとは驚いたよ。でも、そうだね、その時はそうするよ」
「まあ、顔を隠したくなるほど臆病者のミラージュ様には当分難しいと思います。せめて副官である私に素顔を晒せるようになってから、結婚についてはお考えになった方がよろしいかと。もしくはミラージュ様の首を切り落として私が四天王に成り代わった時に、その顔を晒して差し上げますのでご安心ください」
いや、その時点で死んでいるから素顔とか関係ないよね、とミラージュは心の中でツッコミを入れつつも、アスタルトの不器用な気遣いが妙に嬉しくなってしまう。
やはり毒舌な部分は変わらないものの、ただ言葉通りに冷たいだけではないのが副官のアスタルトなのだ。
魔族として過ごしたミラージュの中で一番近い距離にいるのは、一番長い時間を共に過ごしているアスタルトなのかもしれない。
「そうだね、なんだか安心したよ。タルトちゃん、ありがとう」
「ッ! 殺害予告をした相手にお礼を言われたのは初めてです。流石はミラージュ様、変態の度合いは他の追随を許しませんね。それと勝手に頭を撫でないでください。不快です」
少し気の抜けたミラージュは思わず癖でアスタルトの頭を撫でてしまい、早速指摘されるのだが、当の本人はその手を振りほどくわけでもなく文句を言うだけである。
それから二人は無言のまま、ミラージュは頭を撫で続けアスタルトは匂いを覚える作業を再開して一夜を過ごすのであった。
指先に感じる柔らかな髪の感触は心地よく、ミラージュは気が付くとそのまま眠りについてしまい、アスタルトも流石の魔族と言え連日の疲れが出たのか、いつの間にかそのまま眠ってしまう。
一瞬、完全に眠りについていた事に寝起きのミラージュは焦りを覚えたのだが、すやすやと自分の胸元で眠るアスタルトの姿を確認すると、そっと仮面を外して穏やかな表情で見つめていた。




