【過去編】ファルサとゼノビアの出会い4
一方、ファルサから逃げる様に森の中を走るゼノビアは、無意識に強化魔法を使用しているのか物凄い速度で奥へ奥へと進んでいた。
幸いにも他の魔物に襲われる事もなく、ようやく魔力が切れたのかその足が止まる頃には、森の最深部へと辿り着いてしまう。
「ハァ、ハァ、ハァ、クソ! なんで……ハァ、なんで魔導士如きに……あれだけの力があれば……兄上は……兄上は」
地に膝をつけて、息を荒げながらも一人呟くゼノビアは、先程の決闘とは別の事も思い出しているようだ。
ゼノビア自身、まだ心の整理が付いていないのか、何度も、何度も、悔しさを滲ませた表情で地面へと拳を叩きつける。
完全に冷静さを失っているゼノビアは、おそらく自身が今どこにいるのかもわかっていないのだろうが、そのような事情は魔物にとって関係がない事だ。
ズシン、ズシン、と大地を振るわせる様な音を響かせながら、その巨体にはそぐわぬ速さでゼノビアへと近づいていく魔物たちがいた。
「な! ま、まさか……ランドタートル!」
そこまで大きな音が聞こえては流石のゼノビアも魔物の接近に気が付いたのだが、その眼に飛び込んできたのは、先程のアウルベアが子供に見えるほどに大きな魔物、ランドタートルの成体だった。
全長は少なくとも十メートル以上はあり、その巨体で周囲の木々をなぎ倒しながらも一切気にする様子もなく四本の足を動かしている。
そしてゼノビアの前へと現れたのは二体のランドタートルである。
アウレリアの推測に間違いはなかったようで、繁殖期のランドタートルが森に現れた事で異変が起きていたのだが、ゼノビアにとって最悪な事態がもう一つ起きていた。
「クソ! すでに孵化していたのか!」
番のランドタートルたちの周囲やその背には、何百もの影が纏わりついており、目を凝らしてみるとそれはランドタートルの幼生体であった。
幼生体といっても既に爪や牙が生えそろっており、おそらくは親離れが近いのだろう。
このまま数日放置してしまえば、周囲の村などに現れて、次々と人間や家畜を襲い続ける事は容易に想像できる。
「こ、ここで、ここで、私が一人で奴らを仕留めれば、あの嫌味な魔導士の鼻を明かすことが……え?」
ゼノビアは声を震わせながらも、ファルサへの対抗心からかランドタートルの討伐を決意して腰に手を伸ばす。
しかし、その右手は空を切り、ゼノビアは初めて自身が剣を手放したことに気が付いたようだ。
「そ、そんな……あ、ああ、あああ」
へなへなと力なく後ろへ倒れ込み、尻餅をついたゼノビアは、絶望に顔を歪ませる。
魔力が殆ど尽きて更には武器もない状態で、人間が魔物に対抗できる方法などない。
相手は数百を越えるランドタートルの幼生体と十メートルはある巨大な成体が二体であり、数秒後にはゼノビアの全身が生きたまま食い散らかされるのは明白だ。
「いや、いやだ、じに、じにだぐない」
ゼノビアの目や鼻からは体液が流れだし、更にはあまりの恐怖に我慢が出来なくなったのか下半身と地面が湿っていく。
声は震え、歯がガチガチと音を鳴らす。
後退りをしようにも、その四肢には力が入らず、ただ捕食されるのを待つだけの存在になっている。
「ぢぢうえ、はばうえ、あにうえ、たしゅけ、たしゅけて」
今ここにいるのは、剣に命を捧げる高潔な騎士などではなく、怯えている一人の少女であった。
ゼノビアはその類稀なる剣の才能が幸いしたのかそれとも災いしたのか、今までに命の危機に陥る事は一度も無かった。
常に相手を圧倒し続け、訓練以外では常に余裕の勝利を収めてきた彼女にとって、人生で初めて訪れた死の恐怖。
戦場に身を置く者は死線を乗り越えてこそ一人前と言われるのだが、精神的に成熟していないゼノビアには、抗う術がなかったようだ。
そして時は無情にも、ゼノビアが立ち直るまで待っている事はなく、ランドタートルの数百匹に上る幼生体たちが一気に餌へ目掛けて飛びかかっていく。
「ひっ!」
「フィンブルヴィンター!」
恐怖のあまり悲鳴を上げて目を瞑ってしまったゼノビアだったが、自身の背後から聞こえた声と、体を襲う冷たい空気に驚いたのか、再び目を開ける。
「な、なん……こ……れ」
先程まで恐怖のどん底に落とされていたせいか、それとも自身の瞳に映る光景が信じられないのか、ゼノビアは掠れた声を上げていた。
ほんの数秒前にゼノビアの眼前へと迫っていたランドタートルたちは、その全てが凍りづけにされており、氷の彫刻と化していたのだ。
それも、ほんの数センチしか離れていないゼノビアには一切の影響がなく、ランドタートルたちがいた範囲だけが綺麗に太陽の光を反射しており、寸分の狂いもなく魔法が発動された事が見受けられる。
しかし、少なくともゼノビアの、いやヴァロワ王国内の人間の常識の中には、これほど強力な魔法を正確に扱える魔法使いが存在する事など考えられないのだ。
このような事が容易にできるのであれば、騎士が学ぶ戦術など役に立たない程、この魔法は常軌を逸しているのだから。
「ふう、何とか間に合ったみたいだね。いつまでもここにいると体が冷えちゃうし、早く街に戻ろうか」
自身の羽織っている宮廷魔導士を示す白と赤のローブをゼノビアの体にかけて、優しい声で呼びかける男がいた。
ゼノビアが声の主の方へ振り返ると、あれほど毛嫌いしていた宮廷魔導士の男が、微笑みを浮かべてしゃがみ込んでいるのだ。
「ふぁ、ふぁるさ……どの?」
「うん、確かに僕はファルサだよ?」
「ファルサどの、ファルサ殿、う、うわああああああん!」
ゼノビアはその美しい碧眼から大粒の涙を零しながら、感極まった様子でファルサの胸元に飛び込み抱きついた
ファルサは少し驚いたものの、その小さな体を優しく抱きかかえて、ゼノビアの頭をゆっくりと撫で始める。
確か子供をあやす時はこうするのが一番だったよな、と思いながら、ファルサは不思議と穏やかな気持ちになっていた。
「よしよし、大丈夫、もう大丈夫だから」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「うんうん、大丈夫、僕は何も気にしてないから」
「うう、うう……ひっく……はぁ、はぁ……はっ!」
ようやく泣き止んだかと思われたゼノビアは、突然何かに気が付いて、ファルサの体から飛び跳ねる様にして離れていく。
急にどうしたのかな、とファルサが疑問に思っていると、ゼノビアが股の辺りを手で押さえ、もじもじと体を揺らしながら顔を赤らめていた。
どうやら先程ランドタートルに襲われた時に失禁してしまい、今になって思い出して恥ずかしくなったのだろう。
「ゼノビア、着替えは?」
「……街の……宿に」
流石のファルサも事情を察して着替えの有無を聞くが、着替えなどの荷物はファルサたちが宿泊している森からほど近い宿に置いてきているのだ。
ゼノビアの答えは予想通りであり、流石に女の子をこの状態で連れて行くのはあまりよろしくないよな、とファルサは考えていた。
「それじゃあ近くに小川があったから、一度そこまで行こう。立てるかい?」
「か、かたじけない。普通に歩くだけなら……きゃあ!」
差し出しされた手を素直に掴んだゼノビアが立ち上がるが、足がもつれて再びファルサの胸の中に飛び込んでしまう。
なんだか、最初の印象と違って随分可愛らしい悲鳴だな、とファルサは呑気な事を考えながらも、どうすれば一番効率がいいのかを思案する。
ゼノビアの状態は強化魔法による反動であり、森の中を駆け抜けた時の無茶な使用によって今の状態になってしまったのだ。
ファルサが森の奥に到達するまで追いつけなかったほど、ゼノビアが無意識に使用していた強化魔法は効果が高かった。
そしてそれだけの魔法を使用してもなお、この程度の反動で済んでいるのだから、ゼノビアの才能は計り知れないとも言える。
「うーん、よし、こうしよう」
「え? ふぁ、ファルサ殿、一体何を? ひゃあ!」
ファルサはゼノビアを両手で抱えて、そのまま立ち上がり歩き始めたのだ。
それは所謂、お姫様抱っこと呼ばれるものであり、ゼノビアは男性にそのような事をされるのは初めてである。
侯爵令嬢として育ったゼノビアは、決して異性からモテなかったわけではなく、むしろ山の様に結婚の申し込みが舞い込んでいた。
しかし、剣の道を進んでいたゼノビアはそのような浮ついた事に興味はなく、父親であるクテシフォン侯爵を介して全て断っていたのだが、騎士を育成する王都の学校に通っていた時にも、幾度となく直接交際を申し込まれていたのだ。
いい加減うんざりしたゼノビアは、剣で自分に勝てたら交際を受け入れると宣言し、その全てを切り捨ててきた。
年上の現役騎士などが相手ならばまだしも、ゼノビアと同年代の学生で適う相手などいるはずもなく、そのあまりの強さが話題となり十三歳の若さで白百合騎士団に任命されている。
「あう、あう、あううう」
そして、そんなゼノビアはファルサに決闘に挑んで負け、命の危機を救われ、恥ずかしい姿を見られた上に、こうして抱っこをされているのだ。
ゼノビアの心に渦巻いている様々な感情が爆発しているのだろう。
だからこそ、訳のわからない事を口走ったとしても、それは仕方がない事である。
「ふぁ、ふぁるさどの! わ、私はあのように負けたのは初めての事なのだ! つまり貴殿には私を負かした責任を取る必要がある! 当然、その覚悟は出来ているのだろうな?」
「ん? ああ、勿論僕が勝ったからには、それなりの対応をさせてもらうよ。君にはきちんと従ってもらうけど構わないよね」
魔族の決闘における敗者は勝者に従う事が常であり、そうして魔王軍では多くの魔族たちを取り込んできたのだ。
ゼノビアの言う責任とはおそらくそういうものだろう、とファルサは考え、逆に自身の指揮下になる事を伝えていた。
別に指揮下に置いたからと言って何をするつもりでもないが、騎士の中にそのような存在がいれば何かと都合が良さそうだ、とファルサは思っているのだろう。
しかし、今回は非常にタイミングが悪く、そしてゼノビアとファルサの行き違いは加速していくのだった。
「そ、そうか、ファルサ殿も中々積極的なのだな! そ、そこまで言うなら私も覚悟を決めようではないか! ただ、お願いがあるのだが、私が騎士としてもう少し成長するまでは待って貰えないだろうか。門外漢であるファルサ殿に負けたままであると言うのは、私の誇りにかけても耐え難い事なのだ。負けた身で恥を承知の上なのだが、聞き入れてもらえないだろうか?」
「え? ああ、うん、あんまり頻繁に再戦を申し込まれても困るけど――」
「――も、勿論、迷惑にならない様にする! そ、そうだ! 五年、いや四年後に改めて挑ませてくれ! その時には私も立派な大人の体で、今よりもずっと強くなっているはずだ! 私もあと二か月少々で十四歳、四年後には十七か十八だ。ファルサ殿としてもこんな子供よりはそれくらいの年齢の方が良かろう」
正直、ゼノビアがここまで年齢にこだわるのはわからないけど、再戦を挑まれるのが四年以上先ならばそれまでは楽が出来て良いかも、とファルサは考える。
ファルサにとってゼノビアの騎士学校での生活など知る由もなく、純粋に成長した状態で挑みたいのだろうと捉えていた。
「うん、僕は構わない、と言うよりも、むしろその方がありがたいかな。区切り良く君が十八になった時で良いよ」
「そ、そうか、やはりファルサ殿も大人が相手の方が嬉しいだろう。で、では、その時が来るまではこの話はお互いに心の中に留めておこう。私はこれでも侯爵令嬢としての立場がある。このような事を無闇矢鱈と口外しては大変だからな。しかし、その時までに父上を説得する事は必ず約束しよう」
決闘をするにも貴族と言うのは随分と面倒な決まりがあるのだな、とファルサは感心半分、呆れ半分でゼノビアの言葉を聞いていた。
そして、互いに決闘の事については口外せず、約束の時が来るまでは話題に上がる事がなかったのだが、それは四年も先の話である。
「あはは、その時を楽しみに待っているよ。それにしても……最初にアウラ王女の部屋で会った時とは随分と変わったね。昨日までの無口な君からは、こんなに喋るなんて想像もつかなかったよ。」
「それは……その……八つ当たりのような……いや、あれは八つ当たりだったのだ、すまない」
ファルサの腕の中にいるゼノビアは、心底申し訳なさそうな表情で謝罪の言葉を口にする。
そして初めの態度ではなく、今の彼女こそが本当の姿なのだろう、とファルサは思い至る。
「八つ当たり……僕……というよりは魔導士に対してかな?」
「……ああ、これは騎士団にとって珍しい話ではないのだが、戦場において騎士は魔導士を守る為に前線に立つことは知っているだろう?」
「……この国ではそのようだね」
魔族ではあり得ない話だけど、とファルサは心の中で付け加える。
肉体も強靭で魔力も豊富な魔族は、一人で武器を振り回し魔法を唱える戦い方をする事が多いのだ。
だからこそファルサも魔王軍に入隊した際には、魔法一辺倒の戦い方を治す羽目になったのだが、人間の国では違う。
百年にも満たない人生において魔法と剣の両方を極める事は難しく、その上魔族と違って多くの睡眠を必要とするのだ。
だからこそ、魔法使いは主に魔法を、騎士は主に剣と肉体を鍛え上げ、戦いにおいては役割を分担するのが基本となる。
王国が誇る騎士団でも強化魔法は必須ではあるが、それ以外は一切使えないと者が多い
そして魔導士は言わずもがな、研究室に籠ってばかりで体力などとは無縁の存在であるのだ。
「……私には兄がいたのだ。剣の腕も勉学もどんなに頑張っても敵わない程に優れていて、私の、いやクテシフォン家の誇りとも言える人だった……。」
そう言葉を紡ぐゼノビアの瞳は、深い悲しみの色に染まっていた。
「あれは四年前の出来事だ。王国領内に突然大量の魔物が出現し、兄上は騎士団を引き連れて討伐に向かったのだ。作戦は至って単純で、騎士団が魔物を引き付けている間に、魔導士たちが魔法を放つ、それだけだった。」
四年前と言うと、ランドタートルと同じように危険な魔物が王国内を騒がせていたな、とファルサは思いだす。
「魔物の皮膚は固く剣が一切通らない事は報告で上がっており、騎士団には時間稼ぎしか出来ない。だからこそ共同で行う作戦だったのだが……その戦いで兄上は死んだ。……形勢が不利になったと判断した魔導士たちが持ち場から逃げ出して、見殺しにされたのだ……」
この話は人間にあまり興味のないファルサでも知っていた。
それまでも盾役の騎士団と、後ろから悠々と魔法を唱える魔導士では、戦いにおける被害の差が大きく折り合いが悪かったのだが、両者の間に決定的な亀裂を生みだした事件が、件の魔物討伐の話になる。
結果として援軍によって魔物は討伐されたものの、先行していた騎士団は九割が死亡し、一方で魔導士たちは全員生きて帰ってきたのである。
明らかに騎士を置いて逃げた事がわかる結果であり、その後魔導士たちは処罰されたのだが、唯でさえ少ない魔法の使い手だけに、そこまで重い内容ではなかった。
魔導士たちを率いていた宮廷魔導士の一人が責任を負う形で死刑になったのだが、他の見習いたちは命令に従っただけと見做され、減給や罰金で済まされている。
そして現在も当時の人間たちが、ぬくぬくと王宮内で働いている姿は、騎士たちにとっては穏やかではいられない事なのだろう。
特にゼノビアの様に親族を失った者にとって、魔導士と言うだけで憎悪の感情が抑えられなくなってしまうのも無理はない。
「そうか……それは……辛かったよね。僕には兄弟がいないからわからないけど、父さんが亡くなった時はとても悲しかったのを今でも覚えているよ。それが誰かのせいで起きた事だったら、きっとその相手を殺してやりたいほど恨むと思う。まあ、父さんは病気で亡くなったから、流石に病気相手に復讐なんて出来ないけどね」
そう言ってゼノビアに微笑みかけるファルサであったが、自身の事を話すなど普段ではあり得ないのだ。
しかし、この時のファルサは自然と自らの過去を口にしていた。
常に自らの発言に気を遣い、自身の正体が露呈しない様に生活を続けていたファルサが、である。
「そうか、ファルサ殿もご家族を亡くされていたのか。……私は今まで魔導士とは自分勝手で出世にしか興味のない者たちの集まりだと決めつけていた。だが……ファルサ殿は違っていた。魔法使いでありながら自ら魔物相手に挑み、身勝手にも一人で飛び出した私を追いかけて救ってくれた。あれだけ失礼な態度を取っていた私を……な。だからこそもう一度言わせてほしい、本当に申し訳なかった、そして心から感謝する」
魔導士についてはファルサも同様の意見であり、人間というものは欲に目がくらんでばかりの随分とくだらない存在なのだと思っていた。
確かにまともな人間も存在するのだが、何かと面倒事の多い人間よりは、やはり魔族の方が気楽に過ごせると考えていたのだ。
しかし、今ファルサの腕の中で満面の笑みを浮かべている少女は、そんなファルサと同じ考えを持っている。
そして不思議と、人を惹きつける雰囲気を纏っていた。
「僕は感謝をされるような事をしたつもりはないよ。アウレリア王女殿下の勅命に従って、森の調査をしていただけさ。」
そう言いながらゼノビアから視線を外して、横を向くファルサだったが、その頬はほんのりと赤みを帯びていた。
「まさかファルサ殿……照れているのか? 貴殿がそのような姿を見せるとは意外だな」
「……あんまり余計な事を言うと、ここに置いて僕は先に帰るけど」
「す、すまん! 調子に乗って悪かった! だからそんな意地悪は言わないでくれ!」
あまりに必死な様子のゼノビアに、ファルサは思わず声を上げて笑い出してしまう。
少し前までは険しい表情を浮かべるだけの少女が、今ではファルサ腕の中で子供の様にはしゃいでいるのだから。
そしてそんなファルサにゼノビアも笑みを浮かべて、それから二人の間に笑顔が絶えることなく、森の中を進んでいくのであった。




