幻影と狂騒の旅路
陽が沈み、辺り一面が闇に覆われている中、小さな明かりを灯しながら街道を走る一台の小型馬車。
御者席には二つの人影があり、片方はランプを片手に膝の上で書類を確認している銀色の二本角が目立つ一人の少女。
もう片方は奇妙な仮面に黒のマントを身に着け、馬の手綱を握る怪しげな様相の人物。
その正体は魔王軍四天王幻影のミラージュと、副官のアスタルトである。
「ねえ、タルトちゃん、流石に移動中まで書類の確認をするのは止めにしないかな? 暗い中で字を読むと目が悪くなるって言うし、そもそもこの揺れだとサインをするにも一苦労だよ」
「お言葉ですがミラージュ様、ある程度は移動中に片づけてしまわないと結局は私が昼間に仕事をする事になるのですが。……随分と酷い提案をなさるのですね」
ミラージュの提案を一蹴するアスタルト。
二人は先程から、御者を交代しながら書類仕事を行っていた。
幻影城の執務室にあるアスタルトとミラージュの机には、現在魔力印が複数施されている。
ミラージュはそこから部下が置いていった書類を転移魔法で取り出し、そして対応が終わると再び机に戻す作業を繰り返していた。
執務室に控えている部下たちは、その書類を受け取り、そしてまた新たな物を机の上に乗せていく。
「確かにそう言われると何も言い返せないけどさ……まさか交渉に向かう移動時間まで書類仕事に追われるとは思ってもみなかったよ……はぁ」
「折角、ミラージュ様の転移魔法と言う都合の良い……いえ、利用価値のある……いえ、非常に便利な魔法があるのですから、有効活用するのは当然かと」
昨日の魔王からの勅命で、狼魔族の住む地域に向かっている最中なのだが、当然幻影軍のトップ二人が城を離れてしまうと、あまり宜しくない状況になってしまう。
勿論、数日程度であれば後から取り戻す事も出来なくはないが、それはミラージュが昼間も働ける事が前提になる。
それが出来ない以上、仕事に支障が起きない様にアスタルトが今回の方法を提案し、幻影軍の兵士たちへ周知を徹底していた。
基本的には書類のやり取りのみだが、問題が起きれば書類の中に手紙が添えられる手筈となっている。
連絡玉は万が一にも逸れた場合を想定し、ミラージュとタルトが対になるものを所持し、万全を期しているのだ。
「タルトちゃん、全く本音が隠せてないよ。まあ魔王軍でも便利な運び屋扱いだし、もう慣れたけどね。ところで気が付いているとは思うけど……」
「ええ、どうやら賊のようですね。唯でさえ遅刻魔のミラージュ様のせいで遅れが出ていると言うのに、面倒な事です」
魔族領の多くは魔王軍が治めているとはいえ、それでも街道に賊の類は出るし魔物も出現する。
この辺りの事情は人間も魔族も変わりはない。
そしてミラージュとアスタルトの両名は特に慌てる様子もなく、自然体で会話を続けていた。
勿論、アスタルトはミラージュに対していつもの様に毒を吐く事も忘れてはいないようだ。
夕方のユリアとのやり取りで、結局ミラージュが遅刻したのは言うまでもないだろう。
「どうする? 僕としてはタルトちゃんの方が対応に向いていると思うけど」
「……そうやって何でも私に押し付けないでください。まあ、時間がないので私が処理します」
そう話が決まるやいなや、暗がりから十名程の賊が飛び出してくる。
「おうおうテメーら、命が惜しければその馬車ごと……」
「イリュージョン・ド・フレユール」
「置いて……! が、ぎゃあああああああああ!」
「うわあああああ! やめろ! やめてくれ!」
「ひいいいい、たす、たすけ、たすけて……」
何名かの賊が馬車を止めようと正面から迎えうつが、アスタルトが両手を使って魔法を唱えると同時に、悲鳴を上げてその場でのた打ち回り始める。
馬車を横から襲おうとしていた者や、背後から迫ってきていた者たちも同様で、各々地に伏しているようだ。
「……ウインドストーム」
続いてミラージュが正面の賊を風魔法で吹き飛ばし、馬車は何事も無かったかのように速度を緩めずに進んでいく。
アスタルトは書類仕事を再開し、ミラージュは転移魔法を使い液体の入った試験管を二本取り出していた。
「はい、タルトちゃん、マナポ―ションだよ。これは僕の特製だから市販品よりは飲みやすいと思うよ」
そう言ってミラージュ特製マナポ―ションをアスタルトに一本手渡し、ミラージュ自身も試験管の蓋を外して中身を嚥下する。
アスタルトは訝しげに試験管を見つめていたが、ミラージュが飲み干すのを確認してから、意を決したようにその中身を呷り始めた。
「んく、んく、ぷは。……確かに、あの独特の苦みや喉に残るイガイガした感触が相当薄まっていますね。味付けもやや甘めになっています。それに魔力の回復速度も随分と高い気が……いつの間にこんなものを開発したのですか? これだけの品質なら、魔王軍でも量産するべきだと思いますが、何故公表されないのでしょうか?」
「僕もそうしたいのは山々なんだけどね、そもそもこれは材料からしてかなり希少で大量生産に不向きだし、配合や魔力の定着にも相当な技術が必要とされるからね。これまでは僕以外に作れないと思っていたけど……タルトちゃんにも後で教えてあげるよ。この間の幻覚魔法と、今回の複合魔法、両方とも魔力の制御が殆ど完璧だったからね。今のタルトちゃんなら問題ないと思うよ」
二つの魔法を同時に行使し新たな魔法を生み出す技術――複合魔法――は、当然ながらその習得には長い年月と類稀なる才能が必要となる。
異なる魔法を同時に操る事は魔法使いたちの人生の目標とも言われる程、高い技術を要する魔法技術の極致になる。
さらに複合魔法の難易度は組み合わせる二つの魔法の難易度で大きく変わり、アスタルトは得意の幻覚魔法と、悪魔族の固有魔法である洗脳魔法、この二つを組み合わせていた。
幻覚魔法と洗脳魔法、どちらも魔力を用いて相手の脳に働きかける魔法で、単体で使用する場合ですら制御が非常に難しい。
それを同時に、更に複数の離れた相手に対して素早く同時に行使していたアスタルト、彼女の実力は今や計り知れない領域へと高まっていた。
「先日も申し上げましたが、そうやって煽てられても移動中のお仕事は減らしませんからね。それにミラージュ様と比較した場合、まだまだ未熟としか言えません。魔力の消費も多いですし、効果範囲や対応できる最大人数など改善すべき点は山の様にあります」
「タルトちゃんは本当に真面目だね。それでも出会った頃に比べたら物凄く技術が向上しているよ。ますます狂騒のアスタルトの名が広まりそうだね」
狂騒――それはアスタルトの二つ名だ。
先程の賊の様に、洗脳魔法による恐怖対象の植え付けと増幅、そしてそれを幻覚魔法で実際に感じさせることで、アスタルトに魔法をかけられた者は悲痛な叫びを上げて大体は気絶してしまう。
手も触れずに相手が発狂してしまう様子から名づけられたのが狂騒、静けさを好むアスタルトとは正反対の名前がついてしまったのだ。
「私としてはその二つ名はあまり好きではないのですが……。それにミラージュ様のお隠しになられている実力に追いつくためには、もっともっと精進しないといけません」
相変わらずの無表情で淡々と答えるアスタルトだが、ミラージュはその言葉を聞いて思わず固まってしまう。
「あ、あはは、何をいっているのかな、タルトちゃんは。魔法の技術だけなら殆ど僕と変わらないか、もしくは抜かしていると思うけどね。そりゃあ魔力の多さにはそれなりに自信があるけどさ、大事なのは総合力と応用力だからね」
動揺して手綱を落としそうになるが、乾いた笑い声を出しながらミラージュはアスタルトへ反論する。
魔王軍で見せている表向きの実力を鑑みても、既に最近のアスタルトが見せる能力はそれを上回ってきており、四天王交代の日も近いと、ミラージュは思っていたのだ。
「私が……私が何年ミラージュ様の部下をしていると思っているのですか。確かに相当上手く隠しているようですが、ミラージュ様の実力が更なる高みにある事くらいは流石にわかりますよ。これでもずっとお側に仕えて見てきたのですから。勿論何らかの理由はあると思いますし、正直その力でもう少し積極的に仕事をして欲しいと思わなくはないのですが……まあその辺りは既に諦めています。ミラージュ様がいい加減で、ろくでなしで、ダメな上司の見本である事は十分痛感しておりますから。急に真面目になられても鳥肌が立ってしまいます」
そう言って、アスタルトはジト目でミラージュを見つめている。
ユリアと言いタルトちゃんと言い、どうして自分の周りには勘の鋭い、そして物わかりのいい女性が多いのだろうか、とミラージュは驚愕していた。
同時にとてもありがたい事でもあり、だからこそ余計に自身の答えが定まらなくなってしまう、とミラージュは痛感する。
魔族のミラージュと、人間のファルサ、彼女たちはその片方しか知らないが、もう一方の素顔を知った時に今の関係は間違いなく壊れてしまう。
どこかで必ず魔族か人間かを選ばなくてはいけないし、そして四天王でもあり勇者パーティの魔法使いでもある自分がその選択を迫られる時はそう遠くない、とミラージュは漠然な不安も覚えながら、今までのらりくらりとやってきたのだ。
「そうか……そうだよね。ありがとうタルトちゃん。僕は君のように優秀な部下がいてくれてとても幸せだよ」
どこかユリアの姿と重なって見えてしまったのか、ミラージュは自然な動作でアスタルトの角と同様に銀色に輝く柔らかな髪を撫で始める。
アスタルトは一瞬、肩を震わせていたが、いつもの様に無表情で書類仕事の続きを再開し、ミラージュは左手で髪を撫でながら右手で手綱を握り、ぼうっと暗がりを見つめながら物思いに耽っていた。
暗がりの中、ランプの明かりだけを頼りに馬車はひたすら進み続ける。
暫しの間、少し錆びついた車輪がゴトゴトと悲鳴を上げる音だけが、二人の周囲に鳴り響いていた。




