魔王の想い、配下の想い
「ああん! タルトたん待ってたでー! もう可愛いやっちゃな、すー、はー、すー、はー。タルトたんは、ええ匂いや。髪もさらさらやでー。あー、もう、この! この!」
いつもの様に侍女を退室させると、魔王はアスタルトにすぐさま飛びかかり、抱きしめた上に体中を撫で回している。
背丈がかなり小さいアスタルトは、魔王の胸に挟まれながら、なんとか引きはがそうとしているが、当の魔王本人はお構いなしに愛で続けている。
「あ、あの……まお……魔王様……その、おちつ……落ち着いてくだ……」
アスタルトは魔王の胸から顔を離す度に、すぐさま引き込まれて上手く声を出すことが出来ないようだ。
「ああ、もう最高や。タルトたん最高や。こんな色気のない軍服なんて脱ぎ捨てて、お姉さんとエエ事しようや? な? な? 大丈夫、優しくしたるで。タルトたんは天井のシミを数えているだけでええんやで。 ぜーんぶ、お姉さんに任せくれてええんやで?」
そう言ってぎらぎらと紅い瞳を光らせながら、魔王はベッドの方へとアスタルトを引っ張っていく。
普段は細く閉じられているように見える眼も、今ばかりは大きく見開かれているのが、余計に本気具合を伺わせている。
「あのー、魔王様。タルトちゃんも困っていますから、そろそろ本題に入りましょうよ。それとも、僕に用がないなら帰ってもいいですし。寧ろ帰りたいですし」
本音を漏らしながらも、流石のミラージュも見かねて声をかける。
「なんや、ミラージュたんも混ざりたいんか? ウチは構わないで、むしろ推奨や! 素顔のわからないミラージュたんと、可愛いタルトたんを同時に頂く、最高やでー。二人ともウチに生まれたままの姿を……げはぁ!」
魔王の胸に挟まれていたアスタルトが、その鳩尾に拳をねじり込むと、魔王からは女性が出してはいけない声が漏れ、そのまま崩れ落ちてく。
魔王の力が緩んだすきに、アスタルトは素早くその場を離れて、ミラージュを盾にするように背後に控え、息を整えているようだ。
「タルトたん……なかなか……エエ拳やないか……流石はアイツの娘やな……」
アイツとは、タルトちゃんの父親の事だろうと、ミラージュは当たりをつけた。
今でこそ魔王軍を引退しているものの、現役時代は恐ろしい程の力の持ち主だった、その過去を思い出しながら、ミラージュは思わず身震いしてしまう。
以前のミラージュは魔法一辺倒の戦い方だった為、それを見かねたアスタルトの父に、近接戦闘を何度も扱かれた経験があるのだ。
人柄としては大変尊敬できるのだが、少々の苦手意識をもってしまうのは仕方がない事だろう。
「はぁ、はぁ、ふう。魔王様、お戯れはよして下さい。本題をお願いします」
落ち着いた様子のアスタルトがそう促すと、魔王はよろよろと立ちあがりながら、懐から一枚の書状を取り出して、ミラージュに手渡した。
ミラージュはその書状に押された印を確認すると、大体の事情を察したように口を開く。
「なるほど、魔王リリスの名代としての仕事ですか。どこかの種族との交渉になるということですね。それも僕達二人という事は、それだけ危険な相手という訳ですか」
魔王リリス――それがこの変態女、いや魔王軍における最高権力者の名だ。
かつて魔族達は長期に渡り、種族間で不毛な争いを繰り広げていた。
魔族は種族差が大きく、見た目や性格も異なり、またその生き様も種族ごとに違っていた。
そのため、他種族との諍いは絶えず、混沌としていた魔族の住む土地であったが、そこに終止符を打ったのが、この魔王リリスである。
当時の有力な魔族と共に魔王軍の前身となる組織を立ち上げ、次々に各種族を対話と武力で併合、そして法の整備や種族間の対立の取り成しなど、その功績は枚挙に暇がない。
いつしか民衆からは魔族の王――魔王――と呼ばれるようになり、今でも畏怖され続けている。
まだまだ魔王に反抗する種族はいるものの、魔王軍統治下の街などは以前に比べて非常に平和になったと言える。
「せや、北東の地におる、狼魔族との交渉にあたって欲しいんや。丁度、ラファとミラージュたんの領土の間くらいやけど、交渉ならやっぱりミラージュたんやからな。それにタルトたんがおれば、相手が誰であろうと平気やろ?」
狼魔族――鋭い牙や爪、狼のような頭を持ち、その嗅覚は他の追随を許さぬほど高精度だ。
筋力もすさまじく、幾度となく魔王軍と衝突を繰り返して被害を齎している、肉弾戦特化の種族と言えるだろう。
魔族の特徴として共通しているのが紅い瞳なのだが、このように動物的特徴を持った種族も多く存在する。
先程の隊長さんであれば牛の特徴を持つ牛魔族であるし、他にも豚魔族や猫魔族、犬魔族など多種多様である。
「確かに、僕達二人なら問題ないと思いますけど、狼魔族が交渉に応じますか? どう考えても殺し合いになりますよ」
ミラージュとアスタルト、この二人を組み合わせた時の相性は、魔王軍の中でも随一を誇る。
相手がどんな達人であろうとも、アスタルトの幻覚魔法で僅かな隙を作ることが出来れば、当然、向こうから仕掛けずに、一時的に態勢を整える事を優先するだろう。
そのわずかな隙さえあればミラージュの転移魔法でその場から離脱出来る為、危険な相手や場所になるほど、二人が組まされることが多い。
そして今回の狼魔族はその危険な相手の中に入る、強くて好戦的な種族だ。
「それなんやけどな、なんや向こうから交渉に応じる言うて、使者をよこしてきたんや。ウチも怪しいとは思うとるんやけど、魔王軍としては形式通りに対応された以上、無視するわけにもいかんからな。対応するにも、四天王くらいの格やないと話にならんからな。……ミラージュたん、タルトたん、あんじょうよろしくたのむわ」
魔王リリスは両手を合わせて、ミラージュとアスタルトに頭を下げる。
本来であれば、魔王からの勅命としてトップダウンも可能なのだが、そこは彼女の人柄なのか、それとも危険な任務への罪悪感なのか、立場の差を思わせない態度を取っている。
いくらミラージュとアスタルトの相性が良くとも、不意を付かれてミラージュがやられる可能性だって当然ある。
それなりに鍛えている――正確には強制的に鍛えさせられた――ミラージュであっても、魔法が使えなくては厳しい状況になるのは間違いなく、ハーフである自身の身体能力は普通の魔族よりも低く、さらに相手は身体能力特化ときている。
突然背後から襲われてそのまま亡き者となる可能性も十分考えられるのだ。
勿論、そう簡単にはやられないだけの実力は有しているのでそこまで心配しなくとも大丈夫なのだが、世の中に絶対は存在しない。
魔王リリスも永きに渡り魔王軍を率いている為、親しき者の突発的で予想外な死を何度も……何度も経験しているのだ。
「魔王様、おやめください。王たるものが下の者に頭を下げるべきではありません。どんな命令であろうとも、この狂騒のアスタルト、身命に代えても達成致します」
アスタルトはひどく真面目な態度で宣言し、胸に手を当てて深く頭を下げる。
まさに軍人の鑑をそのまま体現したような所作と言えるだろう。
「同じく、幻影のミラージュ、御下命を賜らせて頂きます」
こちらも同様に、胸に手を当てて頭を下げており、普段の態度を思わせない程の完璧さだ。
仕事自体は嫌いであっても、平和な国を、平和な世を作るというリリスの信条だけは同意できる、とミラージュは考えていた。
なにより争いが嫌いで、平和に、静かに、落ち着いて暮らしたいのが彼の本心なのだから。
「タルトたん……ミラージュたん。……二人とも大好きやー、愛してるでー。もう二人ともまとめてお嫁にきたってええんやで。嫁入りやー、ウチが養ったるわー!」
魔王リリスは感極まったように、ミラージュとアスタルト二人纏めて抱きつき、自身の頭を擦りつける。
機嫌が良いときに揺れるふさふさの――自身の髪と同じ茶色い毛に覆われた――尾を左右に振り回しながら、力強く、何度も、何度も、その感触を確かめるように。
この姿を見た者は、これが魔族の統一を行う魔王リリスだとは誰も思わないだろう。
それほど愛らしく、親しみやすい一人の女性にしか見えないのだから。
「魔王様、僕は男なのでお嫁は無理ですよ」
「私も養ってもらうのはちょっと……それに魔王様は同性ですし」
少し呆れたような、それでも嬉しそうな声を上げ、二人は暫しの間、魔王リリスに抱きつかれ続けるのだった。
未だに争いの絶えない魔族達の住む、通称、魔族領。
しかし、この瞬間、この場所だけは、確かに平和な時が流れていた。




