一章 『上司と部下』
彼女は特別有能な訳ではなかった。
それは彼女自身、特別無能という訳ではなく、仕事に対して余りにも無関心を貫いていたからに他ならない。
仕事に遣り甲斐を感じてもいなければ、誇りも持っていない。
ただただ言われた事を機械的に淡々とこなしていく毎日。
別段嫌いだとか、すぐさま辞めてしまいたい仕事な訳でもない。
ただ、如何でもよかった。
それでも何故ここで働くのかと聞かれれば、給料が良く、社会的信頼を得やすく、退職金や年金等の福利厚生が行き届いているからと、しっかり答えるに違いない。
彼女が仕事に対して『如何でもいい』と嘯きながら普通に働けているのは、そういった事情も有るにはあった。
だからこそ有能では無く、下っ端も下っ端で、簡単な仕事を淡々とこなす毎日を過ごしていた。
出世欲が無く承認欲求も無い彼女。
文句も言わず、雑用や自身がしなくていい仕事も引き受ける日々。
その姿は意外にも、周囲からは真面目と捉えられていたのだろうか。
異例過ぎる補佐官への抜擢に彼女の同僚達は、やっと正当な評価が得られたのだと称えて送り出した。
彼女自身の反応はやはり如何でもよかったらしく、突き付けられた人事に理由も聞かず、言われるがままに従った。
ただ人並みに、昇進するのだから夕飯は贅沢なものにしようと。普段なら買わない高めの牛肉で、幼い息子の為に大好きなハンバーグでも作ってあげようと。人並みの微笑を浮かべ、そんな事を考えるのだった。
「やばい」
書類と電子機器が雑多に積み重なる小ぢんまりとした薄暗い部屋。その部屋で独り、箱形の古いPCを覗き込み硬直する女性がいた。
その女性の顔はぼんやりと液晶画面に照らされ青白く発光しているかのように見えるが、事実、彼女の顔面は血の気が引き青くなっていた。
手に持ったタンブラーは小刻みに震え、驚きの余り吹き出してしまったコーヒーは湾曲したPC 画面と黄ばんだ白いキーボードをずぶ濡れにしていた。
口元から流れる苦い液体もそのままに、カフェインを直に摂取してしまった所為で砂嵐が流れフリーズした画像を見詰めていた女性はスマホに慌てて手を伸ばす。
だが、余りの慌て様にスマホの方も驚いたのか、彼女の手から離れ錐揉み三回転シライスリーをキメて見せる。絨毯も敷かれていない汚らしく寒々とした硬い床へ華麗に着地した。
「ああっ?!」
奇跡的な着地に減点は無くとも選手には重大な故障が発生。彼女のスマホは現役引退を余儀なくさせられた。
慌てて拾い上げ、懸命に指で摩るも画面は動かない。
「あ~~~っ? う~~~っ!」
声にもならないもどかしさを全身でわたわたと表す女性は辺りを見渡す。探すのは支給された日から手付かずのスマホ。
間違い無く監視用のスマホだと決め付け、極力使用を避けて来たのが仇となった。机の上から下にまで積み重なる始末書や嘆願書に調査報告書と新聞雑誌小説漫画。更にその上へと不安定に積み上がるリモコン、ラジカセに黒電話とDVD VHS MD FD CD。
どれかを退かし、何かを動かしても決壊は免れない状況だった。
「もうっ! スマホがあればスグ着信鳴らして場所特定するのに!!」
一つ一つ目の前の物から床に置き始める女性。半ば放り捨てる形で、どさどさと乱暴に書類を新たに別の個所へと重ねていく。
「早く早く~~~っ」
形振り構わぬといった女性。だがここに来て彼女は普段から机の上にある見慣れた物の存在にやっと気が付く。
「あっ?! 電話!!」
隣の机に置かれた古びたダイヤル式の、ずんぐりとした黒い物体に女性は飛び付く。
受話器を取り上げ口の方から待機音が聞こえて来るのも構わず、彼女は円盤型のダイヤルに人差し指を掛ける。
そして。
「……ば、番号?」
コートを掴み、雪崩を起こし始めた部屋から彼女は飛び出す。
出入り口から溢れ出す書類を背に、ホルスターが一緒に付いたコートを羽織って女性捜査官は廊下を颯爽と行く。
部屋の惨状を誰かに上へ報告される可能性と、更に増えるであろう始末書の束を覚悟して。
「一蓮托生っすよ、せんぱ~~~いっ!!」
警報音が響き渡る。
それは一分にも満たない十数秒で終わる極々短いものだったが、鳴り止んだ瞬間には誰もが口を噤み、動きを止め、音が発せられたスピーカーの方に顔を向けていた。
一瞬の沈黙が空間を支配した。
しかし、その沈黙は一斉に鳴りだした電話という電話の呼び出し音で瞬く間の内に無かった事にされる。怒号が飛び交い、大勢の人々が足早に廊下を渡り、エレベーターに乗り込み、階段を駆け降りて行く。
緊張と焦りと一種の興奮状態に陥る彼、彼女等は統率の有る慣れた動きで自身の職務を全うする為に活動を開始したのだ。
「流石、随分と慣れている」
「市中発砲の事件は月に一度の割合ですから」
その光景を感慨も無く見詰めぼそりと冷たく零す年老いた男と、冷静に現状の事態について、男に説明する若い女がいた。
大勢の捜査官達が駆け足で行き交う廊下を慌てもせずに、ゆっくりと真ん中かを歩く男。捜査官達はその男を邪魔に思いつつも文句は言わずに、会釈と敬礼とを交え脇を通り過ぎて行く。
「邪魔になります。端を歩いて下さい」
男の隣を付かず離れずの距離で歩く女が周りの職員が思っていても言えない事をあっさりと口にした。
「問題無いさ。誰にもぶつかっていない」
そのふざけた返事は、常時ならば小粋なジョークとして僅かながらの笑い、もしくは愛想笑いや失笑をもらっただろう。たが人を食ったような男の態度に女は不快感を露わにする。脚が短く歩幅の小さい男を一度素早く追い抜いた女はあえて、自分の顔が確り見える様に、進行方向へと先回りし侮蔑を込めて忌々しく睨み付けた。
あからさま過ぎる態度。
しかし男は意に介さない。
「ここの職員達の様に少しは敬意をもって接したまえよ、君」
少々低めの背丈にでっぷりと肥え膨らんだ腹を摩る男は貫禄より滑稽さの方が滲みでていた。それは顔だけが好々爺然とした皺だらけの微笑だからか、禿げ上がった頭頂部の所為か。
歩いただけで息が上がっている男は白い顔を赤らめ、ハンカチで二重顎に溜まる汗を拭う。スーツは湿り、湯気が立ち昇りそうな程だ。
ふうふうと、浅く繰り返される呼吸音に更なる苛立ちを募らせる女は改めて隣の男に苦言を呈す。
「如何でもいいから、さっさと端を歩きやがれ糞爺」
「……敬意以前に社会性をもちたまえ」
年老い太った男、ハンス・ヴァイゲルは結局端を歩く事無くひいひいと呻きながら廊下の真ん中を歩いていた。
それを若い女、ジュリア・アモンディは手を貸す事も無く見詰めている。壁に取り付けられている手摺を使えば良いのにと思いつつ、特に教えてやる気もない彼女はその滑稽極まる姿を鼻で笑う。
「無様だな糞爺」
「もう少し…はあはあ、取り繕っても…ふうふう、いいとは思わないのかい?」
「糞局長殿。児童集団誘拐事件捜査本部はもう少し先です。這い蹲ってでも一人で歩きやがれ」
態度を改めないアモンディは一人で先に進むと壁に背中を預け、ぱんぱんと軽快に手を叩いて見せる。
「足を止めないで下さい。調子良く動かしましょう。Eins Zwei Drei 、アインツ ツヴァイ ドライ、1 2 3」
「本当にっ…ぐほぐほっ!、止めなさい…」
彼方此方からくすくすと聞こえて来る笑い声を睨み付けて止める気力も無いヴァイゲル。せめてアモンディの手拍子だけでも止めさせなければと必死に足を引き摺る。
「そうだ、げほげほ…あの連中は、ごほっ!!……どうなった」
「どの連中の事ですか?」
質問を投げ掛け自分は立ち止まり休憩を取りつつ、アモンディの気を逸らさせて手拍子を止めようとするヴァイゲルだが、そんな小細工が通用する筈もなく。
「お喋りは歩きながらでも出来ますよ。ほら、1 2 3 1 2 3」
「分かった! ぜはっぜはっ、歩く! ぜいっぜいっ……端を歩く!!」
廊下の端、駆け足で脇を通り過ぎようとしていた職員を捕まえ態々椅子を一脚用意して貰ったヴァイゲルはお礼も言わずにどっかりと腰を下ろす。社会人としてその有るまじき横柄な態度にアモンディは更に顔の皺を深くし忌々しげに吐き捨てる。
「死ね」
「うん。何時かは言うと思ってたよ」
ヴァイゲル同様、アモンディの何所か一般的な社会人とは言い難い言動に椅子を運んで来た職員は気にしてはいないと苦笑いをこぼす。
「相変わらずっすねジュリアは。でも、お年寄りは労わらなきゃ駄目っすよ」
「見たまえよ君。これが本来あるべき ―――「お爺ちゃんも、我侭ばかり言ってちゃ駄目っすよ?」――― お爺ちゃん?」
「ご家族の方が迎えに来るまでお巡りさんの言う事はちゃんと聞くっす。でないと逮捕されちゃうっすよ」
冗談を交えつつ笑顔でヴァイゲルを窘める女性職員はまるで保護された徘徊老人に優しく接する介護福祉士の様だった。
ワザとらしく笑いを堪えて見下すアモンディの視線に気付きヴァイゲルは漸く理解する。この女性職員は自身の勤め先で働く上司の顔を全く知らないのだと。
ヴァイゲル自身この女性職員の名前も知らなければ顔も初めて合わす訳だが、そんな事などこの男には関係無かった。
今度の内偵審査で数年間昇給を取り消してやろうと女性職員の顔を確りと覚える。そんな、色々な意味で小さい上司の実態を知るアモンディは同期の友人にこれ以上の不興を買わせる事もないと話に割り込む。
「出動でしょ? ボケ老人の保護は内勤の私がやっとくから」
「そうっすよ! 急いで先輩と合流しなきゃ!?」
再び慌てて廊下を走り始めた女性職員はエレベーターを待つ時間も惜しいとばかり階段へ、ほぼ飛び降りる形で踊り場から踊り場へと音を立てて着地していく。時折階下から響く驚きの悲鳴に耳を傾けつつ、ヴァイゲルは先程の話を切り出した。
「誘拐事件担当の捜査官達は有能だろうな」
「間違い無く、有能ですよ」
真面目にいけしゃあしゃあと言い放つアモンディの顔には巫山戯た雰囲気は見られない。友人が下りて行った階段を見詰め、そう断言する彼女は確信を持って答える。
「解決も間近でしょうね」
「ならいい。今迄の件に加え今朝送られてきた案件も、大事にされては面倒だからな」
「はい」
「期待している」
形だけの言葉にアモンディは頷く。
つい先程まで感じていた慌ただしさは消え、広く長い廊下には二人以外の人影はない。
誰にも聞かれる事なく短い会話は終わった。
がたりと、音を立ててパイプ椅子から腰を浮かせたヴァイゲルは再びえっちらおっちらと歩き出す。向かう先は廊下の突き当たりのエレベーター。捜査本部に向かわないのかとは訪ねないアモンディ。クッションの湿ったパイプ椅子もそのままに、彼女も後に続く。
(…………どうでもいい)
ヴァイゲルの気が変わったのか、この騒動で他と同様に出払っていると筈だと結論付けたのか、単に疲れて向かうのが億劫になったのか、アモンディは知らない。
知らないし、知ろうともしない。
何事にも関心を示さず、常に一歩引き眺めるだけの彼女はよく理解している。
この男はその無関心さを買ったのだと。
踏み込まず、傍観を決め込む言い成りの右腕を求めていたのだと。
扉の前でボタンも押さずに立ち尽くすヴァイゲルの横、二台ある内のもう一台、その扉のボタンをアモンディは押す。エレベーターが来るまでの僅かな時間、資料解析が主な仕事である友人が何故あんなにも慌てていたのかと疑問を持つも、やはりエレベーターの到着音が響く頃には如何でもいいと考えるのを止めてしまう。
(考えるのは、私の仕事じゃない)
自身の姿を映す、銀色の扉がゆっくりと開き始める。
ヴァイゲルが太鼓腹をゆさゆさと動かし、アモンディが立つ隣の扉へ向かって一歩を踏み出す。その瞬間、開き切らない扉へさっと細身の体を滑り込ませた彼女は慌てる事なく『閉まる』のボタンを押した。
「待っ ―――」
ヴァイゲルが短い腕を伸ばすも届かない。
扉は開き切る事なく閉じられ、エレベーターは一階を目指す。
(プレゼントはもう買ったから、後はシュトレン……ビュッシュ・ド・ノエルもついでに買おうかしら)
迫るクリスマスを息子と如何過ごすか、頬を緩ませ想像する子煩悩なアモンディは一階に下り立った瞬間、エレベーターの非常停止ボタンを何も考えずに押してみる。
つい数分前に聞いた警報音が連邦刑事局内で再び響き渡った。
なんの意味も持たない行動。
一階で彼女の行動を目撃したエレベーター待ちしていた職員は驚き凝視するも、当の本人はどこ吹く風だった。
一連の行動が監視カメラに撮られ後日追及される事は確実であるにも関わらず、アモンディは普段通りに颯爽と職場を後にする。
この支離滅裂な行動にもアモンディは理由や原因を、結果や影響を求めない。
漠然と、これもヴァイゲルが如何にかするのだろうという確信のみがある。
それは信頼とは呼べない歪な何か。
今回だけに限らず、何が有っても自身を決して手放そうとしない男。そんな男に対しても彼女は特別な感情を抱かなかった。
時たま癇に障りはすれどもその程度。
自身の息子だけを思う彼女は歩き続ける。
頭の中をクリスマス一色にして。
(サンタ服のお揃いもいいわね)
「大丈夫でしたか」
「大丈夫に決まっているだろう。……むしろ君達の方が大丈夫かね?」
片脚をギプスで固定し松葉杖を突く黒服の男からタオルを手渡され、流れ出る汗を拭うヴァイゲルはバールと斧と裁断機で強引に抉じ開けられ無残にも六分割にされたエレベーターの扉を忌々しげに踏み付けた。
「それより何だいこの騒ぎは」
中途半端な位置で止まったエレベーターの狭い口に腹を引っ掻け、三十分もかけて何とか一階に降り立ったヴァイゲルはうんざりと辺りを見渡す。エントランスホールの先、ガラス張りの出入り口の外には何台もの救急車と消防車が停車され鮨詰めになっていた。
ホール内では普段見慣れない程の人だかりが出来ており、包帯とギプスだらけの黒服達、制服職員と救急隊員に消防隊員と、災害現場さながらの救助活動だった事を窺わせる。
これで救助されたのが小さな子供や赤ん坊ならば美談にでもなりそうなのだが、出て来たのは丸々太った脂塗れの年寄りが一匹である。苛々と悪態を吐き感謝の言葉も無いヴァイゲルの態度にエレベーターを取り囲み見守っていた救助隊員達の表情は酷くがっかりとしたものだった。
「誰かが警報ベルに驚いて通報したのかもしれませんね」
「エレベーターの業者を呼べば直ぐに済むものの、赤っ恥もいい所だ。さっさと撤収させたまえ」
「調書等の手続きがありますから、直ぐには……」
話している間にも飛び込んで来る車の数は増え続け、マイクやカメラを片手に出入り口へ押し掛けるマスコミの群れが出来あがっていた。入ろうとする者達と出ようとする者達がぶつかり、その間に挟まり四苦八苦する職員と、奇妙な膠着状態が生まれている。救急車と消防車も後続で入って来た報道車両に道を塞がれてしまい、出るに出られず諦め混じりのクラクションが鳴っていた。
「これは……やられましたね」
「…何の話だ」
「ただの通報でこれだけのマスコミなんて来やしませんし、なにより上です」
「上?」
リーダー格らしき黒服の呟きにヴァイゲルが顔を上げた瞬間、吹き抜けになっているホール内の二階と三階の窓に人影が映り込んだ。
「なあっ!?」
「貴方も敵が多い」
松葉杖を手放し、床へ腹這いになる黒服は両手を頭の上へ。周りに居た黒服達も倣うように同じ体勢へ。もしくは頭部や胸部を照らす沢山の紅いレーザーポインターから逃れる様に。
「相手の狙いは解りませんが早急にシャシッチと連絡を、確りと手綱を握っといて下さい。自由に動かせる手駒は多いに越したことはありません」
冷汗を流す黒服の忠告はヴァイゲルの耳に届く事なく、大音響の館内放送で掻き消された。
『我々はテロリストに対し一切の交渉を行わない! 今から三十秒後、一斉突入を開始する! 巻き込まれたくない者は床で腹這いになり両手を頭の上に乗せろ!!』
恐らく外部から連邦刑事局内が占拠されたという誤報が流れたのどろう。窓という窓を埋め尽くす、黒服達よりも黒い、全身を真っ黒な防具と武器で身を包んだ特殊部隊のカウントダウンが始まった。