一章 『変態と少女』 その2
二万字もなかったかな?
試着室内の騒動はホフマンが素直に拘束される事で終結した。
尤も、股間節不動の状態で拳銃を突き付けられての事である。ホフマンには逆らい様も無かった。
ほぼ全裸のベルが何所からか取り出した手錠と結束バンドで、うつ伏せになるホフマンを膝で抑え付けた状態で手首と足首を手際良く締め上げていく。
ホフマンがご丁寧に猿轡までも噛まされ拳銃も奪われる間、従業員達の何人かは少女アンジェラの視界を手で塞ぎつつ、残りの従業員と共にフィガロと呼ばれた中年女性も連れさっさと試着室から出て行った。
途中、優しく気遣うように聞きなれない外国語で声を掛けて行く女性達と軽く言葉を交わすベル。言うまでも無く、彼女達の中に変質者へ声をかける者などは居なかった。
(クソッ! このままじゃクリスマスを拘留所で過ごす破目に……)
自身の不運に悪態を吐くホフマンだったが頭の方は案外冷静で、この地区の同僚達がパトカーで迎えに来る前に何とか後輩へ連絡し、状況の改善に努めようとしようと思案する。もしこの状態で警官達が乗り込んで来ようものならば、釈明も無しに担ぎ上げられそのまま署へ連行、覗き魔の刑事が出来挙がってしまうのだ。
ブティックから通報があったとしても、本部に居る後輩へ事前に説明ができていればホフマンの冤罪も晴れる可能性も出て来るというもの。
先程とは違い、勢いで射殺される可能性が無くとも社会的に抹殺される可能性は高いままのホフマンは何とか猿轡を外してもらい会話にまで持ち込めないかと奮闘する。
「ばふっ! はヴぅ~~!!」
豚箱直行の可能性を覚悟しつつ、当初の目的であった不審者の追跡を中途半端にする気も無いホフマンは気合いを入れ身をよじる。
仕事をないがしろにしない刑事の意地というよりも、人として最低限の尊厳を守りたいがための悪あがきだった。
布地の切れ端を捻じって作った猿轡で喋れずとも、何とか意思を伝えようと取り敢えず唸り声を上げ腹這いになった体をびたんびたんと波打たせる。
そんな無様を通り越し滑稽極まる男をベルは困惑の瞳で見下ろす。眉を寄せ下唇を軽く噛むその顔は青ざめ、意図せず何か汚らわしい物でも見たか触れてしまったかの様に後退り、ふっ、と視線を外した。
「ふぅがっ!?」
拳銃を突き付けていた時とはまるで様子の違う挙動と、げんなりとした雰囲気のベルを見てホフマンは気が付く。
(ちっ、違う! 俺はっ!)
待ってくれ止してくれと懇願し否定の念を込め首を横に振るも、逸れた黒い瞳が振り返ることはなかった。
(俺は縛られて悦ぶような変態じゃない!!)
無情にも、無理な体勢で全身を動かした結果、顔を赤め鼻息も荒く、はぁはぁと短く呼吸を繰り返す男に弁解の機会は与えられなかった。
着実に変態としての階段を駆け上がるホフマンを居ないのもとして扱おうと、ベルは青い表情のまま背を向け、胸を隠していた右腕も動かしブラジャーの装着を始めたのだった。
「むぐうぅ」
ホフマンは悟った。先程から両手に派手な刺繍の入ったストッキングとタイツを姿見の前で掲げ、下着姿で見比べる様子に辟易しながら。
(……絶対長くなる)
ベルが黒い二―ソックスを穿いて五分後の出来事だった。
柔らかな真紅の絨毯の上をごろりと転がり、仰向けになれば白い天井板が見える室内で、拘束され何も出来ない状況のホフマンはかれこれ一時間も経たない間の出来事を振り返る。
学ランを着た東洋人二人組を追い、その内の一人が踏み込んだブティックで似ても似つかない美人に打ちのめされるなど一体誰が想像できようか。
股間の痛みも漸く引き、落ち着きを取り戻し改めて冷静な頭で考えるのは、何故走り去った方を追いかけなかったのかという後悔。
目を閉じたホフマンはゆっくりと鼻から空気を吸い込む。落ち着こうとしての行為だったが胸一杯に広がる心地よい甘さに軽く咳き込んでしまう。
再度、香りの出所を意識しない様にゆっくりと深呼吸を行い、下らない後悔を塞がった口から吐き出した。
目を開け、刑事は改めて首をベルの方へ向ける。視線の先にあるのは例え男体と判っても女体と見間違う程に女性らしいベルの肢体。後ろから眺める立ち姿や仕草は女性そのもので、その肉体美の秘密を知ってなお、女性的な色香を感じずにはいられなかった。
だからこそホフマンは付ける必要性の有無を考えさせられる下着の存在を取り敢えず無視する。『男なのに女物の下着を着用している方が変態なのでは?』、という下らない疑問は必要ないのだ。それらはベル個人の自由であり、他人があれこれ口にすべき事柄ではないとホフマンは理解していた。
だからこそホフマンは、彼ないし彼女の裸体を故意では無くとも覗き見、尊厳を著しく傷つけた事実を素直に認めなければならなかった。
そう、本来自身が負うべき後悔はその一点のみであると。
拘束までの間、ベルが発した言葉の意味は解らずとも、怒りや不安、恐怖や悲しみは確かに感じる事が出来たのだ。
恐らくはホフマンの職業柄、多種多様な人々と関わり、向けられる事の多い感情であるが故に。
(正式に謝罪をしなければ)
刑事という仕事に誇りを持っているからこそ、素直に自身の罪を、過失を認めなければならない。相手のみならず、自身の名誉をも傷つけまいとホフマンは硬く誓う。
(……それはそれとして、だ)
己の過ちを受け入れ、償うべき相手が生まれた刑事として一皮むけた男は、それでも冷たく青い瞳でベルを射抜く。
ホフマンが見詰める先。
それは真っ白な雪原を想わせる肌に覆われた細い背中。脊髄の上、垂直に走る細長い割れ目を伝い、薄っすらと浮き出る引き締まった背筋。
女性の体ではないと知っても尚、惚れ惚れとする造形美は目を奪わせる。そんな、異様に美しい後ろ姿に影を落とす箇所が一つ。
肩甲骨から少し下がったその場所に青黒く変色した痣があったのだ。
「がぅあーふぅーう゛ぁーぶー」
ホフマンは動きの制限された口内を懸命に動かし音を発した。
音を出すのに大きく息を吐けば唾液が溢れ、思うように呑み込めず猿轡が湿り気を帯びる。奥歯に力を入れれば布地に一度染み込んだ唾液が絞り出され口内が満たされた。
咽返り、涙目になり、もんどり打つ。
溢れた唾液が流れ口の周りを濡らしていく。
溺れそうな息苦しさと首回りを濡らす不快感に顔を歪ませるも、ホフマンは音を発するのを止めなかった。
「ぐばぁーぎゅ~~~」
漏れ出し、幾度無く繰り返される呻き声。
言葉として意味を持たないそれは、呆れたとばかりに大きく吐かれた溜め息で漸く塞き止められる。
「いい加減にしてちょうだい」
苛立たしげに呟かれたドイツ語はとても流暢で聴き取り易く、ホフマンの耳にすんなりと入って来くるものだった。しかし、その事についてホフマンは特に驚きも無く、東訛りがあるなという感想だけに留まる。
両手では数え切れないほどの多人種と多言語が混じり合う地、ヨーロッパならではの所為か。それともホフマン自身、三ヶ国語を操れる所為か。
「ふぁっふぁばぁふぉごぅお~ぼびうぁーーー」
「一応、話は聴いてあげるから黙って」
その一言でホフマンは素直に黙り目を細める。
惨めな姿を晒し同情を誘う作戦が成功したのだ。
(粘り勝ちだぜっ!?)
精神的には大敗もいいところだが敢えて気にはしない。勝負はここからなのだと意気込むホフマンにベルはジャケットを羽織りつつ向き直る。
膝丈の紺色で染めたタイトスカートに、デコルテを大きく晒したノーカラーの白いブラウス。ジャケットもスカートと同じ紺色で、少し丈の長いダブルスーツだ。六つの大きな金メッキのボタンが照明の光を受けキラキラと輝いている。
派手な刺繍の入ったストッキングと白いヒールスニーカーを履き、柔らかな絨毯の上を颯爽と歩く姿は正しくモデルそのもの。
街中ですれ違ったとしても男と気が付くどころか、見惚れて立ち止まるレベルだ。
「じっとしてなさい」
ベルはホフマンの傍に立ち、爪先で脇腹を押し上げうつ伏せにさせると、無遠慮に背中を右足で踏み抜き、そのまま腰を曲げ猿轡を外しにかかる。
姿見でその様子を、自身の情けない姿を改めて眺めるホフマンは他人事の様に思う。
(こんなプレイ、嫁さんとしたこともねぇよ)
警察官バッチ、身分証明証、手帳、万年筆、ハンドタオル、スマホ2台、イヤホンマイク、充電器、ボイスレコーダー、結婚指輪、財布、眼鏡、ジッポライター、十徳ナイフ、腕時計、キーホルダーと鍵五本、手錠、拳銃、ホルスター、ピルケースに錠剤六つ。
ローテーブルの上、几帳面に等間隔で並べられていく自身の私物をぼんやりと眺める拘束された男、ルイス・ホフマン。
その瞳に覇気は無く、何所か胡乱気であった。
「日時はレコーダーの記録通り。場所はブティックフィガロの二階ラウンジにて。それでは事情聴取を行います」
「ちょっと待て」
「貴方には黙秘権が有り、供述には法廷で不利な証拠として用いられる事が ―――」
「本当に待ってくれっ?!」
「弁護士を呼ぶ?」
「そうじゃない!」
「権利の告知は必須なのだけれど……」
ラウンジの隅に置かれた四角いローテーブルを挟み椅子に座るベルとホフマン。
猿轡を外された後、足首の結束バンドも切ってもらえたホフマンは会話をする事も無く再び拳銃を突き付けられラウンジの椅子へと移動させられた。
これで漸く話し合いかと思えば、椅子の脚に再び結束バンドで足首を固定され両腕も背凭れの後ろへ回され同じように拘束。更には全身を隈無く弄られ所持品を全てテーブルの上に並べられたのだ。
この時点でホフマンは何となく察してはいた。
自身が持つ物とは違う機種のボイスレコーダーをベルがジャケットのポケットに仕舞う。日本のメーカー品だった。
椅子に浅く腰かけ長い脚を見せびらかす様にゆっくりと組むベルに周囲からは『おぉー』と感嘆の声が上がる。
興味津々で眺める女性従業員達にアンジェラ。そして店名と同じ名前で呼ばれた、恐らく店長かオーナーであろうフィガロ。
全員が知っていたであろう事実。
先程ベルを見て感じた、モデルの様だという感想は消えていた。
まるでドラマのワンシーンであり、堂に入ったその仕草は紛れも無く役者以上に本物だった。
「……尋問するにしても、先ず記録するのは担当官の所属と名前だろうが」
拳銃や手錠を所持し、手慣れた動作で成人男性を拘束し、数ヶ国語を操る人間がただのモデルの筈もなかった。
試着室へ突入する前に行ったアンジェラとの学ランの遣り取りに背中の痣。女性しかいない店内で唯一の男体。
ホフマンは確信していた。ベルこそが学ランを着ていた男性であり、自分が尾行していた相手だと。
背中の痣も一緒に居た一人が蹴飛ばした時のだろうとあたりをつけている。理由は定かではないが石畳の上を勢い良く転がる様をホフマンは確かに目撃しているのだ。痣ができる位の勢いは確かにあったと。
芋虫から蝶への変態どころか蛾から蝶へ、気が付けというのも無茶なレベルの変身である。
変装という技能までもが付加されたベルに、その正体を想像するだけで途轍もなく面倒な人物に関わってしまったと、再び余計な後悔を増やすホフマン。
それでも精一杯、ベテランの刑事らしさを出そうと顎を引き凄みを効かせる。対するベルの視線は冷ややかなままだったが。
軽く頷いたベルはジャケットから緑色と黒色の手帳を取り出す。
『JAPAN』の文字と共に『OFFICIAL PASSPORT』と明記された緑色の手帳と、どこの国でも見られそうな形の、『POLICE』と銘打たれた金色のバッチが付いた黒色の手帳だった。
「日本国行政機関、外務省及び厚生労働省直下特別職員、青少年犯罪の取り締まりと警護を主な目的とした犯罪特別司法少年警察官、鈴木菊次郎」
ベルは目を細め口角をゆっくりと上げるも、ホフマンはそれが笑顔とは気が付かず唾を呑みこむ。
「よろしく、自称刑事さん」
「少年…警察?」
「少年犯罪の取り締まりと警護が主の、ね」
モデル顔負けの美人ベル、改め、鈴木菊次郎と名乗った少年に対峙する刑事、ルイス・ホフマンはすぐさま反論する。
「成人だろ」
「未成年よ」
大人びているだとか老け顔だとか。確かにそういった子供はよく目にはする。しかし、例え見た目だけが大人だとしても抜けきらない幼さや仕草、考え方や態度は上手く隠そうとしても隠しきれるものでは無い。
刑事であるホフマンはその事を良く理解しているし、見破れるだけの技量もあった。
だからこそ疑う。
「三十二」
「十六よ」
「分かった。二十八だな」
「十六って言ってるでしょ」
「二十五。これ以上鯖を読むと逆に痛々しいぞ」
「十六だって言ってんでしょっ!」
身動きの取れない刑事の顔面に緑色のパスポートが勢い良く投げ付けられる。
姓、SUZUKI 。
名、KIKUJIROU 。
国籍、JAPAN 。
性別、女性(F)。
生年月日から現在の年齢、十六歳。
「……偽装パスポート」
「もういいわよ」
まじまじと穴が開くほど、テーブルに置かれ開かれたパスポートを凝視するホフマン。
年齢もさる事ながら、性別の項目も顔を近づけたり離したりと、FからMに変わらないかを確かめていた中年刑事は諦め遠慮がちに訊ねてみる。
「あー……本物、か?」
何がとまでは言わなかったが、遠慮のないその視線に鈴木は口元を歪め忌々しげに吐き捨てる。
「………残念ながら」
「成程。君は性同一性障害、所謂 MT「違うわよ」――― は?」
ホフマンの答えを遮る言葉の意味は上手く伝わらなかった。
「肉体だけ、男なの」
「……それをMTFと言うんじゃ?」
軽く溜息を吐き、『全然違うわよ』と首を振る様はうんざりとしたもので、似た質問に何度も答え続けて来たのだろう、対応に面倒臭さと雑さが滲み出ていた。
「そもそも、私、性同一性障害でもないのよ」
疑問に満ちた視線でホフマンは続きを促す。
「染色体はXX で生物学的に見ても私は間違いなく産まれつき女。けれど何故か肉体だけが男なの」
『たったそれだけのことよ』と子供に言い含める様に呟き、腕を伸ばして嫌そうに顔を逸らすホフマンの鼻を気にする事無く、白く細長い指で軽く弾いてみせる。
「理解できたかしら?」
子供みたいな嫌がらせに笑う鈴木の顔は、やはり大人で、女性そのものだった。
「刑事さん、状況に付いて行けないからって拗ねないでちょうだい。尋問し難いでしょ」
呆れたように呟く鈴木はご丁寧に白いゴム手袋まで嵌め、そっぽを向くホフマンの警察手帳を検分していた。
「俺をどうするつもりだ」
「心配しなくても後で解放してあげるわよ」
何とも有り難い言葉だったが、そのまま鵜呑みに出来る程ホフマンも楽天的な思考をしてはいない。
「何が望みだ」
刑事としての顔を漸く出し始めたホフマンに鈴木の手は止まる。
手帳をテーブルの上へ置き、身を乗り出して顔を近付ける鈴木は薄く微笑む。見れば見る程、美貌の虜に成りかねない相手にホフマンはたじろぐ事無く切り込む。
「最初に拘束した段階で俺が刑事だと気が付いていた筈だ」
語るホフマンに、鈴木は否定も肯定もしない。
じっと、瞳を見詰め、続きを催促してくる。
「そこで通報は止め、俺との会話の場を設けた」
ホフマンは覚えている。
更衣室から先に出て行く女性達へ、鈴木が何やら言葉を交わしていた事を。
外国語で内容は解らずともこれだけの時間が経ち、サイレンの音も聞こえない現状に通報されているとは考えにくいと。
「態々身分を呈示し、雑談にまで応じる」
自身が外国人で特殊な立場に在る事を話し個人的な、性的な、一歩間違わなくともセクハラ確定の質問に答える。
他人から知り合いへ。
知り合いから徒ならぬ仲へ。
雑ではあるが着実に段階を踏まえ、細部を晒け出し、記憶に留めさせようとする。
それは何故か。
「俺を性犯罪者として、起訴する可能性をチラつかせて脅し」
この後に訪れる展開を予想し、ホフマンは奥歯を噛み締める。
屈辱に耐え、声を上げまいと我慢する。
無暗に暴れようものならば、それこそ相手の思う壺であると解っているから。
「それを見逃す換わりに自分の仕事を手伝わせ、俺を共犯者に仕立て上げる腹積もりだろう」
精一杯、虚勢を張り忌々しげに眼前の何者かを睨み付ける。
恐らくホフマンの運命は、更衣室のドアを開けた瞬間に、若しくは学ラン姿の不審者を尾行し始めた瞬間に決定付けられたのだ。
「少年警察管だと? 笑わせる」
今となっては尾行などせず、後輩にカメラで行き先を追わせるだけで良かったと、本日何度目かも分からない後悔するホフマン。
古臭い行動を取ったばかりに、古典的な手法で絡め取られてしまったベテラン刑事は乾いた笑みを浮かべ、敢えてしなくても良い挑発の言葉を吐く。
「この、少年スパイが」
ラウンジに乾いた称賛の拍手が響いた。
少年スパイ。この単語が意味する事実を考え、刑事は懊悩する。
(少年スパイが有り得ない事とは思わない)
少年兵に少年ギャング。
ホフマンにとって、身近な事例でいえば万引きや傷害を引き起こす、少年犯罪者が挙げられるだろう。過去にそういった少年達の補導や逮捕も経験してきた。
それでも、ホフマンは信じられずにいる。
(日本の行政機関が、少年スパイを?)
有り得ない。
信じられない。
虚偽、狂言も甚だしい。
「だからでしょう? あれよ。ミステリーにおいて最も疑わしくない者が犯人だったていうアレよ」
「……」
「もし私が中国や北朝鮮、米国やロシアの少年兵や少年スパイだったならどうかしら?」
ホフマンの中で日本の固定観念が音を立てて崩れ去る。
アジアでも安全な、治安が良く、凶悪犯罪が少なく、宗教間による諍いやテロが殆ど無い国。
一般家庭に拳銃など無く、言論の自由と選挙権が確保された民主国家。
「なに? 皮肉?」
「事実だろ」
「……そうね。まあ、貴方みたいな人が多くて助かってはいるわ」
「……だろうな」
日本国パスポートの実力は計り知れない。
嘗ての同盟国でありながら、戦後、自国との扱いは雲泥の差である。
(先祖がした事を抜きにしてもだ)
ホフマンは確信する。
日本人少年スパイの存在など、話した所で誰も信じてはくれないだろうと。
「貴方の直属は怪しいけれど、ドイツ自体には認められているわよ?」
「……はあ?!!」
パスポートの横に置かれたのは拳銃の携帯許可証と発砲許可証だった。
「れ、連邦刑事庁と連邦警察……こ、公認?」
「ベルリン地裁のも見る?」
見覚えの有る署名印が、所狭しと並ぶ書類が何枚も出される。
顔を青ざめスパイの存在証明など全く笑えない冗談だと目を背けるホフマン。
「それこそ信じられん! 何故この国が全面的にお前の様な存在を!?」
「知ってるかしら? 日本って勝手に色んな国から新人スパイの養成所にされてるみたいなのよ」
「はぁ? それが何だって…………クソッタレッ!?!」
「貴方って意外と有能でしょ?」
変態なのが残念だわ。そう呟く美しい少年スパイは書類を片付けていく。
ホフマンは信じたくも無い事実を呑み込んだ。
「恨むのなら私達じゃなくて、間抜けな自国のスパイを怨んでちょうだい」




