一章 『変態と少女』 その1
二万字位あったうえ時間もないので分割してあげます。
ちょっと短いです。
悲鳴が響いたのは一瞬だった。
絹を裂くような叫び声は気合いの入った怒声に変わり、胸を腕で隠した美女は未だ出入り口で固まったままの男に向かって素早く近づくと、その股間を有らん限りの力で蹴り上げた。
「動くな変態」
息を吞み吐き出すことも出来ず股間を押さえ蹲るルイス・ホフマンの頭頂部に、ごりごりと硬い物体が押し付けられる。
その物体が何なのかは想像に難くなく、一応は確認しておきたいホフマンだが、蹲る己の視線の先にある裸足と、頭上から降りかかる『HENTAI』の称号に顔を上げるのを躊躇ってしまう。更に付け加えるならば正面の女性は明らかにほぼ全裸であり、そして向こうからすればホフマンは恐らく、というか間違いなく試着室であろうこの空間に突撃して来た不審者である。
もしもこの瞬間、不用意に顔を上げようものならば『興奮した中年男性が股間を押さえ跪き、ほぼ全裸の美女を見上げる変態の図』が完成してしまう。
この図を見て一体どれだけの人が『うっかりと勘違いによる行き違いの結果、美女に股間を蹴り上げられ跪く刑事の図』に行き着くであろうか。
ここで下手な挙動に出てしまえば痴漢、もしかしなくても性犯罪者として翌日の朝刊を鮮やかに飾ってしまう。現職警察官の不祥事として取り立たされる位ならまだしも、ここで懐の拳銃が見つかってしまえば有無を言わさず射殺すら有り得る事態。きっと美女には疑いも無く正当防衛が適応されるであろう。
(だって美人だし。多分モデルだし。絶対いき過ぎたファンとかに対する護身用の拳銃だし)
全身から脂汗と冷や汗をダラダラと流すホフマン。
脳裏に鮮明に焼き付いた美女の裸体と下腹部からの何とも言えない激しい鈍痛に悶えつつ、この騒然とする試着室から如何にして生還するかヒントを探し思考と視線を彼方此方に巡らす。
床一面には暖色の蛍光灯に照らされた柔らかな真紅の絨毯が覆い、奥行きの在る正面の壁際には恐らく箪笥や姿見、衣類掛けや化粧台が一纏めにされた木製の衣装棚が、左右へ広々と延び鎮座している。その棚の前で集まる色取り取りの靴を履いた足首達は入室した際、目に入った様々な下着や衣類を手に持っていた従業員であろう女性達。その足下には長方形の箱が積まれ、取り出したばかりであろうブーツやヒールが散乱していた。
この広々としたお洒落空間がカウンターの裏に在ると誰が想像できよう。しかし、ここは間違い無くブティックであり、間違っても喫茶店やバー、会員制のヤバイクラブではなかった。改めてホフマンは自分が婦人服店に単身乗り込んで来ていた事を思い出す。
不審者を追いかけていた筈なのに何時の間にか自身が不審者に。
そして不審者は刮目する。
してしまうのだった。
眼前の奇麗に括れた細い足首を。
小さな踵からつま先へ扇状にほっそり広がる足の甲を。
足の指は細長く、円く整えた爪には真紅の絨毯よりも濃い赤色のペディキュアが。おおよそ水虫や巻爪、外反母趾とは無縁であろう完璧に整えられたつま先に、静脈が薄っすらと浮かび上がる肌は白く、産毛一本皺一つ見当たらない。肌は陶磁器の如く冷やかに滑らかで、時折つま先に力を入れ谷間を作る筋は呼吸をするかのように膨れ上がり、静かに妖しく波打っていた。
(……美人ってのは足までも綺麗なんだなぁ)
有り得ないことにホフマンはこの状況下、美女の足に見惚れていた。そして無意識の内、もっと近くで眺めてみようと、頭をゆっくりと沈み込ませてゆく。
ぷとり、と。
この時、右足の甲に滴が落ちる瞬間をホフマンは目撃する。
一寸、彼女はびくりと足の指を浮かせ硬直するも、すぐさまに落ち着きを取り戻し、ゆっくりと小指から順に絨毯へ降ろしてゆく。
正しく目と鼻の先で広がる景色に不審者は気が付いた。その滴は己の鼻先から零れ落ちた冷や汗であると。そしてそれ程までに裸足の彼女と近い距離であっても、漂うのはかぐわしい花の香りだけであると。この室内か、香水か、それともこの潤いすら感じさせる血の様な爪紅からか。
分かるのは自身の体液がその香りを汚した事実。
そして零れ落ちた男の体液は蒸発する事も無く美女の谷間を通り、開かれた隙間へと流れ落ちる。
(落ち着け)
変態は見た。
見てしまった。
(大丈夫だ)
彼女が身動ぎ肢体を震わせ、体液に濡れ穢された股を閉じ、真っ赤な寝具に爪を立て握りしめたその瞬間を。
(……俺はっ!)
美女は不快感も露わに、幾度も全身を仰け反らせ拒絶する。しかし屈辱の羞恥により仄かに紅潮したその裸体はいっそ喘ぐように悶え ――――――。
(俺は胸派だあっ!!)
危うく足を舐めだす勢いで見詰めていた瞳を思い切り閉じ、奥歯を噛み締め正気に戻れとばかりに胸中絶叫するホフマン。
全く以て落ち着きもしなければ大丈夫でも無いHENTAIは妻の胸と目の前の女性の胸を比べることで精神的安定を図るという、とんでもなく最低な行為に打って出てしまう。
(うちの嫁さんはE! モデル体型には負けない圧倒的な迫力がっ!? ―――………?)
ふと、気が付く。
一瞬にして我に返ったホフマンは蹲り股間を押さえたままの状態で凝想する。
何かが可笑しいと。
この自身が置かれた現状について、では無い。
(もっと重大な何かが ――――――)
それは間違い探し。
虫食いの情報を埋めて行くジグソーパズルやクロスワードでは無い。二つ並び合った情報を見比べ検討し、誤差や不備を割り出す行為。捜査において必要なのは情報収集能力だけでは無く、情報の真偽を見極める判断と考察能力。そして時に土壇場で求められる経験則による直感。
その直感がホフマンに告げる。
お前は間違っている。
真実を暴けと。
なればこそ確かめなければ為らない。HENTAIの称号に恐れず、この危機的状況に立ち向かわなければ為らない。
決意を胸に、刑事は顔を上げる。
そして瞠目する。
眉間に突き付けられた九ミリ口径の回転式拳銃。
それを左手だけで正確に構える華奢な腕。
続く細い肩口。
浮き出る鎖骨に皺の無い首筋。
小さな顎を引き、眉を寄せ困惑の表情で見下ろす美女。
(何かが違う)
正面から眺めた時では気が付きにくく、下から見上げる事で明確になる存在。
それは凹凸の有無。
はっきりと六つに分かれた腹直筋。
括れを強調する腸骨稜からの流れ落ちるような窪み。
弛みの無い硬く隆起した膝頭が支える長く鋭い脚。
(違……う?)
それは押し付けた右腕から全くはみ出さない胸部の膨らみ。
それは黒く薄い扇情的なショーツの下の見覚え有る膨らみ。
有るべき場所の膨らみが無く。
無いはずの場所に有る膨らみ。
「お、おとこ?」
紛うことなき男体である事を確認したホフマンの一言は酷くがっかりとしたものだった。
「ぶっ殺す」
美女(美男子?)の呟きと共に拳銃のトリガーが途中まで引かれ撃鉄が起き上がった。
「ま、待てっ! おつ、落ち着いてくれっ! 違うんだ!!?」
先程までの困惑は消え、殺意に満ちた瞳を向ける相手に弁明を試みるホフマン。
明らかに不用意な一言が原因であった。
「これは不慮の事故で俺の望んだものじゃないんだ!!」
両手を頭の後ろに置いて跪き、必死に訴えかけるものの全てが空しい変態の言い訳にしか聞こえない。寧ろ相手にとって今の発言は別の捉え方にしかできず。
「そうなんやろうねぇ……男相手の覗き見なんて望んでないがやろうねぇ………ぶっ殺す!!!」
目を剥き青筋を立て、全身を真っ赤にして甲高く叫ぶ姿はやはり女性的ではあるが、その激昂具合を見てホフマンは早々に説得を諦め周りに助けを求めだす。
「誰かぁ! 誰でもいいから彼、彼女を止めてくれえ!? 俺は刑事でここへは捜査上の都合で来たんだぁ!!」
「んな戯言誰が信じっと思っとんがかこの変態!!」
体裁を捨て泣きが入り始める自称刑事に室内の従業員達は目を合わせようとせず、返り血で商品が汚れてしまっては勿体ないとばかりに衣類や散乱していた靴を黙々と片付け始める。
そして混沌とする室内の出入り口からは聞き覚えのある声が響く。
「何してるのお姉ちゃん!? その人刑事さんだよ!」
ホフマンをこの地獄に突き落としたボブカットの少女がドアに身を隠しながら声を上げたのだ。
「アンジェラっ?! 今はこっちこんといて!! 危ないから!!」
「助けてくれーー!!」
終にアンジャラと言う名前らしき一般市民の少女に助けを求める刑事。
「お姉ちゃんその人絶対刑事さんだからもうやめて! 銃とバッチも持ってたし!」
「銃!? ちょっと皆! 裏口から避難して早くっ!!」
「お姉ちゃん!」
「誰かーー!」
「うっさいアンタは黙ってろ! アンジェラはラウンジに居た皆と避難!!」
「ねぇってば! 話を聞いてお姉ちゃん!」
三者三様叫び続け混沌と化す室内に従業員達も如何した物かと遠巻きに眺める中、一人の女性が立ち上がった。
「ヴッェエーーーールッ!!!」
嗄れた怒声が室内を包む。
室内に居た全員が動きを止めその声の主へと意識を移した。
試着室に入ってすぐ右側、その突き当たり壁際。
そこには小さな椅子と作業机が置かれ、机の上にはミシンや裁ち鋏が。周りには型紙や生地の切れ端がドーナツ状にうず高く散乱している。そして中央の机には腰を預け此方を睨みつける銀髪の中年女性が腕を組み佇んでいた。
整然とした試着室内に措いて一か所だけ雑然としながらも、銀髪の女性がその場に起つだけで見苦しさを全く感じさせない、不思議と風景の一部品として矛盾のない完成された空間が出来上がっていた。
この騒動の中、全く気が付かなかった存在の乱入にホフマンは再び息を呑み身構える。
こころなし、従業員達やアンジェラの背筋も伸びたがそれに気が付く者はこの場にいなかった。
「フィガロッ! 呑気しとらんで貴女も早く避難して!」
ただ一人、この場を変態の手から守り抜かんとする人物のみだけが変わらず、怒りと焦りを滲ませ捲し立てる。だが、お姉ちゃんと呼ばれた下着姿の人物の声にフィガロと呼ばれた女性は宥める様、落ち着き払い淡々とした調子で返す。
「ベル」
たった一言。
ホフマンが散々懇願し求めた均衡と静寂がその一言で訪れ、そして ―――。
「いいかいベル、日本語はよしとくれ。私にはアンタが何を言ってんだかさっぱりだよ。アンジェラも、早くイタリア語以外話せるようになりな」
その言葉の意味を頭の中で反芻し、目を見開くベルと呼ばれた下着姿の美人は辺りを見渡す。
変態。
アンジェラ。
従業員達と順々に視線を泳がせ再びフィガロに合わせたベルは、数度口をぱくつかせた後、目の前の刑事に一言。
「そ、そのままの状態で床に伏せてじっとしてなさい!」
フランス語で放たれた一言にフィガロは首を振り、深く溜め息を吐く。
「頼むからドイツ語で話してくれ」
なんとも情けない現地人の呟きだった。