一章 『神父と少女』 その1
ちょくちょくタイトルを変更していますが特別内容が大きく入れ替わっているということはありません。
時は少し遡る。
ドイツの北部。広大な平地に大小様々な雑木林と湖と集落が点在する、ドイツ国内で最も人口密度の低いメクレンブルク=フォアポンメルン州。その南東、ブランデンブルク州に隣接し、比較的首都に近いその田舎町で事件は起きていた。
吐く息が白くなる、寒々しい冬の朝。
昨晩の内に薄っすらと降り積もった雪が固まり、その上を歩くたびに足が沈み小気味よい音を鳴らす、そんな朝。
厚いダウンジャケットを羽織った制服姿の警察官が手を擦り合わせ家のガレージを目指し歩いている。寒さで痛くなる耳は真っ赤に染まっていた。
直ぐに目的地であるガレージに着くとシャッターを開け、中に停めてあるくすんだ白色の小さなトラックに乗り込む。
農夫であった彼の父親が残した、小さな小さなトラックだ。
明らかに、己の体の大きさと合っていない運転席へと乗り込んだ警察官は体を屈めつつキーを差し込み、エンジンをかけすぐさまエアコンを起動させる。ハンドルに手を置く事なく、ジャケットの前を閉じ、両手をポケットに入れ狭い車内で縮こまる警察官。
彼は目を閉じゆっくりと、固いクッションの座席へと背中を押し付ける。徐々に体が温まるにつれ、寒さで縮んだ筋肉が解れてゆくのを感じつつ、もう少しこのままで居ようとジャケットの襟に顔を埋めた。
エンジンの駆動音と温風の噴出音が交わり、熱を持って車内へとゆったりと満ちる。ベッドの中に居る感覚に近付いてきた車内の環境に、二度寝も悪くないと思い始める警察官。
彼の意識は固いクッションの奥へと沈んで行く。
徐々に。
ゆっくりと ―――。
暑く、輝く夏の日。外車だ、輸入車だとはしゃぐ父の横には小さな小さな白いトラック。
父が初めて買った新品の車。
傷一つない、真っ白な車体を見た母は朗らかに笑っていた。
舗装されていない、がたごと道をゆっくりと走る軽トラ。
助手席に母を、荷台には兄と僕。
向かう先はどこの田舎にもある小川。
釣竿を握り一人で荷台から降りられない僕の脇に手を入れ、『小さなヨーゼフ、今日は大物だ』と、自信満々に笑う兄の笑顔はやはり幼く、かっこよかった。
警察官、ヨーゼフ・ホフマンは鼻白む。
もはや思い出の中だけと化した過去の日々はくすみ色あせ、現在を生きる人間からすれば最早、空想であり妄想と変わり無いものだった。
ヨーゼフはゆっくりと目を開き、薄暗いガレージの中を見渡す。
壁に取り付けられた棚やフックに整然と並ぶ農具と工具。
隅には中身がぎっしりと詰まった大きな本棚と年季の入った作業机。机の上にあるのはやはり綺麗に小分けされ並べられたルアーや浮きといった釣り具。
一目でその人の性格や趣味が解ってしまう、そんな品々の持ち主はもうこの世にはいない。
父親の私室でもあったガレージはヨーゼフの知る限り、駐車スペース以外は何年も手付かずのままだった。
母親が時たまガレージの中に入って、ぼうっと何所かを見詰めている時があるのを息子は知っている。
居ないはずの人影を探し、短くない時間をガレージで過ごして感傷に浸る母親にヨーゼフから声を掛ける事は出来なかった。
ヨーゼフの存在に気が付き、『あらヨーゼフ、何時から居たの?』と寂しそうに笑いかけるまで、じっと遣る瀬無い気持ちで年老いた母の横顔を見詰めることしか出来ないのだ。
早くに家を出て行ってしまった兄でさえ、ふらっと帰って来てはガレージの中が元のままか確認する様に眺めている時が在ることを弟は知っている。泊まりもせずに、『仕事があるから』と都会に住む新しい家族の元へ行ってしまう兄の背中を何度も見送った。
何時の間にか越えてしまった兄の背。自分から離れていくその背中を薄情だとは言わずとも、寂しく感じていた。
十分に温まった車内でヨーゼフは左腕に巻いた古い腕時計を見詰める。多くが形見分けでヨーゼフの物となった。『お前が後取りなのだから』と、兄が押し付けた物の一つである父親の腕時計。小さなこのトラックもだ。
結局、父親の後を継かずヨーゼフは兄と同じ警察官になってしまい、その事に兄が少なからず憤っていたことを弟は知っている。だが理不尽だとは思わなかった。
(こんな、早々に逝ってしまった父さんの方が……)
ヨーゼフはため息を吐く。
エンジンをかけ三十分が経っていた。
昨晩の悪天候を感じさせない晴天の中、ヨーゼフはゆっくりと道路に薄く積もった雪の轍をなぞりトラックを走らせる。広大な農地は白銀の世界へと変わり、輝く太陽光をきらきらと反射していた。
時たま揺れる車体に合わせ荷台の中身が跳ねる。中身は梯子に工具箱に農具、荒縄に雑納といった作業具であり、断じて歳の離れた兄のルイスが荷台で体を縮込ませ『大きなヨーゼフ、今日は良く跳ねるな』なんて声を掛けてきたりはしない。
ヨーゼフの向かう先は集落を出て、隣の州に近い街中に建てられた小さな教会の墓地。
何も無い田舎ではあるがヨーゼフは多忙だった。普段は街外れにある、生地でもある小さな集落で一人の交番勤務。
農家には成らなかったものの、警察官として村に残り続けるヨーゼフを周囲の年老いた大人達は温かく受け入れていた。そして大抵の事は何でも出来てしまうヨーゼフを村の人々は大いに当てにしていた。
壊れた家具や農具、車の修理に公共施設の掃除に農繁期の収穫の手伝い。夫婦喧嘩の仲裁に逃げ出した飼い犬の捜索に集落で行われる祭りの準備にと、凡そ交番勤務の警察官が行う業務内容とは思えない仕事、というよりは村民お願いの数々を叶える日々。
なまじ物覚えが良く、長男のルイスが家を出てしまった為、跡取りとして農家に関する必要と思われる知識の全てを父親から叩き込まれていたヨーゼフ。更にその熱心な父親の教育と、直ぐにどんな知識や技能も吸収していくヨーゼフを見た親戚や周囲の大人達が面白がり、様々な事を教えていった結果である。
何所の田舎でも起きている過疎化のため子供がほとんどいないその集落で、ヨーゼフは若い戦力として期待されていたのだ。
出来ないからとでも断れば良いものの、出来る事を周囲に知られており、人が良く押しに弱い性格もあって様々なお願いを聞き入れるヨーゼフは村ではすっかり有名人だった。街の新聞記者が面白半分に取材に来るほどである。
その話を聴いたルイスは遠い目で『お前も大変だな』と、小さく零す。兄であるルイスも又、押しにめっぽう弱い男だった。
ヨーゼフの元には平日から土曜日まで引っ切り無しにお願いの電話が入るが、それも秋の収穫時期が終わると鳴りを潜ませ、長期休暇に入った皆が冬篭りとクリスマスに向けゆっくりし始める。そんな時期の今朝早く、休日だったヨーゼフの元へ電話が掛かった。
ヘルマン神父からの電話だ。
ヨーゼフの父親の友人でもあったヘルマン神父はカトリック教会の司祭である。熱心なカトリック信者であったヨーゼフの父親と仲が良く、教会に赴く際には必ず一家全員を連れて行く程だった。
そういった理由で古い顔馴染みの一人でもあるヘルマン神父であるが、ヨーゼフはこの神父が少々苦手だった。厳格さを絵に描いた様な人物のヘルマン神父は己に厳しく、また人にも厳しくあろうとする様な老人なのだ。
頑固で融通の利かない、何所か職人肌を匂わせる、歳を感じさせない大柄な体躯の老神父。
常に人の善性を説き、悪性を諌め、正しく在ろうとする老紳士はただ祈るだけではなく、行動を起こし多くの慈善事業に取り組んでいる。その姿を眺める時、己の生き方に疑問を持つ者は少なくなかった。
だからこそヨーゼフの父も足繁く教会に通い無償のボランティア活動を手伝い、兄は都会に出て刑事をしている。
詰まる所、ヨーゼフの今の在り方に間違い無く影響を及ぼしているヘルマン神父に頭が上がらないのだ。そして神父を通しどこか、父親の姿を見ている事もヨーゼフは理解していた。
似ているのだ。
やはり押しに弱く、お人好しなヨーゼフの父親も、よく二人の息子に人の為に己の為に正しく在れと説き、そう在ろうと努力していた。
家族だからなのだろう。
そう、ヨーゼフは感じていた。
母も兄も自分も。物を通し、人を通して居ない筈の父親の姿を探しているのだ。
家を出る時から沈んだ気持ちのままのヨーゼフは考える。
何故こうも気分が晴れないのか。
父親の死後、家族はそれなりに立ち直って来た。
母親と兄の行動も特に異常性を感じさせる様な物でもなく、言い方は悪いが一般的な喪の服し方であるし、その期間も人それぞれである。ヨーゼフはその期間が少しばかり短く、その分二人の家族に多く気を使ってきた。
だからこそ今、己の胸中にもやもやと浮かぶ暗雲を敏感に感じ取っている。
ヨーゼフはその暗雲の答えを知っている。
それはトラックの中で見た夢だけが原因ではない。
街へと続く一本道。その道から少し脇に反れ、平らな農地に現れる、少し膨らんだ丘の上に建つ黒い物体。
昨晩の雪で薄っすらと白く染まった、大地に佇む真っ黒な建物。
ヨーゼフはトラックを車道脇に停め、ドアに着いたハンドルを回し運転席の窓を下す。車内の温度は急激に下がり、エアコンの温風は窓から入り込むバルト海からの北風に押し負ける。
痛くなる程の寒風と雪に反射する日光が目に入り、しっかりと瞼を開けれないヨーゼフは舌打ちを飛ばす。
(サングラス、持ってくるんだったな)
父や兄と同じ、青色の瞳にその光景が映し出される。
雲一つない青空を背に、黒々と聳える建物は良く映えた。
所々に空いた穴や格子の枠組みの大きさは大小様々で、場所によっては今にも崩れ落ちそうな程、不自然な形を保っている。
何所までも続く白い大地と青い大空に挟まれた黒いそれは、見ようによっては巨大な芸術品と思われるかもしれない。
立入禁止の看板が更にそう強く錯覚させる。
(一軒家全焼、家族四人焼死体で発見、か……)
小さな集落では、大き過ぎる事件だった。
ヨーゼフは再びトラックを走らせつつ、事件当日の事を想い返す。
二週間ほど前の夕暮れ時の事だった。その日は土曜日で、安息日で店が閉まる前にと街の方へ買い物に出ていたヨーゼフは帰り道にその光景と遭遇してしまったのだ。
『――― か、じ? ―――』
無力な警察官は燃え盛る友人の家を前にただただ眺める事しか出来なかった。
村の小型消防車と街の大型消防車が慌ただしくホースを構える姿を目にしながらも、炎の中へ包まれていく友人宅を、ヤンセン家を前にしても、ただ呆然と突っ立っているだけだった。
火事に巻き込まれたのは数少ない村の同年代の幼馴染で、兄弟同然に育ってきた親友だった。村の消防団として集まった村民の中にもそんな友人達がいる。彼らも又、ヨーゼフ同様項垂れるしか出来なかった。
事情説明の為、集まっていた制服警官達と供にそのまま街の方へと向かったヨーゼフはその後の記憶が曖昧だった。
思い出すのは第一発見者として放火の疑惑が掛かるのではという、不安感により的外れにも程があることばかりを心配し、友人一家の死をないがしろにしていると気が付き愕然とした事。
不審火と思われた火事は結局パイプラインの劣化によるガス漏れの事故火災で纏まり、少なからず安堵してしまった自分に対す自己嫌悪に陥った事。
そして先週末。葬儀に参列し、並ぶ三つの大きな棺と中位の棺を前に、友人家族の死を漸く実感でき、村の家族達と共にやっと涙を流せた事。
葬儀後、自分は薄情な人間なのだろうかとヨーゼフはよく自問する様になる。
ルイスは火災を目の当たりにしたショックで心が追い付いていないのだろうと慰めてくれたが納得できずにいた。
しかし今朝、ヘルマン神父からの電話でヨーゼフは確信する。確かに兄の言う通り、己はショックの余り心が追い付いていなかったのだと。
父の夢と火災を引きずり、胸中に暗雲を漂わせる中、ヨーゼフの頭の中は雪原の北風の如く透き通っていた。
ヨーゼフは思い出したのだ。ヘルマン神父の電話により、自分が今年関わった不可解な事件の数々を。
今年の夏、街で一人の少女が行方を晦まし、次いですぐさま両親も姿を消した。
今年の秋、身元不明の少年が怪文章と共にヘルマン神父の元に現れた。
そして冬、この三つの事件に関わる刑事が火事に見舞われ亡くなった。
三人の家族と共に。
『エドガーの息子が誘拐された』
ヘルマン神父のその一言でヨーゼフの心は漸く頭に追い付いたのだ。
何かが起きている。
善くない何かが足音を潜ませゆっくりと直ぐ傍まで近づいている。
友人と同じく、全ての事件関わったヨーゼフは決意する。
護らなければいけない。
村を、友を、母を。
そして、自分と同じように全ての事件と関わった兄、ルイスを。
昨日までの自分の様に、まだ頭と心が離れているであろう兄の事を想いつつヨーゼフはトラックを走らせる。
(……あぁ ――― クソッ)
そして気付いてしまう。
今、本当に自分が護りたいものは、護りたかったものは、あの空想じみた思い出だったのではと。
ざくりと、底の分厚いブーツが雪を噛み締める。
石畳の上に薄く積もった雪は滑り易く、否が応でもゆっくりとした足取りに成らざるをえなかった。
軽トラックから降りたヨーゼフは身を裂く様な寒さに耐えつつ、両手を腰に当て後ろへ大きく反り返り身体を伸ばす。今や父の背を越し兄であるルイスの背も越えたヨーゼフにとって、彼の父が残した小さな外国産のトラックは些か以上に窮屈であった。
「休日に済まないな、ヨーゼフ」
「ヘルマン神父!?」
頭を後ろへ反らした状態で声を掛けられたヨーゼフはこのままでは失礼だろうと慌てて身体を起こす。しかし、不自然な体勢で驚いた所為か急に姿勢を変えた所為か、早くも足を滑らせ転びかける。
「おっと、危ない。大丈夫かね?」
「………」
ひょいっと、それはもう軽々しく。まるで小さな子供を抱え上げる感覚で、ヨーゼフの全身が浮かび上がった。
「滑って頭でも打ってはことだ。気を付けなさい」
「……はい」
素っ気なく頷き、宙ぶらりんの両足が地面に下ろされるのを確認したヨーゼフは無表情のまま、また足を滑らさぬ様ゆっくりと体勢を立て直すとすぐさまトラックへ。助手席に置いてあった警帽を取り脇に抱えヘルマン神父に向かうと右手を差し出す。
「おはようございます。ヘルマン神父」
何事も無かったかの様に振る舞うヨーゼフを神父は生温かい瞳で見詰めるが、差し出された手はしっかりと握りしめた。
「おはよう。ミサの前に来てくれて助かるよ」
ヨーゼフより背が高く、更に横幅もあるヘルマン神父。その掌も必然的に大きく、ヨーゼフの手がすっぽりと収まってしまう程だ。
太く節くれ立ち、肉刺の出来たヘルマン神父の手は力強く温かで、冷えたヨーゼフの掌を優しく包み込んでいた。
物心が付いた時から変わらず、寧ろ大きくなり続けるその存在に対しヨーゼフは改めて己の小ささを、物理的にも感じさせられる。
(……最近また大きくなった様な?)
流石に七十歳を越える老人が肉体的に成長し続ける訳も無く、きっと己の不安な気持ちがそう見せているのだろうと自身を納得させる。
しかし、その事を抜きにしても、ヘルマン神父は巨体であった。
神父が着込む黒いカソックもそう見せる要因の一つであろう。
裾が長く立襟で、白いローマン・カラーを巻いたそれは司祭が日常的に着込む物で体型が出やすい。そのおかげで彼の周囲の人々や信徒はレスラーの如く肥大した胸筋と僧帽筋、そして上腕二等筋をミサの間凝視する事となる。
司祭を努める前は何らかのスポーツ選手だったのでは、というのが彼に対する多くの人の第一印象である。
そして肉体に劣らず、その顔も厳めしく大きなものだった。
刈り上げた白髪に緑色の瞳。傷の様な皺が多く刻まれた皮膚には一切の弛みもなく、若々しい張りを保っている。
以前はその厳格で実直な性格からか、体格による威圧感からか、ぎょろりとした瞳に見詰められ泣き出す子共も居たが、今ヨーゼフの前に立つ老神父からは圧迫感などは感じられなかった。
ヨーゼフは知っている。
この老神父の雰囲気が目に見えて和らいだ理由を。
「ミヒャエル。貴方も挨拶なさい」
その言葉にヨーゼフは辺りを見渡す。
ミヒャエル。
ヨーゼフがヘルマン神父の居る教会へと足を運んだ目的の一つでもある少年の名前。ヘルマン神父を好々爺に変貌させ、猫可愛がりされる男の子の名前である。
ヨーゼフは確信している。
今年の秋、怪文章と共にヘルマン神父の元に現れた身元不明の少年は、この小さな田舎街でおき続ける事件の生き証人であると。
「……コ、コンニチハ」
ぼそぼそと、片言での挨拶がヨーゼフにかけられる。だが依然としてその姿は見えない。
「ほら、出てきなさい」
ヘルマン神父が促し、漸く神父の巨体の陰からひょっこりと小さな顔を覗かせた。
「おはよう。ミヒャエル」
やんわりと挨拶の間違いを指摘するヨーゼフは、神父のカソックの裾を両手で握りしめ、中々前へ出て来ない少年へと目線を合わせ笑いかける。神父の太もも程の背丈といった少年は首を曲げ、ぺこりとお辞儀をしてみせた。
少年の顔はアジア系のそれである事が分かる。高い位置にある太い眉に短い鼻梁。色白な象牙色の肌に短く伸びた黒い前髪。
混血なのか大きな瞳は青く異彩を放っており、おどおど揺れ動き落ち着きが無かった。
六から七歳位の男子にしては強く庇護欲を掻き立てられなくもないのでは、とヨーゼフは思う。青い瞳にも些か以上に親近感を感じさせていた。
美少年、という程では無いが、中性的な顔立ちも相俟って年相応以上の可愛らしさを感じさせる少年。活発的な男の子と言うよりは内行的な女の子にも見えなくも無い。
恐らくは彼が着込む黒い修道女の服がそう見せているのだろう。修道女が被る頭巾、白いウィンプルとベールもよく似合っていた。
(………………………………………………………………………………修道、女?)
ヨーゼフは落ち着いて、もう一度、少年ミヒャエルの服装を観察する。
(前髪は少し出して……可愛いな。靴は今時風の可愛いブーツ……女物で……やっぱり可愛い)
じっくりとミヒャエル少年を見詰めるヨーゼフ。
それに気が付いたミヒャエルは『きゃあ』と可愛らしい小さな悲鳴をあげ神父の陰へと再び隠れてしまう。
怖がるんじゃないよと少年を笑顔で窘める神父。その微笑ましい様子を眺めヨーゼフはよしと決意した。
「ヘルマン神父殿」
ヨーゼフは少年の目線に合わせ屈んでいた身体を起こし、制帽を深々と被るとヘルマン神父へ向き直る。
雰囲気がガラリと変わった警察官ヨーゼフに気付かず、ヘルマン神父の視線はミヒャエルに向いたままだ。神父は上の空で如何したのかねと笑顔で尋ねた。
「貴方を児童虐待の容疑で ―――「待ちなさい」」
洒落にならない事を口走った警察官に身体を向け、待ったをかける真顔のヘルマン神父。
数瞬の沈黙が流れた。
「貴方を児童虐待の ―――「落ち着きなさい」」
国家の警察組織の一員として機械的に、それこそRPGのNPCが如く同じ事を繰り返し話そうとする警察官。その目は失望と悲しみに染まっていた。
「落ち着きなさい。この子の格好には訳があってだね」
「お話は署の方でゆっくりと。ご同行ください」
聞く耳持たずと言った態度の警察官は小さな白い軽トラックを指差す。
明らかに巨体のヘルマン神父に乗車は不可能なサイズの助手席であった。まさか荷台に積んで行く気であろうか。
「君は何か酷い誤解をしている。先ずは私の話を ―――」
落ち着き対話を試みる神父。だが彼は違った。
「我々は!」
神父の言葉を掻き消す様に警察官は大きく吠える。
「我々は! 国家国民の為! 安寧と秩序維持の礎とならんことを!!」
警察官は立ち向かう。
己が理想の為、信念の為に。明らかに敵う筈のない高さと重量を持ったHENTAIレスラー神父を確保する為に。
「――― ……よかろう。ならば力尽くでもって話を聴かせてやろうぞっ!!!」
正真正銘の元プロレスラーは喜々として立ち向かう。
覆面を脱ぎ棄てる前の己を想い出し。
教会の鐘が、ゴングの代わりとばかりに鳴り響いた。
観客は年端もゆかない少年が一人。
冬の早朝。
寒空の下。
教会を背に男達の闘いが始まった。
(自分は一体、何をしているのだろうか)
警察官は思い悩む。
二週間ほど前、友人一家が炎に呑まれる瞬間を目撃して以来彼は塞ぎ込んでいた。
葬儀が行われた後、墓地のある教会に近づきたくなく、ミサに行こうとしない己を恥じてもいた。
そんな彼を、彼の母親は優しく諭すのだった。
今はゆっくり休みなさい、と。
だが彼は納得できずにいた。
自分は逃げているのでは、と。
友人家族の死は事故火災であった。
ならば彼に責任など在る筈も無く、逃げていると感じる必要すら無い。
だが彼は警察官だった。
心優しく、打たれ弱いだけの少年では無いのだ。
目を向けなければ。
警察官として。
耳を澄まさなければ。
交番のお巡りさんとして。
事故に、事件に、災害に、悲劇に、惨劇に、死に。
何かを成し遂げる事も無く、唯の事故火災で逝ってしまった友人に。
幼馴染に。
同僚に。
向き合わなければならないのだ。
だからこそ彼は司祭からの電話に飛びついた。
そして確信したのだ。
あれは事故では無かったのだと。
二週間前、彼は友人の死を心の中で否定してしまった。
今は違う。
死と向き合い、その事実を突き止めなければならない。
今亡き友人の為。
愛する町の為。
警察官ヨーゼフ・ホフマンは立ち上がったのだ。
立ち上がった、筈だったのだ。
ヨーゼフは逆さまに聳え立つ教会を見上げ思う。
父親に連れられ、家族と共に足を運ぶ様になった慣れ親しんだ教会。
所々、黒いくすみが目立ち始めた、白を基調とした小さなゴシック調の教会。
普段見慣れた建物も、見る角度でこうも新鮮に映るのだろうかと感心しつつ、何故こんな事になったのだろうかと自問自答するヨーゼフ。
彼は今、教会の門前にて、神父にジャーマンスープレックスを極められていた。
「あの子には、ミヒャエルには何も無いのだよ」
ヨーゼフの背中から渋い声が響く。
真面目くさった口調でヘルマン神父が語りだした。
ヨーゼフの腰を両腕で抱え華麗に後ろへとエビ反り状にブリッジした体制で。
ジャーマンスープレックスが決まった状態で、である。
「名前も家族も記憶も、言葉さえも無かった」
顔をヨーゼフの背中に押しつけフガフガと喋るヘルマン神父の声は時々酷く聞き辛かった。
「笑顔も無く、悲しみも苦しみも怒りも感じてはいない様に見えたのだ」
それは神父の懺悔だった。
「無感情に、無感動に過ごすあの子を痛ましく思った」
哀れな老人の言い訳だった。
「そんな、そんなあの子がっ! 興味を…目を輝かせたのだっ!!」
苦渋に満ちた言葉だった。
ヨーゼフは自分が柔らかい場所に、恐らくは除雪で集めた個所に、更に新しく雪が降り積もった場所へと落とされていた事に気が付く。
「だからと言って教会で保護すべき児童の、自身の性自認すら怪しい少年の女装を許容するなどと」
自分の顔を挟む様に、投げ出された己の両脚を不思議そうに眺めつつ、ヨーゼフはある重大な事に気が付く。
「まっ、まさかっ?! 下着まで!!」
「無論! 一片の隙、一片の妥協など在りはしない!!」
女性下着売り場で男子の下着を買う厳つい顔のレスラー老人という、とんでもない場面が導き出された。
(だっ、だめだ! 庇い様が無い?!)
顔を青ざめ、実際には頭に血が下がり顔を赤くしながらヨーゼフは落胆する。
(買うにしてもユニセックス商品だろ!!)
恐らくは最適解であろう答えを導き出したヨーゼフ。しかし、『フフフ』と不敵に笑う古い男、ヘルマン神父はその答えには至らなかった様で。
「インターネット通販なる物が存在するのだよ、ヨーゼフ」
さも、これで己が変態ではない事の証明がなされたぞと言わんばかりの態度だった。
(それでもシスターの格好をして喜ぶ男子を眺め安心するってのは如何なんだ)
しこりが残る問題にヨーゼフは動かない首を内心傾げる。
神父はこれでこの話を終わりにしたのか、ヨーゼフを抱えたまま起き上がり小法師の如く上体を跳ね起きさせ、そのままそっと地面へ下ろしてみせる。
衰えぬその規格外の腕力に驚きつつ、ヨーゼフは少し複雑に思う。
「貴方は随分と、円く、柔らかくなられた」
厳格であるが故に保守的で時代に取り残された思想を時折垣間見せていた老人に対し、嘗て『男は男らしく強く在れ』と言われていた泣き虫な少年はそう感じてしまう。
「時は移ろう。昔の、以前のままではられないのだ。私も、君も ―――」
嘗ての様にヨーゼフを優しく見下ろし、そっと肩に手を置く。
温かで、大きく、包み込む様な掌。
確かに変わった。
しかし、変わらぬものも確かに在るのだ。
門の陰に隠れていたミヒャエルが駆け寄る。
「――― そしてこの子も」
大きな掌が怖がりな少年の、今は少女の頭を撫でた。
「Hakusyun!」
「Hatschi!!」
小さな可愛らしいくしゃみに続き、大きなくしゃみが響き渡る。
先程から動き回り汗を掻いたヨーゼフの体は少しばかり凍えていた。
そんな、ダウンジャケットの上から身体を摩るヨーゼフを、不思議そうに首を傾げて見上げるミヒャエル。その鼻は寒さで赤くなっていた。先程の、最初のくしゃみがミヒャエルのものだったと気が付いたヨーゼフは、変なくしゃみだと思いつつお決まりの一言を送る。
「Gesundheit」
やはり不思議そうに、今度は反対側へ首を傾げ直すミヒャエル。
どうやら未だに意志の疎通が困難らしいなと、此方に顔を向けるミヒャエルの鼻にハンカチを当て鼻水を拭ってやる。
「墓地へ向かう前にこの子のコートを取りに行かせてもらうよ」
この様子を心配そうに見詰めていたヘルマン神父が提案する。風邪など引いた事など無さそうな老人の身体はカソック一枚で事足りるらしい。
この言葉にヨーゼフは数瞬、どうしたものかと押し黙り考える。
自分の出迎えだけでミヒャエルを誘拐が起きた事件現場の墓地にまで連れて行くとは思っていなかったのだ。
間違い無く、事件に巻き込まれているのであろう少年改め少女、ミヒャエル。
この少女から何か情報を聞き出せると考えてはいなかったヨーゼフだが、何かの拍子に記憶が戻る事も有り得るだろうかと、特に止める事も無くミヒャエルを連れだって歩きだしたヘルマンの後へ続くことにした。