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三章 『ラーレとトゥルプと鬱金香』

小学生の頃、よく植えた花といえば朝顔や向日葵よりもチューリップでした。

「ベ~ルッ!! 夏以来だねぇ!!!」

「アセナおばさん?!」


 満面の笑顔で広げられた両手に鈴木も驚きのまま勢い良く飛び付く。そのまま抱き抱えられ狭い出入り口でぐるぐると回り出し、着地すれば互いに頬へキスを落とす。

 互いに手を取り少し落ち着く頃には入店前に感じられた鈴木の険しさも解れ顔から笑顔が。


「やあっと笑ったわねぇ!」

「おばさ~~んっ!! 逢いたかったあぁ~~~!!!」


 笑顔のまま涙ぐむ鈴木はもう一度、店の女将に抱きつく。

 その遠慮の無い抱擁にちょっと引き気味の佐々木は我関せずで店内を見渡す。

 広く薄暗い店内で整然と並ぶテーブル全てには上品な深紅のクロスが掛けられている。カウンターは椅子の有る場所から立って飲み食い出来るスペースもあった。丸い雪洞を思わせる緩くアーチを描く白い壁と天井には色とりどりのモザイクランプが所狭しに吊るされている。

 立ち呑みも含め殆どの席が埋まり、賑やかに様々な言語が飛び交う様は何処となく先程のブティックのラウンジを連想させた。


「旦那はこういうお店、初めてかい?」

「止してよ旦那だなんて。アンタもキョロキョロしてないでさっさと座んなさいよ」

「あ?」


 何時の間にか丁度三つ空いたカウンター席に座り込む鈴木と見覚えのない少女。少女の方も初対面で気になるのかチラチラと何度も佐々木の顔を確認するかのように盗み見ている。

 取敢えず空いた席に、少女を真ん中に両側から挟む形で腰を落ち着かせる佐々木。


「おい。この子はどうした。何で一緒に ――― 」

「この子はさっき通りで保護した迷子のリリーよ。そこのドブ眼鏡もリリーだけど適当に百合野郎とでも呼んでちょうだい。因みに今はただの他人だから」

「おい。俺のこと今なん ――― 」

「クリスマスも近いってのに仕事かい? それと痴話喧嘩に子供を巻き込むもんじゃないよ」

「だから彼氏でもなければ旦那でもないただの他人よ」

「はいはい。アンタのお相手はリリー(百合)じゃなくてカメリア(椿)だったね」

「ちゃんと覚えていてくれてありがと」

「今度合わせてくれるって言葉も覚えてるよ」

「おい。俺を ――― 」

「それなんだけど実は今別居中……あっ! 忘れてた、何かこの子の身体拭けるものないかしら?」

「あれまあ、もしかしてずっと外に一人で?」

「そうよ信じられる? この子一人で雨の中に ――― 」


 何とか会話に混じりたいと思うも幾度なく遮られ、やきもきする佐々木はラウンジでの一件も忘れ、勢いのまま鈴木の肩を掴み大声を上げてしまう。


「おい!! いい加減俺に解る言語で話せ!!!」

「キャアッ?!!」


 いきなり身体を触られ更に耳元へ近づかれての怒声に鈴木も驚き悲鳴を上げてしまう。これにより一瞬で静まり返る店内と刺す様な視線に晒され、我に返る佐々木は鈴木から手を離し両手を上に。


「……そういう所、本当にいい加減にしてちょうだい」

「だから解る言語で…クソッ」


 悪態を悪態で呑み込むという、器用だが微妙な事をする佐々木は両手を上げたまま居住まいを正し、顔を背ける鈴木に頭を下げる。


「お前の事、あれは……その、言っちゃいけない事だってのは分かってた」


 両掌を上に挙げたままという締まらない格好ではあったが言葉は真剣そのものだった。


「勢いで言ってお前を傷付けたのは事実だし、謝って直ぐ済む問題じゃないってのも理解している」


 店内に日本語で語られる佐々木の謝罪を理解出来る者は鈴木しかいない。それでも大勢が食事を、会話を中断し固唾を呑んで、子供を挟み執り行われる二人の背中(カップル)の行方を見守っていた。


〚あの女の子、母親の連れ子かしら?〛

〚いやあ、髪の色全然違うし、養子って線もないか?〛


【親父の方の分が悪いな】

【離婚間近って感じだな】


〔あの子、どっかで見た事あるんだけど……〕

〔モデルでしょ。あの脚の長さ間違いわよ〕

〔お母さんの方じゃなくて子供の方でしょ〕

〔じゃなくて男の方よ〕


 不特定多数の言語で呟かれる内容に鈴木は段々とうんざりしていく。佐々木の謝罪そっちのけで意識を日本語意外に移してしまい、如何にして佐々木と自身の心に折り合いをつけるかではなく誤解を生む謝罪を止めさせるかに変わってしまう。


「……いいわよ、今更だし。慣れてるから、だから取敢えず今は止めてちょうだい」

「は?」


 視線は感じても聞こえてくる話の内容まで理解出来ない佐々木は勝手に『店内の見知らぬ大勢から責め立てられている』と思い込んでいた。精神的にも辛い状況で鈴木の提案は渡りに船である。正直飛び付きたかった。

 しかし、だからこそ意固地になる。

 外的要因に振り回されて相手を蔑にするべきではないという至極真面な結論に行き着いてしまう。


「おまっ!! ……お前、どうせこんまま有耶無耶にして忘れた振りしたいだけやろ。逃げずに最後まで聴けま」


 佐々木からすればここ暫くの鈴木の自暴自棄さを慮り、気を遣った一言のつもりだった。

 だからこそ、その気遣いこそが的外れで上から目線の余計な一言だとは思わない。


「……はぁ?」


 自身の耳を疑う一言に鈴木は唖然と振り返る。目に映るのは年上受けの良さそうな憂いのあるハンサム顔。さも『貴女の事を想っていますよ』と言わんばかりの舐めた面。ラウンジでの言葉がフラッシュバックした。

 ドスの効いた『はぁ?』で店内に居た女性達は何となく察し、男性達は鈴木の次の行動に驚愕する。

 カウンターテーブルを思い切り叩いて立ち上がり、驚き硬直する佐々木の後頭部を鷲掴みにするとそのまま、再びカウンターテーブルに叩き付けたのだ。


「原因作ってるアンタが言うなあっ!!!!」







 ぶつけた額と顔を真っ赤にして鈴木の胸倉を掴んだ佐々木の動きを止めたのは、下から聞こえてきた小さな咳だった。だが残念な事に、鈴木は動きを止めず左ストレートを放った。


「グホッ?!!」

「この一発で聞かなかったことにしてあげる」


 店内で軽い拍手喝采が起こる中、頬を押さえ椅子に倒れ込んだ佐々木を助け起こす人はいなかった。


(一発って……前の二発はノーカンかよ)


 佐々木は忘れているが追っ手を撒く際、二手に分かれる前の蹴りの分も入っていたりするので、鈴木からすればこれでとんとんだったりもする。

 そこまで考えが到らずとも、流石にこれ以上は野暮かと漸く理解した佐々木は口から出かかった言葉を押し留める。

 口を閉じ、居住まいを正す佐々木はタオルを受け取りリリーの髪を拭く鈴木に何所からか取り出した体温計を突き出す。カウンターの奥でタオルを渡したアセナがぎょっとするも、鈴木はさも当然のように受け取った。


「念の為よ。体温、計っておきましょうね」


 笑顔で鈴木が言い聞かせ、困惑しつつも頷くリリーを確認した佐々木は、今度は未開封の除菌シートとゴム手袋を懐から引っ張り出す。

 先程とはまた別の事で視線を集め出す二人だったが、今回は周囲に気を割かず目の前の少女に専念している。


「はい、あーん」

「ahh ……」


 何時の間にか聴診器と舌圧子も装備した佐々木はリリーと向き合い診察を進めて行く。ごっこ遊びには見えない慣れと手際の良さがあった。


「はーい、大きく息を吸ってー……吐いて―」


 途中から通訳もなしで、何となくでも佐々木の指示に従えるリリーの姿を見遣り、アセナはひとしきり感心する。


「あれまあ、医者先生だったのかい?」

「まだ卵だけどね。親が地元の小児科医なの」


 騒ぎもひと段落し、風邪の引き始めと診断が下る頃には店内も元の賑やかしさに戻っていた。







「ナーネリモンとチャイ二つお願い」

「アレルギーとかは?」

「もう訊いた。他には?」

「砂糖はなしで」

「結構お茶が濃いからないとキツいわよ」

「ひ…っクシュッ……一つだけ」

「はいはい」


 佐々木も寒中水泳は堪えたのか、診療後には特大のくしゃみをかまし、三人揃って仲良くブランケットを借り羽織るはめに。


「Dokter, Dokter」

「だから、まだドクターじゃねえんだよ。おい、ちゃんと教えてやれ」

「いいじゃない、別に。先生なんて呼ばれちゃって、気分良いでしょうに」


 メニューを佐々木の前で広げ、頻りにワンホールの『Kuchen』と『Torte』の欄を指差している。駄目だと言わんばかりに、その小さな手ごとメニューを閉じてやれば見事な膨れっ面に。


「なあ」

「言っとくけど、財布はブティックに置いて来ちゃったから」

「違ぇよ。じゃなくてコイツ」

「コイツじゃなくて、オランダ王室第二王女のリリーちゃんよ」

「……そのプリンセスリリーちゃんとやらの話は本当なんか?」


 期待の眼差しで鈴木を見上げる少女ことプリンセス・リリー。

 事の経緯を一通り聞かされ佐々木だったが、今一つ信用に欠ける様で半信半疑だった。オランダ王室王女がドイツで、しかも誘拐され、更には続けて別の誘拐にも遭い、置き去りにされた挙句、日本人捜査官に拾われたのである。全てリリーの妄言か鈴木の翻訳ミスを疑うのは当然と言えば当然だった。


「しかも七歳って、間違いなく十二歳前後の身長(百四十以上)はあるぞ……」


 自身を七歳と主張するリリーの歳不相応な体格も、佐々木に疑問視させる一助となっていた。


「オランダ国民は世界的にみても高身長なんだから、そこまで不思議じゃないでしょ?」

「しても早過ぎるやろ。十歳でこれなら…まあ、納得出来んことも無いけど…」


 ぶつぶつと洩らし気にする佐々木は徐にリリーの両脇に手を突っ込み持ち上げる。


「「?!」」

「四十五~六キロ。少し重い気もするが、高身長ならこんなもんガッ?!!」

「そういう所だって言ってんでしょっ!!」


 目を白黒させるリリーを佐々木から引っ手繰り、抱きかかえる鈴木は佐々木の頭を叩き叱り付けるのだった。







「………Uma」

「美味しいだって」

「そりゃあよかった。ほらっ、リリーも遠慮せずにいっぱい食べな!」

「Dank u,mevrouw」


 佐々木とリリーの前に出されたのは初めて見る白い焼き菓子だった。


「料理の仕方からカザンビディ(大きな鍋の底)っていうのよ」

「かずんぴぃて…」

「かぜんぺぇぃ…」

「 ……… 」


 鈴木の説明にオウム返しで適当に呟く二人の意識は初めて味わう未知のスイーツに釘付けであった。

 温かいぼってりとした俵型の白い生地に、パリッと少し焦げた表面の薄いカラメル。断面から溢れ出すしっとりと滑らかなそれはミルクのほんのりとした繊細な甘さを口の中に伝えてくる。カスタードクリームのような柔らかさと、白玉のようなモチモチとした触感は、プリンの親戚か従姉妹といった感じだ。


「トルコのお菓子って、歯が融け出す様な甘さが普通なんやけど」


 スプーンで湯気の上がるカラメルを割り、とろりと伸びる生地に絡め一緒に頬張る。


「本来は鶏肉も入れるカザンビディは、米粉なんかも使ったりする分、お菓子っていう感覚からは少しずれているのかもね」


 舌鼓を打つ鈴木は寒い時期ならではの味わい深さに目を細める。


「ほー…」

「うー…」

「 ……… 」


 早々と食べ終わった二人の興味は鈴木の解説ではなくまだ一口しか手を付けていない皿の上に移っていた。


「……リリーはともかく、アンタは自分で頼めばいいでしょ」

「ん? そりゃそうか。じゃあ、カゼービテーを一つ、それを二つに分けるかんじで」

「…みみっちぃ」

「…二個は多過ぎるだろ」

「ケチってるだけじゃないの~」

「健康に気を遣ってるだけだ」


 下らない事で再びギスギスし始める二人にアセナも呆れ顔で口を挟む。


「いい加減にしなよ。それとベル、払ってもらうんなら文句は言わないことだね」

「良いじゃない、別に。後でちゃんと返すもん」


 脹れる鈴木は自分の皿の半分をリリーの前に。


「リリー、私の半分、食べても良いわよ」

「おい、甘やかすな」


 ぱっと顔を綻ばせるリリーを尻目に、さっと皿を鈴木の方へ押し返す佐々木。


 今度は何も言い返さず、ムキになる鈴木はスプーンで中身を掬うとリリーの口元へ。

「リリー、あー ―――」


 だがスプーンの先が口の中に運ばれる事は無かった。


「――― え?」


 スプーンを持つ手ごと乱暴に掴まれ、鈴木はリリーを巻き込む形で佐々木に強引に引き寄せられてしまうのだった。

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