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四ヶ月後 『写真と紙袋と縫い包みと』

今更ですが残酷な描写が含まれます。

「助けてくれ」


 窓という窓がカーテンで閉め切られ電球も点いていないリビングの隅で、身体を丸めて震えるティムール・サリフの呟きは暗闇にとけて消えた。


「誰か…」


 がらんとした寂しげなリビングの中、ティムールの言葉に応えてくれる人は誰も居ない。

 それでも助けを求めずにはいられないのか、男は再び弱弱しく助けを求める。


「誰でもいいから」


 物言わぬ倒された写真立てが。

 鳴り止まぬ同僚達からの電話が。

 ゴミ箱に捨てられたコーランが。

 床に転がる金の結婚指輪が。

 家族を、生活を守る筈だった家の全てが啜り泣くティムールを責め立てていた。


「ッ?!」


 リビングテーブルに一匹の蠅が舞っている。

 その小さな羽音さえ、今は恐怖と絶望の対象だった。


「息子を………」


 ティムールの助けに応えてくれる家族は、神はいない。

 小さく、けれど耳に残る音を立てて旋回していた蠅はローテーブルに置かれていた包み箱の中へ、意地汚く拝むように、手を擦り合わせつつ嬉々としてそれ(・・)に口を付ける。

 いまだ瑞々しい断面を見せる、皺の少ない、ほっそりとした柔らかな指先へ。

 指輪の跡が残る、右手薬指へと。


「助けてくれぇっ!!!」


 ドラマのオーディションを受けに出掛けたティムールの息子が、付き添いで連れ立った妻を置いて行方をくらまし、四ヶ月が経った。

 一時期はメディアにも晒され、同情的な励ましや憐みを多くの人々から向けられていた。

 『何故、貴方は同行しなかったのですか?』などと、夫婦に心無い非難を向ける声も多数上がりもしたが、それでも正気を保って息子の生還を願い続ける事が出来ていた。

 風の噂で同時多発的に同様の誘拐が全国で起きていた事を知り、不謹慎ながら規模が大きい分『国を挙げての捜査がされる』と期待してもいた。

 ひと月ふた月と経つにつれ、当たり前の様に息子の存在が世間から忘れ去られていく現状に耐え、夫婦共に待ち続けた。

 捜査の進展を。解決を。

 息子の帰りを。

 誰に言われずとも、夫婦は辛さを隠し平静を振る舞い普段の生活を変えなかった。

 日々を嘆いて過ごすでもなく、酒や薬に溺れ苦しみを紛らわすでもない。

 変わらぬ生活を、仕事を、信仰を貫いていた。

 帰りを信じ、解決を信じ、教えを信じ、正義を信じた。


『息子を殺されたくなくば命令に従え』


 三週間程前に送られて来た息子の夏服に、なんとか保てていたサリフ家の正気はあっさりと崩壊する。

 同封されていたのは拳銃一丁と一枚の写真。

 写真の裏には先の一文が。

 詳しい命令の内容が書かれた物などなかったが、その目的は十分理解出来るものだった。

 その日の内に、ティムールは仕事と信仰を捨てる決心をしたのだった。

 街外れにある同僚の家へ向かう間の出来事はよく覚えていない。

 ただ、突然の来訪にも関わらず快く自身を招き入れる同僚夫婦に対し、慰めの言葉を発する友人達に対し、怒りと悔しさが芽生えたのは確りと覚えていた。


『自分が一緒にオーディション会場へ行かずとも、息子はきっと攫われていた』

『自分を手駒にする為、遅かれ早かれ犯行は行われた』


 ティムールは自身を無理矢理納得させる。

 自身の手を汚さず殺人を望む何者かが、大勢いる標的の同僚の中、サリフ家を選んだのは全くの偶然だったのだと。

 タガの外れたティムールの中で、何かがぐるぐると暴れまわる。


『お前さえいなければ』


 暖炉脇に掛けられた、クリスマスまでの日数を数える為だけのアドベントカレンダーを見て思う。


『家族と今まで通り、平和に暮らす事が出来た筈なのに』


 子供達の笑い声が聞こえた。


『息子は何も悪くないのに!!』


 どれだけ平静を装うと、信じた振りをしようと、ティムールはとっくに諦めていた。

 なのに可能性をチラつかされてしまった。

 このまま忘れたかったとティムールは涙を流す。

 日に日にやつれて行く微笑む妻の姿を見たくはなかったと大声で喚く。

 疲弊していく心が求めたのは終わりだった。

 本当に待ち続けていたのは息子の生還ではなく遺体の帰還で、望み続けたのは犯人の逮捕ではなく穴だらけになった死体だったのだ。

 生死の答えと罪の居場所が明確にならないまま、真っ当な憎悪が誤った相手へと吹き出す。

 ティムールは引き金を引く。

 一発。

 二発。

 三発目の銃声は自分の肩に。

 振り返り四発。

 五発。

 女の子の悲鳴が酷く耳障りで、残りを全部撃ち込んだ。

 拳銃を倒れ重なる同僚だった家族の側に捨て、火を放った。

 無理心中に見立てたのは醜い嫉妬故か、ティムール自身にも解らない。

 ただ、妻に息子が帰って来るのだと、これで息子は助かるのだと、笑顔で誰も居ない家の、玄関のドアを開けたのは確かだった。

 そして今朝、新たに届いた一枚の写真を手に、再びふらふらと雨降る街をさ迷い歩く。

 同僚を一人だけではなく、一家全員を殺害したティムールに救いが訪れる筈もなかった。

 妻が笑顔で帰りを待っている筈もなかった。

 写真の裏に命令も無ければ、拳銃も同封されてはいない。

 だからといってやる事が変わる筈も無かった。


「誰も……助けてくれないんだ」


 寒さと肩の痛みの所為で思うように力の入らない手を握りしめた。

 ティムールは薄々気付きながらも目を逸らす。

 自分は悪くないと言い聞かせる。

 全て殺しを依頼してくる奴が、殺される奴らが悪いのだと。

 死んでくれと望まれる連中が居るから、関わりの無い自分の家族が殺されるのだと。


「俺が助けなきゃ……いけないんだ……」


 握り潰された写真は以前と同じ、かつて職場で知り合った異国の同僚だった。







「ボクは悪くない。ボクはなにも悪くない。だって……これはしょうがない事だから。結局誰かがやる事と同じ事をボクがたまたまやるだけで、だからボクの所為じゃないからボクは悪くない筈だ」


 そんな、何の根拠も無い責任転換と自己肯定を青い顔で一人ぶつぶつと呟く奇妙な少年を横目に、雨も降っていない何故かずぶ濡れの男がべちゃりとベンチに腰掛ける。

 男が隣に座った事も気が付かず、大きな紙袋を抱える少年は尚も深刻に呟く。


「大丈夫。大丈夫。大丈夫。ボクの所為じゃない。ボクの行いは正しい。何も間違っちゃいない。百人いれば百人とも同じ行動を執る筈だ。それはつまり……百人がボクの行いを正しい選択だと認めてくれている事と同じなんだ。大丈夫。大丈夫。大丈夫」


 全く以て大丈夫じゃない少年だが、隣の男は気にしない。

 それは勿論、赤の他人だがらというのも有るが、単純に男の機嫌がとても悪かった事も有る。

 今しがたパラパラと降り出した雨の中、雨をしのげる場所へ移動しようともせず頭を抱える気味の悪い少年の隣で、ずぶ濡れであることも差置きグルグルと唸り声を上げる位にはご機嫌が悪かった。

 もしかしなくとも呪詛の様に『大丈夫』と独り言を繰り返す少年よりも不気味だったかもしれない。

 だがそんなこと、少年の方だって気にしてはいなかった。


「あっ、貴方もボクの行いが正しいと思いますよね?」

「……?」


 声を掛けられ、漸く意識を少年の方へ向ける男。

 だが質問に答えはしない。

 答えるどころか質問の内容さえも聞いてはいないので、首を傾げるだけである。


「何も間違っていませんよね? だって、ボクはクラスメイト達を、好きな女の子を助けなきゃならないんですよ? しかもたった一人で!」


 どうやら人助けを行いたいらしい少年に、やはり男は首を傾げる。

 そんな事、他人に聞くまでもなく正しい事であろうにと。

 何を悩む事があろうかと。

 だから男は考える。

 彼はきっと、成功するか如何かが、クラスメイト達や好きな子を本当に助けれるのか確信が持てず、自信が持てずに不安なのであろうと。


「君は、助けたいん、だ」


 少年は驚く。

 断定する様な口振りに。

 思ってたよりも高く掠れた声に、子供が風邪をひいた時の様な若々しい声に。

 自分よりも年下なのではないのかと。


「助けたい、なら、悩んじゃ、いけない」


 少年は確かに答えを求めてはいたが、その鈍い反応に諦めかけていた。

 ただ、それでも問題はなかった。

 やっぱり自分の行いは間違っているのだと、無謀な事などするべきではないのだと。

 無理に納得し諦める理由を、見捨てる口実を欲し探していたのかもしれない。

 だが偶然にも隣へと腰かけた男は、少年が逃げる事をよしとしなかった。

 少年が逃げる為の手伝いをしなかったのだ。


「正しいか、どうか、は、問題、じゃない」


 不安と恐怖で震えていた瞳に、何がが宿るのを感じた。


「大切な、もの、守りたい。それは、とても、とても、重要な、こと」


 喉が痛いのか、つっかえつっかえの単語の羅列。

 それでも、すんなりと少年の耳に、頭に、奥深い所にじんわりと染み渡って行く。


「足掻く、べきだ。最後まで」


「最後まで……」


 うんうんと頷く男の隣、紙袋を力無く抱えていた少年はその言葉の意味を噛み締める。

 肯定も否定もなかった。

 お悩み相談でありがちな、体の良い言い回し。

 それでも、事実だった。

 少年が本当に守りたいのは自分の心ではなく、大切なもの。

 重要なのは、守りたいと思う気持ち。


「大事なもの、好きなもの、愛する者、守るには、戦うしか、ない」


 男の言葉に背中を押された少年は立ち上がる。

 貰ったのは、言葉以上の何か。


「……ボクに出来ると、皆を助けられると思いますか?」


 これで無理だと言われても少年は怒らなかっただろうし、決意を鈍らせる事もなかっただろう。

 それでも、駄目押しとばかりに男は少年の曲がった背中を大声で叩く。


「出来る、出来ない、は、問題、じゃない!! おま、え、が、助けるんだ!!!」


「はいっ!!!」


 雨脚が少し早くなる中、曲がっていた背を伸ばし少年も駆け出した。







「……姉さん……俺は、俺は……なんて事を……」


 コンラットはオレンジ色の巨大な兎の縫い包みを抱え、ぐずぐずと泣きながら歩いていた。

 何所かの少年と同じく、ぶつぶつと独り言を呟き、泣き腫らした赤い目元を擦っている。

 手入れのされていない伸び放題の髭に、傷んだぼさぼさの長髪。

 パッと見、スーツを無理矢理着させた浮浪者に見えなくもない。

 元の顔が良いからか、不衛生極まりないみすぼらしい形でもそこまで不快感は覚えないが、それでも痩せこけた頬と落ち窪んだ目はそこいらの浮浪者よりも十分不健康で、見る者を自然とはらはらさせてしまう危うさがあった。


「おいっ! 確り歩け! そんなんじゃまたラリってると思われるぞ!?」


 そんなコンラットの腕を引き、無理矢理歩かせるのは小柄な男、ヘンドリックだ。

 本人はそこまで身長が低いとは思ってはいないが、後ろを俯いて歩くコンラットと比べれば大人と子供の程の差は確実にあった。


「あんなでけえ子供抱えてそんな遠くにゃ行けねえだろ!! 地下鉄使える様なマトモな奴じゃねえのは確かだから十分間に合うっ!!」


 身形はきっちりとしているものの、白髪交じりの後退した前髪が老けた印象を強よく持たせる。

 だが哀しいかな。

 不健康そうでも十分若々しいコンラットとは同い年である。


「そんなの分かんねえぇよ……車使ってるかもだろ……」

「うるせえよ!! そんな事よりさっさと泣き止みやがれ!! さっきから俺の頭をてめぇの鼻汁が確実に濡らしてんだよ?!!」

「……多分、それ…鼻水じゃなくて、涎……」

「知るか変わんねぇよバカっ!!??」


 ああ言えばこうと返すばかりのコンラットにイラつくヘンドリックだが、情けない相方を慰め様と必死なのが伝わる。


(俺は何時までこんなこと続けなきゃなんねえってんだチクショウ!!)


 伝えきれない内心はコンラットを傷付けまいと口を堅く閉じ我慢する。

 幼馴染であるから。

 親友であるから。

 他にも色々とコンラットに対する抱えきれない想いから、彼と彼の家族を助けるべく犯罪の肩棒を担ごうとしているヘンドリックは間違いなく度を越したお人好しであった。


「とりあえずその邪魔くせえ兎を捨てろ!! 目立ってしかたねえ!!」


 大声で大男相手に怒鳴り散らし手を引く姿自体が目立つという事に気が付かないのは、彼が幼い頃から幾度となく落ち込む相方に対し繰り返して来た事だからだろう。

 そして手を引かれても振り払わないこの男も色々と麻痺している。


「ダメだっ!! これはエリスが帰って来た時に……かえって……か、えっ」

「~~~~~~ッ」


 急に立ち止ると、抱えた兎の腹に顔を埋めしゃがみ込むコンラット。

 その駄々っ子の様な姿を見てヘンドリックも一気に脱力し石畳の上へ座り込んでしまう。


(こっちは神経擦り減らして気を遣ってんのに自爆してんじゃねえよ……)


 自身の姪の名前を口に出してしまい、一気に不安と恐怖に襲われるコンラットは唇を噛み身体を震わせ啜り泣く。


(……いい加減によぉ)


 ズボンが濡れるのも気にせず、ガリガリと頭を掻くヘンドリックは雨雲を仰ぐ。

 こんな筈ではなかったと悲観に暮れる。

 十歳のエリスが攫われて四ヶ月。

 コンラットの親戚家族との関係は修復が望めないまでに崩壊していた。

 というのも事件当日、ドラマのオーディション会場に同行していたのがコンラットだったからだ。

 本当の兄弟の様に接していた義兄でさえコンラットを責め、詰り、罵った。

 オーディションを勧めたヘンドリックも同罪と言わんばかりに、一緒に殴られた。


(諦めりゃあ楽になるってのによぉ……)


 つい昔の様に、嗚咽を漏らす小さな頭を慰める為、ヘンドリックは手を伸ばす。

 姉しか身寄りのなかったコンラットは家族に執着していた。

 意志薄弱故に自身で家族を創る事も出来ず、亡き姉の夫家族を必死に引き留めようとする姿は時々目を覆ってしまう程痛々しいものだった。

 コンラットがエリスを愛していたのは間違いなく、確かに義兄家族を繋ぎ留める存在でもあったけれど、それ以上に自身と同じ血が、姉と同じ血が流れている存在が居るという事実が、彼に安心感をもたらしていたのだ。

 一人ではないのだと。


(……お前はまだ、本当に一人になっちまったわけじゃねえだろ?)


 血の繋がりだけではないと、そう慰める事は憚れた。

 ヘンドリック自身、家族というものをよく理解していからだ。

 ぼさぼさの金髪を梳こうとした手は動きを止め、引き戻される。


(お前も、俺を責めりゃあ楽になれるだろうによぉ)


 ヘンドリックは立ち上がり、再び力無く垂れた腕を引く事しか出来なかった。

 きっとエリスは返らないと、ヘンドリックは断定する。

 それでも付き合うのは、諦めさせる為。

 これはコンラットが立ち直る為には必要な事なのだと、彼の手首を引く。

 きっと傷は癒えるのだと信じ、ヘンドリックは歩き出した。

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