二章 『病室とお見舞い』 その3
二章、半分といったところでしょうか。
ここが病院の廊下とは思えない程の勢いで九里浜とじゃれていた片岡。
天井擦れ擦れにまでに持ち上げられていた九里浜は涙目だったものの、特に気分を害した様子も無く着地後に乱れた髪を手櫛で整えつつ『見てませんよね?』とスカートの裾を気にする余裕もあった。
それに対して気の回らない片岡は『何をだ?』と返し、深くは追及しなかった九里浜が頬を染めたりと、終始和やかな雰囲気に包まれていた。が、そこへ突如放たれた片岡への容赦の無い蹴り。
気が緩んでいたというのもあるが、広い背中へと鋭く突き込まれたそれは巨体の片岡に踏鞴を踏ませる程のものだった。
不意打ちの衝撃に驚きつつ馴染み深いその鈍い痛みに低い呻き声を漏らし顔を顰める。恐らくは不機嫌な様を隠そうともせず、背後で仁王立ちの幼馴染に対し、苛立ちよりも面倒くささが上回る。
眼前に居た九里浜も急に顔を歪ませ体勢を崩した片岡に何事かと驚き、身を屈めその高い又下から奥を覗き見て顔を青ざめた。
「こ、こんにちは。一先輩」
片岡の膝にしがみ付き、その太い脚に半身を隠しつつ九里浜は引きつった笑みで恐る恐ると。
「……何時からおったんけ、かず」
背中に腕をまわし、手の甲で痛む箇所を摩る片岡は億劫そうに顔を向けた。
二人の視線の先には白縁眼鏡を掛け、今風に分けられた茶髪七三頭のハンサムな中年顔。前髪の隙間から覗く額に青筋を走らせ、恐ろしい程の笑顔で腕を組み佇む男が一人。
細長い指先で眼鏡の位置を直しつつ、溢れ出る苛立ちをギリギリ理性で抑え付けているのであろう、震える低い声音で一言。
「黙れ」
有無を言わせないその命令に口を噤み、二人は顔を見合わせる。
『どうにかして下さいよ』と懇願する大きな瞳に『諦めろ』と青紫色のピアスが揺れた。
九里浜の三度目の悲鳴を聞き何事かと慌てて駆け付けたらしい佐々木一百合は、普段ならば嫌味の一言でも投げかけ終わりの所、休憩所の隅で十分ほど二人に説教を行った。
苛立ちを抑え淡々と、声を荒げることなく語る佐々木に二人は最後まで弁明の機会を与えてもらえず説教が終わった後も『暫くそのままで反省していろ』と二人を置いて立ち去り更に十数分。
休憩所を利用する人達に遠巻きで見詰められ、いたたまれず漸く立ち上がった片岡は足が痺れ動けない九里浜を抱え近くの椅子に座らせた。
片岡自身、確かに場所が悪かったと改めて自省する。
病院内という理由は勿論の事、此処には髙山珊瑚が匿われているのだ。
其れが意味するところは『未だ拉致事件に方が付いていない』というものだった。
拉致事件発生から八日目。
被害者の生還は絶望的と多くの刑事が考える中、新たな事件が発生し警視庁内は一時騒然となる。
浴衣を纏った女性による権田警備部長の拉致。当然、二件の拉致事件を同一犯のものとする声が多く、『このままでは最初の事件までもが鈴木の犯行にさせられるのでは』と危惧した大乃達であったが、事態は更に予想も付かない方向へと動き出す。
数時間後、警備部長と共に被害者の一人が発見され、その後の事情聴取で警備部長が拉致実行の首謀犯である事を自供しだしたのだ。
数時間の空白。その間自身は一人だったと押し通した権田。
確かに鈴木も一緒に居たのだがそこで何が在ったのか、何故鈴木の事を語らないのかは分からず仕舞い。
詳しい事は何も語らずただ首謀犯であることを認めた権田と、数時間の間に何があったのか詳細を伏せる鈴木。ただ二人揃って『残りの三人の所在は掴めない』と繰り返すだけ。
鈴木達の存在を公に出来ず権田の自供に助けられた形となる大乃は嫌がらせや腹癒せとばかりに浴衣姿の女性については『偶然にも権田が数時間雲隠れする前に居合わせた唯の不倫相手だった』と言い触らす事で落とし前をつけさせる。
そんな感じでいいのかという片岡達の突っ込みに、意外にも警視庁内部から異論の声は上がらなかった。
一人、山だけが納得がいかず騒ぎ続けていたがそれは別の話である。
事件は依然未解決で警護を任されていただけの片岡達にとってその目的等も不明瞭なまま。発見された珊瑚は意識も無く、衰弱していた為に緊急入院。
これに不安を募らせる髙山の妻、つまり珊瑚の祖母は病院に誰か警護が出来る者をと夫にせがんだ。
しかし、警視庁の幹部が首謀犯で実行犯が当の警護官だったと判明した今、安易に警察組織の関係者を警護に回せる筈も無く、謹慎処分で軟禁が決定した鈴木の要求を呑み込む形となったのだ。
そんな緊張状態にある病院内で空気の読めないお祭り騒ぎである。これが一般の見舞い人なら兎も角、関係者である片岡が一般人の後輩を巻き込んでの行いである事に佐々木は純粋に腹を立てていた。
「病院内で騒ぐなま」
「お前達以外の人の事も考えんか」
「アイツも嫌がるわ」
「見とるこっちが恥ずかしい」
「同じ高校に通っとんがやから母体の病院に目ぇ付けられてみ、俺まで要らん事いわれる」
「女子が男の又下に頭突っ込まんなま、はしたないやろ」
先程の小言を思い出し『もしかしてそこまで考えてはいなかったかな』とも思う。
短気で口より先に手足が出る佐々木ではあるが、自身よりも気が回る事を知っているだけに、九里浜の手前大っぴらに言えなかっただけだろうと勝手に納得しつつ、胸ポケットから小銭入れと見紛う縦長財布を取り出し自販機に向かい合う。
「何か飲むけ?」
「……」
折角休憩所に来たのだからと、片岡は気前よく財布を開き自販機の頭に小銭を広げつつ声を掛ける。
しかし、椅子に座らせた九里浜からの返事は無い。
振り向けば先程よりも涙目になり顔を真っ赤にした九里浜が椅子の上で膝を抱え、此方を睨みつけていた。
驚きで固まる片岡に対し、人目の多い所で説教を食らいおまけに立ち上がれないからと赤ん坊の様に抱き揚げられた九里浜は羞恥に震える声で『オレンジジュース』と答えた。
片岡は九十円の紙パックではなく、百七十円の小瓶を選んだ。
昼食の時間を知らせる院内放送がかかる。
車輪の付いた大きな配膳台を押す職員が時折病室の手前で止まり、患者に合わせた食事を盆に載せ運ぶ姿が目に付く。
その光景に片岡は、自分達の存在が酷く場違いに思えた。
給食の時間に教室から抜け出した気分を味わいつつ、実際に今は学校でも給食の時間である事を思い出す。自身が未だ学生である事を妙な瞬間に突き付けられた高校生の片岡は隣の中学生を見遣った。
軽い足取りで、その顔は楽しそうに笑みを作っている。
本当に楽しみなのだろう。
態々平日の真昼間に制服のまま見舞いにやって来るほど。
貰った紅をさしてくるほど。
御転婆ではあるが、決して不真面目な訳では無い九里浜。そんな彼女にとって学校をサボタージュするのは存外、大きな冒険だったのではという考えに至る片岡は休憩所での事をちょいちょい弄られつつ、もうこのまま一緒に鈴木の病室へ行っても良いのではないかなとも考え始める。
病室で仲良く最近の出来事を話し合う鈴木と九里浜を思い浮かべれば微笑ましい気持ちにさせられ、佐々木はしかめっ面でそれを眺め、鈴木と九里浜に茶化されるのだ。
ルージュが似合っていると言われ舞い上がる少女に、ませ過ぎていると男二人が口に出す。今日の休憩所の事をうっかり話してしまい、再度二人から小言を貰うのだ。
(普通やなぁ……)
改めて想像する事でも無く、普通の女子中学生としての行動しか取らない九里浜に片岡は胸中、罪悪感にも似たもやもやとしたものを募らせる。
思えば先程の説教の時、学校へ戻る様にと説得の役目を佐々木から押し付けられた気がしないでもない。
如何した物かと悩む片岡。
しかし熟考する時間は無く、勝手知ったる病院とばかりに九里浜が『もう直ぐで着きますよ』と声を掛けて来る。
『ああ』と生返事で病室のドアを見詰めた。
鈴木菊次郎と見慣れた友人の名前が書かれたプレートへ、ゆっくりと伸ばした手がドアの取っ手に掛かる。瞬間、堅い金属音が廊下に響き渡った。
「大丈夫ですか!?」
九里浜が駆け出す。
遅れて、音のした方へと顔を向ければ横転した車椅子に落ちたボストンバック。両脚を投げ出して廊下に蹲る私服の男性。片岡も慌てて男性の元へ駆け付けた。
九里浜より先に着いた片岡は男性に声を掛け意識の有無を確認する。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
そう、しっかりと受け答えする男性に安堵しつつ、頭部を打ち付けていないかの確認もする。
車椅子を起こそうとする九里浜を横目に、男性の様子を改めて確かめ、動かしても問題は無さそうだと判断した片岡は『持ち上げますよ』と声を掛け膝裏と背中に腕を回す。
予想以上に軽々と、想像以上に高く持ち上げられ驚いたのだろう男性は思わずと言った感じで片岡の首に腕を回してしまう。
「あ、すみません」
気まずそうに顔を赤めつつ腕を解こうとする男性に、このままでと静止を促す片岡はゆっくりと跪く。
起こされた車椅子に男性を乗せる為、膝裏に回した腕の方向を変え、正面から向き合い抱上げる様な形で足から順に降ろしていく。
その慣れた手つきに九里浜と男性は感嘆の声を漏らした。
男性が車椅子に収まった時、鈴木の病室から佐々木がゆっくりと顔を出し、声を掛ける。
「大丈夫か」
「おう、ちょっとこの人送ってくわ」
「ん」
短い遣り取り。
車椅子に座る男性を見て前後の状況を察したのか、それともずっとドアの影で聞き耳を立てていたのか、佐々木は片岡に任せて問題ないだろうと判断し何事も無かったかのように顔を引っ込めた。
「お前はどうする?」
先に鈴木の病室へと行っているかと尋ねる片岡に、一緒に送りますと九里浜は車椅子の背中のハンドルを握る。
何時の間にか目的地にまで同行してもらう事になった男性は一頻り礼を述べた。
退院で少し浮かれていた。
そう語る男性の肌は青白く、バックの大きさから長期の入院患者だった事が窺える。
男性にしては細い体のラインからも虚弱な印象を受けた。
小柄な九里浜では車椅子の操作が不安だと、片岡が荷物を肩に掛けた状態で押すことに。
速すぎず遅すぎず、落ち着いた足取りで歩く片岡と、元気よく男性に声を掛け続ける九里浜。
聞けば鈴木と面識が在ったらしく、何度か見舞いに来る九里浜も見掛けた事が有るとの事。
もっと早く声を掛けてみれば良かったと語る男性の笑顔は若々しく、思ったより年は離れていないのかもしれない。
何事も無く病院の出入り口へと戻って来た片岡と九里浜。
男性が呼んでいたのであろうタクシーを見付け、やはり慣れた動きでタクシーの後部座席に男性を乗せる片岡。
車椅子も畳みトランクに乗せようとするが。
「あっ、車椅子は病院の物なので」
窓を開けて声を掛ける男性に頷き指にかけたままの車椅子を肩に。
「有難うございました。最後まで申し訳ありませんがその車椅子、病院の方に返すのをお願いしても?」
既にタクシーに乗ってしまった男性からの頼みを断れる筈も無く片岡は再度頷く。
「ああ、それと鈴木さんですが、今日は昼食が終わったら直ぐ検査で半日は拘束されるってぼやいてたよ?」
その一言に片岡は無い方眉を持ち上げる。
「えっ、 本当ですか!」
「サプライズのお見舞いはまた今度だね」
「う~~、一先輩さえ居なければ…」
悔しがる九里浜を微笑ましく見詰める男性は『じゃあね』と窓を閉めた。
笑顔で大きく手を振る九里浜に男性も応えタクシーは動き出すなか、片岡は訝しげに無言でそれを見送った。
「竜先輩! 私は取り敢えず学校に戻りますけど、先輩は如何します?」
「あー……、かずが戻って来るまで待っとるわ」
視界に入らない高さの片岡の表情の変化に気が付かない九里浜は外に出たという事もあり、幾分かボリュームの上がった声で答える。
「分かりました! じゃあ車椅子お願いしますね! あ、オレンジジュース御馳走さまでした!!!」
恐らく本日一番の声と笑顔で挨拶とお辞儀を済ました九里浜は勢い良く駆け出す。
「おう。気を付けてな」
そう声を掛ければ振り返って手を振る少女に自然と手を振り返す。そして、別れのタイミングを見計らっていたかの様に胸ポケットのタブレットが通話の着信音を奏でる。
片手に収まったスマホサイズに見えるタブレットの画面には『菊』の文字が映っていた。
『もう、びっくりさせんといてよ。急にあの高さでお姫様抱っこやもん。てゆうか私、初めてだったんですけどー。 あ、椿には内緒にしといてよ。絶対面倒臭い感じになるから! 絶対させてって言うから! 別にして欲しくないって話じゃないがやけど、ほら、私の方が背ぇ高いやろ? 重いとか言われたらややし。その辺は紫陽花が本っ当に羨ましい…って別に竜胆の彼女になりたいって話じゃ無いがよ!? 体格差! 体格差ね! まあ正直、七十五センチ差ってのも有り過ぎる気がしないでもないけど……。でもマイナス七センチ差なんよ私ら。ちょっと底厚い靴履いたら見えるんよ、旋毛が! まあ、それはそれで可愛いから良いがやけどね!! あっ! これも内緒ね! またカッコイイ方がいいとか言い出すから!! もう身長に関しては諦めても良いがにねえ……竜胆はどお思う?』
「取り敢えず男の声のまま喋んなま」
受話口の向こうから聞こえてくる声に、先程の車椅子の男性がタクシー内で喜々として女性的に話す様子が目に浮かぶ片岡はげんなりと呟く。
『仕方無いやろぅ、車内でいきなり着替える訳にもいかんしぃ』
「業とらしく語尾跳ねさせんなま」
『はーーい』
元気の良い返事を返す男性こと、変装した鈴木菊次郎に深い溜め息を吐く片岡。
『大丈夫? 結構お疲れみたいやけど』
「誰かさんの所為でな」
『ちょっと! 頼子ちゃんの事悪く言わんといてよ!? あの子は何時も一生懸命なだけで…』
「お前の事なんやけど」
『え~~~』
「え~~~、じゃない」
片岡はもう一度溜め息を吐き出すと、正面の病院を見上げる。
来院してもう一時間は経とうとするのに何一つ成し遂げていない現状に辟易しながらも片岡は問い質す。
「今日の集会、どうなった」
『まだ始まって無い筈。今んとこ竜胆含めて九人。多分、というか間違いなく牡丹ちゃんについての意見交換。場所は私が居た病室で。一応お見舞い出来るよう、あの子も移しといたから』
先程とは打って変わり、真剣な声で語る鈴木。
「……お前、未だ謹慎処分中やろ。勝手に出歩いて良いがか」
『それがそうも言ってられない感じでさ、悪いけど暫く隠れて色々するつもり』
「一人でか?」
何所で何をするかなど詳しい事は語らない鈴木に対し問い詰めることはしない片岡。ただ、一人で平気なのかと身を案じる一言に鈴木は嬉しそうに微笑む。
『大丈夫。伝手もあるし平気よ。ありがとね』
その言葉を信じ、片岡はそうかと頷く
。
「こっちは適当に説得しとくから、何かあったら直ぐ連絡しろよ」
『うん、牡丹ちゃんのこと宜しくね。私も……竜胆に脱走手伝ってもらったって皆に言っておく!』
「おいっ!!」
結局、最後までふざけた調子で鈴木からの通話は終わった。
普段は余り見せる事の無い子供っぽい鈴木の対応。
不安を押し隠してか、それとも余裕の表れか。
幾ら十年以上の長い付き合いだからといって表情どころか人相までも隠せる様に成ってしまった親友の心境を推し量ることはできず、やれやれと首を振る片岡はタブレットを胸ポケットへと仕舞い歩き出す。
学校へと戻って行った、小さな日常へと背を向けて。
ゆっくりと。