二章 『病室とお見舞い』 その1
短いです。
警視庁内が騒然とした夏から二ヵ月。
残暑も落ち着きを見せ、冷房を止めて空調の温度を気にしなくとも良い過ごし易い日々が始まり、風邪か花粉症か、咳にくしゃみにと病院へ掛け込む人々が増え出す紅葉には未だ少し早い、そんな季節。
都内某所にて一人の男が自動ドアを潜り、大学付属病院内へと足を踏み入れた。
「うおっ?!」
「きゃあ?!」
と同時に、出入り口近くで軽い悲鳴が湧き上がる。男が後ろや近くを通り、その存在に気が付いた者達が驚きで上げた悲鳴だ。
流石に失礼だったと、気まずそうに頭を下げて行く人々に男は軽く会釈をして受付へと足を進めていく。その出入り口からの短い道中、すれ違う人達は皆等しくその男を見上げ、後ろ姿を見詰めていった。
白衣を羽織った若い医師。
マスクを付け咳き込む老人。
ふくよかな体形の中年の看護師。
病院内を行きかう人々が男の姿を目線で追いかけていた。
そんな中、男は顔色一つ変えずゆったりとした足取りで受付を目指す。
白く横に長い受付カウンターと大きく開かれた窓口。その向こう側では数人の看護師と事務員達が常に行き交い、奥の棚にあるカルテや薬剤を手にする姿が見える。それらは診察室や病室へ、診療を終えた患者へと手渡されていた。
そういった、受付以外の業務もこなしていた職員達の動きが突如停止する。
「どうも」
ぼそりと呟かれた小さな言葉。
低く、ゆっくりとした声が受付嬢の頭上に降りかかる。
「……ど、どうも」
なんとか業務再開を果たした受付嬢は目を丸くし見上げた。
天井と頭頂部が触れ合う男の顔を。
「しょっ……初診、でしょうか?」
同僚達が遠巻きに様子を窺っているのを背中で感じつつ、目の前の男性へ背を反らし、顔を上げ、声を投げかける受付嬢。
(でっか?!)
ほぼ垂直に見上げる形となった受付嬢。椅子に座った状態では首が辛いと気が付いたのか、何となくその場で立ち上がってみると、自身の目線が高くなる事で男性との身長差が明確になり、その巨大さが更に際立つことに。
天井に擦り付く様に見えた頭頂部はほぼ真下から見上げる事で生じる天井との距離感が掴めずに起きた目の錯覚であった。だが、それでも見上げる程の高さに顔がある。
(口元と鼻の穴しか見えない)
返事が無いのをいいことに、大男をじろじろと観察し始める受付嬢。
袖が七分丈の白いカッターシャツと黒のスラックスに、見た事も無い様な大きさの黒い革靴を履いている。腰に巻いた黒紫色のベルトも柔道着の帯の様な太さと厚さだ。
明らかに特注品と分かる巨大な衣服。その全身を覆う布面積は垂れ幕かカーテンでも作れそうな量である。
細やかなモザイク調の柄が入った黒紫のベルトが毒々しく異彩を放つが、皺一つ無いシャツとスラックスに磨かれた革靴やベルトのバックルが清潔感を漂わせている。シャツは襟元の第一ボタンまでしっかりと閉じられ、裾もきっちりとスラックスの中へ。
綺麗好きで几帳面。
受付嬢が出した男の服装に対しての総評である。しかし、服装のみの印象はその一言に尽きるのだが、優に二メートルを越えるその巨体。その所為か見た目は爽やかであるも、言い様の無い威圧感と圧迫感を放っている。男性の腰の位置が高い所為で禍々しい柄のベルトが目に入り易いのも原因の一つであろう。
「あの」
「えっ?!」
再度、受付嬢へと掛けられた低い声。
(しゃべった!?)
先程も掛けられたはず男性の声に驚きつつ、指先を見詰め体格に似合わずとても奇麗だなと失礼な事を考えていた受付嬢は慌てて声を上げる。
「は、はいっ! 初診ですねっ!?」
「違います」
先程の返事かと思いきや見事に出鼻を挫かれてしまう受付嬢。笑顔を浮かべつつ、又もや硬直する彼女へ大男は腰と膝を曲げて視線を合わせよとする。
「入院中の知人に会いに来まして、それと……」
ぼそぼそと呟く様な喋り方かと思いきや、顔が近付くに連れて普通の話し方であった事が判った。そして距離が縮まるにつれ声量だけでは無く声音に含まれる情報も鮮明に伝わり始める。
「……あまり、人をじろじろと不躾に観察するべきでは無いかと」
冷静ではあるが、その声は不機嫌そのものであった。
受付カウンターにて渡された来院者名簿と入院患者お見舞いに関するアンケート用紙へさらさらと自身の名前、片岡竜胆と書き込む大男。
シャツの胸ポケットから取り出した自前の万年筆を使い、固く整った文字で空欄を埋めて行く。職業と年齢の項目に学生、十六歳と躊躇なく記入するのを眺めていた受付嬢は衝撃を受ける。
(高校生?!)
つい先程、常識について苦言を呈された受付嬢だったが懲りた様子はなく、片膝をついて短くなった鉛筆程度のサイズに見える普通の大きさの万年筆で入院患者の名前を書き込む片岡の顔を、今度は非常識に感じない程度で盗み見る。
眉の無いツリ上がった鋭い目に低く尖った鼻先。薄い唇は小さく引き締められ眉間には皺が寄っている。
肌は少し日に焼け、両耳には青紫色で菱形のピアスが。頭髪は根元が黒の薄い金髪で、前髪と襟足は長く伸び狭い額と太い首を覆っている。
頭の両サイドは大胆に刈り上げて剃り込みが入れられており、ピアスに合わせてあるのか剃り込みは薄い箇所と濃い箇所が交互に並ぶ菱形の市松模様だ。
(なんか……厳ついうえにチャラいわね)
竜胆の名前に似合わず可愛げの無い風貌だった。
整った顔立ちではあるが柔らかさは感じられず、やはり言い様の無い威圧感と圧迫感を放っている。
しかし常識を語る落ち着いた口調や丁寧で奇麗な執筆、万年筆を持ち歩く等々。外見に似つかわしくないそれらは遊び回っている、というよりは純粋にファッションとしてだけ楽しんでいる様にも見えた。
良くも悪くも目立ち、首から上と下で全く違う印象を抱かせる大男。
とても十六歳には見えなかった。
「あの~」
「はい」
恐る恐る声を掛けた受付嬢に対し手を止め顔も上げる片岡。
「宜しければご身分を証明出来る物……学生証等をお持ちであれば提示願いたいのですが……」
年下の少年相手に必要以上に畏まる大人の女性に対し、片岡は眉間に皺を寄せたまま胸ポケットから名刺サイズの手帳を取り出す。小さい学生証だなと不思議に思いつつ、妙に緊張しながら手を伸ばし受け取れば普通の手帳サイズで、確かに目の前の顔と寸分違わぬ男の証明写真が添付されてあった。
そしてそこには医大付属高校の文字が。
(大学付属病院の生徒じゃん!?)
驚きと共に何度も証明書を見返す受付嬢。そうこうしている内に片岡はアンケート用紙を書き上げそれも手渡して来る。
「あ、はい、どうも…有難うございました」
学生証と用紙を交換し立ち上がる片岡。すぐさま病室へ向かいたいと場所を尋ねるが、用紙をざっと眺め入院者名簿と照らし合わせた受付嬢は申し訳なさ気に頭を軽く下げ答える。
「すみません。此方に書かれた入院患者は現在、面会禁止となっています」
その言葉に片岡の眉間の皺はより一層深くなるが、それが見えない低い位置に居る受付嬢は先程よりは落ち着いて業務的、事務的に言葉を続ける。
「この子の病室なんですが、現在は一般病棟から閉鎖病棟の方へ移動になっていまして……」
そこへ行くために未成年者は複数の書類や保護者のサインが必要である事を説明し始める受付嬢に片岡は溜め息を吐き、諦めた様に首を振る。
片岡はカウンターに置かれたアンケート用紙に視線を落とし、再度万年筆を取り出すと入院患者の名前とその関係性を記入する個所に訂正を入れるため二重線を引く。
『髙山珊瑚』『友人』と書かれた箇所は横線に押し潰され、下の余白に別の名前が書き入れられた。
『鈴木菊次郎』『親友』と。
『明日の昼、手の空いている者は珊瑚君の病室に集合』
昨夜遅くに届いた大乃からのメールである。再度確認の為にスマホを覗いた片岡は改めて顔を顰め、集合場所を提示しておきながらそこへ向かえない状況に疑問を抱く。
常にふざけた態度を取り続ける大乃ではあるが杜撰な仕事はせず、場所や時間の確保、情報や資料の収集等は確かなものがあった。
受付で聞くに髙山珊瑚が閉鎖病棟に移されたのは早朝の事。それを大乃が知らない筈も無いと片岡は確信する。
『わざわざメールする必要も無いよね?』
人を小馬鹿にした低い嗄れ声が頭の中で響く。
物事が予定通りに進まない事態は往々にしてあるものだ。
臨機応変に状況を見て行動。態々律儀に書類を揃え、時間を掛けてまで閉鎖病棟へ向かう必要も無いと片岡は結論付けた。
勢いや直感の行き当たりばったりとは違う適切な判断と対応をいとも簡単にこなしてしまう大乃。それを自分達にも求めているのだろうと片岡は考える。
非常識非論理的を地で行く自分達ではあるが意図的なところも少なからずはあり、意識すればそれが出来ない筈も無く、それが出来なければ大乃が態々自分達を手元に置いておく訳もないのを知っている。
(試されとるな)
片岡はその事を特に不満とは感じず、むしろ今年の春先に出会ったばかりの浅い付き合いであり、仕事のみの関係だからこそ、それは当然の対応なのではないかと考える。
向こうが完璧に此方側を信用する事は無いし、此方もまた向こうを完全に信じ切る事は無い。
だからこそ大乃は時折、自分の指示通りに動けているか、自分を裏切らないか、それを確かめるかの様な無茶な行動や注文を振って来るのだ。
(それに関してはこっちも同じなんやけどな……)
無茶な注文に応えているのだから時たまの自由行動くらい目を瞑れ。
お相子さまだ。
そうやって、大乃達の目が届かない場所で行き過ぎた行動を取る際、その様に言い逃れし自身を正当化するのだ。
子供じみた言い訳だと理解しつつ、そんな権利は自分達には無い事も承知で、それを黙認する大乃に違和感も覚えていた。
大乃は大乃で互いの行動に歯止めを効かせない様、業と此方を煽っている節も見受けられるのだ。
無理を吹っかけ、難題をおっ被せる。
小さな荷物の投げ合いが、ある時を境に度を超え始めた。
双方、常日頃その感覚で仕事をこなして来た為、気が付いた頃には荷の重さは抱えきれないまでに膨れ上がってしまったのだ。
一方は仕事の程度を上げる為に。
一方は仕事に自己裁量を求める為に。
その結果が鈴木の入院という形での軟禁だった。