一章 『神父と少女』 その2
黒い修道服の上から白いコートを羽織ったミヒャエルが鼻息荒く墓地を行く。
彼の眼前に広がるのは手付かずの、薄く積もった処女雪。
等間隔で並ぶ様々な形の墓石の隙間を縫う様に、一歩、また一歩と小さな足跡を付けて行く。
その小さな轍をゆっくりと行くヨーゼフとヘルマン。
ヘルマンはミヒャエルを微笑ましく眺めながら、ヨーゼフは焦りを覚えながら、初雪を楽しむ子供に付き合っていた。
ヘルマンにだっこされた状態で協会から出てきたミヒャエルは新品の可愛らしいポンポンが付いたコートを羽織っていた。
ヨーゼフは自身より背の高いヘルマンが抱えることで更に高い位置へと目線が上がってしまったミヒャエルを見上げ、まさかそのままの状態で行くのかと視線で二人に訴える。普通のだっこならば問題はないが、どう考えてもミヒャエルの頭の位置が三メートルを超えてしまっているのだ。
これでミヒャエルを落っことしてしまうようなことがあれば大惨事になってしまいかねない。軽トラに積んであるヘルメットを被らせるか本気で逡巡するヨーゼフだが、ヘルマンは意気揚々と頷き歩き出してしまう。準備は出来たかというアイコンタクトだと勘違いしたらしい。ヨーゼフはそれを悟も動き出した岩山を止められる筈もなく、すごすごと後に続いてゆく。
墓地への道すがら、誘拐について言葉を交わす司祭と警官。
そうこうしている内に教会の裏手、常緑樹がぽつりぽつりと並ぶだだっ広い空間に到着した。
等間隔に植林されるのはオウシュウトウヒ。マツ科の針葉樹で高さが五十メートルにも達する程に成長する高木だ。その木々が墓地を守る様、墓石が整然と並ぶ低い丘の周りをぐるりと囲んでいる。
まるで緑色の槍の如く、高々と聳えるオウシュウトウヒ達。その一本、枝葉に積もった雪が音を立てて落ちた。
ミヒャエルはその音に驚き視線を墓地の方へ。
「――― ぁ」
小さな口を開け吐いて出た息は白い靄となって世界と同化する。
少女の眼前に広がるのは白銀と黄金と緑銅。
遮られるものがない真っ白な水平線に降り注ぐ朝日。
青々と濡れる細い葉が陽を受け冷たく輝く煌めき。
雪上にくっきりと長く伸びる影。
その全てに、昨日とはまるで違った世界に彼女は溜め息をもらし、洟を啜った。
『マッテ! マッテ!』と片言で叫ぶミヒャエルに驚き二人は歩みを止める。ぐいぐいと己を抱える太い腕を押し広げようとする少女。それに慌てて幼子をあやす様にミヒャエルの身体を揺するヘルマン。しかしお気に召さなかったのか脚もばたつかせ唸り出す。
普段見せる事の無い行動を起こすミヒャエルに思いっきりうろたえるヘルマンは、思わず隣に居た警察官に助けを求めた。
「ど、どうすればいい!? ヨーゼフッ!!」
「と、取り敢えず下ろしましょう!?」
やはり抱っこの際のヘルメットは必須だと、ヨーゼフもヨーゼフで普段見る事の無い、というか初めて見たであろうヘルマン神父の慌てぶりに狼狽する。
漸く地面に降りる事が出来たミヒャエルは二人の前へ行き、両手を広げ判り易く意思を伝えた。通せん坊だ。ぽかんとした表情を浮かべる二人を余所に、ミヒャエルは背を向け墓地の出入り口を見詰める。
簡素な出入り口。教会の敷地内という事もあり、門や扉等は無く二本の低い石柱が飾りとして置かれて在るだけの出入り口。
ずっと奥を行けば敷地の区切りとして、害獣対策用として柵が張り巡らせては有るが石柱の周りには木々以外何も無く、行こうと思えば石柱の間を通らずとも行きき出来る墓地。その石柱の、出入り口の前にまでミヒャエルはゆっくりと歩を進め立ち止まる。
二人が不思議そうに顔を見合わせる中、ミヒャエルは深呼吸を始める。冷たい空気を胸一杯に吸い込み、静かに吐き出す。それを数度繰り返した後、少年は瞳を閉じて、手を組み深々とお辞儀をした。
はっと気が付き二人は息を呑む。
少女は身体を起こすと姿勢を整え、十字を切り、改めて手を組みお辞儀をする。たっぷり十数秒、お辞儀を済ますとミヒャエルは勢い良く身体を起こし、駆け出した。
「彼……あの子の記憶は、未だ戻ってはいないのですよね」
ぽつりと零すヨーゼフ。
それは確認の言葉では無く、驚きの言葉。
白紙だった子供が見せた、明確な変化の兆し。
「もちろんだとも」
語尾が震えるヘルマン。
それは肯定の言葉では無く、確信の言葉。
二か月足らずで見せた子供の成長。
墓地の奥から笑顔で両手を振るミヒャエル。
二人は小さく手を振り返すと一歩、石柱の前へ大きく踏み出した。
並び、十字を切り、手を組む。
どうか、どうかと。
願いを込め。
「あ。足跡」
「足跡がどうかしたのかね?」
墓地に入り数分。ヨーゼフは前を行く小さな足跡を見て有る事に気が付く。
「いえ。ここに来るまで現場で足跡等が確認できればと考えていたのですが……」
そう言い、辺りを見渡すも雪が被っていない所は確認できない。
落胆する警察官に神父は任せたまえと胸を張る。
「電話でも話したと思うが、私が誘拐に気が付いたのは昨夜の見回りの時だ」
その時は未だ雪は降り積もってはいなかったと説明するヘルマン。
「直ぐにでも街の警官達に来てもらおうとも考えたのだが、攫われたのが彼の息子だったのでね」
今回の件に大勢を巻き込む事は憚れると言うヘルマンに、ヨーゼフは大きく頷く。
ヨーゼフは今朝気付けた春から連なる街の異変。その異変の繋がりにヘルマンは逸早く目を付けたのだ。今回の誘拐も関わりが有ると感じ取った神父は被害が拡大する事を恐れ、一晩考えた末にヨーゼフへと相談する事にしたのだ。
春から続いた一家の失踪事件。現れる記憶喪失の少女。その全ての捜査に関わっていた街で働く刑事家族の火災事故。勿論、ヨーゼフも全ての事件に関わりが有り、ヘルマンも又、今回の誘拐を切っ掛けに全ての事件へと関わりを持ってしまった。
ヨーゼフの兄であるルイスも関わりが深いのだが、弟は兄とその家族の身を案じ今回の件は未だ連絡せずにいた。
「現場保存、というやつだろう? 使っていないカーペットが何枚か有ったのでね、敷いておいたよ」
丘の中腹。比較的平らなその場所に他とは違う箇所が存在していた。
真新しい墓石の前に出来た四つの縦長の窪み。その窪みの傍に並べられた、四つの長方形の物体。
全てに雪が被り、白い饅頭と化しているそれらを見下ろしヨーゼフは項垂れる。
「あんまりだ」
日が当たり、墓石に被った雪が零れ刻まれた文字が露わになった。
『我々の想いはヤンセン一家と共に』
そこはヨーゼフが涙を流した場所。
そこは、友人とその家族が眠る場所。
並ぶ四つの棺の内、不自然に内側へ雪が落ち窪んでいる物が一つ。
誘拐された。
攫われた。
ヨーゼフは膝を付き、拳を地面に打ち付ける。
何度も。
何度も。
ミヒャエルは腕を広げて背中から雪の上へと倒れ込んだ。
朝日に照らされ表面が溶け出した雪は重く、海からの冷たい風に晒され再び氷結しながらも硬い音を立て小さな子供を優しく受け止める。
倒れ込み、雲一つない青空を眺めるミヒャエルは意味も無く腕を空へ伸ばす。
するとコートの袖口に付いていた雪が袖の内側に入り込んでしまい、微かに脇を通る冷たさに驚いたミヒャエルはすぐさま体を起こした。腕を振り中の冷たさを吐き出そうするも、既に汗と混じり合った雪はシャツに涼しげな不快感を残して消え去った後だ。
早く帰って着替えたい。
生理的な嫌悪感に包まれた少女は先程の高揚も忘れ不愉快とばかりに立ち上がると、コートに付いた雪を払い落しきょろきょろと辺りを見渡して大人達を探す。
強く光を反射する雪上に目を細めつつ、黒い人影を、大きな背中を探し後ろも振り返り、続く足跡を見付けた少年は自分が遠くに来てしまった事を悟る。
勝手に一人きりになってはいけないよ。
神父の忠告を想い返すと、ここが居てはいけない、危険な場所に思えて来たのだろうか。不安に駆られコートの裾を小さな手で握り締める。
遮る物の無い雪原で、ごうごうと、重たい風が駈け抜けた。
一刻も早く戻ろう。
ミヒャエルは一歩踏み出すが、その一歩は思いのほか深く雪に食い込んでしまう。駆け出す勢いで出された一歩は慣れない雪上での体勢を崩させ、驚く子供に膝を着かせた。
そこは窪みの中。
先程、自分が空を見上げた場所。
窪みが大きく見えるのはコートを羽織っているからだろう。
慌てて出した一歩の理由も忘れ、ミヒャエルはじっと窪みを見下ろす。
徐にその窪みの隣へ、再び腕を広げ勢い良く飛び込む。
上から眺めれば、うつ伏せとなったミヒャエルが人型の窪みと手を繋ぐ姿が出来あがるだろう。
雪の硬さと冷たさに、腹這いで頭を上げたミヒャエルは何もない窪みへ顔を向ける。
空っぽの少年が何も無い筈の空間に向け手をかざし、何も無い筈の、人型の空間にそっと手を伸ばす。
そこに居る筈のない誰かを触ろうとするかの様に。
寒さで赤くなる頬と額。
かじかむ指先。
その先には何も無い寂しげな窪みだけ。
何かを言いたげに小さな口が開いた。
しかし、すぐさま何かを呑み込む様に閉じられてしまう。
隣へと顔を向けたまま新しくできた窪へと頭を戻し、誰かを探していた青い瞳も諦め閉じられてしまう。
それでも手だけはそのままに。
ミヒャエルは手を握る。
誰かの手を握る様に。
優しく。
そっと。
「……良いのですか? 随分遠くへ行ってしまいましたが」
「冬場のこんな辺鄙な墓地に来る物好きは居ないよ」
少年の姿が丘の向こうへと消えから、ヨーゼフは落ち着き無、数分おきに足跡の先を視線で追い駆けている。昔ながらの感覚が抜けないヘルマンとは違い、過保護な警察官は子供にGPSと首輪を付けなければ安心出来ないらしい。
二人が現場検証を始める事十数分。暫くじっと二人の作業を見守り続けていた幼いシスターは飽きてしまったのか、ヨーゼフがスコップを取りに教会へ戻っている間に足跡を残して消えてしまったのだ。
数分間、教育方針の違いにより激論が行われたのは言うまでも無い。
若干の気まずさを残しつつ、二人は黙々とスコップで雪を退かす。先ず饅頭と化していた棺桶の周りを除雪してしまい、次に上に積もった雪をそっと手で下ろし、空いた場所へと捨てて行く。すると大きく厚手なカーペットの姿が現れた。二枚三枚と、棺桶から墓穴の上にまで被せられていたそれをゆっくりと持ち上げる。べりべりと、木板の皮を剥がす様な音が響いた。カーペットが水分を含み、寒さで凍結してしまったのだ。
重く、硬い扉の様に変質してしまったカーペットは二人の作業を拒むかの様に棺を覆い塞ぐ。その事にヨーゼフは焦りとも悲しみとも言えない、妙な緊張感に襲われてしまう。この後にしなければいけない現場の撮影等を考えると、尚さらに。
(……まるで)
声に出せばそれを認めてしまうかの様で、ヨーゼフは強く口を結ぶ。
(まるで、俺達が墓荒らしの様ではないか)
黒々とした長方形の棺は霜に覆われ、白くきらきらと、ガラス細工の様に陽の光を受け輝いている。墓穴の底では霜柱が立ち、雪で塞がれる事無く口を空けていた。
結果的に靴跡等は確認出来なかったものの、現場の保存は完璧と言って良いものだった。しかし、二人の前に晒された光景は俄かに信じがたいもので、神父と警察官は言葉も交わさずに、汗で蒸れたシャツの冷たさと、その現実とは思えない光景に震えていた。
一つの棺は確かにもぬけの殻だった。可笑しな事に蝶番は強引に破壊され、本体から剥がされた蓋は表向きのまま地面の上に臥せられていた。何故か胴体を被う長い蓋の真ん中に、顔を被う短い蓋を置いた形で。
この置き方に何か意味の様なものが有ると考えたヨーゼフは無暗に動かしてはならないと、取り敢えずそのままに。野外での開放は遺体の損傷に繋がる恐れがあると渋るヘルマンを説得し、ヨーゼフは残り三つの棺の確認を急いだ。
棺が掘り返されたのを発見し、雪が降る前に慌てて敷いたカーペット。雪で完璧に封をされ、外側が綺麗に保たれているとしても、中身が、遺体がそのままだとも限らないのだ。
頑なに中身の確認を拒むヘルマン。
勿論、昨夜の発見時に中の確認などしてはいなかった。
「例え空だとしても、そのままだとしても。君には辛い光景だろうに」
焼死体の惨さなど若い警察官のヨーゼフには知る由も無く、見る必要の無いもので、きっと平和な田舎においてあってはならないもの。
それでも。
「友の……いいえ私の為にも。どうか」
どうか友がここに居ることを証明して欲しいと、制帽を脱いだヨーゼフはヘルマンに縋った。
その真摯な若者の言葉に首を振り続けることが躊躇われたのか、神父は目を瞑り巨体をゆっくりと屈め跪き、棺の前で祈りを捧げ始めた。
ヨーゼフも倣い祈りを捧げた。
二週間前は友人とその家族の為に。二週間振りの祈りは己の為。雪原の中、冷たい空へ温かな想いが立ち昇る。
並び祈る信徒に向け、一陣の風が吹いた。
言葉も無く、二人は蓋に手を掛ける。
ぱらぱらと霜が剥がれ、丁番は音も立てずに、受け入れる様にすんなりと蓋は開いた。
かくして、ヨーゼフの願いは叶えられる。
困惑と共に。
ふらふらと立ち上がる二人は棺の中を見下ろす。
友人は確かに居た。
確かに眠っていたのだ。
しかし、そこには惨たらしく変わり果てた友人の姿は無かった。目を覆う様な光景などは無かったのだ。
「こっ、これは……」
「なんとっ」
それは雪よりも白く滑らかに紡がれた輝くシルク生地で、身体が見えない様に繭の如く包まれた遺体。そして棺を埋め尽くさんばかりの生花。
色取り取りの、美しく咲き誇る手向けの花束だった。
制帽を被りダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだヨーゼフ・ホフマンは現場をぎりぎり見渡せる少し離れた場所に居た。
眉間に皺を寄せ俯き、ぐるぐると思考を続けるヨーゼフは同じ様に足も動かしていたのだろう。その場を何度も何度も往復し、辺りの雪は踏み均され、ちょっとした長さの円い雪道を作っていた。
時には歩みを止め制帽を被り直し、時には歩きながら青空を仰ぎ見て目を細める。そんな風に落ち着き無く、熟考をするのならば動きながらというのは、よく家族にじっと椅子に座ってでも出来ないのかと言われてしまうヨーゼフの癖だった。
「少しは落ち着いたかね」
声を掛けられ、ようやく足と思考を止めたヨーゼフは顔を上げ辺りを見渡す。どうやら何時の間にか、無意識の内に轍を離れ墓石近くにまで戻ってきたらしい。ヨーゼフは不安げなヘルマン神父の視線に気が付くと居住まいを正し、警察官として一般市民を安心させるべく取り敢えず頷いてみる。
「心配ありません。捜査は順調です」
「私が心配しているのは君だよ。思い詰めると直ぐ周りが見えなくなる」
全く落ち着きを見せず、的外れな言葉を返すヨーゼフにヘルマンはやれやれと首を振った。
先程、棺桶の蓋を開け中身を検めた二人は、予想を大きく裏切る光景の所為で暫し放心してしまった。空っぽか遺体を布等で包んだ状態の物だけと考えていただけに、萎れてすらいない花束が溢れんばかりに敷き詰められているなど正に思い掛けない光景だったのだ。
そのまま蓋を閉じ、もう一度蓋を開け、やはり変わりの無い光景に二人の混乱は頂点に。
祈りも忘れ慌てて残りの二つも確認し始めた。
それこそ勢い余って蝶番を外しかねない程の力で抉じ開け、そして二人は目にする。花束は勿論。丁寧にリボンでラッピングされたドレスに靴。カードも添えられた人形に縫い包み。
ヨーゼフは急いで友人の元へ戻ると、花束をそっと掻き分け下に置かれたあるもの見付けた。
それは自分や兄、同僚達と一緒に何時も愛飲していた銘柄のビール瓶にワインボトル。国旗に地元チームのロゴが入ったサッカーボール。
そして焼け焦げた、それでも確りと四人の笑顔が見る事の出来る、額に納められた家族写真。
「随分と気の早いヴァイナハツマンが来たんだな、エドガー……」
棺に凭れへたり込み、不謹慎にも冗談を投げ掛けるヨーゼフは如何したらいいのかも判らず笑みを浮かべたのだった。
「埋葬するにあたって、棺の中は確認しましたか?」
「いいや。焼死体だ。遺族の方々も拒んでな。私だけ確認するのも申し訳なく、そのまま埋葬に」
「そのままとは?」
「検視局から棺に入った状態で運ばれてきたのだよ」
「遺体を火葬にしなかったのは?」
「要望があってな。私も同じ考えだった。火に包まれさぞ苦しかったろうに。ならばこれ以上、苦しませる必要もないとね」
祈りを捧げ棺を閉じて行くヘルマンに顔を向け、背後から見守るヨーゼフは自身が疑問に思った事を取り敢えず手当たり次第に訊くという、尋問とも呼べない問答を続けていた。
混乱する頭を一旦整理すべきだと、棺の傍でへたり込んでいたヨーゼフを片手で抱え上げ、離れた場所に放置したヘルマン。頭が回転し始める頃には自動的に立って元気に歩き出すのを知っているからか、見守る事十数分。案の定、なんとか回復した警察官は自身の職務を全うすべき第一発見者の取り調べを行い出した。
「葬儀の前に誰かが、これらの品々を詰め込んだ可能性は?」
「ない。だが、検視局から運ばれて来てからの話だ。それ以前はなんとも」
「昨夜までの約二週間、誰かがこれを行える可能性は?」
「昨夜に掘り返した者だけだろうな」
冷え始めた指先を摩りながら口元へ、息を吐きかけつつヨーゼフはまた歩き始める。視線は常に蓋の閉じた三つの棺に向けられたまま、その周りを大きく囲むように自身の足跡を付けて行く。
ヨーゼフの混乱はまだ続いていた。というのも、この墓荒らしが夏から続く少女とその家族の失踪、ミヒャエルの保護から火事にまで繋がる陰謀が渦巻く一つの大事件であると捉えていた。
だが、それがここに来て揺らぎ始めてしまったのだ。
元々何の根拠も無ければ確たる証拠も無い状況で、田舎の警察官が直感でそう決め付けていただけに過ぎないのではあるが。それでもヨーゼフは今迄の考えが間違っているとも思えずに悩んでしまう。
「ヘルマン神父。私にはこれが、遺体の誘拐を目的とした墓荒らしなのか疑問なのです」
「だが一つは確実に、エドガーの息子だけがもぬけの空なのだ。間違いなく」
「そうです。そこが腑に落ちないのです」
ヨーゼフは蓋が剥ぎ取られ棺としての体を成さない木箱に近づき中を覗き込む。内側にはクッションが詰められ、本来ならば遺体を優しく包み込むのであろうそれは重たく水分を含み、冷たく結露していた。
「何故、一つだけ花も添えなかったのか」
「それは……空っぽの棺桶に花など添える必要は無いからだろう?」
遺体が攫われたという問題を忘れ、主題を摩り替えるような発言。だがヨーゼフにとってこれは重要な問題だった。
「では何故、他の三人には添えたのでしょうか。墓を掘り返し遺体を持ち去る様な奴が、わざわざ花など添えるものなのでしょうか」
「不合理だと、そう考えるのかい」
先程まで問い掛ける側だった警察官は己の心中をゆっくり吐き出し始める。
「はい。不合理で、とても不自然です」
ヨーゼフが導き出した答えは事件の解決に必ずしも役立つとは言えず、極々個人的な感情論に過ぎないものだった。
「一つだけ花を添えなかったのではなく ―――」
それはこの行為に及んだ者を庇う一言。友人家族の墓を掘り返した犯罪者に対する言葉ではない。遺族や神父、警察官にも出来なかった事を成し遂げた誰かに対する賛辞。
「――― 一つだけ空だったから、花を添えなかった」
悪し様に、頭ごなしに非難することが出来ないのは彼が優しすぎるからか。
もし、この場にヨーゼフが一人だけで立っていたのなら迷わず三つの棺を安らかな気持ちで埋葬し直すのだろう。それほどまでに彼は感謝していた。
友人エドガーを、エドガーの妻と娘を手厚く偲んでくれた心ある誰かを。
決して正しい行いではなくとも、現実を直視できずに葬儀へ参加していた自分とは違う、行動力のある誰かを。
「この犯行は墓を掘り返し遺体を持ち去った者。そして花を添えた者。二つのグループに属する全くの別人達が関わっている筈です」
「私達は不義の報酬を手にしてしまった。ならば私達は地獄へ真っ逆さまに落ち、腹を真ん中から引き裂いて、腸を全て流し出さなければいけない」 ( 「口語 新約聖書」日本聖書協会 1954年 マタイによる福音書 27 : 5 使徒行伝 1 : 18 )
ミヒャエルが付けた足跡を辿り、二人は真っ白な丘を越えようとしていた。
辺りに木々は生えておらず遮るものが無い為か、ごうごうと吹き付ける冷たい風は制帽からはみ出たヨーゼフの耳を引き千切らんばかりだ。後ろからゆっくりとついて来るヘルマンはやはり意に介さないのだろう。身を裂く様な突風にも体を縮こませず、分厚い胸板を突き出し真正面から受け止めている。
「ミヒャエルを保護した際に見付けた怪文章で、間違いありませんね」
「ああ」
先の一文について話すヨーゼフは寒風を背中で凌ぎつつ、緩やかな傾斜が続く丘の中腹で立ち止まりヘルマンの方へ顔を向ける。
それは新約聖書に記された『ルカによる福音書』の後に続く、『使徒行伝』の第一章十八節を引用したもの。これはルカが書き示したものではあるが、間違ってもルカ自身の罪と最期を独白する一節ではない。本来はルカ自身とは別人の最期を説明している一節だ。
では、それは誰の最期なのか。
銀貨三十枚でイエスを裏切ったとされる十二番目の使徒。
裏切り者の代名詞、ユダである。
「この文章はユダ自身の罪の告白であると同時に、遺言ともとれます」
同じ新約聖書内でも『マタイによる福音書』の『首をつって死んだ』とされるものがあり、どちらもユダが己の罪を悔いて自殺する事には変わりないのだが、こちらの方が有名で一般的だ。
では何故わざわざルカの文章を用いたのか。ヨーゼフはその理由に手がかりを見出す。
「内容は裏切り者の最期。ならば文章を書いた者も何らかの組織に属する離反者とみていい筈。マタイではなくルカの方を引用したのは『私達』がルカと同じ医者だったから」
この意見にヘルマンは頷いて見せる。安直に感じるも、医者の存在はミヒャエルの身体や記憶喪失という症状からも切り離せず、更には事件当初からも僅かな関わりを見せていた。
「失踪中のベルツ夫妻か。……娘さんの方も含め、ルイスから新しい知らせはあったかい?」
ヘルマンの問い掛けにヨーゼフは首を振る事しか出来ない。
娘が姿を消してから後を追う様に蒸発してしまったベルツ夫妻。その後に現れたミヒャエルとの関係性は薄いどころか、無関係とされ見向きもされなかった。立て続けに不可解な事件が起きている。ヨーゼフもその程度の認識だった。
それはベルツ夫妻が娘の失踪届を、捜索願を出していなかった事に起因する。
『きっと都会にでも家出しているのだろう』と、『夫には内緒で奥さんが娘と連絡を取り合っているのだろう』と。凶悪な事件と縁遠い田舎街ならではの、根拠もない楽観的な噂で見向きされなかったのだ。
しかし、この田舎で生まれ育った刑事達は違った。
ヘルマンが怪文章と失踪に何らかの繋がりを見出せば、エドガーが話を聴き、都会で働くルイスに伝える。そうした神経質ともとれるお人好し二人の活動を少し離れた位置で、話半分程度で聴いていたヨーゼフも今は確信している。
「目的は口封じか、それとも遺体か。どちらにせよ火事は事故ではなく放火です」
失踪が三件続き、身元不明の少年が保護され、怪文章と失踪者の繋がりを調査していた刑事が死に、その息子の遺体が消えた。
全てが同じ田舎街で一年と経たずに、立て続けて起きた事件である。もう疑うなと言うには無理があった。
「墓地で見付けた、新たな怪文章の事も含め兄と会って相談してきます。ベルツ家の関与と放火の証明も出来ればいいのですが」
ミヒャエルを迎えに丘へ登る前の事だった。
墓荒らしと墓参りについて地元の警察署へ通報するべきか悩む二人は、これ以上の被害拡大を防ぐ為にも、知らぬ存ぜぬで通すことを考える。棚上げについての相談も含め、ヨーゼフは葬式以来連絡を怠っていた兄への報告も兼ねて久々に電話を繋ごうとした。その時、閉じたまま忘れられていた、一度も触れられる事のなかった蓋の存在を思い出したのだ。
それは本体の棺から取り外された大小二枚の蓋。
蓋の上へ更に蓋を置くという、何に蓋をしているのかも解らない状態の蓋。何らかの意味が有るのは確実で、ヨーゼフは無暗に触れず現状維持を唱えるがヘルマンは違った。
『関係者である自分達には知る権利がある』と主張し始めたのだ。
その様に言われてしまえば一般市民側に近い町のお巡りさんも止め辛くなってしまう。
事実、重大な証拠と判断されれば刑事でないヨーゼフにその情報が回って来るかは怪しい所だった。兄のルイスが一連の事件について知ればヨーゼフをこれ以上巻き込むまいと、捜査に関わらせまいと渋る可能性もあるのだ。
結局、『この件に関しては必ず黙秘する』という聖職者の誓に負けてしまい、一番上の蓋のみを動かしてみる事に。
息を殺してヨーゼフは蓋をそっと持ち上げた。だが持ち上げた蓋の下には、地面に敷かれた胴体側の蓋の上には何もなかった。
落胆を隠せない二人だったが、ここである事に気が付く。
蓋を縦に担ぎ上げたヨーゼフの前に居るヘルマンが見付けたのだ。
蓋の内側に引っ掻き傷で書かれた文章を。
これからの行動予定を語っていた二人の動きが止まった。
木霊する甲高い悲鳴が耳に届いたのだ。
それがミヒャエルのものだと頭が判断するよりも先に、警察官と神父の足は全速力で動き出していた。
一息で丘を駆け上がりヨーゼフが麓に停めてある黒いバンを目視できる頃には、自分よりも後ろに居た筈のヘルマンが逸早く、ミヒャエルを羽交い締めにして連れ去ろうとしている黒服の集団へ躍り出ていた。
「トオォウッ!!!」
気合いの入った掛け声と共に丘を下る勢いも乗せ、重量百キロを越える神父のドロップキックが放たれた。
瞬間、運悪く背を向け異変に気が付かなかった黒服の一人がエビ反りに。
そのまま黒服の背中を踏み台にした神父は見上げる高さへと跳躍した。
響くクラクション。
衝撃で飛び出るエアバッグ。
屋根は陥没し、変形したフレームは四枚のドアを強制的に外側へと押し出す。
華麗にシライスリーを決めた神父がバンの屋根へと着地したのだ。
二転三転と雪の上を跳ね回り動かなくなった哀れな黒服へ目を向ける者は誰もいない。
ごくりと、息を呑む音が聞こえる程の静寂の中、一陣の風が吹いた。
カソックの裾がはためく。
分厚い胸板の前で組まれた腕は丸太そのもの。
覆面を被り、周囲を見下ろし屹立する彼の貌は窺えない。
それでも黒服達は理解する。
真っ黒な毛皮に覆われた、獣の頭を被る奴の怒りを。
大きく裂けた口から吐き出される息の熱さを。
紅く光る瞳の冷たさを。
そう。
小さなシスターの悲鳴で駆け付けたのは正義の味方ではなかった。
白い詰襟が弾け飛ぶ。バンの車体よりも、悪漢達のスーツよりも、暗闇よりも更に黒い巨大な獣と化した漢は雄叫びを上げた。
この現実離れした光景に誰も口出しは出来ない。
ヨーゼフが、ミヒャエルが、黒服達が驚愕と恐怖で硬直する中、誰かの呟きが漏れた。
『………Kirche Grimm?』と。