5月7日
ファミリーレストランにて。
気が付いたら筆を走らせていましたので、それをここに。
人はいつでも人のなんたるかを語る。
誰でもということはないだろう、語ることを嫌う者がいれば、語るを知らぬ者もいる。
語るとは簡単なことにみえ、そうではないのだ。
語りを真似ることはできても、それは他人の耳には届かない。
語るに足りん、語り継ぐに足りない言葉になってしまう。
人には、無限の個性がある、本当の本当にむげんだ。
人間がこの世から絶滅しない限りには。
人を語るにあたって、普通とは何かを語る場合もある。
自分の普通を他人に押し付けるために。(私にはそう見える)
普通を押し付けている本人は、語っていると思っているのだろうが。
それは共感を得るためであり、語っているではなく、話しているように思える。
語る。
今私は語っているのだろうか
考えをほかの語れるものに伝え、意見を聞くために。
結局のところ私も話しているだけなのだろうか。
普通を離し、語りに話しているのだ。
先に言ったもだが、人はそれぞれ個性がある。
一生一年一月一週一日一時間一分一秒
その時の過ごし方によって。
似ていることなんて絶対にない、断言しよう。
よく似ているといわれることもあるかもしれないが、実のところは果てしないまでにかけ離れている。
あくまで私はそう思う、それだけなのだ。
人と人を似ていると言う人は、人をみていないのだ。
よく知るわけでもない、それなのに他人の人としてのヒトを決めつけ人に対して抱く期待や理想の部分で判断し、似ているか否かを決める。
そういう人は実は偉かったりする。
偉いは名誉のことだ。
決してお利口さんとは思わない。
組織
たとえば国、地域、会社や学校。
それが大きければ大きいほどに、理想や期待で人を見ることが多い。
故に大きく偉いんだろう。
何が言いたいか分かってもらえているだろうか。
個人が見られていない、という話である。
世の中って普通だなっていう話も含んでいる。
普通とは、理想と期待そのものだ。
これは動かない事実、反論は認めない。
組織中の全員それぞれが個性的。
それはそれで面白いのかもしれないが。
要するに世界という大きな団体は、世界という単位で見れば個性を全く必要としていない。
何せ、今まで世界が、地球が回ってきたのは、今まで普通であったことは
次々に生まれるであろう個性に対し、普通を強要し、個性を隠すように教え込んできたから。
まぁそんな大きな話をしても。
誰かが悪いわけでもない。
やりたい様に?
でも普通はこうなんじゃない?
昔から思っていた。
普通って何より恐ろしい。
普通が一番狂ってる。
絶対的なルールがある。
それがとても、怖い。
まあでも。
だからこそ普通であるまいと奮起するものがいる。
それがあるから、普通であろうと努力するものがいる。
そういうパワーが、次のステップに必要なのかもしれない。
ただ
「普通に引かれ、普通に溺れる」
それだけはいけない。
そんな狂ったことは、してはいけない。
大事なのは
ここで今日の語りは終わりにする。




