マルコボーロ紛争
後にこの戦いを、マルゴボーロ紛争と記すことにする。
いつもの、おやつの時間。柴田はマルゴボーロが、好きだった。あの、柔らかな感触。とろけるような口当たり。月曜日と水曜日に貰える一袋、最大の楽しみはまさにこの時、この瞬間だった。
前世のおやつは、それと呼べるものでは無かった。
苦い、辛い、しょっぱい、酸っぱい、甘い、そんな次元では無い。
「父上、これ……食べられるのですか?」
まだ幼少アレスは明らかに黒々とした草のような物を見ながら恐る恐る尋ねた。
「食べてみればわかる」
そう父は答えた。
「いやしかし、この色は――」と言い終わる前に無理やり口に突っ込まれた。
ぐわああああっ!
「アレス、コレがしびれると言う感覚だ。耐えろ。お前は将来、勇者となる身。この苦痛に慣れておかなくてはいけない」
そんなこと言われても。
とまあ、こんな風に容赦ない教育を受けていたので、甘いものが食べれることに柴田はこれ以上ない至福を感じていた。
信じられない言葉を耳にしたのは、先生からマルゴボーロを受け取って席に戻っている時だった。
「ねえ、先生。アヒル組だけ、なんで二箱なの?」
同じコグマ組である加藤幹久の声。反射的に思いきり振り向いた。先生が困ったように首を傾げた。
あんた一人、一袋って言ってたじゃないか。
昼寝中にこっそり抜け出して、職員室に忍び込み、不在者の机に隠れ、先生方の雑談に聞き耳を立てた。そこで得られた情報によると、原因は長嶋和也だった。アヒル組所属、幼稚園理事長の一人息子であり、超がつくほどの溺愛ぶりだと噂されている。必然的にアヒル組のおやつは、マルゴボーロ二袋と言う訳だ。そして、アヒル組のみんなは、そんな長嶋に従属している。完全なる欲望の支配。
親による歪んだ愛情は、無垢な子どもさえ、狂わせるのだ。
人は愛情が無くば、生きてはいけない。それは綺麗ごとでは無く、純然たる事実だ。母親は、壮絶な痛みに耐えながら、死の恐怖と向き合いながら子を産む。そうして生まれた子は、一人では決して生きてはいけない。親は子を育てるために、相応の愛を費やす。
しかし、愛するが故に、重宝するが故に、枯れてしまう花もある。人の生来も同様だ。ここは、俺が奴を正しい道に戻さねばならない。
決して、おやつだけの、問題では無いのだ。
しかし、闇雲に長嶋に挑んでも、奴の権力の前にただ敗走するだけ。もはや、奴の支配は、アヒル組だけでは無い。先生ですらも長嶋に媚び、へつらう始末。すでに、この幼稚園は、完全なる欲望支配の巣窟と化していることがわかった。ここは、奴を叩きのめす公式の場が必要だ。観客が見守る中では、不正に足を引っ張られる心配もないだろう。
となると、あの日しかない。
決戦の日を年に一回のお遊戯運動会と定めた。
徒競走。五十メートルの距離を駆ける。
これは楽勝に勝てる。毎日剣術の稽古をして鍛えられた足腰を、いかんなく発揮する時が来た。横一線に並び、先生の号令を待つ。
ふっ、勇者走法を駆使する幼稚園児など、俺しかいないだろう。
「よーい、どんっ!」
しまった。少し出遅れた。が、焦ることは無い。脚力は一番のはずだから、落ち着いて走れば、一番になれるはずなのだ。
その時、フッと身体が前に進んだ。転んだと気づいたのは、眼前に地面が広がっている時だった。
必死に起き上がると、長嶋が悪魔のような微笑みを浮かべながら、ゴールテープを切っていた。奴は足が一番遅いはずなのに、と思ったら他の子たちは、明らかに総力を抑えていた。
なんと言う権力。すでに、アヒル組だけでなく、他の組まで。
柴田は最下位のゴールテープを屈辱的に斬った後、先生に長嶋の不正を必死に目で訴えた。口に出すと、告げ口みたいでカッコ悪いから、あくまで眼力のみで。
しかし、無駄だった。「君が勝手に転んだだけ」と言われた。
理不尽がまかり通る、正義の無い社会。ここが現世か。まず、一敗。
パン食い競争。コッペパンが吊るされている中、一つだけクロワッサン。『なぜ』と言う問いかけの答えは、クロワッサンの前にあるネームプレートにあった。
『ながしまくんよう』と書かれていた。
なんと言うあからさまな差別。保護者の方々も、その暴挙を許していると言うと言う驚くべき事実。
正直、長嶋の影響力を甘く見ていた。しかし、逆に俄然ファイトが湧いてきた。
絶対に、長嶋のクロワッサン、食べてやる。
「よーい、どんっ!」
今度はスタートダッシュに成功した。一直線にぶら下がってるクロワッサンの元へ走る。ジャンプして、柴田はクロワッサンめがけて口を全力で伸ばした。
照準は完璧、跳躍も問題無かった。しかし、柴田の口にはクロワッサンが治まってはいなかった。後ろを見ると、まだ、長嶋はゆっくり、のろのろ、走っている。
もう一回。今度は慎重に跳躍した。しかし、それでも失敗。おかしい、完全に届いていたのに。何か仕掛けがあるはずだと、周りを見渡した。
クロワッサンを吊るしている先にはアヒル組の先生が、申し訳なさそうにはにかんでいた。
お前が、位置を操作してたんだな。何たる先生クズ。
やがて、悠々と走って来た長嶋が、俺の横を通り過ぎた。すると、アヒル組の先生クズが、クロワッサンの位置を、おもむろに長嶋の口の位置まで下げだした。
「よろしい」
そう言いながら長嶋が、美味しそうにクロワッサンを頬張った。
正義が権力に負けた―
そう落ち込む柴田を励ましたのはお弁当の卵焼きとから揚げだった。
要するに勝負は最後に勝てばいいのだ。
最終戦。借り物競争。
以下省略で負けた―。
結局、俺は一矢報いることも出来ないまま、長嶋に敗北を喫した。
アレスは魔王以外、何者にも、負けなかった。地元の剣術大会でも、ゴブリンの大群にも、一振りで巨木を薙ぎ倒すオーガにも、どんな鋭利な剣でも貫けぬ装膚を持つドラゴンにも。そのアレスが、四歳の子どもに、負けた。勇者であると言う自負が砕けた。大いに、プライドが、傷ついた瞬間だった。
しばらく、抜け殻のような日々が続いた。
そして二日後、事件は起こった。運動場でのお遊戯の時間、悲鳴と共に、平和が打ち砕かれた。声のした方を振り向くと、獰猛な野犬がよだれを垂らしながら、近づいて来ていた。
バカな、幼稚園は高い柵で囲まれており、まず野犬が飛び越えることはできない。そうとすると、考えられることは、一つ。戸締りの、ミスだ。確か、先生が当番制で行うはずだ。しかし、そのうっかり屋さんを責めることはできない。
人は、うっかり、するものなのだから。
恐怖で園児が悲鳴をあげることも、動くことも出来ない。側にいた先生も一人いたが、まだ若く、女性だ。恐怖で固まってしまっている。
運よく……いや、運悪く、野犬は長嶋の前に立った。
ホレ、権力で解決してみろ。ホレ。
と、そんなこと思っている場合では無い。今回もケルベロスと戦ったことがある勇者の出番だと柴田は思い留まった。
柴田は猛然と走りだし長嶋の前に立ち、服に挿してあった紙の剣を構えた。グルルルルル……喉を鳴らしているのは敵意を示しているのか。そんなことで恐怖を感じる俺では断じてないが、状況は不利だ。野犬は、自分の身体より大きく、剣は紙だ。かくなるうえは……
「煉獄の焔よ 我に示せ」
手をかざして叫んだが、何も変わらなかった。やはり魔力がまだ備わっていないか。
「長嶋、ここは俺が引きつける。お前はあっちの方に逃げろ」
「うんっ!」
躊躇の無い良い返事が返ってきた。
「バカっ、俺なんかいいからお前逃げろよ」なんて言ってくれるのは戦士のリアンぐらいのものか。そんな熱いやり取り、ある訳ないか。
長嶋が走り出したと同時に、柴田は紙の剣で野犬に突進した。
ぐわあああああああっ、問答無用で噛まれたっ!
結局、長嶋理事長が駆け付けてくれて助けてくれた。病院まで付き添ってくれて治療中ずっと励ましてくれた。凄く頼りになる理事長(恩人)だった。
結局、二針縫いました。
この事件をきっかけに、これみよがしに傷痕を見せてみると、長嶋はたまにマルゴボーロをくれるようになった。どうやら、少しは恩に感じているらしい。
年長組のゾウ組とライオン組には強者ばかりだが、特に悪者もいないので見逃してやった。決して、ビビった訳じゃない。
俺は勇者だ。必ずしも、争いを好むわけではないのだ。
こうして、疾風怒濤の幼少時代の幕を閉じることになった。