異常を耐える
亥条 忍は、変態であった。
気付けば、その変態的欲求が胸のうちに芽生えて、亥条 忍の一生にあっという間に深く根付いた。
亥条 忍は、理性を強く持っていた。
自らの異常な欲望が周囲の人々を不幸にしかせず、最終的に自身の破滅を招くことを理解していたからこそ、耐えた。
亥条 忍は、変換した。
ただ耐え忍ぶだけではこの感情は直ぐ決壊するのは明らかである。
そこで当時、世間を賑わせた最先端のVRMMO、所謂ネットゲームに手を出した。
完全感覚没入型VRゲームではないが、視覚投影型VRが見せる、…いや、魅せる世界はまさにばバーチャルが形作る現実だ。
世の中が新たな技術の革新に騒ぐ、一方その者は酷く冷静に、「ああ、これなら大丈夫かもしれない」と、溢れ出る高ぶりをぶつけられることに喜んだ。
亥条 忍は、極めた。
視覚投影型VRゲーム機の発売から数年後、海外で世界初の完全感覚没入型VRの家庭用機が発売された。
その報は世界中の世間でにおいてホットな話題として駆け巡ったが、旧来のゲームにおいては顧客を奪われ、衰退して行く未来を幻視せざるおえない悲報だ。
だがその不安は杞憂で終わる。
端的に言って低かったのだ、クオリティーが。
そもそもな話この時代のVRの技術力は育ちきってない。そうして問題にあがるのが、家庭用でも高価格のVR機、拙いグラフィック、感覚が鈍い五感リンク、脳を始めとした肉体への悪影響、等々。
各国がVR技術に力をいくら注いでも、出来上がるのはどこも似たり寄ったり粗悪品ばかり。世間は落胆した。
そこで思い出したように注目されるのが、それ以前の技術でできたゲームだった。
こうして業界内の生存競争を結果的に戦う前に勝利した視覚投影型VRゲームというジャンルは、特に衰えることもなくその人気を盤石のものとしてきた。
その中のひとつに、視覚投影型VRゲームが一般に出回った当初から稼働し続け、8年たった今なお膨大なユーザーを抱える、とあるMMOがある。
亥条 忍が極めたのはそのゲームだ。
もともと酒も煙草も賭け事もしない。それどころか、最低限の生活費と貯金に回す分を除けば仕事の給料の使い道が、唯一の趣味のVRゲームしかなかった。
別に課金プレイをしていた訳ではない、そもそも一部とはいえ感覚をバーチャルとリンクできるシステムで、課金によるお手軽プレイは製作者側に好まれなかった。
なら何に金をつぎ込んだかといえば、主に追加コントローラである。
一時とはいえ、完全なるVRゲームに相当な危機感を覚えていた結果、産み出され物のひとつが追加コントローラだ。
本来、日本円で何十万もする海外の完全VR機と違い、新品でも2万もいかない日本のVR機は、視覚と聴覚をVRとリンクするヘッドホン付きゴーグル型ディスプレイとゲームパット、本体(国語辞典くらいの大きさ)の三点セットだ。
そこに追加コントローラを購入して併用する事でより複雑な操作を可能にする。
ただし、複数存在する追加コントローラは組み合わせによってはいくつも同時に操作できるが、追加するたびに操作難易度が跳ね上がる。
お値段はピンキリで、もっとも安いので千円もしないが、中には5万や10万もするのもある。
ちなみに、一番高いので100万を越える。それに至ってはもはやロボットアニメのコックピットそのままの様相をていしている。
無論、亥条 忍は購入している。
この品を購入して家に届いたとき、そのゲーム会社の開発部の人達が設置作業に来てくれた。何でも物が物だけに自分達でないと駄目らしい。
元々そのコックピット型コントローラは会社の宣伝用に半ばネタで作ったらしく、ぶっちゃけ売れると思ってなかったそうな。
そんなのでちゃんと動くのか?と、その場で疑問を口にしたところ、ゲーム開発当初から僅かに余った予算やみんなで持ち寄った機材(自腹)からコツコツと作り上げた渾身の自信作だとか。なお、製品販売としてはろくに考慮しなかったとか。…なんというプロ根性と才能の無駄使い。
だが勿論のこと、操作性と難易度はそれ相応のもので、開発当初の段階からテストプレイを、今でも続けている熟練者な開発主任でも四苦八苦するほど難しいのだとか。
それは最早、鬼畜を通り越して拷問のレベル。
だが、それすら亥条 忍は、極めてた。極めてしまった。
その電子の世界に亥条 忍に敵う者などおらず、その世界で出来る事は全てやった。
新規のアップデートはまだまだ先。…例えアップデートで新システムや新フィールドの1つや2つの追加では到底意味をなさないが。
学生時代から続けてきた、そのゲームをプレイする事をライフサイクルに組み込んで、変換した欲望の捌け口にして、これまで生きてきた亥条 忍にとって、最悪の事態。
極めたことで、やることがなくなったのだ。
そして、やることがなくなってできた空白の時間。
ほんの数日と経たずに欲望は限界を迎え、
亥条 忍の理性は、決壊した。
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「…手に入れるのに苦労したんだから大事に使わないとな」
亥条 忍はハンドタオルに瓶の中身を慎重に染み込ませながら一人ごちた。
忍が居るのは自宅の一室。
日当たりや防犯を考慮して選んだ自慢の書斎だ。
元はそれなりに広々とした部屋は、両サイドの本棚やテーブル、机、ソファーを配置すればこじんまりとした印象になる。それでも狭い訳ではなく、全体は落ち着いた色合いで統一され、棚に収まった数々の本が適度な多雑感を、昼は机の背にあるテラス窓からの調整された遮光が、夜は各所に配置されたアンティーク調のランプ型ライトが照らす。家主のセンスが光るシックに纏められた書斎だ。
だが、2つ、その雰囲気をぶち壊す、異様な存在があった。
一つは最奥にある部屋の主が使うであろう机…の椅子だ。
本来なら、革張りの回転椅子でもあるべき場所には、『某機動戦士に出てくるMSのコックピット』にしか見えない物体が鎮座していた。
マッサージチェアーのよう物体を土台に多種多様な戦闘機の操縦幹やボタン類をゴテゴテと生やし、一目見ただけでは意味不明な機構の数々が見え隠れする、黒と銀の配色で流線形のボディの機体。
これこそが、忍が購入したコックピット型コントローラである。
部屋の内装に対して明らかな異物。
誰もがこの禍々しい様相を見て、ゲームコントローラだと初見で当てられる者はいないだろう。どう見てもゲームセンターの筐体とは格が違った。
だがこのモンスターマシーン自体はなんの問題も無い。そもそも年単位でこの場に居座り続けてるうえ、持ち主にとって最重要に大切な存在だ。例え、雰囲気が崩壊したところで、知ったことでは無いのだ。
しかし、問題なのはもう一つの異物。
どこぞの偉い人の応接間のように、机の正面にはソファー2つに挟まれるように足の短いガラス張りのテーブルの上、そこにはいかにも物騒な品々が並んでいた。
バタフライナイフにスタンガン、軍手とマスクにグラサンとガムテープ、ロープなどの結べそうな紐類が各種。
そして忍が今取り扱っているのは、危険な薬品ーーークロロホルム。
そのラインナップから導き出されるのは、犯罪。
忍はこれから犯罪者、それも誘拐犯になろうとしていた。
ターゲットは、近所の小学生だ。
亥条 忍は変態だ。
変態は変態でも『ロリコン』という、変態だ。
ロリコン。ロリータコンプレックス、幼女性愛者。呼び名は数あれど、
要するに『小さな女の子が(性的に)好き』というどうしようも無い連中だということだ。
一説によると世の変態の半数近くがロリコンだとか。
ともかく、忍はロリコンで、その欲望の赴くままに幼い少女を毒牙にかけんと準備していた。
計画はアバウトなもので、人通りの少ない道を歩いている小学生、もしくは中1くらいの娘を車で拐おうというものだ。
はっきり言って、この時の忍の思考は当然ながら正常ではなかった。
穴だらけどころか、手順さえ曖昧な計画なんて言えないお粗末さ。
道具だけは必要以上に揃えたようだが、おそらく成功率は限りなく低いだろう。
その事実に気付いているのかいないのか、時折独り言を交えつつも淡々と、表情一つ変えずに準備を進める。
その姿は精密機械のように機敏かつ無機質でとても欲望に突き動かされているようには見えない。
暫くして一応の準備が整ったのか、拵えた犯罪道具達を車へ移動しはじめる。
また暫くして手ぶらで書斎に戻って来ると、真っ直ぐ最奥のコックピット型コントローラへ向かい、ゲームを起動した。
そもそも忍は、今回の計画の成功か失敗の先の未来については頭になくても、そこで生じるリスクはしっかり把握していた。
故に倫理観を変態性で塗り潰されていても、忍が何年も続けてきた『自らの欲望から発生するリスクを回避するためにVRゲームで欲望自体を発散する』という処世術を施行できた。
忍は自分の精神がどんなに追い詰められても、どこかで対処が思い付く程には高いスペックがあった。(ただし、今回は対処を実行に移せるほどの余裕など、絶無なくらい厳しかったが)
だから分かることがある。
失敗して捕まろうが、
成功して目的を手に入れようが、
自身がVRゲームをプレイするのはもう滅多に無いだろう、と。
忍は別にこのゲームに飽きた訳でも、嫌いになった訳でもない。例えやることが無くなっても、今まで自分の薄汚い欲を受け止めささえ続けたことに、心から感謝している。
十年近く積み上げてきた思い出など両手じゃ抱えきれないほど溢れているのだ。
だから何が言いたいかといえば、未練。
坂道を転がるように突き進む暴走精神となった今でも、それだけは無視できなかった。
だから最後に思いっきり暴れてやろうと、
コックピット型コントローラに腰を下ろし、
多機能ゴーグル型ディスプレイを慣れた手つきで装着し、
本体を起動させ、ゲームにログインしたーーーー
ーーーーそこで意識が、消えた。
その日、亥条 忍は地球上からいなくなった。




