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聖樹の国の禁呪使い  作者: 篠崎芳
聖樹の国の禁呪使い 第一部
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第83話「力」

「何かあったんですか?」


 言いながら、俺は三人の女の人とヒルギスさんとの間に割って入った。

 すると三人の中でひと際派手な感じの女の人が俺を睨みつけた。


「急になんなの? あなたは、誰?」


 雰囲気からすると派手めなこの人がリーダー格っぽいな……。

 他の二人に比べて装いが煌びやかなのもだが、何より人を従えることに慣れているといった感じがする。

 年は……けっこう上かな?


 と、ヒルギスさんが視線を伏せたまま口を開いた。


「おそらく通りすがりでしょう。声がしたので、きっと興味本位で様子を窺いに――」

「いえ、俺はこの人の友だちです。なんか妙な空気でしたけど……どうかしたんですか?」


 質問しつつ、背後のヒルギスさんの様子を窺う。

 彼女はまるで身の置き場を失ったみたいな感じで、壁際に立っていた。

 …………。

 ていうか今、ヒルギスさん。

 俺のことをまるで他人みたいに言った。

 つまり……さっきのは厄介事に巻き込みたくないという意思表示。

 とはいえ放っておくわけにもいくまい。

 明らかに穏やかじゃない空気だ。

 俺が巻き込まれないようにっていう心遣いは嬉しいけど、ここでヒルギスさんを放置するという選択肢はありえない。


「ヒルギスさん、何があった――」

「ちっ」


 俺がヒルギスさんに問いを投げようとしたところで、リーダー格の女の露骨な舌打ちが耳に届いた。


「だからなんなのよ……あなた、どこの家の人間?」


 探るような視線が俺へと向けられた。

 家?

 家だって?

 ……ああ、この場合の『家』ってのは、つまり貴族としての家名を聞いてるってことか。


「いえ、俺は貴族じゃなくて――」

「えぇ〜?」


 あらやだ、とでも言いたげにリーダー格の女が口元に手をやった。


「いやだ、嘘でしょ? 貴族じゃないのに、どうしてシーラス浴場に?」

「あれ? 別にシーラス浴場って、貴族限定の施設じゃないですよね?」


 アイラさんからはそう聞いているけど……。


「あなた、どこかの貴族の従者なの?」

「いえ、従者ってわけじゃないですけど……あえて言うなら一市民、ですかね?」


 俺が貴族ではないと知ったからか、リーダー格の女の目がより汚らしいものを見るものへと変貌する。

 そして彼女は、ほとほと呆れ果てたという表情を浮かべた。


「亜人と一市民……場違いにも程があるわ。勘弁してよ、眩暈がしそう」

「大丈夫ですか、エリザベート様!?」


 ふらついたリーダー格の女に取り巻きっぽい人が駆け寄る。


「ああ、下賤の者と会話なさってお疲れになったのね……おかわいそうに」


 そして彼女は、不逞の輩でも見るような目で俺のことを睨み据えた。


「あなた……誰に何をしたのかわかっているの!? この方はトロイア公爵夫人ですのよ!? これはもう……何をされても文句は言えませんよ!」


 トロイア公爵夫人?

 あ、そうか。

 ヴァンシュトスさんとバシュカータのお母さんか。

 例の、バシュカータを溺愛していたという……。

 そしてマキナさんが頭を痛めていた、異世界版モンスターペアレント。

 うわぁ……これは面倒なのと行き遭ってしまった。

 うーむ。

 ここは……できれば穏便に済ませるか。


「そ、それは失礼しました、トロイア公爵夫人。ええっと、じゃあ俺たちはこれで。行きましょう、ヒルギスさん」

「え、ええ……」


 俺は少し強引にヒルギスさんの手を取り、場を離れようとした。

 すると、


「待ちなさい」


 取り巻きの一人が俺たちの前に立ちふさがった。


「なんのお咎めもなしに帰れると思うの?」

「……すみません、どいてください」


 そこで、


「なぁにあなたたち? まさかとは思うけど……二人は恋仲なの?」


 侮蔑を含んだ嘲笑が飛んできた。

 公爵夫人のものだ。


「ぷっ、いやだ。勘弁してよ。顔はまあまあだけど……でも平民の血が流れている男と恋仲だなんて、わたしは死んでもごめんだわ。平民はね、血が……下等。いいかしら、あなたたち?」


 公爵夫人が悠然と唇を弧に歪めた。


「この世のすべては、家柄と血統で決まるのよ」


 取り巻きに向かって公爵夫人が講釈を垂れはじめる。


「家柄のよい者は富み、多くの機会に恵まれ、素晴らしい未来が約束されている。そして――見なさい」


 公爵夫人が嘲弄顔で俺を示した。


「あれが平民。貧しく、機会を奪われ、素晴らしい未来を空想することしかできない……。きっとここへも、なけなしの財産をはたいて来たんでしょうね……ふふ、場違いなところに来ても恥を掻くだけなのにねぇ? それに、さっきの見た? きっと颯爽と登場して恋人をさらっと助けたつもりなんだろうけど……ふふふ、あれじゃあ、ただ惨なだけよねぇ? 相手がこの私だとわかったら、一言も言い返せずおめおめと逃げ帰る……あれが平民。あなたたち、ああいう男はどう?」

「いやですわ。あんな情けない男は」

「わたくしも勘弁願いたいですわね。せめて男性なら、ソギュート様かディアレス様くらいの器量がなくては」

「あなたたち――」


 黙ってられないとばかりに、ヒルギスさんが珍しく怒りの感情を覗かせた。

 が、


「いいですってヒルギスさん、俺、こういうの慣れてますから」


 俺は苦笑してみせる。

 まあ、自分のことはどう言われても構わない。

 今はヒルギスさんがこの場から逃れられればそれでいい。

 変にかかわると面倒そうな相手だし。

 やり過ごすのが吉だろう。

 俺は適当に愛想笑いを浮かべた。


「あのぅ……ここいらで勘弁してもらえませんか? てかそうなんですよ、俺。働いて得たなけなしの金で、やっとこの人を憧れのシーラス浴場に連れてくることができたんです。だから……ちょっとでも楽しく過ごしたいなぁ、って」


 俺が下手に出たことで満足したのか、公爵夫人はご機嫌そうに鼻を鳴らした。


「ふふ、無様すぎ。いいわ……今日くらいは、このシーラス浴場を使うことを許可してあげましょう」


 あんたのモンじゃねぇだろ、と内心ツッコミを入れつつ、俺はヒルギスさんの手を引いてこの場を立ち去ろうとした。

 横にどいた取り巻きが馬鹿にしきった顔で俺を見ている。

 正直いい気分ではないが、下手に揉め事になるよりはマシだろう。

 ま、これでどうにか――


「あ、そうそう。さっきも言い聞かせていたんだけど、そこの亜人は湯に浸からせないでね? 湯が、穢れるから」


 俺は足を止めた。

 急速に心が凍りついていくのがわかった。

 そして俺は、ゆっくりと振り向いた。


「今あんた……なんて言った」

「なっ、何よ……トロイア公爵夫人であるこの私に、な、何か文句があるの?」


 気圧されたように、公爵夫人が身を引く。

 

「湯が穢れるって、なんだよ?」

「なんなの……そ、その反抗的な態度は……ひっ――」


 俺はヒルギスさんの手を放すと、何やら怯えた様子で身を寄せ合う公爵夫人たちの方へ足を向けた。


 亜人。

 亜人と呼ばれる人たちの各国での立場は前に聞いたことがある。

 けど、俺はヒルギスさんが『亜人』であることを意識したことなんてほとんどなかった気がする。

 学園内でも時折亜人種を見かける。

 しかし『亜人』ということで何か特別な感情が湧くことはない。

 確かヒルギスさんはガムール族という種族だったはずだ。

 彼女には犬のような耳と尻尾がついている。

 だが俺はそれを可愛らしい特徴だと感じることこそあったが、決してマイナスの感情を抱くことはなかった。


 まあ人間とか亜人種とかは……正直、どうでもいいといえばどうでもいい。

 肝心なのは、あの女がヒルギスさんにひどい言葉を浴びせたという事実だ。


「悪いけど――今の言葉は、さすがに流せない」


 俺のことなら別になんと言われてもいい。

 慣れてるし、さほど興味もない。


 だが、周囲の人たちのことを悪く言われるのだけは我慢ならない。


 最近……より強くそう感じるようになってきた気がする。

 自分でも理由はわからない。

 それでもさっきの言葉には、無性に腹が立った。


 と――後ろから腕を掴まれた。


「いいから。わたしは付き添いで来ただけだから。別に、湯に浸かりたくて来たわけじゃない」


 腕を掴んだヒルギスさんが、いつものように平然とした顔で言った。

 だけど腕を掴むその手は、微かに震えていた。


「…………」


 そして、


 この人はさっきから、俺の名前を呼ばない。


 それに、出せば公爵夫人たちの態度が変わる可能性は高いのに、ヒルギスさんは決してセシリーさんやアイラさんの名前――アークライト家や、ホルン家の名前を出さない。

 つまりヒルギスさんは、彼女たちに迷惑がかかることを恐れているのだ。


 トロイア公爵家の影響力については俺も知っている。

 あのマキナさんも扱いに困る相手であり、その扱いに困っている本人から色々と愚痴を聞かされたからだ。

 この聖ルノウスレッドでは、五つの公爵家が大きな力を持っており、そのうちの一つがトロイア公爵家なのだという。


 だから相手が相手だけに、揉め事を起こしたくないというヒルギスさんの気持ちはわかる。

 その気持ちに途中で気づき、俺もあえてセシリーさんたちの名前は伏せていた。

 …………。

 わかっている。

 やり過ごした方が、何かと平和的に解決するってのは。

 公爵夫人のようなタイプは、おそらくその場の自尊心さえ満たしてやれば、すぐに相手のことを忘れる。

 反面、わざわざ神経を逆撫でして恨みを買うと面倒なタイプだ。


 だけど……さっきの言葉だけは、どうしても許せなかった。

 が、 


「お願い、ここは堪えて。わたしのために」


 ヒルギスさんに、こんな風に言われてしまっては。

 俺は強く拳を握り込み、歯噛みした。


「ふ、ふふ……ようやく、相手が誰なのか思い出したようね?」


 公爵夫人に再び余裕が戻ってくる。


「ああ、そういえばお名前を窺っていなかったわねぇ? もちろん教えてくださるわよね? 今日のお礼を後日、しっかりしてさしあげなくてはならないから。まあ……もしここで教えてなくても、私ならば簡単に調べ――ぎゃっ!」


 その時、誰かが――


 公爵夫人を、蹴っ飛ばした。


「所属とは、それによって得る強さと弱さを秤にかけるものである。フハハ、ならば『地位』とは時に、弱さの代名詞ともなりうるわけだ」


 公爵夫人は無様な姿で前のめりに倒れ込んだ。


「あっ」


 俺は公爵夫人を蹴り飛ばした人物を見て、思わず声を上げた。

 恥辱に身体を震わせながら、夫人が上体を起こす。


「この、私に……蹴り、だとっ……?」


 顔を憤怒に染め上げ、夫人が鬼のような形相で振り向いた。

 屈辱のためか唇がわなわなと震えている。

 取り巻きたちはあんぐりと馬鹿みたいに口を開いたまま、唖然としていた。


 なんの躊躇もなく公爵夫人を足蹴にした男は、邪悪な笑みを浮かべ、蹴り飛ばした女を超然と見下ろしていた。


「意識的に足が出てしまいました、まるで反省しておりません――どこぞの無様な公爵夫人」


 茶化しの入った生真面目さでそう恭しく一礼したのは、


「ろ、ロキア?」


 そう。

 宿着姿の、ロキアだった。


「な、ななっ、なんなのおまえはっ!? ここ、この私を、足蹴に……この、私を……トロイア公爵夫人である、わ、私をっ……!」


 ロキアは尻を床についたままの公爵夫人の前に屈み込むと、乾いた笑みを喉の奥から漏らした。


「面白いことを言う女だ。では一つ聞くが、テメェを蹴ったらいけないという法がこの世に存在するのか?」

「……後悔、するぞ」

「あ?」


 公爵夫人の声は妙にドスが利いていた。

 その声には恨みと憎悪が色濃く混在している。


「この私を相手取る愚……絶対に、後悔させてやる。その顔、覚えたぞ……逃げられんぞ」

「ふむ、オレを敵に回すのはかまわねぇが……しかしテメェになんの力があるっていうんだ? まさか、テメェの肩書きだけにひれ伏してる、そこの小汚ねぇ取り巻きどものことか?」

「私はトロイア公爵夫人だ」

「だから?」

「私にはおまえが想像もつかないほどの力がある。後で謝っても……絶対に許してやらない」


 すると、ロキアは膝に手を当てて立ち上がった。


「わけのわからねぇことを言う女だ……ああ、そうか」


 ロキアは自分のこめかみに指先を添えると、尖った歯を見せ嗤った。


「足りてねぇのか、想像力が? ククク……かわいそうに」

「想像力が足りてないのは……おまえの方だ」


 ハハッ、とロキアが嗤ったまま目を剥いた。


「どうかな? では想像力豊かな公爵夫人サマに想像してもらおうか? この世に終末郷という場所がある。とてもとても恐ろしい場所だ。どのくらい恐ろしいのかというとだな……このオレですら、恐ろしさのあまり近づくことができない」


 嘘こけ。

 あんた思いっきりそこの住人じゃねぇか。


「なんの話だ? ここは、聖ルノウスレッドだ」


 歯ぎしりしながら、公爵夫人がさらなる憎悪をロキアへ向ける。

 が、ロキアはどこ吹く風、さらに話を続けた。


「そう。ここは聖ルノウスレッド王国。とてもとても美しく、実に平和な場所だ。さて……そんな平和ボケボケ王国に住むトロイア公爵夫人サマがある日、何かの間違いで終末郷に迷い込んでしまった。ここで問題だ。そこで公爵夫人サマは馬鹿みたいに繰り返すのでしょうか? 何を隠そうこの私はトロイア公爵夫人であると。終末郷では誰もトロイア公爵家の名など知らないのに。さあ、どうだ?」


 突然ロキアは上体を屈めると、不吉な笑みを顔面に張りつけたまま、公爵夫人の鼻先まで顔を接近させた。


「な、何を意味のわからぬことを……ここは聖ルノウスレッド。あんな穢れた場所とは違う」

「だから――例えば目の前にいる男が終末郷の住人だったらどうすんだって言ってんだよ。ほんと、称賛したくなるほど想像力が欠如してやがんなぁ。ったく、さすがは貴族サマだぜ」

「お、おまえが終末郷の人間だと? 馬鹿なことを。そもそもおまえは私が公爵夫人であると知っているし、さっき確か恐ろしくて近づくこともできないと――」

「おっと……公爵夫人サマは力がおありなのにも関わらず、どうやら嘘を嘘と見抜く力はお持ちでないようだ。ククク、嘘を見抜く力は大事だぜ? 少なくとも、場所に左右される家名よりは汎用性が高い」

「ぺ、ペテン師! おまえは適当な言葉で相手をやりこめるだけの、たちの悪いペテン師だ! おまえたち……人を! 人を呼びなさい!」


 ぽかんとして状況を静観していた取り巻きたちがはっと我に返る。


「は、はい、エリザベート様! 誰か――ごふぅっ!」


 取り巻きの一人が、腹をロキアに殴られた。


「ところがどっこい。オレはペテン師であると同時に――恐ろしい魔王でもあったのだ。オレは理由があれば人を殴るし、時に、理由がなくとも人を殴る。相手が強者であっても弱者であっても殴る。正しくとも正しくなくとも殴る。すべての裁量権はオレにある。なればこその魔王なのだ――なんてな。フハ、フハハ、フハハハハハハ!」


 ロキアが高笑いを上げる。

 殴られた取り巻きは呼吸ができないらしく、目を剥いたまま腹をおさえると、そのまま膝をついてしまった。 

 ロキアがもう一人の取り巻きに嗤いかけた。


「――わかるな?」


 残った取り巻きが言葉なく何度も首肯する。

 少しでも騒げば同じ目に遭うぞ――ロキアの放った先ほどの一言だけで、すぐに言葉の意味を理解したようだ。


「か弱い女に暴力を働くとは……な、なんと非道な! おまえ、恥ずかしいと思わないのか!?」


 公爵夫人が牙をむく。

 が、その声が抑え目なのはやはり同じ目に遭うのを恐れてか。


「あ?」


 ロキアが双眸を細め、ふてぶてしく応える。


「何がだ?」

「反する! 人の道に、反している……!」

「その通りだ。だがこのオレの道としては正しい――圧倒的に、正しい」


 公爵夫人は、おぞましいものを見る目つきでロキアを見た。


「こ、この男……完全に狂っている……」

「安心しな。テメェほどじゃねぇよ」


 ぎりっ、と公爵夫人が爪を噛む。


「おまえは、罰してやる……罰してやるぞ、この身の程知らずめ……この私に逆らったらどうなるか、目にものみせてやる……」


 公爵夫人の顔は恥辱と憎しみで歪んでいた。


「ところで、トロイア公爵夫人」


 すぅっと滑るように公爵夫人に近寄ったかと思うと、ロキアがその耳元で何か囁いた。

 と、


「――――」


 そこで、公爵夫人が今までとは明らかに違う表情を浮かべた。

 その顔がみるみる青ざめていく。

 ロキアが離れると、公爵夫人は白くなった唇をゆっくりと開いた。


「ど……どこで、そのことを……?」

「いいか? これも力だ。暴力だけが、力ってわけじゃあねぇのさ」

「ま、待て……それは……そのことは……」

「ああ、一応言っておくがな、口封じのために暗殺者を差し向けても無駄だぜ? テメェの『小間使い』の名も割れてるからな。なんなら、全員の名をこの場で言ってやろうか? それに……もしテメェがそんな動きを見せようもんなら、悪いがオレの方が早い。何より……そんなことをしたら秘密の暴露くれぇじゃおさまりはつかねぇわな? ま、皆殺しだ。一族全員……このオレの矜持を持って、全員殺す」


 絶望の色を濃くした公爵夫人が、すがるようにロキアの腕を掴んだ。


「な、何が目的だ……? 金か? おまえ、そのために……私に……」

「違ぇよ。ここを通りかかったのは偶然だ。いいか? オレはテメェに興味がねぇんだ。だからおとなしくしてりゃあ、何も起こらない。公爵夫人の平和な世界は今後も続くってわけだ。そして今後もトロイア公爵夫人として好きにその力を振りかざし続ければいい。だが、相手だけは選ぶべきだな」

「わ、わかった、おまえには手を――」

「だから、見当はずれだっつってんだよ。テメェが敵に回さねぇよう気をつけるべき相手ってのは、あの男のことだ」


 ロキアと公爵夫人が同時にこっちを見た。


「あれを敵に回すのはやめといた方がいいぜ。オレなんかよりも、よっぽど悪質だからな」

「…………」


 え?

 俺が悪質?


「あいつが『場所』に縛られてることに感謝すべきだな」


 よくわからないことを口にした後、ロキアは忠告でもするように公爵夫人に言った。


「最も手にすべきは想像力だ。とどのつもり、最後はこれが最大の武器になる。そしてこの場合に想像力を使って見据えるべきは、目の前の人間の未来だ。目の前にいる人間が将来的にどうなるか……それさえ見抜く力があれば、テメェもいつだってその『力』を振るえる」

「み、見抜く力……」

「おら、今日はこんぐれぇで許してやる。さっさと消えろ、馬鹿女ども」


 公爵夫人はロキアに対し警戒心を見せつつ、緩慢な動作で立ち上がると、取り巻きたちに歩み寄った。


「行くわよ……少々、遊びがすぎたわ」

「火遊びの方もほどほどにな、公爵夫人? 下手をすりゃあ唯一のあんたの『力』を失いかねないぜ?」

「――っ!」


 キッ、と公爵夫人が悔しげにロキアをねめつけた。

 しかし、すぐに燃え上がった感情を押し込めたようだった。

 ロキアとやり合っても益はないと身に染みたのだろう。

 複雑そうな顔の夫人は踵を返すと、不安げな顔の取り巻たちと共に去って行った。


 彼女たちの姿が消えた後、俺はロキアに礼を言った。


「なんかよくわかんないけど……助かったよ、ロキア」


 くつくつ、とロキアは愉快そうに含み笑いをした。


「冗談だろ? なんの疑問もなく、素直に礼が飛び出しやがった」

「え?」

「さっきのオレの行動を見て……なんとも思わねぇか?」

「いや、だって助けてくれたじゃないか」


 何を言ってるんだ、こいつ?


「やはりオレが見込んだ通り末恐ろしい男だな、テメェは。ククク……オレも、目も曇っちゃいなかったってわけだ」


 なんだろうな……ロキアって、妙に俺を買い被ってる気がするんだよな。

 まあ彼のおかげで助かったのは事実だ。

 感謝はしておくべきだろう。


「でもさ、どうして公爵夫人はあんなにあっさりと引き下がったんだ? ロキアが何か耳打ちしてから、様子がおかしくなった感じがしたけど」

「秘密ってのは、どんなに気を配っても完全に隠し通すことはできねぇもんだ。不貞の味は蜜なれど、腹を探られれば毒となる、ってところか」


 あー、なるほど。

 つまり……不倫ってことか?


「馬鹿につける薬は痛みと恐怖しかねぇからな。とはいえ、この二つが通用する相手はまだマシさ。本当に怖ぇのは、目的のためなら痛みも恐怖も二の次って相手だ」

「……そこでなんで俺を見るんだよ?」


 ロキアは俺の肩に手を置いた。


「ま、そいつを敵にしねぇために、ここで恩を売っておこうと思ったわけさ。とはいえ……今回は感謝されるようなやり口じゃなかったな。手際としては粗悪な部類だぜ。だがそれも仕方ねぇってもんさ。なんせ、あの馬鹿女どもの凹んだツラを拝むのが最優先目的だったからな」


 愉悦に浸った顔で、ロキアは口の両端を吊り上げた。


「オレ個人としちゃあ、なかなか楽しい遊びだった」


 そう言って、ロキアは去って行った。

 彼の姿は、角を曲がるとすぐに消えた。


 取り残された俺とヒルギスさんは一度、二人で顔を見合わせた。


「とりあえず、丸く収まったってことでいいんですかね?」

「……あの人、知り合い?」

「んー、まあ、知り合いで間違いはないですね」

「そう」


 互いに黙り込む。

 ええっと、


「じゃあ、部屋に戻りましょうか?」

「……ええ」


 しかし二人で歩き出した途端、つとヒルギスさんが足をとめた。


「ヒルギスさん?」


 彼女の方を見ると、立ち止まったまま緩く握った拳を胸の間にあてていた。

 何やら逡巡している様子である。


「どうしました?」

「あの、クロヒコ」

「はい」

「……あ、ありがとう。さっき、あんな風に言ってくれて」


 あ、お礼を言おうかどうか迷っていたのか。

 でも、


「いやぁ、でも結果的には最大の功労者はロキアですからねぇ……俺、あんまり役に立てなくて」


 が、ヒルギスさんは否定するように首を振った。


「そんなこと……ない。わたしは……う、うれしかった、から……」


 途絶えがちながらも言い切ると、ヒルギスさんは胸にあてた手をきゅっと握った。

 そして照れくさそうに、さっ、と視線を逸らした。

 普段言葉数の少ない彼女だから、お礼を口にするのは照れくさいのかもしれない。


「次に何かあったら、ちゃんと俺が助けます」

「…………」


 ヒルギスさんは肩を縮こまらせると、どこか返答に困った風に視線を伏せてしまった。

 あれ?

 ヒルギスさん、なんか表情が浮かない感じだな……あ、そうか。

 もしかしたら、さっきのアレを気にしているのかも。

 …………。

 よし。

 そうだな。

 ヒルギスさんがさっきのことを気にせずにちゃんと風呂に入ってくれるよう、ここでさりげなくアピールしておくか。


「ヒルギスさん」

「……何?」

「この後、確か予約してた混浴の時間ですよね」

「? え、ええ……」

「俺、楽しみにしてますから――ヒルギスさんとの混浴!」


 が、ヒルギスさんは顔を俯けて黙り込んでしまった。

 両手をお腹のあたりでモジモジさせつつ握り込んでいる。

 あれ?

 顔が赤い?


「ひ、ヒルギスさん……?」

「えっち」


 え?


「クロヒコの……えっち」


 そう呟いた彼女の口元は少しだけ、綻んでいた気がした。 

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