幕間5「彼女たちの思惑」【キュリエ・ヴェルステイン】
聖樹騎士団の事情聴取から二日が経った。
今日はアイラ班の皆でシーラス浴場へ行く日である。
キュリエは授業が終わると一度女子宿舎へ戻った。
手早く支度を済ませて正門前の馬車停め場へと向かい、すでに待機していたセシリーと合流。
そして二人で馬車に乗り込んだ。
馬車が向かう先はアークライト家である。
現在の時刻は双蛇の刻(午後二時)に差し掛かろうかというところだ。
今日は各々準備をしてから改めて獅子の刻(午後四時)に大時計塔前で集合となっている。
そこから皆でシーラス浴場へ向かうという段取りだ。
ちなみに一度授業後に解散してからの再集合はセシリーの案だった。
わたしたちには支度の時間も必要ですからね、とのことである。
今、キュリエは複雑な気分だった。
これまでの自分であれば支度などせいぜい半ゼムエク(30分)程度で十分。
だが、今日だけは違うのだ。
そう、今日だけは……。
馬車がアークライト家へ到着する。
セシリーに背を押されながら屋敷へ入ると召使いのハナが出迎えた。
そのハナの手を借りながら二人で支度を済ませる。
そしてようやく支度を終えたキュリエとセシリーは、再び屋敷を出て馬車へ。
「あ、キュリエ。スカートの裾、踏まないように気をつけてくださいね?」
「わ、わかってる。しかしスカートの裾が長い意味なんてあるのか? これじゃ戦闘の時に動きづらいだけ――」
「はいはい、今日は戦いに行くんじゃありませんからね〜。……いえ、ある意味では戦いですが」
「なんだと? 危険人物でもいるのか?」
このシーラス浴場行き。
何か自分の知らぬ意図が隠されているのだろうか。
「そうですねぇ……危険人物というよりは、難敵ですかね?」
「なら剣を持っていた方がいいんじゃないのか?」
「いえいえ、剣が必要になる相手ではありませんから。その難敵は、わたしたちがよ〜く知る人物ですし」
「何?」
「さ、では行きましょうか。いざ、シーラス浴場っ」
セシリーに馬車の中へ押し込まれる。
御者のバントンが鞭を打ち馬車が動き出す。
ゆっくりと、窓の外の風景が流れはじめた。
キュリエとセシリーは向き合って座っていた。
腰をおろしてようやく人心地ついた感じがする。
昨夜は小雨が降っていたので天候が崩れることを危惧していたが、今日は気持ちよいほどに晴れ渡った穏やかな日だった。
ちなみに普段セシリーと行動を共にすることの多いジークベルトだが、今ここに姿はない。
なんでも今日はどうしても外せない用事ができたとのこと。
彼は夜からの参加になるらしい。
そしてヒルギスはギルエス家の身内みたいなものなので、彼女も参加は夜からになるようだ。
よほどジークベルトにとっては大事な用事らしく、セシリーも苦笑しながら、
「今回の用事ばかりは、仕方ありませんね」
と納得していた。
詳細は聞かなかったが、どうも人がギルエス家を訪ねてくる予定が急に入ったのだとか。
断続的に明滅する窓越しの陽光を浴びるセシリーが、懐中時計に視線を落とした。
「少し遅刻しそうではありますが……まあ、仕方ありませんね」
「……すまない」
自分が支度に手間取ったせいなのはキュリエも理解していた。
「別に気にはしていませんが……もしすまないと思うのなら、今日は学んだことを是非とも活かしてくださいね?」
「む」
ここ最近――
もっといえばシーラス浴場行きの件が決まってから今日まで。
キュリエとセシリーは本日へ向け着々と『ある準備』を進めてきた。
そして、どうにか間に合った。
しかしクロヒコに悟られないようにするのが大変だった。
慰労会から今日に至るまで。
キュリエはこちらの意図をクロヒコに悟られないよう行動してきたつもりだった。
また当日の驚きを重視したいというセシリーの考えは、わかるといえばわかる。
が、結果的にクロヒコに冷たい態度を取ってしまったような気がする。
セシリーのようにさらりとその場をやり過ごすことができず、迷った挙句、クロヒコの前で素っ気ない態度を取ってしまうことが多々あった。
そのたびにクロヒコは寂しそうな顔をした。
自分の不器用さが恨めしい。
彼にはすまないことをした。
ただ、聖樹騎士団の聴取の日から今日にかけてのクロヒコはどこか様子が違っていた。
授業中も「決戦はまだ先……まだ時ではない……ふはは……」などと一人で何やらぶつぶつ呟いていた。
また戦闘授業の時も「積極性……積極性だ! 積極性!」などと暗示のように言葉を発しながら打ち込みを続けていたが、心はここにあらずといった様子だった。
もしかしてついに神経がまいってしまったのだろうか。
これは自分の態度が原因かもしれない、とキュリエは自省の念に駆られた。
クロヒコには自分の態度が豹変したように映ったのかもしれない。
繊細な彼のことだ。
何か悪いことをしたのかと自問自答を繰り返すうち神経が摩耗したとしても、なんら不思議ではない。
だとすれば……かわいそうなことをしてしまった。
今になって思えば一言くらい、何か安心させるような言葉をかけておくべきだった。
ただ、今日の授業後は「じゃあ、後ほど大時計塔前で! ――俺の手番」といった具合に元気いっぱいだったので(なんの手番なのかは判然としなかったが)、神経がまいっているというのは自分の思い過ごしの可能性もある。
そんなことを考えながらキュリエは、見目麗しい対面の可憐な少女を見やった。
装いのせいもあるのだろう、目の前に座るセシリーはいつもと雰囲気が違っている。
そもそも今日は二人とも『女の子らしさ』を意識した装いだった。
だが今のキュリエの胸中には不安しかない。
――セシリーはともかく、
改めて自分の装いを確認する。
――さすがにこれは、私らしくなさすぎるだろ……。
とはいえもう引き下がることはできない。
ここまで来てしまったのだ。
そう。
ある準備。
その一つは服である。
今日のための服をセシリーの協力で仕立ててもらったのだ。
いつもの服装で行こうかと思っていたのだが、セシリーから半ば強引に誘われなし崩し的に新しい服を着てシーラス浴場へ行くことになってしまった。
そしてある準備は服装だけではなかった。
当日の立ち振る舞いについて、セシリーの母親からささやかながら薫陶をうけた。
セシリーの母というだけあって、なるほど、年齢などまるで感じさせぬ美女であった。
とはいえセシリーと瓜二つというわけでもない。
セシリーは父親似なのだろうか。
ちなみにキュリエは先日、クロヒコへの接し方のことでセシリーの母に相談を持ちかけてみた。
彼女はこんな風に言った。
『殿方というのは優しくしすぎると、ある時ふっと気持ちが離れてしまう性質を持つ生き物です。押しつつ引く……これを繰り返す。甘さと厳しさの配合を間違えないことが殿方の心を長く掴むコツです。ですからあなたは間違ってはいません。相手に不安の種を植えつけつつ、勝負の日では一気に安堵の花を開かせる……これで殿方の心はぐっと引き寄せられるはずです。自分を不安の海から引き上げてくれるのはこの女性なのだ――そう錯覚させれば、勝ちなのです』
駆け引き。
戦いの駆け引きならばいざ知らず、男女の関係にも駆け引きがあるのか。
キュリエは頭が痛くなった。
『しかしセシリーにもようやくそのような相手ができて、母は少し安心しましたよ。初め紹介すると言ってキュリエを連れてきた時は「あ、そっちいっちゃった?」と思ったものですが、よもや恋敵だったとは』
恋仲間です、と訂正する娘に対しセシリーの母は満足げに一つ頷くと、扇子を閉じて二人の間の空間へ突きだした。
『よいですか? 第一決戦の場は、シーラス浴場。わたくしの教えを、ゆめゆめ忘れぬように。セシリー・アークライトの母ではなく一人の女として、二人には期待していますよ』
少し得体の知れないところのある女性ではあったが、セシリーによれば男の心をくすぐる術に関しては右に出る者はいないのだという。
あの厳格と潔癖を絵に描いたような父を惚れさせたのだから大したものですよ、とセシリーは母を評していた。
――だが『あんなもの』で男は嬉しいものなのだろうか?
今もセシリーの母から伝授された殿方攻略技術とやらには疑問が残っている。
何よりキュリエは自分がいわゆる『恋愛対象』として魅力的なのかどうかについて、自信がない。
もっと言えば自分の『内面』が人に好かれるとは思っていない。
第6院時代にしても自分だけずっと浮いていた感覚がある。
多分6院の者はキュリエ・ヴェルステインの内面を奇異なものとして捉えていた。
それでも一応、キュリエなりに申し訳程度の女性らしさは維持してきたつもりである。
なぜならばその方が旅をする際に都合がよかったからだ。
第6院にいた頃はあまり意識しなかったが、第6院を離れ旅をする中で、自分が異性の目を惹く人間であることを理解した。
下卑た欲望を剥き出しにして絡んでくる輩は少なくなかった。
が、そういう連中であれば心置きなく叩き潰すことができる。
叩きのめした連中から『迷惑料』と称し金をふんだくり、よく路銀の足しにしていた。
自分へ向けられる視線はどれも性的なものだった。
己の欲望を吐き出す対象としてしか自分を見ていない。
そんな粘ついた視線に晒されることはままあった。
時にはこれなら6院の連中の方がマシだとすら思えた。
何より6院の者たちは互いに恋愛感情を抱くことがなかった。
異性という意識が非常に希薄だったように思える。
幼少から距離が近すぎたからだろうか。
皆、自分たちのことをきょうだいのように認識している気がする。
…………。
望まぬきょうだい、ではあるだろうが。
とまあ、そんなわけでキュリエ・ヴェルステインは自分が性的対象として見られることへの理解はあっても、色恋についてはとんと理解がなかった。
そして『あの時』セシリーに指摘を受け、初めて自分の持つ感情が『恋』なのかもしれない、と感じた。
そんなキュリエが『彼』に対してずっと感じていたのは――戸惑いだった。
サガラ・クロヒコ。
彼から向けられる視線には最初から強い好意が宿っていた。
意味がわからなかった。
会って間もない人間に対し、なぜああも純粋な好意を向けることができるのか。
あまつさえ第6院の出身者だと知っても物怖じするどころか、むしろどんどん話しかけてくる。
意味が、わからなかった。
…………。
クロヒコにも性的な視線がないわけではない。
だが不思議なもので、旅の道中で覚えたような嫌悪感がなかった。
その理由をキュリエは彼と出会ってからずっと考えていた。
何が違うのだろうか、と。
そしてある時、自分なりの答えが出た。
おそらくサガラ・クロヒコには相手を傷つけてやろう、屈服させてやろう、征服してやろうという感情がない。
きっと彼は、ただ相手のことが『好き』なのだ。
キュリエさん、キュリエさん、キュリエさん――。
たまに、無邪気にじゃれてくる犬みたいなやつだな、と感じることがある。
そのわりに時折、狙い澄ましたかのように思わずドキリとするようなことを言う。
しかしセシリーによれば、クロヒコには異性として致命的な欠点があるとのことで――
「どうかしましたか、キュリエ?」
セシリーが聞く。
「いや、おまえの母君から教えてもらった諸々が、私がやって意味のある行為とは思えなくてな……正直、未だに心構えができていない」
「けれどクロヒコはわたしたちから踏み込んでいかない限り、わたしたちが踏み込んできてほしいところには踏み込んできてくれないと思いますけど」
「……私はそれでも、別にかまわんのだが」
確かにクロヒコにはがっついたところがない。
だがキュリエは決して今の距離感が嫌いではなかった。
「他の誰かにかっさらわれても、ですか?」
セシリーの言葉にキュリエは片眉を上げた。
「かっさ……なんだと?」
「わたし、思うんですよ」
セシリーが窓の外を見やる。
「おそらく彼は、好意に対する耐性がとても薄い」
「好意に対する、耐性?」
「ええ。彼は悪意に対しては強い方だと思います。向けられる悪意にひどく怯えるようなことはない……ように見えます。ですが、好意を向けられると、彼はその好意を向けた人物に対して異様に甘くなる」
「……心当たりが、ないわけではないが」
ですから、とセシリーが人差し指を立ててみせた。
以前より慣れたとはいえ、今でもちょっとした仕草でドキッとさせられることがある。
女の自分でもそうなのだから、男たちはたまったものではないだろう。
「わたしたち二人がより大きな好意をぶつけることで、さらにクロヒコの気をわたしたちに向けさせねばなりません」
「……それはなんか違くないか?」
「いいえ、違くありません。このままではいつか好意を餌にして、彼の力を悪用しようとする輩が出てこないとも限りません。ならば――わたしたち以外の女性を恋愛対象として見れなくなるほど、わたしたちにのめり込ませればいいのです」
とんとん、とキュリエはこめかみのあたりを折り曲げた指の先で叩いた。
「最後のは、やっぱり違う気がするが」
セシリーがにっこりと笑顔を浮かべる。
「ふふ……まあ要はあの鈍いクロヒコにもう少しわたしたちの方から仕掛けてみましょう、ってことです。あまり難しく考えないでください。今日はせっかくのシーラス浴場なのですから、お互い楽しみましょう。ね?」
小首を傾げながら可憐に笑いかけてくるセシリー。
キュリエは苦笑する。
女の私を落としても仕方がないだろうに。
けれども、とキュリエは窓枠に手をやり外を眺めた。
もし自分たちのどちらかをサガラ・クロヒコが選ぶような事態が起きたなら。
選ばれるべきは……やはり、セシリー・アークライトだろう。
ルノウスレッドの宝石、セシリー・アークライト。
誰よりも美しく。
文武に秀でており。
世故にも長けている。
社交性も申し分ない。
出自や家柄にも文句のつけようがない。
妻としても……そつなく夫を支えるだろう。
反面キュリエ・ヴェルステインはどうか。
まず美しさではセシリー・アークライトに劣る。
武はともかく、知識量には偏りがある。
何より武など平穏な日々には不要なもの。
闇の世界には詳しいが、こと貴族社会においては知識や社交力の持ち合わせはない。
出自や家柄は論外。
妻としては……何ができるだろうか。
わからない。
恋敵。
セシリーの母はそう言ったが……最初から勝負になっていないのだ。
あの時。
図書館前で学園長に窘められクロヒコが走り去った後。
二人で食堂に行き言葉を交わした。
あの時はセシリー・アークライトという人物とこれほどまでに打ち解けていなかった。
だから妙な対抗心があった。
だが、今はどうだろうか……。
いや、とキュリエは内心首を振った。
どの道、いずれ自分はルノウスレッドを去るだろう。
少なくとも卒業まで学園に留まることはない。
ノイズ探しが三年もかかるとは思えない。
あのロキアのことだ。
長期戦とは言いつつ、半年から一年の間には蹴りをつける算段のはず。
ならば自分が学園を去るのは一年以内。
なんにせよ、サガラ・クロヒコとはそう遠くない未来に別れることとなる。
彼は学園に残るはずだし、その方が彼にとってもいいはずだ。
何より……自分ではクロヒコを幸せにできるとは思えない。
サガラ・クロヒコ。
獅子組の教室で再会した時から、なんとなくその男には危なっかしい印象があった。
おそらく元々はあんな性格ではないのだろう。
無理をしているのが、見え見えだった。
そのくせ、妙にがんばる。
必死に不安を押し殺しながらも、その男は何かのためにもがいていた。
また、禁呪使いであることが露呈するまで彼は獅子組の中では明らかに浮いていた。
どこにも混じり合うことができない。
そんな感じだった。
まるで、昔の誰かを見ているような感覚――。
そして。
あの言葉。
死について尋ねた時。
彼はその『誰か』と同じ答えを口にした。
嬉しくなかったかといえば、嘘になる。
第6院ですら異質であった自分。
特にノイズの言葉は今も剥がれ落ちずに自分の中にこびりついている。
『本っ当にあなたって薄気味悪いほど、異質。だからこそ孤児院の中では誰よりも劇的でぇ、そして最高に魅力的。キュリエ、あたしはこの孤児院の中であなたが一番好き。あら? あらあら? あらあらあらぁ? ひょっとしなくてもぉ、このあたしを劇的に殺してくれるのはぁ……あらあらあらぁ? あぁ〜なぁ〜たぁ〜かぁ〜しぃ〜らぁ〜?』
薄気味悪いほど、異質。
知っている。
どこにいても自分は異質なのだ。
だから6院にいたころは毎日、剣を抱いて眠っていた。
自分と一体になってくれるものは、剣しかなかったから。
混じり合えるものが剣以外に存在していなかったから。
『生きていても死んでいても、結局は納得できているかどうか、もしくはできていたかどうか……大事なのは、そこだと思います』
そんな自分と同じ考えを持つ者がいたことに、驚いた。
似ていることに驚きを覚えた。
だから――惹かれたのかもしれない。
いや。
すでに初めて出会った時。
自分は何かを感じていたのだ。
本人は覚えてないようだが、学園の正門近くで倒れて意識を失っていたクロヒコは……一筋の涙を流していた。
光るものが頬に伝う彼の顔を目にした時、キュリエは胸にぽっかりと穴が空いたような弧絶感を覚えた。
そして沸々と湧き上がってきたのは言い知れぬ感情だった。
不思議だった。
他人の表情でここまでも『寂しい』と思わされるものなのだろうか、と。
すでにあの時から――
サガラ・クロヒコのことが、気になっていたのかもしれない。
「…………」
「キュリエ」
不意にセシリーが口を開いた。
「ん? なんだ?」
「わたしは正直、あなたが羨ましいです」
「私が?」
突然どうしたのだろうか。
微かな困惑の色を浮かべるキュリエに、セシリーは達観したような微笑を向けた。
「ええ。クロヒコがあなたへ向ける感情と、わたしへ向ける感情には……決定的な違いがありますから」
「そりゃあ違うだろうさ。だが羨ましいというのは、よくわからんな」
「ふふっ……そういうところも、本当に羨ましいです。あなたはわたしでは絶対に手にできないものを、持っているのだから」
「フン……戦いにだけ、長けていてもな。結局、表面的な強さの先に待っているのは行き詰まりさ」
セシリーは膝の上で両手を重ね合わせた。
そして、俯きがちに薄っすらと微笑んだ。
「あなたのそういうところ、クロヒコと似ています。自己評価が低くて……一番大事なところには、気づかない」
「何を言ってるんだ……? セシリー?」
「かなわないなぁって思いますよ、そういうところ。でもキュリエ、わたしはね……わたしは、あなただったら――」
そこでセシリーの口の動きが止まった。
そして、
「なーんて!」
笑顔をぱぁっと輝かせ、合わせた両手を頬に添えるセシリー。
「こういう深刻さを演出するのも、殿方の気を引くための第一歩です! はい、ちゃんと覚えていますか?」
「え? そんなの、あったか……?」
「もぅ、ありましたよ!」
プンスカ口を尖らせるセシリー。
しかし記憶を探ってみても、そんな教えは出てこなかった。
「まあ、それはともかく」
ん〜、とセシリーが腕を天井へ向けて伸び上がる。
「さっきも言いましたが、今日はみんなでぱぁーっと楽しみましょうっ。小難しい考え事はなし! いいですね!?」
「ん……そうだな」
キュリエは急にこっぱずかしくなってきた。
「セシリー」
「はい?」
「……その、悪かった」
「え? 何がです?」
口を弧の形にしたまま首を傾げるセシリー。
謝罪を口にしたのは、彼女に気を遣わせてしまったことがわかったからだ。
多分、自分は小難しい顔をしていたんだろう。
キュリエは内心苦笑した。
――やっぱりおまえにはかなわないよ、セシリー。
同時に、すぅっと胸のつかえが取れるのを感じた。
そうだ。
今日は手配をしてくれたアイラのためにも自分たちは楽しむべきなのだろう。
だから難しいことは後だ。
今日は、
今日だけは、
細かいことは忘れて、楽しもう。
自分にとっても貴重な日になるだろうから。
とはいえ――
キュリエは再び自分の服装のことを思い出した。
つかえの取れた胸に、今度はくすぐったいザワザワ感が競り上がってくる。
「な、なあ……セシリー」
「ん? どうかしました?」
「い、今からどこかで……別の服、調達できないかな?」
「駄目です。とっても似合ってるんだから、その服で行ってもらいます」
窓の硝子に映る自分の姿を見る。
歯が浮きそうになった。
変な笑いが出そうになった。
セシリーに向き直ってキュリエは手をブンブンと左右に振った。
「ないない、やっぱりこれはないって! せ、せめてこれは――」
「ほら、リボンほどこうとしない! めっ、ですよ!?」
ぐにっ、と咎めるように額を指先で押される。
「う、うぅ……」
「あ、そろそろ大時計塔に着きますね」
「え? もうか!?」
窓に手をついてキュリエは外を確認する。
「わ、わーっ、やっぱり駄目だ! 引き返そう!」
「ふふふ、残念ですが……もう引き返せません」
「お、降りる! 私だけ、ここで降りるから!」
「ほー? ここで降りて衆目を集めたいと……わたしは別にかまいませんけど?」
「い――いや、やっぱりここで降りるのはなしだ! ど、どうしよう……」
「ふふ、観念してください」
…………。
どうにもなりそうになかった。
こうしてキュリエとセシリーの二人を乗せた馬車は、大時計塔前に到着した。