第61話「相楽黒彦」
え?
今なんて?
癪に……障る?
「な、何か気に障ることを言ったなら謝ります。でも俺は――」
「『でも』なんですか?」
「俺は……」
言葉に詰まる。
セシリーさんは布団から足を出すとベッドの縁に腰かけた。
めくれた掛け布団からくしゃくしゃになった黒いタイツが覗いている。
彼女の服の裾からは生白い脚が伸びていた。
「あなたは前にわたしのことを『脆いガラス細工みたいだ』と評したことがありましたが……わたしからすれば、あなたの方がよっぽど脆いガラス細工に見えますよ」
「…………」
追及めいた視線が俺を捉える。
「言い返さないんですね。つまりは心当たりがあると」
「それは……」
俺は俯いて手を組んだ。
続く言葉を上手く絞り出せない。
「結局あなたもわたしと同じなんです。誰にも嫌われたくないからみんなが求める『イイやつ』を必死になって演じている……わたしにはわかります」
垂れた髪をかき上げるセシリーさんの浮かべた笑みには、どこか嗜虐的な感情が混じっていた。
「昔のわたしが、まさにそうだったのですから」
脚を組むセシリーさん。
なんだか彼女には似つかわしくない仕草に思えた。
「あなたを見ていると苛々するんですよ。昔の自分を見せつけられているみたいで」
俺は無言のままぐっと手に力を込めた。
「俺はセシリーさんとは……違いますよ」
「でしょうね。あなたはヒビガミの『宿敵』で、一方わたしは『期待外れ』ですから」
「そんなこと……それに俺はセシリーさんを尊敬して――」
「尊敬?」
微かな苛立ちと共に向けらた鋭い視線に俺は射竦められてしまう。
「あなたはいつも『尊敬』だとか『好き』だとか容易に口から出しているみたいですが、誰にでも言っているんでしょう? 自分を好きになってもらうために」
「……本心ですよ」
「ヒビガミの前でわたしに言ったことだって、わたしに好きになってほしかったから言った言葉なんでしょう?」
「セシリーさん、どうしてそんな……」
「ん? 違うんですか?」
「い、一体どうしたっていうんです? もしヒビガミのことで卑屈になってるならそれは気にしすぎですって。そもそもヒビガミが口にしたことは、あいつ基準の話でしかないわけで……」
面を伏せたセシリーさんが、ぎりっ、と歯を食いしばった。
「いつから――」
「?」
肩を小刻みに震わせるその姿は、まるで怒りを堪えるかのようで。
「いつからあなたは、そんな上の目線からわたしに言葉をかけられるようになったんです……っ」
「…………」
「わたしに声をかけられた時、わたしに触れられた時……そのたびに、どぎまぎとしていたくせに……っ」
「…………」
セシリーさんが顔を上げる。
彼女は俺を睨みつけていた。
かすれ気味な声でセシリーさんが言った。
「本当はわたしと、変わらないくせに」
彼女は腰を浮かせると、ソファに座る俺の前に立った。
「なのに……なのにどうしてあなたが――」
彼女の顔に再び冷やかさが戻ってくる。
口元こそ微笑みの形を作っているが、その目には敵意とも取れる感情が宿っていた。
「わたしよりも強いんですよね?」
俺の右手をセシリーさんが取った。
そして――自分の左胸に押しつけた。
「せ、セシリーさん!? 何を!?」
「なら――ここでわたしをねじ伏せてみてはどうですか? こんなひどいことを言われているんですよ? だったら怒りに任せて無茶苦茶にしてしまえばいい!」
「い、意味がわからないですって! どうしてそうなるんですか!?」
右の掌に押し当てられているものの感触に意識をやる余裕もなかった。
「わたしはガラス細工なんでしょう!? だったら簡単に壊せるでしょう!? ほら!」
左手も彼女に取られかける。
だが俺はその手を払った。
ガラス細工なら簡単に壊せる。
俺も立ち上がる。
そして逆にセシリーさんの両手首を掴んだ。
少し強めに力を入れる。
けど――ガラス細工同士がぶつかり合ったって、どっちも粉々に砕けるだけじゃないか。
ぎこちない笑みが俺へと向けられる。
「ふふ……ようやくその気になりましたか。それでいいんです」
「いや、よくないでしょう」
俺の意思が自分の意に沿わないものであることを確認したらしいセシリーさんが、悔しげな表情で睨みつけてきた。
「は、離してください……!」
セシリーさんは首を振っていやいやをしながら、俺の手を解こうともがく。
俺は彼女の手を離した。
と、彼女は急に拘束が解けた反動でバランスを崩しつつも、踏みとどまった。
そして俺を睨み据えた。
けれど次に彼女の目から溢れてきたのは……涙だった。
「セシリー、さん?」
「わかってますよ、これがただの八つ当たりだって。支離滅裂なことを言っているのも、わかってますよっ」
セシリーさんが白い手を握りしめ肩を震わせる。
「誰が来てもわたしは当たり散らしていたはずですっ。このやり場のない気持ちを、誰かにぶつけてしまっていたはずなんです……っ」
「…………」
そうか。
だから彼女は誰とも会おうとしなかったのだ。
当たり散らしてしまうことがわかっていたから。
「でもね、みんな優しいんですよ。だけどそのせいで――何も言えなくなるんですっ。あんな優しい人たちに……ジークに、ヒルギスに、ハナに、バントンに、当たり散らせるわけ、ないじゃないですかっ……」
彼女の口から弱々しい嗚咽が漏れる。
「でも耐えられなかった……自分の惨めさに。だから誰かに吐き出したかった。本音をぶつけたかった。ひどいことを言ってしまうかもしれないとわかっていながらも。けど、それでも……」
それであんな風に煽るみたいに突っかかってきたのか。
何か様子が変だとは思っていた。
らしくない、というか。
「大丈夫です。俺は気にしてないですよ。ほ、ほら、俺ってよそ者みたいなもんですから! とある人もしがらみがないから俺を愚痴の相手に選んだ、みたいなこと言ってましたし! ですから気にしないでくださいよ!」
セシリーさんが歯噛みする。
「だから、そういうところが――」
セシリーさんが握り込んだ拳を振り上げた。
そして――
「そういうところが、癪に障るって言ってるんだよっ!」
殴られた。
というよりも、
「なんで――なんでそんなに優しくするんだおまえは!? なんで怒らないんだ!? そんなに人様の顔色を窺ってないと不安なのか!? そんなに人から嫌われるのが怖いのか!?」
「…………」
「ああそうだよ……わたしもそうだよ! いつも人の顔色を窺ってないと不安だよ! だから『自分』を押し殺して我慢してるんだ! だけどおまえはそれが元々の性格なんだろ!? おまえは――演じてないんだろ!?」
「…………」
「うぅ……わたしだって、わたしだって本当は『そっち』でありたかったんだ……! ちくしょうっ……なんで禁呪を覚えたのがわたしじゃないんだよ? なんでヒビガミとやり合えるのがわたしじゃないんだ? どうして……みんな『神に愛されし少女』をわたしに求めるんだ!? どうしてわたしはあなたみたいに自然体でいることが許されないんだよ!? 自然体のまま、好きになってもらえないんだよ!?」
ぽかぽかと。
まるで駄々っ子のように、俺の胸を叩いてきていて。
その泣き顔はくしゃくしゃで。
こんなことを言ったら失礼かもしれないけれど。
まるで、幼い子供のようだった。
「わたしはこんなにがんばってるのに……なのに誰も褒めてくれないんだ! みんななんでもできて当然だと思ってるんだ! でもわたしだっていつもがんばってるんだよ! ぎりぎりのところでふんばってるんだよ! わたしは元からなんでもできるわけじゃないんだ! 何が『神に愛されし少女』だ! わたしだって――」
セシリーさんの手が止まる。
そして彼女は俺の胸に顔を埋めると、消え入りそうな声で言った。
「わたしだって、ただの人間なんだよ……」
それからしばらく、セシリーさんは静かに泣いていた。
*
鼻を啜る音が小さくなった頃、ようやくセシリーさんは落ち着いたようだった。
俺は彼女をベッドに座らせると自分はソファの方へ戻った。
「……すみませんでした」
泣き腫らした目を下に向けながらセシリーさんが謝罪を口にした。
「わたし……多分あなたが羨ましかったんです。わたしが自分を殺してまで『神に愛されし少女』を作り上げてきたのに、あなたは自然体のまま物凄い速度で自分を追い越していく……強さも含めてね。それができてしまうあなたが、羨ましかった。だからその完璧さを揺さぶってみたくなったんです、嫉妬心で」
俺はふっと笑みを零した。
「セシリーさん、やっぱり勘違いしてますね」
「勘違い?」
「俺はあなたと決定的に違う」
「ええ……そうでしょうね。あなたは自然体で、強くて、一方わたしは――」
「だから、違うんですよ」
俺は困ったような笑みを作ることしかできなかった。
「……クロヒコ?」
「俺ね、強くなんてないんです。もちろん自然体でもないです」
とりあえず口元には笑みを作っておくことにした。
「自分にね、自信がないんですよ。だからセシリーさんの言うとおりです。好きになってほしい……そうです、俺はみんなに自分を好きになってほしいんでしょう。優しくしてくれる人に好かれたいんでしょう。だって俺には自分を好きになってくれた人の記憶なんて、ほとんどないから」
前の世界では誰かから好かれた記憶なんてない。
どころかいつも一人だったから。
だからこっちの世界に来て誰かが自分に関わってくれることが、優しくしてくれることが、嬉しかった。
「今までね、こんな風に他人から優しくされたことがなかったんです。だからすごく嬉しかった。でも同時に失うことが怖くなった。嫌われるのが怖くなった。『イイやつ』にならないと、失ってしまうかもしれないから」
自然と自嘲の笑みが浮かぶ。
「そんなやつが人に好かれたいと思うのって、変ですか?」
「それ、は……」
セシリーさんが長い睫毛を伏せた。
なんと答えていいのかわからないというより、自責の念に駆られている風だった。
自分の手に視線を落とす。
「ただね、こうも思うんですよ。もし禁呪を覚えていなかったら誰も俺にあんな優しく接してくれなかったんじゃないかって……だから禁呪がなかったらと思うと、時々ぞっとするんですよ。だけどセシリーさんは禁呪がなくても人から好かれている。それは自らの努力で勝ち取ったものです。その美貌を維持する努力も含めてね。でも俺は……棚ぼたで力を得たようなものだから」
「そんなことは――」
「言い切れますか? 俺は誰にも嫌われたくないからみんなが求める『イイやつ』を必死になって演じているだけの、そんな男ですよ?」
セシリーさんの表情に別の動揺が生まれる。
その表情は不安と後悔が入り混じっているように見える。
俺の中にも少し後悔の念が混じる。
別段、彼女を責めるつもりはなかったのだが。
「すみません、今のは少し意地悪な発言でした。ただね、俺だって――」
…………。
駄目だ。
堪えていたが――いよいよ声が震えはじめている。
表情もちゃんとは作れていないだろう。
それはそうだ。
自分のつつかれたくないところを、自分でわざわざつついているんだから。
けどここまできたらもう吐き出すしかないのかもしれない。
自分でも止めようがなかった。
もしかしたら俺も誰かに吐き出したい思っていたのかもしれない。
俺は表情を隠すために膝の前で組んだ手に額をつけた。
ごくり、と唾をのみ込む。
「俺だって、なりたかったんですよ」
「なりたかった?」
「なれなかった、自分に」
コメディ系ラノベの主人公みたいにみんなに好かれる面白いやつになって、人生をやり直したかった。
何一つ選択を間違わないハリウッド映画の完璧超人主人公みたいになって、人生をやり直したかった。
どんなことにも打ちひしがれない強い意志を持った漫画の主人公みたいになって、人生をやり直したかった。
女の子に囲まれた青春真っ盛りの学園アニメの主人公みたいになって、人生をやり直したかった。
面白いやつで。
完璧超人で。
揺るがない強い意志を持っていて。
青臭いけど爽やかで。
やり直したかった。
なれなかった自分に、なりたかった。
変わろうと努力はしたつもりだ。
ウジウジ悩まず。
目標を持って。
前に進もうと。
決意はした。
今もその決意は変わらない。
変えるつもりもない。
だけど、
「だけど人はそんな急には変われない……禁呪の力を得たところで俺の人格まですぐ豹変するなんてことはない。変わろうと、強くなろうと努力はするけど、やっぱり根っこのところは『相楽黒彦』でしかないんです」
俺は歯の根を強く噛み合わせる。
静かに呼吸を整える。
でも――駄目だった。
「俺の根っこの部分は、凡人以下の落伍者なんです。結局なれてないんですよ……なりたかった自分になんてっ」
目から零れ落ちるものを、止めることはできなかった。
「あの、クロヒコ……わたしはあなたのことを――」
「セシリーさんの言ったことは全部当たってます。すごく脆くて、自分に優しくしてくれる人間はみんな好きになってしまうくらいちょろくて……俺はそういう人間です。低俗なんですよ、根っこの部分が」
言い終わってから、ふつふつと後悔が湧き上がってくる。
案の定というか。
強く目を瞑る。
感情に任せて何言ってるんだ俺。
こんなことセシリーさんに話してどうしたいんだよ?
セシリーさんの話を聞きに来たんじゃなかったのか?
ここは俺がかっこよく彼女を慰めるシーンじゃないのか?
が、溢れて出てくる感情の奔流を抑え込むことは難しかった。
くそっ。
俺は袖で目元を拭った。
顔を上げ、どうにか笑顔を作ろうと努力してみる。
深刻に見えないように。
「実は『こっち』に来てから、ずっと不安だったんですよ。俺はこっちでも受け入れてもらえないんじゃないかって」
今になって思い返せば。
こっちの世界に来て二日目の夜。
国を持たぬ種族である亜人種だというミアさんに対してあの大男が言った言葉。
『だからどの国に行っても、媚びて生きていくしかねぇわけだ』
あの時はもちろんミアさんにあんなことを言ったことへ対する怒りが何よりも強かった。
でも――無意識下で自分のことも言われているように感じたのかもしれない。
所詮おまえはよそ者なんだよ、と。
だから俺は――
「だから俺はこっちの人に受け入れられようと必死だったんじゃないかと思います。だって俺は――」
だって俺は日本から来た――
「東国から来た、よそ者ですから」
よし……笑顔は作れているはずだ。
「クロヒコ、わたしは……」
「あはは……い、いやなんかすみません。いきなり自分語りはじめちゃって……あ、ええーっと、ひきこもるのはおすすめしませんよ? 人と関わらないで閉じこもってると、俺みたいになっちゃいますからね……なーんて」
突然セシリーさんが立ち上がったかと思うと、俺の腕を取って引き寄せた。
「――――」
えっ……と。
見方によっては今、セシリーさんを押し倒すような形で俺はベッドに倒れ込んでいた。
というかセシリーさんに頭を抱かれ彼女の胸の間に顔が埋まっている。
自分のものではない匂い。
それから微かな息遣いとか、呼吸のたびに感じる肺の動きとか……心臓音とか。
あまりにも密着しすぎていて、これは……。
「いいですよ」
「え?」
セシリーさんが俺の両肩に手をやるとそっと押し上げた。
俺はされるがままに上半身を起こす。
するとちょうど頭一つ分の空間を挟み、お互いの顔が向き合った状態になる。
互いの下半身は密着している。
布地が擦れ合う音が、やけに大きく感じられた。
青く深い濡れた瞳が俺の目をじっと捉えて離さない。
「あなたがいいなら、わたしはあなたを受け入れてもかまいません」
受け入れる?
受け入れるってつまり……えっと、そういうこと?
この状況からすれば、それくらいしか思いつかないが……。
「なんなら、将来の妻になってさしあげますが?」
「つ、妻!?」
「以前あなたは成り上がりたいと言っていましたよね?」
「言いましたけど……」
「アークライト家の娘であるわたしを娶れば高い地位につきやすくなるはずです。祖父たちの地位も利用できますしね。夜会などに出席する時もわたしを横に置いておけば一目置かれるでしょう。それに男性としても、自尊心が満たされるのでは?」
「そりゃあ、そうかもしれませんけど」
「わたしを道具だと思えばいいのです。どうぞ、わたしを成り上がりのために使ってください」
「ど、道具だなんて」
「ただし、手入れは怠らぬように」
「…………」
今のセシリーさんには冗談を言っているような空気もなければ、さっきのように皮肉を言っている感じもない。
本気……なのか?
艶っぽく彼女が微笑みかける。
「ふふ、それともこんな駆け引きなど後回しにして、まずは『したい』ですか? いいんですよ? あなたがわたしを受け入れてくれるというのならね」
自分の唾をのみ込む音がやけに大きく聞こえた。
「あなたには期待していたんですよ。この人ならわたしをわかってくれる……そして、この人はわたしにどこか『似ている』って。でもヒビガミの一件などを経る中で、わたしとは違うのかもしれないと思いはじめていた。けれど――あなたは違うと言いましたが、やっぱりあなたはわたしに似ている。もうわたしたちは互いの本音を知ってしまった。これは今、わたしたちだけの秘密です」
俺たちだけの秘密……。
「いいパートナーになれると思いませんか、わたしたち?」
「だから……こんなことを?」
「ええ、もちろん打算ですがね」
にっこりと笑うセシリーさん。
隠す気はないようだ。
「けれど打算だとしても、あなたにとっても得るものが大きいのでは? 責任は……果たしてもらいますが」
世界で一番と言っても過言ではないであろう美少女が自分を受け入れると言ってくれている。
それに今は互いに本音を暴露し合った状態。
ある意味今までの関係は『終わって』しまうだろうが……むしろ心地よい関係になったともいえるのではないか。
そんな彼女となら上手くやっていける気もする。
客観的に見れば何もデメリットはない。
「…………」
だが、
「お、俺をあんまり侮らないでくださいよ、セシリーさん」
言って、俺はベッドから降りた。
「……振られましたか。一時の気の迷いというわけでもなかったのですがね」
「いや、物凄い決意が必要でした。だって相手はセシリーさんですよ? さっき本音を聞いてなかったら危なかったかもしれません」
「ふふ、また適当なことを言って。都合のいい男ですね、本当に」
ベッドに寝そべり天井を見上げたままセシリーさんが愉快そうに言った。
「わたしが振られた理由を聞いても?」
「俺がセシリーさんと釣り合わないから」
「またそうやって――」
「なりますから」
「…………」
「俺、あなたに釣り合う男になりますから。なれるよう、努力しますから。で、その時まだセシリーさんが同じ気持ちでいてくれたなら、改めてちゃんと答えを出します。まああなたが待っていてくれる前提での話ですけどね。なので期待はしないでおきますよ」
セシリーさんが目元を腕で覆い隠した。
それからひとしきり小声でクスクスと笑った後、黙り込んだ。
部屋に沈黙がおりる。
俺は待った。
何か言おうとしているのがわかったからだ。
セシリーさんが口を開いた。
「待てる自信は、ありますが……でもそれってとても卑怯な逃げ口上じゃありませんか?」
目元を隠したままのセシリーさんの口元は綻んでいた。
そして次に彼女が放った一言は、なぜか清々しい響きを伴っていた。
「今のはずるいだろ……ばか」
*
セシリーさんは今まで積み上げてきたものをすべて否定された気分だったのだろう。
ヒビガミに。
存在の否定。
死にもの狂いで作り上げてきたものが完膚なきまでに否定されてしまった。
価値なしと判断された。
ヒビガミは修羅と化せばもう一度だけ仕合うようなことを言っていたが、あの言葉には『どうせ無理だろうが』という言外の意味が含まれていた感がある。
セシリーさんにも、それがわかってしまったのだろう。
きっかけはあの事件だった。
そうして彼女の己の行き場――『生き場』を見失った。
結果、自分までもがわからなくなった。
すがるものがなくなった。
モヤモヤした感情だけが肥大化していく。
多分、そんな感じだったのだろう。
雨の降りはじめた夜の王都。
こっちの世界に来てから初めての雨だ。
アークライト家を出る時に降ってきそうだからと渡された外套を着ているので、制服はさほど濡れずに済んでいる。
一応馬車で学園まで送ると言われたが、それは断った。
なんとなく自分の気持ちの整理をつけながら一人で帰りたい気分だったからだ。
セシリーさんは明日か明後日には登校すると言ってくれた。
スープとパンを食べさせた後(なぜか『振られた代わりに』と言われ俺が食べさせることになった)、彼女は部屋から出てジークたちを安心させた。
そしてひきこもっていたことを謝罪した。
やや身なりが整っていなくとも、立ち振る舞いはいつものセシリー・アークライトだった。
ふと足を止めて空を見上げる。
「…………」
にしてもセシリーさんとは、妙な関係になってしまった気がするなぁ……。
再び歩き出す。
そして歩きながら考える。
しかし……俺は変われるんだろうか?
それともとっくに変わってしまっているが自分では気づいていないだけなんだろうか?
自分。
自分とはなんだろう?
よくわからない。
よくわからないが――今の俺は自分にできること、したいことをするだけだ。
まずはマグマ巨人の討伐作戦を成功させる。
明日すぐに討伐ということは多分ないだろうから、明日はキュリエさんに例の聖魔剣を借りてクラリスさんのところへ行ってみるとしよう。
それから歩いて学園に到着し、家へと戻る。
夕食が置いてあったがミアさんの姿はなかった。
今日はマキナさんの城行きもあって侍女の仕事が忙しいのだろう。
俺は外套と制服を洗濯籠に放り込み、風呂釜に湯を張った。
湯に浸かると冷えた身体が芯から温まっていく。
風呂からあがる。
布で身体を拭く。
――がらっ。
…………。
ん?
がらっ?
ドアの方を見る。
「へ?」
「む?」
「キュリエ……さん?」
「湯浴みを終えた直後だったか、すまん」
「ええっと、な、なぜここに?」
「呼びかけても返事がないから勝手に上がらせてもらったんだが――きゃっ、み、見せるな馬鹿っ。さすがにそれは駄目だ!」
「わ、す、すみません!」
俺は慌てて大事なところを布で隠す。
つーか今『きゃっ』って妙に可愛らしい悲鳴を耳にした気が……。
「い、いや、おまえが謝る必要はない。悪いのはむしろ私の方だしな」
「わかりましたから! まずはドア閉めてください!」
「あ、そうか。す、すまない」
心底申し訳なさそうな謝罪と共にピシャリとドアが閉まった。
「…………」
俺は素早く着替えをはじめる。
うぅ、普通に油断していた。
なんか今ので俺のシリアスモードが一気に吹っ飛んでしまった感すらあるな……。
それにしてもキュリエさん、どうしてこんな時間に来たんだろう?