第6話「異世界より来たりし者」
「……なるほど、あなたがあの呪文を詠唱するのに使用した言語は『ニホンゴ』というのね」
「はい、そうです」
学園長の『日本語』の発音はちょっと違いますけどね。
日本語が堪能じゃない外国の人が『ニホンゴ』と言ってる感じ。
俺は今、学園の最上階にある学園長室にいる。
学園長はあの後、その場に居合わせた人たち――リーザさん、衛兵さん、クラリスさんに、
「今日この場で起きたことは他言無用。誰かに話したら……死刑も考慮に入れるわよ?」
と強く言い含めた。
死刑も考慮に入れるわよ? の部分は少し冗談めかした感じだったが。
学園長は逆らうと怖い人なのか、三人とも即座にイエスの返事をした(返事の仕方は三者三様ではあったが)。
三人と別れると、学園長から、
「あなたには少し話があるから、私と一緒に来てちょうだい。懲罰房に入れられるよりはいいでしょう?」
と言われたので、もちろん懲罰房などご遠慮したい俺は、言われるまま彼女についていくことにした。
状況的にまだ予断を許さないとはいえ、懲罰房とやらで一人寂しく朝を迎えるよりは幾分マシであろう。
あの衛兵さんにまた身柄を預けられるのも、なんかアレだしな。
学園長室はけっこう広かった。
地味さと厳めしさが同居した前の世界の校長室のイメージとは違い、ちょっとした金持ちのリビングなんかを思わせる華やかな感じ。
どこかの王族なんですか? とでも問いたくなるほど室内は華美な調度品で彩られている。
偉そうな人がアニメとかで使ってそうな横長の黒いデスクは、ぱっと見、元いた世界にありそうなものとさして変わりはないけど。
黒檀のデスクってやつだろうか?
と、学園長が司令官みたいな感じに机の上で手を組み合わせた。
見た目と反して、大人びた威厳が滲み出ている。
そんな厳粛さを纏った学園長がまず俺に問い質したのは、言語のことだった。
そして日本語の説明を終えると、彼女は伏せていた視線を上げた。
「例の呪文、発動しないやり方でもう一度、口にしてみてもらえるかしら?」
「…………」
「どうしたの?」
ふと気づく。
俺と学園長は今、二人っきり。
この場であの呪文を発動して学園長を拘束すれば、そのまま逃げられるのでは……?
学園長が、射抜くようなジト目を向けてきた。
「言っておくけど、妙なことは考えない方がいいわよ?」
「……な、何の話でしょうか?」
今の、思惑を読まれて牽制されたんだよな?
…………。
まあどの道、ここで彼女を拘束して逃げたところで自分の置かれた状況が好転するとも思えない。
それに現在、あの呪文に関し俺が知る情報は極めて少ない。
今のところ使用におけるリスクはなさそうだけど、まだ無闇な使用は控えた方がいいだろう。
使える、のと、理解している、のでは微妙に違う。
今は『理解する』ことを優先すべきであろう。
仮に逃亡を図るとしても、まだ早い。
あの呪文について彼女は何か知っているみたいだし。
何より今はこの世界について少しでも情報を得なくては。
ほとんどこの世界のことを知らない状態でいきなりお尋ね者になるのは、さすがに厳しい。
「それじゃ、よろしく頼むわ」
えへんっ、と声の調子を整える。
「わかりました」
再び最後の数文字を除外し、あの呪文を口にする。
まるで頭の中に刻み込まれてでもいるかのように、一言一句間違えることなく、すらすらと読み上げることができた。
俺が言い終えると、学園長は「むぅ」と可愛らしく口元にこぶしを当て、何やら考え込みはじめる。
返答を待ちつつ、手持無沙汰になった俺は学園長を観察した。
けっこう怖い人っぽいけど、こうして見ると本当に綺麗で可愛い人である。
月並みな表現だけど、精巧に作られたお人形さんみたいだ。
「かなり難しい言語のようね……文字としての解読は、可能なのかしら」
机の紙の束から一枚抜き取って裏返すと、学園長は同じく机の上にあった羽根ペンを手に取った。
細く小さな手に握られたペンを、俺に差し出してくる。
「この紙にさっきの呪文、書いてみてくれる?」
言われた通りに呪文を文字にしていく。
学園長は小鳥にようなか細い唸りを発しながら、お世辞にも綺麗とはいえない俺の文字に視線を走らせた。
「難解な文字ね……言語としては、下手な古代文字よりも複雑だわ」
それから学園長は俺にもう一度呪文の一部を復唱させた。
復唱を終えると、注意深く耳を傾けていた彼女が「わ」とか「よ」とか、何やら発声をはじめる。
そして学園長は、落胆したように息をついた。
「やっぱり言葉が上手く繋がってくれない……なるほど、上辺だけなぞってみても駄目ってわけね。つまり頭で単語と文節の意味を理解できていないと読み上げること自体できないわけ、か……これじゃあ、時間をかけたとしても……」
ああ、なるほど。
つまり学園長は、自分でも見よう見まねで詠唱できないかどうか試していたわけか。
髪をかき上げ、学園長が俺の書いた文字を睨む。
「発音と言葉の組み合わせが、読み上げられない原因ということ? だとすると、つまり禁呪の『呪文自体』が、何かの呪術的な効果を帯びていることに……」
独り言を呟きながら、学園長は懸命に思考を巡らせているようだった。
ふむ。
どういうことなのだろうか?
この世界に来てから、俺はこっちの言語を難なく理解している。
いや、どころか固有名詞らしき単語すら理解できている。
例えば学園の近くで倒れていた時も銀髪の美人さん――彼女とは機会があるなら是非ともまた会いたい――が口にした『せいるのうすれっど』という言葉を、ちゃんと『聖ルノウスレッド』と変換し頭に思い浮かべることができた。
会話が難なく成立していることからも、俺が発する言葉はこの世界の住人にちゃんと意味が通じている。
だというのに学園長には、あの呪文書に記されていた文字が読めないという。
これは……つまりこういうことか?
俺は『元いた世界の言語』と『こっちの世界の言語』の両方を使うことができる。
対して、学園長は『こっちの世界の言語』しか使用することができない。
読む方も、書く方も。
俺は普通に日本語を喋っているつもりでも、こっちの世界の住人にはこっちの世界の言語として耳に入っている。
しかしあの呪文書に記されていた文字――『日本語』で記されている文字を読む時だけ、俺は『日本語』として発話している……。
そういう、ことでいいのか?
…………。
うーん。
小難しいことを考えるのは苦手だ。
ただ、今の考え方なら、俺がこっちの世界で普通に会話できてること、なぜかこっちの世界の人には読めない文字を俺だけが読めることについて、一応の説明がつく――ような気もする。
けど待てよ?
となると一つ疑問がある。
だったらあの呪文書の文字は、一体誰が――
「あ〜、やめやめ! 無理!」
学園長が両手を広げ、机に上半身を放り出した。
「この文字を目にしていると頭が痛くなってくるわ。あ~、めんどくさい」
めんどくさいて……。
学園長は上体を起こすと、椅子に深く寄りかかった。
疲れと諦めが混在した表情をしている。
ふぅ、と学園長が息をついた。
「ねえ、クロヒコ」
「はい」
「これから、あなたが『悪意のない』『正直で』『善良な』人間であることを前提として、質問をするわ」
今のはつまり、実は俺が敵だったとか、嘘をついてることが後でばれたりしたら、もうマジ容赦しねぇぞコノヤローってのを暗にほのめかしてるわけか。
…………。
やっぱ喰えねぇな、この人。
見た目で判断しちゃ駄目というイイ例だ。
まあ嘘をつくメリットも考えつかないし。
答えられることは正直に答えるか。
腹の探り合いも疲れるし。
俺は観念して、肩をすくめた。
「ご期待に添えられるようがんばります。どうぞ、なんなりと」
「では、率直に聞きます」
学園長が再び机の上で手を組む。
すっ、と彼女の目が細まった。
「あなた、何者?」
「何者、とは?」
「まず、東国の出身にしては装いが『らしくない』」
俺は自分の服に視線を落とす。
学園長が続ける。
「でもまあ、これは聖ルノウスレッドに来るにあたってあなたなりに服装をこちらの国に合わせてきた、と考えればいいでしょう……それでも、珍妙さは覚えるけれど」
そうか。
この服って前の世界のものだもんな。
こっちの世界の人には少し珍妙に映るのかもしれない。
あんまりリーザさんや衛兵さんが気にした感じはなかったから、こっちの世界でもそこまで違和感あるってほどじゃないんだろうけど。
「でも……訛り、とでもいえばいいのかしら? 言葉の発音が、聖ルノウスレッドや、この国が位置する大陸南部のものとは、だいぶ違う。もちろん、西部や北部のものとも違う……そして、あなたの出身国と思われている東国とも、やはり違う。そんなあなたは、誰も解読できなかった文字を読むことができた。さて――ではあなたは一体、どこからやって来たのかしら?」
んー……ここはどうすべきかな。
正直に話すべきだろうか。
異世界から来たことを。
とはいえ、信じてもらえるだろうか?
異世界から、こっちの世界に飛ばされてきただなんて話。
だが、ここで嘘をつくのも悪手だろう。
なぜなら俺はこの世界のことをほとんど知らない。
仮に適当に取り繕ってみたところで、おそらくボロが出る可能性の方が高いだろう。
だったら……正直に話すしか、選択肢はない気がする。
信じてもらえるかはわからないが、継ぎ接ぎのねつ造話にツッコミを入れられてあたふたするくらいなら、いちかばちか、本当のことを話した方がまだマシではないだろうか。
学園長は、じっと俺の返答を待っている。
…………。
よし。
こうして結局、俺は本当のことをありのまま話した。
実のところ、まったく勝算がなかったわけでもなかった。
今までの話や反応を鑑みるに、あの呪文書の文字を読むことができるというのはとても異様なことらしい。
つまり、この世界の人間には読めない言語であるという可能性が、非常に高い。
ならば、それは別世界――つまり俺が元いた世界の言語で書かれているから俺は読めるのだ、という説明にも、一定の説得力を持たせられるのではないかと思ったのだ。
無論、一本の細い紐の上を渡るような危うい賭けではあることに変わりはなかったが。
「ふーん……別の世界から、ねぇ」
ところどころ詰まりながらもどうにか俺が説明を終えると、学園長は再び思案モードへ。
自分の中でどう処理するか判断している最中、といった感じだ。
まあ……つかえつかえではあったが、俺にしてはよく頑張って説明した方だろう。
しかし、若返りの影響なのか、あるいはもう逃げ場のない状況へと追い込まれたせいなのか、こっちの世界に来てからというもの、自分でも信じられないほどの積極性を発揮している気がする。
人間、追い込まれると時に信じられない力を発揮するともいうが……まさに、今がそういう状況なのだろうか。
学園長が思案顔そのままに、視線を俺へと向けた。
「まず、いいかしら?」
「は、はい」
「とても嘘くさい」
「ええ、俺もそう思います」
学園長の眉がぴくりと跳ねた。
「あら、自覚はあるのね?」
「その……俺自身、まだ自分の身に起きたことが信じられないので」
机を挟んで対面するマキナさんが、ルビー色の瞳でじっと見つめてくる。
「ふーん」
その猜疑心の宿った瞳には、何かを推し量ろうとする光が微かに混じっていた。
「白い光に包まれて気づけば別の世界にいた、か……あまりに嘘くさすぎて、逆に真実味があるように思えてくるから不思議ね」
「俺にはこれ以上証明の手段がないので、判断は学園長に任せますよ」
へぇ、と学園長が頬杖をついた。
「ま、下手に悪あがきをしないところは好感がもてるけれど」
お、なかなか好感触?
「一つ、いいかしら?」
「はい」
「心当たりはあるの? つまり、こっちの世界に飛ばされてきた理由とか」
「特にないですね。でも――」
「でも?」
俺はイケメン顔を意識し、ふっ、と微笑んだ。
「異世界に飛ばされるって……男の夢、なんですよね」
「フーン」
フーン、で流されてしまった。
しかも圧倒的に興味なさげだった。
学園長に男のロマンは伝わらなかったようだ。
しかし、理由か……。
やっぱり神様が人生失敗した俺を哀れに思ってやり直しのチャンスを与えてくれた、とかなんだろうか?
「えー、おほんっ」
仕切りなおすように、学園長が咳払いをした。
咳払い一つとっても可愛らしい人だ。
「まあ、先ほどの説明、あなたが例の呪文を読むことができる理由としては、確かに一定の説得力を持つわね。発音の件も、仮にあなたがなんらかの事象に巻き込まれて別の世界から来たというのであれば、一応、納得はできるわ」
椅子の上で姿勢を直すと、学園長は手を重ねて両膝に置いた。
背筋をぴんと伸ばす彼女の表情には真摯なものが宿っていた。
「それに、聖ルノウスレッドのことやこの学園のこと、どころか、その他諸々の一般的知識すら知らない節があることについても、それならば説明がつく。もし嘘なのだとしたら、あなたは大した役者よ。あるいは作家あたりを目指せば、大成するかもしれないわね」
「……信じてくれるんですか?」
「これでも立場上、人を見る目は養っているつもりなの」
ふっ、とマキナさんは小さく微笑みを零した。
その微笑はどこか、自嘲するかのようでもあった。
「リーザとは違って私のは人を活かす目ではなく、人を疑ってかかる方の目だけれど」
学園長という立場上、色々あるんだろうな。
「いいわ」
マキナさんが、軽く頷いた。
「別の世界からやって来たというあなたの話、信じましょう」
「え?」
「信じる、と言ったの。聞こえなかったかしら?」
「いや、それはその、えっと、なんていうか……ど、どうも」
戸惑いを覚えつつ頭を掻く。
少なからず勝算もあったが、まさかこうもあっさりと信じてもらえるとは。
仮に聞く耳を持ってもらえたとしても、もっと根掘り葉掘り詰問されるものと思っていた。
やはり下手に付け焼刃の作り話をせず、ありのままを正直に話したのが功を奏したのか……。
「さて……では、今後のあなたの処遇だけれど」
「え?」
この時――
本日はじめて、学園長はにこりと、とっても素敵な笑みを浮かべた。
そして細く色白い首を傾げると、笑顔のまま、言った。
「あなた、この学園の生徒になってみない?」