第54話「見えないほど、はるか遠くに」
ヒビガミが踏み込もうとしたのがわかった。
それに先んじて地面を蹴る。
が、ヒビガミの踏み込みはフェイク。
相手は踏み込みをキャンセルし、待ち受ける構えに転じる。
あえて踏み込む素振りを見せたようだ。
それでも俺は止まらない。
――禁呪詠唱。
「ぬ?」
詠唱しながらの戦い。
禁呪と剣による同時攻撃。
あのブルーゴブリン戦の中で身につけた戦い方。
赤き断裂が出現。
――剣の届く間合いに、入った。
鎖が襲いかかる。
目にもとまらぬ速さで縦横無尽に刀を振るうヒビガミ。
鎖が無残に切り落とされていく。
俺は剣を横に薙ぐ。
ヒビガミは見落とすことなく俺の斬撃も打ち払うと、さらに次元の穴も難なく消滅させた。
だが俺は攻勢の手を緩めない。
返す刀で次の連撃を浴びせかける。
一撃、二撃三撃、四、五六七、八九、十――
そうして、刃を交わした回数が五十にも届こうかという時だった。
「この太刀筋、己――」
表情に違和感を滲ませると、ヒビガミが飛びすさった。
そのどんよりと濁った瞳が俺をじっと観察している。
太刀筋?
太刀筋……。
――しまった。
こいつまさか。
「数回刃を交えた時点で、よもやとは思ったが」
俺は表情を引き締めて構えを取る。
「どうした? 続けないのか?」
「キュリエ、ヴェルステイン」
「…………」
ヒビガミがだらりと首を曲げる。
「知っているな?」
ここで下手に『知らない』と返すのは逆にまずいか。
なら、
「ああ、知ってるよ。確かに『昔』東国でその名の女性と出会ったことがある。そして短い間だったが、彼女は俺の剣の師匠になってくれた。ひょっとしてあんた知り合いか? だったら、もし居場所を知っているなら教えてくれ。改めて彼女に礼が言いたいんだ」
「……ふむ、残念ながら、おれも知らん」
「そうか」
俺は落胆の色を浮かべて視線を少し伏せた。
ヒビガミが俺の言葉を疑っている気配は特に見られない。
咄嗟に出た嘘だったが、まあキュリエさんが剣の師匠なのは本当のことだ。
言葉にはある程度の真実味が付与されたはず。
それに今の言い方なら彼女がこの王都にいるとは思わないだろう。
ヒビガミが刀のみねの部分で二度、自分の肩を叩いた。
「が、これは面白い。あの『銀乙女』が他人に剣の手ほどきとはな。己……一体どんな術を使った?」
「さあな。ただ俺は彼女のことが好きなんだ。尊敬に値する人物さ」
「カカカッ、またまた愉快な要素が飛び出したな。そうか、キュリエの弟子か。まったく――」
ヒビガミが刀を両手で握り、水平に構える。
「――楽しませてくれる」
ぽたり、と。
俺の顎から伝った汗が、地面に落ちる。
目の前の男と剣を合わせて感じたこと。
こいつの、底が見えない。
底の見えない深淵を覗き込むようなこの感覚は、それこそキュリエさんを相手にしていた時と酷似している。
これが――第6院なのか。
が、ここで引くわけにはいかない。
とはいえこの男に限っては禁呪の効果がさほど期待できない。
また、こうして間合いを取っている状態ならともかく、疲労度や集中力の問題もあって、あの男相手だと剣を合わせながらの詠唱が難しいこともわかった。
そんな俺に禁呪以外で使える切り札があるとしたら――
「…………」
あれしか、ないよな。
あの『感覚』を、ギリギリまで解放するしかない。
迷っている暇はない。
――やるぞ。
神経を研ぎ澄ます。
意識の全てを『戦い』に集中させる。
…………。
さあ、来い。
おまえの好きな『戦い』だ。
――どくんっ。
きた。
「む?」
「ぐ……グ……ゥゥ……」
腕に力が篭る。
センサーが建物や衛兵や民衆を感知しなくなる。
ただ目の前の『敵』を喰らい、殺すためだけに、神経が研ぎ澄まされていく。
「なんだ? 己……なんだ、この『何もなさ』は?」
何もなさ?
何を言っている、ヒビガミ。
やるんだろ?
俺たちは、
これカら、ヤるンだロ?
「グゥゥ……グ――ガァァアアアアアアアア!」
咆哮し、俺は駆けた。
疾風のごとく。
激しくぶつかり合った刃と刃が火花を散らす。
直後。
ぶわっ、と。
ヒビガミの髪が浮き上がった。
実際は風だったのだろうが、放たれた闘気に押し上げられたかのようにも見えた。
聖剣が風を切り裂きながらヒビガミに襲いかかる。
俺はさらに『感覚』――『獣』を、自分の中に呼び込む。
そして全身へ行き渡らせる。
最後に残された『俺』という領土を、ギリギリのところで守りながら。
――喰ラえ。
怒涛のごとく押し寄せる斬撃の嵐をヒビガミは真正面から受けて立った。
と、絶え間なく急所へ飛びかかる刃を捌いていたヒビガミが、不意に瞠目した。
「これは――」
ヒビガミの刀の軌跡が一気に切り替わり――速度が増す。
この男の剣にはおそらく『型』がない。
おそらく普通の剣士ならばこの『切り替え』に上手く対応できず戸惑うのではないか。
が、俺はヒビガミの刀の軌跡を追う。
追いすがる。
喰らオうト、追いスがル。
「つまりおれの剣筋をのみ込もうとしているわけか、己!? キュリエの剣に留まらず――このおれの剣すらも!」
刃が触れ合った直後、すでに互いの刃は次の動作へと向かっている。
「しかもこの変幻自在の太刀筋ですら喰らいついて離さんとはな! いいぞ、サガラ・クロヒコ!」
ヒビガミは己の内から競り上がってくる度し難い感情を懸命に抑えている感じだった。
もし抑えが利かなくなったらこの饗宴も同時に終わってしまう――そんな恐れを抱いているようにも見える。
「カカカカカカッ! 本当になんなんだ己は!? セシリー・アークライトを追って来てみればまさかこんなモノに出会えるとはな! わからん! まったく世の中というのは何が起こるかわからん! が、なればこそ世の中! 驚きがなければ、おれはこの世というものを認めるわけにはいかん! 己はどう思う!? サガラ・クロヒコ!?」
俺は何も答えナい。
さラに俺たチの剣は加速シてイく。
「にしてもだ。見えぬ、見えぬ、見えぬ――む?」
ヒビガミの片眉がぴくりと動く。
「ああ、そうか……そういうことだったか。カカカカッ、なるほどな! やはり己は『何もない』わけではなかったか!」
その顔に得心が走った直後だった。
ヒビガミの顔に薄っすらと黒い血管が浮かび上がった。
それはまるで黒い亀裂が走る罅割れた面のようでもあって。
次に目の白目部分が黒さを増し、そして黒目だった部分が赤くなっていく……。
「己は『何もない』のではなく――伸びしろの終着点が、はるか遠くにあるせいで『見えない』のだな! ようやく、合点がいった!」
瞬間。
半身を引いたかに見えたヒビガミが、みしっ、と腕から不気味な軋み音を上げた。
袖から覗く腕には木の根めいた黒い血管が浮かんでいる。
そして、空を切り裂く一閃――
「――グッ」
その恐るべき膂力によって繰り出されたヒビガミの一撃に耐え切れず、握り込んでいた聖剣が弾き飛ばされる。
なんて、重い一撃。
同時に意識が急速に引き戻された。
やや遅れて全身に汗がふき出し、どっと疲労感がのしかかる。
一方ヒビガミは、こみ上げてくる笑いを抑え込むようにして顔面を手で押さえていた。
顔や目の変化はすでにおさまっている。
ヒビガミが不気味なほど静かな調子で、ゆっくりと口を開いた。
「ようやく、見つけた」
見開かれた目が逃すまいとするかのように俺を捉える。
「我が生涯の宿敵に値する伸びしろを持った人間に――ついに、巡り合ったぞ」
「……何?」
「喜べサガラ・クロヒコ。己の潜在力は――」
ヒビガミが刀の先を、がっ、と地面に突き立てた。
「おそらく第6院の連中を、超えている」
なんだ?
あいつは一体何を言っているんだ?
俺の潜在力が第6院の連中を、超えている……?
「というわけで、もうセシリー・アークライトは用済みだ。型から抜け出せぬつまらん剣を無心に磨き続けてその先に限界を見るもよし。甘きに溺れいつか取り返しのつかぬ失敗をおかし破滅するもよし。美を追及し権力者どもの愛玩人形に成り下がるもよし。好きに果てろ」
ヒビガミにそう言葉を投げかけられるも、当のセシリーさんは面を伏せたまま身じろぎ一つしない。
「が、万が一修羅と化したならば、もう一度くらいは仕合ってやろう。まあ、偶然とはいえ結果的としておれをサガラ・クロヒコに引き合わせた功績は、称えるに値するがな。ところでサガラよ」
ヒビガミが俺に向き直る。
どうする?
とりあえず禁呪を発動させてみるか?
てか、まだ聖樹八剣とやらは……到着しないのか。
「ずっと考えていた。さっき己が使った呪文……なぜ、魔素の及ばぬ空間で使用できたのかを。おれが導き出した結論は一つしかない。ありうるとしたら、これしか思いつかん」
邪悪さを滲ませつつヒビガミが嗤った。
「先の己の力、禁呪ではないのか?」
「……だったら、どうした」
「カカカ、そうか。とすれば神話に現れた禁呪王の再来か。おい、どこまでおれを喜ばせれば気が済むんだ、己は」
「で、続けるのか? 俺ならまだやれるぞ?」
「カカッ、無理をするな。伸びしろはあれど、すでに身体の方は限界に近いはずだ」
ふんっ、と俺は笑ってみせる。
「どうかな?」
などと威勢よく言ったもの、実際はあいつの言葉通りかなり限界が近かった。
本音を言えば今の俺に、あの男の相手は荷が重い。
けど、
「俺に期待するなら、あんたはもっとここでやるべきだろ。剣さえ取らせてくれるなら、つき合うぜ?」
あいつは俺に何かを期待している。
あの口ぶりなら今の時点で俺を殺す可能性は低い……はず。
ここで他の誰か――ヒルギスさんや衛兵などが出たら殺されかねない。
でも、もしあいつに俺を殺すつもりがないのなら。
いくらか安心して戦いを継続できる。
もう少し、時間稼ぎができる。
そう。
最悪……『獣』に意識を全部やることも考えなくてはならないだろう。
ぐっと拳を握り込む。
覚悟を、決めるか。
「――ん?」
これって……蹄の音か?
蹄?
音のする方へ視線をやる。
すると、こちらに一頭の黒い馬が向かってくるのが見えた。
衛兵や観衆がその馬の通り道を作るように、戸惑いながらもスペースを開ける。
馬は一直線に迷いなくヒビガミへと向かっていく。
その馬に跨る者の瞳もまた、マガツなる侍の姿を真っ直ぐ捉えている。
「カカカ……まったくもって、今日はよき日だな」
ヒビガミが黒い刃――確か『魔喰らい』と呼んでいたか――を鞘におさめた。
そしてもう一本の『無殺』と呼んでいた方の刀を、するりと抜き放った。
「まんまと騙されたが……なんだ、いるじゃあないか」
ヒビガミが姿勢を低くし、水平に刀を構える。
馬が迫る。
「キュリエ、ヴェルステイン」
馬に乗った黒い服を来た人物――
キュリエさんが、馬上で剣を手に取った。
布に包まれた長い剣。
初めて彼女と出会った時目にした、あの剣だ。
はらり、と。
まかれていた布がほどける。
姿を現したのは金色の装飾が施された白い鞘。
銀の輝く髪を風に靡かせながら、キュリエさんが剣を抜き放つ。
鞘から抜き放たれた刀身は、海のように深い蒼色で。
羽根めいた形のクリスタルが埋め込まれている蒼き剣身には、複雑怪奇な術式が彫り込まれていた。
ヒビガミ。
キュリエさん。
互いの距離が接近する。
身体を傾けながら、キュリエさんが剣を振りかぶった。
――キィンッ。
心地よさすら覚える涼やかな音色があたりに響き渡った。
剣と剣がぶつかり合う音をこれほど心地よいと感じたのは、生まれて初めてのことだった。
馬はヒビガミの横を通り過ぎ、そのまま走り去っていく。
しかし馬上には誰もいない。
誰もが固唾をのんでその光景を見つめていた。
事情を知らぬ者も、何か尋常ならざることが起きていることは理解できたのだろう。
今、王都クリストフィアの一角で、
澄み切った青空の下――
「久方ぶりだな、『銀乙女』」
「おまえが元気そうで最悪の気分だよ、『壊神』」
二人の第6院出身者が、相対した。