幕間2「マグライの夜」【ヒビガミ】
王都クリストフィア。
夜は深く、街は静寂に包まれている。
大通りから一つ外れた路地にひと気はない。
クリスタル灯の光が、石畳をほのかに照らしている。
その路地を、一人の男が歩いていた。
男は、名をヒビガミという。
ただ四文字。
それが、彼の名である。
ヒビガミは、さらに道を曲がり、曲がり、曲がる。
段々と人の気配が希薄になっていくのがわかる。
寝静まる者たちの気配すら、今は遠い。
そして辿り着いた一角。
寂れた空気。
もはや周囲にクリスタル灯の光はなく、ただ、冴え冴えとした月の光だけが、その一角に差し込んでいる。
この小綺麗な王都にも『闇』は存在する。
掃き溜め、とでも言おうか。
あまり都市の住民が近寄らないような場所だ。
だから――
「人目を忍ぶには、もってこいか」
にやり、とヒビガミは口の端を歪める。
――見つけた。
「……あれか」
眇められた視線の先。
一人の男が、腰を下ろしている。
「だから、もっといい傷薬を持ってこいって言ってるだろうが!」
大男が、痩せぎすの男をどやしつけた。
「ひぃ、す、すみません、アニキっ!」
大男の子分とおぼしき男が、こけつまろびつ、夜闇の中へと消えていく。
「ちっ……他のやつらも戻ってきやしねぇ……使えねぇカスどもが……くそ、しかし痛ぇぜ……あのアークライト家の娘め……ふざけやがって……いつか必ず、痛い目にあわせてやる……それと、あのガキと、亜人種の娘もだ……」
悪態をつく大男は、全身に包帯を巻いていた。
が、その処置は雑だ。
ところどころ、包帯がほどけている。
――ほぅ。
と、包帯から覗いた傷口に、ヒビガミは興味を惹かれた。
まだ真新しい、刃による傷口。
その傷口は、ヒビガミから見ても感嘆に値するものだった。
ほとんど寸分たがわず、傷口をなぞっている――。
あの傷をつけた者は、いかほどの腕前なのか。
俄然、ヒビガミは興味が湧いてきた。
だが今は、その前に――
「己か……第6院の者とやらは?」
突如暗がりから姿を現したヒビガミに、大男は狼狽の色をみせた。
「な、なんだてめぇは!? どこから現れやがった!?」
「その傷……誰につけられた?」
「……何ぃ? 殺されてぇのか、てめぇ?」
触れられたくない話題だったのだろう、大男が憎悪を込めてヒビガミを睨みつけた。
が、まるで怯むことなく、ヒビガミは、カッカッカ、と乾いた笑いを漏らす。
「なるほど……死に急ぐか」
「……あ?」
にぃ、とヒビガミの口元が緩む。
「殺されるのは――己の方かもしれんぞ?」
「なっ――」
先ほどの言葉から、あの傷をつけた者が『アークライト家の娘』とやらであろうことは、容易に察せられた。
それだけの情報があれば、十分。
一応、聞くだけ聞いてみただけだ。
ヒビガミは、腰の刀の柄に手をかける。
大男が、立てかけてあったモールに手を伸ばした。
「や、やるのか!? てめぇ、どうやらおれが第6院の出身者と知っているようだが……それでもやるのか!? あぁ!?」
「カカ……だからいいのよ。おれは、第6院の者を追っているんだからな」
「な……にぃ?」
「しかしなぁ……第6院の話題自体が忌み嫌われているのか……己の話を聞き出すのに、幾分手間取ったぞ」
「そんなことよりおまえ、わかってるのか? 第6院の人間を敵に回すことが一体、どういうことか――」
「阿呆か、己は」
「なっ……!」
僅かに顔を出した刀身が、月光を受けて鈍く光る。
「その第6院を敵に回すから、いいんだろうが」
大男の顔には焦りが走っている。
何も知らなかったんだな、とヒビガミは哀れに思った。
第6院の出身者を名乗るということは――つまり、自分を引き寄せてしまうということなのに。
「さ……やろうか」
「くっ……!」
やむなしといった顔で、大男がモールを構える。
――悪くない。
筋肉も戦闘用に仕上がっている。
習熟度も、そう低くはない。
が、
ヒビガミはそこで、抜きかけていた刀身を、鞘におさめた。
今ほどヒビガミが戦闘に使おうとしていた刀は、愛刀『無殺』。
刃引きをし、著しく殺傷力を削いだ刀だ。
ヒビガミは『本気で戦う時』のみ『無殺』を使う。
が、それ以外の相手には、
「己には、こいつでいい」
もう一本の刀を、するりと抜き放つ。
月光の下に現れたのは、漆黒の刀身。
と――抜かれた直後、その刀身が、青白く発光をはじめる。
「おれと出会った不運を哀れんで……二つ、忠告してやる」
ヒビガミが、刀の切っ先を大男に向ける。
「こいつは、妖刀『魔喰らい』といってな……周囲の魔素どころか、触れた者が取り込んだ魔素すら喰らっちまうっていう、なかなかに難儀な刀なのよ……ああ、この国じゃあ魔素は、聖素と呼ぶんだったか……ま、どっちでもいいがな」
聖剣とも魔剣ともその性質を異にする、あやかしの刀。
妖刀。
「だから、己が術式や呪文の使い手なら、それに頼ることはできねぇ。己の剣の腕のみが、頼りとなるわけだ」
この『魔喰らい』は、鞘におさめていたとしても、微弱ながら周囲の魔素を喰らい続けている。
そして腰に下げている本人は、その魔素吸収の影響を、最も強く受ける。
だから持ち主が魔素に頼ることは、ほぼ不可能と考えてよい。
そしてヒビガミは――そもそも、魔素が扱えない。
そのため『魔喰らい』を使うデメリットが、まるでない。
「で、もう一つ――」
ひゅっ、と黒い影――ヒビガミが駆けた。
「あ?」
大男の眼球がヒビガミを捉えた時には、すでに、ヒビガミは男の背後に立っていた。
「第6院の出身者などと、気安く名乗らん方がいいぞ? ……おれが、来てしまうからな」
「くっ!」
大男が身体を急旋回させる。
モールが重々しい唸りを上げ、大気を切り裂く。
そして、大男の放ったモールの一撃が、ヒビガミを捉え――
「ぐ、ぇ? え? ――あ?」
大きな違和感が、大男の顔面に浮かぶ。
次の瞬間――
大男が胸元から、盛大に血しぶきを上げた。
そして、そのまま膝を突くと、大男は糸が切れたように、前のめりに倒れ込む。
地面に、血が広がっていく。
「カッ」
ヒビガミが、短く嗤う。
それから、大男だったものを見下ろしながら、胸元から出した布で、血を丁寧に拭き取る。
「カカ……阿呆め。安易に、第6院の名など出すからだ。しかし――」
刀を鞘におさめたヒビガミは、顎の無精ひげを撫でた。
「第6院出身者の噂は、どうも昨日から今日にかけて、この王都では錯綜している節があるが……どうしたことだろうなぁ、こいつは?」
絶命した血塗れの死体が倒れ伏す暗がりを、ゆらりと後にするヒビガミ。
と、そこでヒビガミが振り向く。
その視線の先には、肉の塊と化した大男の死体があった。
「……己が第6院の、出身者だと?」
カッ、と一つ乾いた笑い声を上げると、物言わぬ死体に向かって、ヒビガミが言った。
「おれの記憶が正しければ――あそこに己は、いなかったがなぁ?」
カカカカカカカッ、と高笑いを上げながら、ヒビガミは再び、闇の中を歩きはじめた。
*
寝静まった王都の路地裏を歩きながら、それにしても、とヒビガミは思う。
先ほど生きていた大男は『死』を迎えた。
「…………」
つまらんな、とヒビガミは思う。
『死か……「死」は、いつか、おれが殺す。できることなら、まず、仕合いたい』
今でも『死』はつまらぬものだと感じる。
だからヒビガミは、『死』をいつか殺すべき『悪』だと思っている。
自分の剣は、人を生かし、活かすべきものであるべきだ。
死は、ただ終わるだけのものである。
今では、仕合う価値すら感じない。
方法があるならばいつか『殺す』つもりだが……現在も、その方法がわからない。
ゆえに――放置。
反面、『生』は素晴らしい。
常に戦いを与えてくれる。
自分に――宿敵を与えてくれる。
そう。
ヒビガミにとって、
相手を生かし続け、よき宿敵として活かし続けることこそ――悦楽なる地獄。
仕合って、仕合って、飽きたら殺す。
だが、宿敵として期待できない者は、即座に殺す。
仕合いにも満たぬ塵芥どもは、適当に殺す。
とはいえ、戦えぬ者を殺す趣味はない。
降りかかる火の粉は払うが、戦えぬ罪なき善人を殺す趣味を、ヒビガミは持ち合わせていない。
どころか、よく生き、よく働く者を、ヒビガミは尊敬すらしている。
「…………」
腰に刺さっている『無殺』の柄に手をかける。
ここ最近――愛刀『無殺』を振るっていない。
伸びしろという意味では……やはり、宿敵に最適なのは第6院の者だろう。
「カカ……しかしおれも、あいつらに随分と嫌われたものだ」
殺さず、活かし続けるべき、愛しいはらからたち――。
「こんなにも――おれはおまえらを、愛しているというのになぁ!」
未来への期待に満ちたヒビガミの笑い声は、王都の一角に、こだまのように響き渡った。