第36話「もう一度」
どうしてキュリエさんがここにいるんだ?
てっきり、あのまま宿舎に戻ったとばかり……。
一度宿舎に戻ってから、聖遺跡に来るつもりだったんだろうか。
キュリエさんは、なんだかきまりの悪そうな顔をしている。
「あの、キュリエさん」
俺が話しかけると、何か諦めたように、キュリエさんが眉根を寄せた。
そして、
「――おまえ、馬鹿なのか?」
キュリエさんの表情は、厳しいものだった。
彼女の視線が、ざっと俺の全身をチェックする。
「そんな装備で、しかも一人で聖遺跡に来るなんて……いくら禁呪が使えるとはいえ、正気とは思えんぞ」
俺は……言葉を返せなかった。
すぐに戻るつもりだった――そう彼女に返すことはできなかった。
なぜなら俺は先ほど、さらに下の階層へ降りようとしていたのだから。
キュリエさんは咎める調子を崩さず、続ける。
「さっきのは大方、聖遺跡の特質に『喰われ』かけた、といったところだろう……。たまに一人で潜る物好きもいるらしいが、二人以上で潜ることを推奨されているのは、一人で潜ると『喰われる』確率が高くなるという理由もあるんだよ。一人だと判断する際の思考が鈍りやすい。特に、ここではな」
「…………」
俺は、確かに『喰われ』かけていた。
考えなしに『あと一階層くらいならいいだろう』と『先』へ行こうとしていた。
「それにおまえは、転送装置が使えないだろう」
「……はい」
そう。
俺が今後の聖遺跡攻略で最も問題としていたのは『それ』だった。
潜る前に広場で見た、転送されてきた生徒たち。
彼らは遺跡内にある地上へ帰還するための転送装置で戻ってきた。
が、その転送装置の起動方法――それが、俺にとっては問題だった。
転送装置は、聖素を流し込むことで起動する。
この学園に入学する生徒の資質で『聖素が扱えるかどうか』が重要視される大きな理由の一つが、ここにある。
授業後の説明で、それを知った。
聖素が扱えなければ、聖遺跡内で転送装置が使えない。
つまり聖素が扱えない者は、自力で上階への階段を探し回らなければならないわけだ。
まして地図が意味をなさない聖遺跡では、転送装置はその重要性をさらに増す。
実は、遺跡内で出会った生徒に帰還の時だけ手伝ってもらう方法を、俺は考えていた。
代わりに、帰還の際に押し寄せてくるという魔物を俺の禁呪で片づける――この交換条件で、帰還時だけ協力してもらうことが、現実的な案だと考えていた。
これだと完全なソロ攻略とはいえないため、その案に対する迷いは最後までぬぐえなかったが……。
ただ、実際こうして聖遺跡に足を踏み入れてみると……ソロ攻略は、そもそも無理があったように思えてくる。
何より、人と出会わない。
あるいは大部屋や帰還部屋なら出会うのかもしれないが……。
しかし今の俺には、その確証すら持てない。
最初は、禁呪さえ使えればどうにかなるんじゃないかと思っていた。
しかしさっきのように、詠唱が間に合わないこともある。
聖遺跡は、そんなに甘くない。
俺の考えが、甘かった。
だから、
「……すみません、俺、考えが足りませんでした」
俺は俯き、そう口にした。
と、キュリエさんが無言で前に出た。
彼女は俺の腕を掴んで、自分の方へ引き寄せると、ドアを閉めた。
「とりあえず、こっちに来い」
やけに静かな通路の壁に背を預け、俺たちは並んで立った。
見ると、キュリエさんはベルトに長い剣を下げていた。
ただ、服装は制服のまま。
探索服にすら着替えていない。
俺の視線に気づいたのか、キュリエさんが自分の装いに視線を落とす。
「フン……私も、今日はすぐ戻る予定だったからな。それに私なら聖遺跡に『喰われる』こともあるまい。この装備でも、一人でも二十階層くらいまでなら余裕だろうしな。……行ったことはないが」
どうやら、とても自信があるようだった。
けれど、ベルトについているポーチと水筒を見る限り、最低限の準備はしてきている。
ポーチの中には食料も少し入っているのだろう。
ちなみに聖遺跡内では地上に比べ、腹が減ったり、お手洗いに行きたくなったりする頻度が下がるという。
どういう原理かはわからない。
前の世界で、精神的にまいると食欲が落ちて水しか喉を通らなくなったり、書店の中を歩いているとなぜかトイレに行きたくなったり、といったことを何度か経験したことがある。
案外、人間の身体というのは精神状態や環境に、簡単に左右されるものなのかもしれない。
……もちろん、聖遺跡にはちゃんとした別の仕組みが何かあるんだろうけど、俺のイメージはそんな感じだった。
また、腹が減らないわけではない。
地上に比べれば大分マシ、というだけの話だ。
「これから聖遺跡に行こうと思う、みたいなことを言っていたから、もしやと思って来てみれば……まさか、そのまま一人で潜るとはな……どうかしてるぞ」
「……返す言葉もございません」
…………。
ん?
って、あれ?
「あの、もしかしてキュリエさん……俺を心配して、聖遺跡に?」
時が止まる。
ごごんっ、とどこかで遺跡内部が動く音がした。
キュリエさんが、ぷいっ、と顔を背ける。
「……さあな」
聖遺跡はパーティー同士を分断する。
仮にそうなのだとしたら、キュリエさんは一定の距離を保ちながら、ずっと俺の後をついてきていたことになるのではないか……。
例えば、距離が近かったから、聖遺跡は俺とキュリエさんを『パーティー』だと判断して、分断しなかった……。
キュリエさんの整った横顔を見る。
もし彼女が心配してくれていたのだとしたら……すごく、嬉しい。
同時に、すごく反省した。
彼女に、そうさせてしまったことに。
「……すみませんでした、キュリエさん」
ややあって、キュリエさんが息をつく。
「反省したなら、明日あたりにあのアークライト家の娘に頼んで、攻略班に入れてもらえ」
「え?」
「私が見たところ、あの娘、やたらとおまえのことを買っているようだからな。いつも一緒にいる二人以外と組まないと宣言していたから自分からは頼みづらいのかもしれんが、おまえの方から頼めば、十分に可能性はあるはずだ」
あ、そうか。
キュリエさんは、セシリーさんが俺を攻略班に誘ってくれたことを知らないのか……。
「……セシリーさんからの誘いは、断りました」
ぴくっ、とキュリエさんの肩が動いた。
「何?」
「実はキュリエさんが教室から出て行った後、攻略班に入らないかって誘われたんです」
「……どうして断った? 今のおまえなら、あのアークライト家の娘たちと組むのが最善だと思うが……」
「キュリエさんと、組みたかったからです」
と、キュリエさんが不意に、さっと俺の耳の上あたりに手をやった。
彼女の表情には若干、気遣わしげな色があった。
「おまえ……本当に、頭大丈夫か?」
「……え?」
「あの娘の誘いを断って、私と組みたいだと? 意味がわからん。しかも私が断った後、誰とも組まずに一人で聖遺跡に潜って……本当に、何を考えてる?」
俺は視線を逸らした。
なんだか、恥ずかしくなってしまったのだ。
「俺……今のところキュリエさん以外と組むつもり、ないですから」
キュリエさんが手を引いた。
そして彼女は少し困った風に、額へ手をやった。
「だからといって、一人で潜るのは感心しないな」
「この学園の到達階層記録……一人で潜って塗り替えたら、キュリエさんも俺の強さを認めて、攻略班を組んでくれるんじゃないかって、そう思って」
俺は、口元を引き締めた。
「けど……軽率だったのは、確かにその通りだと思います。正直、聖遺跡を甘くみてました」
「なぜだ?」
「え?」
キュリエさんが少々呆れた風に言った。
そして腕組みをし、尋ねた。
「なぜおまえは、私と組みたい?」
「俺も、よくわからないです……ただ、この人と組みたいっていう気持ちが、すごく強くなって……」
弱った、とでも言いたげな、やや苦い顔をするキュリエさん。
「そんなあやふやな理由では、逆に説得できんな……ただ――」
キュリエさんの表情が、引き締まる。
「やはり、第6院のことがある。そのことはさっきも言った。だから私と組むのは――」
「キュリエさん」
俺は、彼女の言葉を遮った。
「この前は、質問の仕方を間違ってました」
「何?」
拳を握り込み、まっすぐ彼女の目を見る。
そして、聞いた。
「その第6院の人たちって――禁呪より、強いですかっ……?」
瞬間、キュリエさんの表情が変化した。
目を僅かに見開き、不意を突かれたような顔になった。
そして数秒ののち、形のよい唇を静かに開いた。
「……さあな。それは……私にもわからん」
「俺、命の危険なら覚悟してるつもりです」
どうせ一度、死んでるみたいなもんだし。
けど、成り上がるって夢もある。
だから、
「……当然、簡単に死ぬつもりはないですけど」
チッ、とキュリエさんが舌打ちをした。
ただその舌打ちは、俺に対してのものには見えなかった。
むしろそれは、自分自身に向けているかのようで。
「一つだけ聞く」
「はい」
キュリエさんの切れ長の瞳が俺の目を射抜く。
「死について、おまえはどう考える?」
死について……。
死か。
どうだろう?
前の世界では、生きてはいたけど、ただ生きているだけという感じだった。
けど今の世界だと、前の世界よりも死が近いところにあるような気もする。
俺。
俺自身の考え。
答え。
それは――
「生きていても死んでいても、結局は納得できているかどうか、もしくはできていたかどうか……大事なのは、そこだと思います。納得できてなかったら、やっぱり意味がないですよ――って、これで答えになってるのかどうか、わからないですけど……」
後半やや声量が落ちてしまったが、それが俺の正直な考えだった。
と、俺の言葉を聞いた後、今度はあからさまに、キュリエさんの表情が変わった。
意外そうな、呆気にとられたような、そんな顔だった。
かと思えば、次に彼女は、ふっ、と微笑みを漏らした。
それは、思わず漏れた微笑といった感じだった。
「キュリエ……さん?」
「フン、なるほど、な」
キュリエさんが、どこか遠くを見た。
「……昔、同じようなことを言ったやつがいたよ。そうか……そう考えるか」
と、その時、近くの壁の下部が崩れた。
穴から出てきたのは、ゴブリン。
「ギギ……ギェア!」
キュリエさんが、緩慢な動作で壁から背をはなす。
それから彼女は剣の柄に手をかけ、ゴブリンに相対した。
「……ギ? ギゥ……ゥゥ……」
ゴブリンが一歩、後ろへ下がる。
そして、
「ギ……ギィェェエエエエエエエエ!」
なんと、慌てて出てきた穴の中へと戻っていった。
「フン」
キュリエさんが剣の柄から手をはなす。
うおぉ……も、もしかしてキュリエさん、殺気? だけでゴブリンを追い返しちゃったのか……?
すごい……。
「――おまえは、納得できるか?」
背を向けたまま、キュリエさんが言った。
「え?」
「私と関係を持ったことで、もし第6院の連中とのいざこざに巻き込まれ、命を落としたとしても……おまえは、納得できるのか?」
あの、それって、つまり――
「俺と、組んでくれるってことですか?」
「私は、答えを聞いている」
「も、もちろんです! キュリエさんが組んでくれるならむしろ、納得しかないです!」
チッ、とキュリエさんが再び舌打ちした。
「……本当に、物好きなやつだよ」
「ははは……」
俺は頬をかき、苦笑を返す。
「それにやっぱり――馬鹿だ。長生きできんぞ、おまえみたいなやつは」
「かもしれません」
一歩前に出て、キュリエさんが言った。
「フン……ま、可能な限り、私が守ってやるよ」
かつっ、と石の床に靴音を響かせ、キュリエさんが歩き出す。
「それじゃあ、まずは地上に戻る階段を探すぞ。一階層なら、階段を探す方が早いだろう。それに、もし魔物のいる部屋にあたっても私なら瞬殺だ。安心しろ」
「こ、心強いです……」
この後、俺とキュリエさんは数分で地上へ戻る階段を見つけ、聖遺跡前の広場に戻った。