第3話「目覚めたのは学園の医療室」
「……う」
二度目の覚醒。
今度は前回と違い、後頭部に優しい感触があった。
これは……枕?
「む、起きたかね?」
女の人の声。
さっき出会った人の声ではなかった。
薄っすらと目を開ける。
「ここは……」
あ、そっか。
俺、また気を失って――
「どれどれ――」
はっとして、俺は跳ね起きた。
「そ、そうだ、なんか見たこともない大きさの木がっ――」
ごつっ。
額が何かに勢いよくぶち当たった。
「うわっ!」
「きゃっ! ……ったぁ! な、何をするんだね、キミは!」
見ると、ウェーブがかったボブカットの女性が涙目で額を抑えていた。
俺の顔を覗き込もうとしたのだろう。
跳ね起きた勢いのせいで、彼女の耳のあたりに頭突きをくらわせてしてしまったらしい。
「す、すみませんっ」
「ったく……入学式の日に学園まで辿り着けず意識を失うわ、起きるなり頭突きをくらわすわ、なんなんだねキミは……」
「……も、申し訳ない」
謝りながら、俺はさっと周囲を見渡した。
今はどこかの室内にいるようだ。
俺はベッドに寝かされていたらしい。
寝ていたベッドは簡素ながらも清潔感があった。
「…………」
意識は……しっかりしている。
気を失う前に感じたような不調感はない。
赤くなった耳のさすさすしながら、白いローブ? をまとった女の人が尋ねてきた。
「まあいいさ。で、どうして気を失ったかに心当たりはあるのかい? 何か持病でも抱えているのなら相談に乗るぞ? これでも私は聖ルノウスレッド学園の医療室を預かる医師だからね。学園の生徒の相談とあれば、喜んで受けようじゃないか」
「えーっとですね……では一つ、いいでしょうか?」
「ん? 私の名前か? 私はリーザ・ロゴスタ。年は二十五。恋人は現在、募集中」
「…………」
外国の人らしい。
日本語は大分お上手だ。
なぜ年齢と恋人募集中の情報が後半に加わったのかは謎だが。
「あ、俺は……さ、相楽黒彦っていいます」
質問するはずだったのにつられて自己紹介してしまった。
リーザさんは口元に手を当てると、小さく唸った。
「ふむ、サガラ・クロヒコ……名前から察するに、キミは東国の出身者かな?」
あずまこく?
ああ、東の国……『東国』と書いて『あずまこく』か。
つまり俺がアジア圏の人かどうか尋ねているのか?
しかし外国では日本が『極東』と呼ばれるみたいな話は聞いたことはあるけど、『東国』なんて呼び方は初めて聞いた気がする。
は、ともかく。
ここはどこなのだろう?
それに……あの巨大な木。
日本にあんな木があるなんて聞いたことはない。
さらには、あの建物や街並みだ。
あれは、どちらかといえば西洋圏にでもありそうな街並みに思える。
そして、その小奇麗な街並みの先に見えた異様な大きさの巨木……。
あの圧倒的な威容が脳裏に蘇る。
一目で強烈な印象を与えたあの巨木。
思わずひれ伏してしまいそうなほどの神々しさ。
けど……あんな木、世界遺産にあっただろうか?
暇を持て余した生活をしていた頃、ネットでだらだら世界遺産を眺めていたことがあったけど、あんな尋常じゃない大きさの木、どこの国にもなかったはずだ。
なんだろう。
ある一つの可能性が、先ほどから俺の中でせめぎ合っているのだが……。
そう。
こういう状況、どこかで何度も読んだことがあるような、どこかで何度も憧れたことがあるような――
俺は挙手した。
「あ、あの」
「うむ、なんでも聞きたまえ」
「ここって……どこなんでしょうか?」
すると、リーザさんはしばし黙り込んだ。
「ここは、聖ルノウスレッド学園の医療室だが?」
「あ、えっと、そうではなくて、ですね」
「キミの質問の意図が、いまいち掴めないのだが……」
「ですから、ここはなんていう――」
なんていう世界なんですか?
口から出かかって、この質問の奇妙さに気づく。
なんだこれ。
この質問ってまるで……
漫画やアニメでよく目にする、異世界に迷い込んだ主人公そのもの――。
途端、心臓の活動が活発さを増す。
いや、しかし、まさか、そんな――。
口元に手をやり思考を巡らせていると、リーザさんが顔を覗き込んできた。
鼻筋の通った整った顔が眼前に迫ってきたことで、思わずどきりとする。
よく見れば彼女もかなりの美人の部類だ。
「え、あの……?」
「頭を強く打ったのかな?」
「は?」
「キミ、あれだ……記憶喪失というやつかもしれんぞ?」
「え?」
「聖ルノウスレッド学園の入学式に来た生徒なら、もう入学式が終わったのかとか、これからどこに行けばいいのかとか、そういうことを聞くんじゃないのか? だというのに、そう、キミはまるでこの国の存在自体ついさっき知ったみたいな反応をする」
リーザさんがベッドを離れる。
そして部屋の隅から何やら縦長のものを手にして戻ってきた。
彼女がその平たい縦長のものを、俺の前に突き出す。
「ここに映っているのは、サガラ・クロヒコで間違いないかな?」
リーザさんが突きだしたのは鏡。
俺は目を凝らして鏡に映る自分を見た。
気づくと、俺は反射的に自分の口元や頬を手で触っていた。
「うん?」
あ、あれ?
顔が微妙に、違う、ような……?
でもこれ……俺、だよな?
手の動きと鏡の動き、ぴったり合ってるし。
けど、何か違和感が……。
改めて、鏡の中の自分をまじまじと見つめる。
ん?
まさか。
これって――
若返っ……てる?
鏡に映っているのはまぎれもなく俺――相楽黒彦だ。
が、その姿は少なくとも十代半ばのそれ。
お肌もツルツル。
うん……二十代後半の俺って、心労のせいか年の割には老け込んでた気がするもんな……。
そのおかげで若返りを実感できるというのも、どうかとは思うが。
俺は天井を見上げる。
そしてベタだが、天井を見つめたままほっぺたをつねってみる。
痛い。
が、目は覚めない。
夢から覚めて、あの薄暗い自室に戻らない。
「…………」
こんなことって……ありうる、のか?
再び。
浮上してくるのはある一つの可能性。
異世界。
あの光に包まれて……異世界に、飛ばされた?
…………。
そうじゃなきゃ説明がつかないことが一つある。
あの巨大な木だ。
あんな木が前の世界にあったなら、なんらかのメディアを通して一度くらいは目や耳にする機会があったはず。
が、あの木の情報には一度も触れたことがない。
あの木の存在がここが異世界であることに根拠を与えている……そんな気がした。
いや、あるいは俺自身が前の世界を否定していたがっていて、あの木を理由に前の世界を否定しているだけなのかもしれないが。
は、ともかく。
もしここが元いた世界と違う世界なのだとしたら、色々と説明はつく。
さっき出会った銀髪の美人さんの場にそぐわない服装も、
あの神秘的な巨大な木も、
すべて簡単に説明がつく。
つまり、
あの銀髪の美人さんは俺が元いた世界の住人ではなく、
あの神秘的な巨大な木も俺が元いた世界には存在していないもの。
俺が元いた世界とは、異なる世界に存在するものだったのだ。
三度、俺は鏡の中の自分を注視する。
でも……なんでだ?
なんで、若返ってるんだ?
「…………」
普通なら、ここはもっと戸惑うべきなのかもしれない。
もっと様々な疑問が押し寄せてくる場面なのかもしれない。
だが、戸惑いや疑問を押しのけ、一気に競り上がってきたものがあった。
それは――遥か以前に失ったものが、微かに胸に灯る感覚。
やり直せる……?
俺、やり直せる……のか?
ここからもう一度、人生をやり直せる?
もう一度。
この見知らぬ世界で。
これは……神様が俺に与えてくれたチャンスって、ことなのか?
前の世界にいた頃。
俺は『やり直したい』って思っていた。
だけど『前の世界』で辿って来た人生のどこからやり直せればいいか、わからなかった。
どこからやり直しても失敗する気がした。
でも……『前の世界』と違う世界なら――
いや、違う。
そうじゃない。
やり直すための環境は与えられたのかもしれない。
でも、俺自身も変わろうと努力しなくちゃ駄目だ。
そう。
異世界に来たからって『俺自身』が変わったわけじゃない。
若返ったからって、相楽黒彦の中身までが変わったわけじゃないのだ。
だから、
変わらなくちゃ。
そして今度こそ……見つけるんだ。
やりたいことを。
これがきっと、最後のチャンスだから。
ぎゅっと拳を握り込む。
せっかく降って湧いたチャンスだ。
やれるだけのことを、やってみよう。
「…………」
不思議だ。
ついこの前まで、消えてしまいたいと思っていたのに。
少しだけ、何か止まっていたものが動き出したみたいだ。
ひょっとして、若返ったせいか?
それとも……しがらみから解放されたから?
俺は自嘲気味に微笑し息をついた。
「だとすれば、現金なもんだよな……」
「さて、一人芝居は楽しめたかね?」
「え?」
見ると、リーザさんが腕組みをしてビミョーな顔でこっちを見ていた。
……しまった。
思考に耽るあまり、リーザさんの存在を忘れていた。
「ベッドの上でめまぐるしく表情が変わるさまは、まあ、見てて楽しかったがね」
「……す、すみません」
恥ずかしさで委縮してしまう。
何やってんだ、俺……。
「で、ころころ感情が変わっていたようだが、質問に戻っていいかい? 鏡に映った男は、サガラ・クロヒコで間違いなさそうかな?」
「あ、ええ、間違いないです」
若返ってはいるが。
と、部屋のドアがノックされた。
リーザさんが「どうぞ」と応える。
「失礼します」
部屋に、いかにも衛兵ですと主張するかのような格好の男が入ってきた。
脇に名簿のようなものを抱えている。
男が訊いた。
「門の近くで気を失って入学式に参加できなかったという新入生は、目を覚ましたか?」
リーザさんが振り向く。
「ああ。今しがた、目を覚ましたよ」
「よかった。名前、わかりました?」
「うん、サガラ・クロヒコというらしい。気を失ったせいかやや記憶が混乱しているようだが、名前はしっかり憶えているようだ。出身は東国みたいだね」
「そうですか。えーっと……今日まだ聖樹士候補生登録を済ませていない生徒で、サガラ・クロヒコ……サガラ……サガラ……サガ、ラ……ん? サガラ? んん?」
衛兵さん(と呼ばせてもらうことにする)が、眉根を寄せて名簿に顔を近づける。
「んん〜? サガラ、クロヒコ?」
「どうしたんだい?」
「あ、いえ、新入生の届け出名簿に名前が見当たらなくて……おっかしいなぁ?」
「候補生申請証を提示してもらえばいい」
「あ、そうですね。まず、候補生申請証を見せてもらった方が早いですね」
衛兵さんとリーザさんが俺の方を向く。
「え?」
「持ってるんだろ、申請証。さ、出したまえ」
「し、申請証?」
衛兵さんとリーザさんが互いに顔を合わせる。
衛兵さんが呆れ顔で言う。
「聖樹士候補生は、事前に送付された申請証を持参し入学手続きを済ませることで、ようやく聖樹士候補生として入学が認められる。当然でしょう」
沈黙。
リーザさんが小首を傾げる。
「まさか……申請証、持ってないのかい?」
「ええっと……聖樹士候補生とやらも、申請証というのも、初耳、なんですが……」
空気が変わる。
衛兵さんの視線が、訝しむものになる。
「なら君は、どうしてここにいるんだ? リーザ先生、この子は一体……?」
「いや、新入生だと思ったんだが……入学式がはじまるくらいの時間に、銀の髪の女の子が連れてきたんだよ。新入生が門の近くで行き倒れてたって。しかしあの子、あの時間じゃ入学式には大幅に遅刻しただろうな」
「ということは、彼は部外者ですか!?」
「ん……どうだろう? てっきり私は新入生だと思って、手厚く看病していたんだが」
何やら雲行きが怪しくなってきた。
雲行きが怪しくなるのは山だけで十分なのだが……。
険しい表情になった衛兵さんが腰の剣に手をかける。
「一応、事情は聞く。だがもし抵抗するのならば、この場でたたっ切る……どうする?」
うーむ。
この世界でがんばろうと決意を固めた途端、絶体絶命のピンチに陥ってしまったようである。
仮に抵抗しようにも今の俺は特殊なスキルを持たぬ一般人にすぎない。
武術が使えるわけでもなければ、もちろん魔法が使えるわけでもない。
まずい。
身元が証明できない以上、このまま牢獄行きなんてこともありうるのか?
いや、どころかこのまま捕まって『身元不明で怪しいのでとりあえず処刑』なんてこともありうるのでは……?
待ってくれ。
俺はここがどんな世界かすら知らないんだ。
何もわからないうちに、牢獄行きなんて。
開けたかと思った未来が、急に閉じていくような感覚。
ど、どうする?
どうすればいい?
と、リーザさんが衛兵さんの肩に手を置いた。
「おいおい、見たところ武器も持ってないようだし、いきなりそう構えなくてもいいだろう。さっきも言ったように、なんだか記憶が混乱しているみたいだし。手荒な真似はかわいそうだよ」
だが衛兵さんの目から剣呑さは消えない。
「術式を使う可能性もあります、油断はできません。もしかしたら新入生に紛れ込もうとした他国の間諜かもしれない。いや、あるいは先日留置室から逃げ出した男の仲間かも……」
衛兵さんが剣先をこちらに向ける。
「で――どうするんだ、サガラとやら?」
俺はがっくりと肩を落とし、深々とため息をついた。
仕方ない。
相手は武器を持っているし、ここは一旦おとなしく身を預けるべきだろう。
下手に刺激をすればこっちの命が危うくなる可能性だってある。
抵抗する意思がないことを伝えるため、俺は両手を挙げた。
「…………」
こんなピンチな状況であるにも関わらず、この時俺の頭に浮かんだのは……実に呑気な疑問だった。
……この世界、ホールドアップって通じるのかな?