62.「遥か遠く、願いは近く」【アイラ・ホルン】
今、自分は聖武祭の決勝の場で戦っている。
猛撃を継続しつつ、アイラ・ホルンは息の詰まるような緊張感を覚えていた。
こういうところが凡才なんだろうな、と思う。
少しでも気を抜いたら、張りつめていた糸がプツンと切れてしまいそうだった。
細い綱を渡っているような気分だ。
身体の下から湧き上がってくる不安感。
必死になってそれを上からグッと抑え込んでいる感覚。
だって、あのセシリー・アークライトと聖武祭の決勝で戦っているのだ。
だって、あのセシリーとこんなすごい舞台で戦っているのだ。
こうならない方が、おかしい。
だけど身体は自然と動く。
ちゃんと動く。
まるで、導かれるように。
何百、何千と繰り返してきた特訓の動作。
彼が自分のために敷いてくれたこの道筋。
自分はその道筋を、辿っているだけ。
ちょっとだけでも、彼みたいになれただろうか。
ちょっとだけでも、彼の心を動かせるようになっただろうか。
セシリーが手首の動きで剣を振り上げ、アイラの振り下ろした剣を器用に弾く。
最低限の力の入れ具合と動きで、セシリーは、有効打を決めにいったアイラの会心の一撃を防いだ。
決まる、と思った。
だけど確信に近かったその予感を、あっさりとセシリーは打ち破ってきた。
天才と呼ばれた少女。
これが天才なんだ、と思う。
昔から彼女を知ってはいたけど、決定的な差を感じたのは、入学直後の模擬試合の時。
あの時は、自分もヨゼフ教官から実力者として選出された。
けれどセシリーはその中でも圧倒的だった。
自分よりも、フィブルクよりも。
何もかもが鮮やかで。
何もかもが美しくて。
何もかもが輝いていて。
彼女は自分とは違う何かなんだと、自分に言い聞かせた。
ホルン家とアークライト家の因縁は、どうせ兄たちの世代で決着がついているも同然。
ただ、家からの重圧は変わらなかった。
わかっているはずなのに。
宝石に石ころが勝てないことなんて。
でも、大丈夫。
がんばっていけばいい。
自分なりに。
自分は自分にできる精一杯を、やればいい。
勝てなくたって、精一杯を見せればいい。
そんな風に、考えていた。
入学式の日にはいなかった一人の男の子が、同じ組にやってきた。
どことなく自分に、自信がなさそうで。
どことなく自分に、似ていると感じた。
仲良くなれるかな、と思った。
最初は彼に対して。ちょっと背伸びをして接していた。
そしてあの模擬試合が終わったあと、自分が彼にかけた言葉。
思い返せばあれは、自分自身にも向けていた気がする。
多分、彼を励ますことができれば、自分自身も励ませるような感じがしたのだろう。
だけど彼は自分が思っていたよりずっとすごい人だった。
禁呪使い。
授業中に召喚されたサイクロプスを、彼は、なんとあの伝説の禁呪で倒してしまったのだ。
その時、彼は自分と違う人なんだと理解した。
そう、思いかけた。
だけど――サイクロプスを倒したあとの彼は、緊張が解けたようになって、一気に脱力していた。
勝てて当然とか、そんな風には、思っていなかったのだと思う。
それから色々あって、彼と聖遺跡の巨人討伐作戦を行うことになった。
その時はさらに色々あって、自分が嫌になりかけていた。
でも、彼は支えてくれた。
彼は、とても優しかった。
そして彼が誰かのために何かをしている時は、彼の中に見え隠れしていた自信のなさが消えていることに気づいた。
きっと、不安に感じる暇もなかったのだと思う。
そんな暇もなく、彼は大切な人たちを助ける。
やっぱりすごい人だと思った。
彼は変わっていった。
短期間で、見違えるほどに変わった。
なんと、あの四凶災を倒してしまった。
キュリエにひどいことをしたという第6院の人も倒した。
聖武祭を台無しにしようとしていた終末郷の人たちも。
その終末郷の人たちと一緒に現れたという、謎の怪物も。
彼は、退けた。
だけど、変わらなかった。
ずっと変わらず、優しかった。
初めて出会った時に感じた《サガラ・クロヒコ》のまま、彼は逞しくなっていった。
強く、なっていった。
だけど自分は知っている。
彼があんなに強くなったのは――変わっていったのは、人一倍強くなるための努力を彼がしてきたからだ。
彼の色んな話をキュリエから聞いた。
セシリーからも、たくさん聞いた。
色んな人が、クロヒコの努力のことを話してくれた。
そして思った。
なれるだろうか?
自分も、あんな風に。
『あいつはさ、諦めないんだよ』
そう話すキュリエの顔がなんだかとても嬉しそうだったのを、今でも覚えている。
憧れには、二種類あると思う。
遠い憧れと、近い憧れ。
遠い憧れは、セシリーだ。
いや、本当はクロヒコも遠い憧れの側なのだろう。
でも今は――まだもうしばらくは、彼の近くで、憧れていたい。
彼を、近くに感じていたい。
どうせ、勝てない――そんな風にだけは、今は、考えたくない。
『アイラさんが思ってるような大層なやつじゃないですよ、俺』
『そうなの?』
『ヒビガミやベシュガムと戦った時も、とにかく必死で……ノイズやスコルバンガーの時だってそうです。ただ、必死だっただけなんですよ』
『あの、さ……この相手には勝てないかもとか、クロヒコは考えたことなかったの?』
『というより、勝つしかないって感じだった気がします。自分にできる精一杯を、勝つためにぶつけるしかなかったっていうか……』
『……やっぱりすごいね、クロヒコは』
『そこまで思えたのは、誰かのためだったからだと思います』
『誰かの、ため……』
『どんな時も、大切な人が頭の中にいたから……だから諦めるなんて選択肢は、存在すらしてなかったと思います』
諦めたくない。
変われると、信じたい。
彼を、
まだ、追いかけていたい。
クロヒコと話していると、自分でもやれるような気がしてくる。
勇気が湧いてくる。
どうしてだろう?
彼の何が特別なのだろう?
『大切な人が頭の中にいたから』
…………。
やっぱり、そういうことなのだと思う。
だから、今の自分に諦めるなんて選択肢はない。
剣を振る速度をさらに上げる。
肺が、悲鳴を上げ始める。
だけど、止まれない――もう、止まるつもりはない。
ある日のこと。
特訓が終わって、宿舎に帰る途中のことだった。
道端に石ころが落ちていた。
その石ころを、しばらく屈んで眺めていた。
自然と唇が綻んでいたのを、覚えている。
そして誰にともなく、つぶやいた。
『諦めなければきっと、石ころにも……宝石みたいに輝ける日が、くるよね?』
歓声が勢いを増していくのがわかる。
聖武祭、決勝戦。
思考が純化していくのがわかる。
戦闘思考の純度がどんどん高まっていくのが、わかる。
鋭く研ぎ澄まされた感覚。
両手で握りしめた剣の刃が、セシリー・アークライトの左胸の脇を、強く、叩く。
確かな、手ごたえ。
「有効打!」
いくつ目の有効打だっただろう?
…………。
そうだ。
これで、三つ目。
あと、二つ。
なるんだ、彼みたいに。
クロヒコみたいに。
そして、この聖武祭で優勝したら――
「入、った――」
会場内で発せられた《彼》の声を、自然と、耳が拾っていた。
「《疑似極空》、状態」




