58.「言い訳」【キュリエ・ヴェルステイン】
「もしかして……さっきの準決勝で、手首を痛めたのか?」
控え室へやってきたキュリエ・ヴェルステインの問いに対し、セシリーから否定の言葉は出てこなかった。
「見抜くとはさすがですね、キュリエ。ええ、少し捻ってしまったみたいです」
キュリエが片膝をつく。
「見せてみろ」
セシリーが左の手首を見せる。
腫れが確認できた。
注意しながら、キュリエはセシリーの手首に優しく触れた。
「どうだ?」
「それほど痛みは感じません」
もう少し力を入れてみる。
「これは?」
「特には」
「痛くないか?」
「ええ」
段階的に力を入れていく。
すると、
「んっ!?」
セシリーの目もとに、力が入った。
「それだと……ちょっと、痛みますね」
力を緩める。
「痛かったか。すまない」
「いえ」
考え込むキュリエ。
セシリーが聞く。
「どう思いますか?」
「微妙なところだな。試合が絶対に無理だというほど、重い状態でもないが……」
しかし無茶をさせていいものだろうか。
舞台は聖武祭の決勝戦。
対戦相手はアイラ・ホルン。
セシリーの性格を考えれば、ここで棄権を素直に受け入れるとは思えない。
「一応、聞くぞ? 棄権する気は――」
「ありません」
きっぱりとした、曇りのない即答。
息をつく。
わかり切っていた回答だった。
見た目は美の集合体に儚さを混ぜ込んだような少女である。
しかしそんなセシリーには頑固な一面がある。
クロヒコの頑なさが伝染したのだろうか?
あるいは、元来の性格がそうだったのか。
いずれにせよ、棄権という選択肢はなさそうだ。
「わかった……まずは、この薬を塗っておく」
腫れと痛みを和らげる塗り薬。
旅をしている頃から、キュリエが所持しているものだ。
薬をセシリーの手首に塗っていく。
「剣を握ったおまえの左手を、試合前に私が包帯で固定する。それでいいか?」
「ええ、頼みます。それと……ありがとうございます、キュリエ」
出場を認めてくれたことへの安堵なのか、セシリーの表情が和らいだ。
やはりどうしても決勝戦に出たかったようだ。
薬を塗り込みながら、キュリエは聞いた。
「改めて聞くが……なぜそこまで、決勝戦にこだわる?」
「クロヒコとあなたに、少しでも追いつくためです」
「本当にそれだけか?」
「というと?」
「アイラへの……」
それを口にすることに対し、キュリエは少し照れてしまった。
「その……女としての特別な感情とかは、何もないのか?」
「ふふ、つまりそれって……この聖武祭でクロヒコを取られちゃって悔しい! みたいな感情があるかどうか、ってことですか?」
「ま、まあ……大体、そういう感じの質問だ」
セシリーは先ほどの回答と同じく、曇りのない微笑を浮かべた。
「わたしも最初は、やっぱり自分がそんな感情を持つのかなと思っていました……でもなんだかアイラには、いまいちそういう感情が湧かないんですよね……」
キュリエは不思議と嬉しくなって、鼻を鳴らした。
「フン……私にもわかるよ、その感覚は」
「ちょっと落ち込んでしまうくらい、あの子はまっすぐなんですよね……」
「最初はあの人のよさからくる甘さが、命取りになるかと思ったが……あれは、周りが率先して支えながら守ってくれる系統の人間だな……ああしてまっすぐだからこそ、周りが応援したいと思えてしまう」
「少しだけ、クロヒコみたいですよね?」
そういう感情が湧かないとは言っていたが、セシリーの微笑みには、若干の複雑そうな感情が見え隠れしていた。
やはりこの聖武祭では、クロヒコを遠くに感じているのだろう。
「その痛めた手首……」
「この手首が、どうかしましたか?」
「痛めたんじゃないかと気づいたのは、実はクロヒコなんだ」
「クロヒコが?」
「試合後にあいつが私に教えてくれたんだ。なんだか気になるってな……恥ずかしながら、私は気づいていなかった」
「そうですか、クロヒコが……」
セシリーの表情から複雑そうな感じが、わずかながら消えた。
「だからおまえのこともちゃんと見てるよ、あいつは」
「ふふ……わたしの応援はしないとか、言ってたくせにね?」
宝石に劣らぬ空色の瞳に深く温かい光が灯った。
「あーあ、なんだか敵わないって気分だなぁ……アイラにも、クロヒコにも……」
キュリエは立ち上がった。
「だが決勝戦では、負けるわけにはいかない。そうだろ?」
「ええ……全力で、勝ちにいきます」
それからキュリエは疑似《極空》に関する話をした。
まだセシリーはアレの正体を理解していないからだ。
セシリーは「なるほど」と、キュリエの話に納得した。
「ただ……アレはクーデルカの固有術式のように、自分の意思で発動できるものではなさそうです。だから決勝戦でアレに頼る切るのは、難しいかもしれませんね」
「それと、今のアイラの略式の速度は厄介になるかもな。いや、もちろん剣の方も要注意だが……」
「わたしもキュリエも、アイラの剣の癖までは理解していませんからね……」
「直線的な軌跡の攻撃は特に速く、キレがある。といって、曲線の攻撃が不得手というわけでもなさそうだしな。ある意味、隙がない」
「何より、アイラにはあのクロヒコがついてますからねぇ……まさか、クロヒコがあんなに観察眼の優れた策士だとは……」
はぁぁっ、と深いため息をつくセシリー。
「その察しのよさを、もっと別のところで発揮してほしいんですけどねぇ……」
「だな」
「あと、もっとわたしたちとの人間関係の方であの策士ぶりを発揮してほしいです……」
「同感だ」
「…………」
「…………」
「ね」
「うむ」
なんだか、微妙な空気になってしまった。
――罪作りなやつだ、あいつも。
キュリエは、会話を聖武祭の方へ引き戻した。
「とにかく、最終的には今まで培ってきたものを出し切るしかあるまい」
「ですね」
「まあ、おまえは手首のことがある。だから、仮に負けたとしてもそう気にすることは――」
「言い訳には、しませんよ」
力強くセシリーが言い切る。
「手首を痛めていたから、勝てなかった……そんな言い訳をするつもりは毛頭ありません。それに、準決勝で傷を負っているのはアイラも同じですから」
「……すまん。いらんことを、言ってしまったようだな」
「ふふ、わかってます。今のは、わたしを気遣っての言葉だったって……ただ、あの子も同じはずなんです」
「同じ?」
「わかるんですよ、わたしには」
左の手首を見つめ、セシリーは言った。
「もし、わたしと同じようにアイラが手首を痛めていたとしても……あの子は絶対、それを負けた言い訳にはしないはずです」




