57.「無敗と呼ばれた少女」【ドリストス・キールシーニャ】
純と鈍は紙一重とは、西方大陸のことわざだっただろうか?
「なるほど……たくらみが微塵も感じられない相手には、ああして警戒心が薄くなってしまうものなのですわね。彼が好かれる理由の一端が、わかったような気がしますわ……」
ブツブツ言いながら思考を整理しつつ、ドリストス・キールシーニャはクーデルカの控え室を目指していた。
「やれやれ……サガラ・クロヒコにも、困ったものですわね」
貴族の男は飾った言葉の使用を好みがちだ。
直接的に伝えるのが高貴な物言いでないと考えるからだ。
さらに飾った言葉とは言い換えれば教養の証であり、社交道具でもある。
だから貴族の集まる社交場では遠回しな言葉が好まれるのだ。
学園の男子たちも貴族の子息が多いから、異性へ近づこうとする時に迂遠で飾った言い回しをする者も多い(フィブルク・マローやバシュカータ・トロイアのような、逆に貴族らしからぬ粗暴さを好む者もいたが)。
「だからああも直接的な言葉を使われると、わたくしも困ってしまいますわ」
しかしあのような性格では、貴族社会を生きていくのは難しいだろう。
そんな思考をしているうちに、クーデルカの控え室に到着する。
控え室前の聖樹騎士団員に事情を話し、通してもらう。
さすがに公爵家の娘ともなると顔を覚えられているので、入室も楽である。
控え室に入ると、クーデルカは部屋の隅の長椅子に腰掛けていた。
そしてクーデルカの前には、レイ・シトノスとベオザ・ファロンテッサが立っていた。
レイが反応した。
「あ、生徒会長」
「貴方たちも来ていましたの?」
ベオザがこちらを向く。
「レイと僕は、ここが決勝戦の控え室ですからね。まあレイはそれ以前に、クーデルカの様子が気がかりだったようですが」
俯いていたクーデルカが、躊躇いがちに口を開いた。
「申し訳ありません、ドリス」
ドリストスは片眉を上げる。
「それは……何に対しての謝罪ですの?」
「試合前に言っていた私とあなたの決勝戦は……できそうに、ありません」
「そのようですわね」
「上級生の意地も、見せることができませんでした」
クーデルカの前まで行き、ドリストスは強気を誇示するように腕組みをした。
「まさか……勝利する約束を果たせなかった申し訳なさのせいで、わたくしの顔をまともに見ることができないとでも?」
「…………」
責める視線で、クーデルカを見おろすドリストス。
やれやれ、と彼女は首を降った。
「恥ずかしい女ですわね」
レイが口を挟んだ。
「ちょ、ちょっと生徒会長! うちの会長だってがんばったんだよ!? そんな言い方って――」
「いいかしら、クーデルカ?」
レイの言葉を遮るように、ドリストスは宿敵の名を呼んだ。
「わたくしは、貴方が約束を何も果たせなかったと思い込んでいることが、恥ずかしいと言っているのですわ」
「生徒、会長……?」
ポカンとするレイ。
ドリストスはじっと項垂れるクーデルカを見つめ続ける。
「試合の後半……覚醒したセシリーに押されながらも、貴方は有効打を決めて四対四の状態まで盛り返した。そして、普段の型をかなぐり捨ててでも《勝ち》を拾いに行く姿は、観客たちを魅了し、沸き立たせましたわ」
ふぅ、と息をつく。
「だから……あの試合を観て、クーデルカ・フェラリスを弱いだなどと感じる者はいなかったはずです。貴方は十分に上級生の意地を見せましたわ。それに、クロヒコが言っていました」
クーデルカの身体がピクッと反応した。
「『そういえばあの試合のクーデルカ会長からは、少しだけ俺が出会ってきた強者たちに近いニオイが感じられました』と」
準決勝の私見を少し言い合った時、クロヒコがそんな感想をこぼしていた。
ニオイとはなんのことかよくわからなかったが、褒め言葉なのは理解できた。
「そう、ですか」
少しだけクーデルカの声に温かみが戻った。
「それと、貴方とわたくしの決勝戦は……わたくしが聖ルノウスレッド学園を卒業する日に、また改めてしてあげてもいいですわ」
「卒業の、日に?」
「ええ。今回の聖武祭でわたくしは、今よりももっと強くなれるという確信を得ましたから。せっかくなら、もっと成長した状態で戦った方がよいでしょう? だからあと半年、せいぜい首を洗って待っていることですわね」
長めの沈黙のあと、クーデルカが答えた。
「わかりました」
腰に手をあてるドリストス。
「まったく、張り合いのない反応ですわねぇ……貴方がそんな調子だと、こちらも調子が狂ってしまいますわ」
「……申し訳ありません」
ドリストスが肩を竦めて見せると、引き取るようにベオザが頷いた。
「安心してください。次の三年生部門の決勝戦は、小聖位の上位三名代表として僕が勝ってきますよ。ここで圧倒的な力量差を見せつければ、やはり上級生の上位三名は強いのだと思ってもらえるはずですっ。ふふふ……小聖位第一位の僕が弱いと思われては、その下の二人の会長もその程度かと思われかねませんからね!」
「筋が通っているように聞こえますけど、それ、けっこう無茶苦茶な理屈にも思えますわ……」
するとレイもベオザの勢いにのってきた。
「じゃあ、ボクは風紀会がすごいところだってのを見せつけるために、二学年部門で圧倒的な力量差を見せて優勝しようかな。ボクが強いってのがわかれば、一緒にクーデルカ会長の評判が上がるかもしれないしね」
「こ、この人たち……イイトコ見せたがりですわ……せっかくわたくしがクーデルカの宿敵として、イイ感じにまとめようとしてましたのに……っ」
その時、クーデルカが言葉を発した。
「ありがとうございます、皆さん……そのお気持ち、とても嬉しく感じます。ただ……できることなら、私は……」
腕を膝にのせ、そのまま顔を膝にうずめてしまうクーデルカ。
「私、は――」
彼女の肩が震え始める。
「勝ち、たかった――っ」
かすれた声。
悔しさのまじった、哀切な響き。
「彼の時はっ……清々しい気分だけが、残ったんですっ――でも……今回は、どうしてかっ――こんなにもっ……悔しく、て……っ」
身を震わせながら、クーデルカが嗚咽を始める。
彼女は嗚咽を封じ込めようとするが、上手くいっていなかった。
ドリストスにとって、こんなクーデルカを見るのは初めてだった。
そう……こんなにも、勝ちにこだわる彼女を見るのは……。
なんとなく、彼女が勝敗に固執する相手は自分――ドリストス・キールシーニャしかいないと思っていた。
どんな試合であっても終わったあとは涼しげにしている。
それが、ドリストスが持ち続けてきたクーデルカ・フェラリスの印象だった。
敗北に悔しさを見い出したのは、もしかすると彼女にとってはこれが初めての経験だったのかもしれない。
本気で勝ちたい。
そんな気持ちを実感したのは、この聖武祭の準決勝が初めてだったのかもしれない。
無敗と呼ばれた少女。
気づけば――《敗けない》から《勝ちたい》へ。
小さな違いかもしれない。
だけど今、確かに彼女の気持ちは《無敗》から《勝利》へと変わろうとしている。
自分はここまで勝利にこだわらなかった。
自分はここまで悔しさを感じなかった。
ドリストスはクーデルカの隣に腰をおろした。
そしてその手を、震える宿敵の背にそっと置いた。
――今回の聖武祭……気持ちの面では、貴方の勝ちだったようですわね……。




