36.「存在しないもの」【ヴァラガ・ヲルムード】
ヴァラガ・ヲルムードは、いまいち気乗りがしなかった。
彼はシャナトリス・トゥーエルフの発案によって、キュリエの守る南門へ赴くこととなっていた。
『客人の立場とはいえ、護衛として来ているワシらが出んでどうする!? 聖樹騎士団は立場的にワシらに協力を求められん! ゆえに、ワシらの方から協力を申し出るべきじゃ!』
最初に会った時の印象は《魔女》の名にそぐわぬ人物と映ったが、なかなかどうして、狡猾な人物であった。
『おぬしが協力せんのなら……むふふふ……ワシが策を弄しまくって今宵、あの禁呪使いをヘル皇女に引き合わせてやろう……ん? なぜそんなことを言い出すのかって? だっておぬし、それを嫌がっておるじゃろ?』
ヘル皇女をダシに、動かざるを得ない空気を作るとは。
見た目に騙されてはいけないようだ。
しかし今、ヴァラガの中の何かが南門へ辿り着くのを拒んでいる。
ヒビガミが分都市に現れて盗みを働いた時と似た感覚だ。
本能的な何かが告げている。
行ってもおまえの世界にとっては面倒なことにしかならないぞ、と。
ならば本能に従おう。
これは耳を傾けるに値する心の声だ。
自分の世界にとって無益以上の何かが、今、南門にはあるのだろう。
いずれにせよあの《銀乙女》を倒せる者など限られてくるだろうし、逆に、キュリエ以上の力量を持つ敵が南門にいるのだとすれば、そんな厄介な相手と関わるのはごめんである。
キュリエを守る義務もなければ、義理もない。
第6院の者の中では比較的好感の持てる人物だが、自分の世界を危険に晒してまで守る必要もあるまい。
四凶災級の敵ならばヘル皇女の安全だけを確保し、さっさと分都市へ逃げ戻ればいいだけの話だ。
このルノウスレッドがどうなろうと知ったことではないし、聖王やルーヴェルアルガンの客人が死のうがそれこそ他人事である。
もちろん、キュリエを筆頭に誰も死ななければそれに越したことはないが。
ヴァラガは、時に自分の世界にとって不要な要素を削ぎ落とすことをよしとしている。
不要と思えば容赦なく削ぎ落とす。
そこを削ぎ落とせば、世界はその透明度を増す。
ヴァラガの世界において、あらゆるものの中心はヴァラガ・ヲルムードである。
他は自分の世界を彩る《家具》に過ぎない。
あったらいいな。
あれば便利だな。
ヴァラガはそう感じるものを適宜配置して《できる限り》保存するだけである。
彼はこの思考を人間として当然のものだと考えている。
誰も彼も自分の世界の中心は自分である。
自分の思考は特別なものではない。
人として自然な姿であり続けているだけなのだ。
あえて言うのなら、人より少しだけ自分以外のものに対する感情が希薄なだけである。
むしろ自分の世界の中心が自分以外の者で占められている世界があるとすれば、その世界は壊れているし、狂っている。
もし自分自身を削ぎ落してでも中心に据えた他者を守ろうとする人間がいるとするなら、それは人の姿をしたバケモノか何かだろう。
劇的な自己犠牲という形式に酔った過剰な自己陶酔だとでも説明されない限り、ヴァラガはその存在を受け入れることができない。
その時、なぜかふとあの禁呪使いの顔が浮かんだ。
妙に印象に残る男だった。
あのキュリエが心を開いている時点で、何かが特別なのだろう。
「あわよくば、彼が僕にとって最大の懸案事項であるヒビガミを殺してくれるとありがたいんですがねぇ」
独り言をぼやきながら、ヴァラガは、時間を潰しながら大聖場内をブラブラ散歩していた。
せわしなく聖樹騎士団の団員たちが駆け回っている。
各門では終ノ十示軍との戦闘がもう始まっていると聞いた。
あそこの一角で小さな机を囲んでいるのは、各門の情報を共有し確認する者たちだろうか。
「み、南門だけまだ何も情報が入りません!」
「なんだと!?」
「どうしますか!?」
「南門は……あの第6院の少女か」
「確か彼女、あの四凶災にも勝ったんですよね?」
「うむ……やはり禁呪使い殿のいる西門と、キュリエ・ヴェルステインのいる南門は彼らに一任して大丈夫だろう。問題は、ノード殿とリリ殿の方か……」
「どこかの門には、マキナ様が向かったとも聞いておりますが――」
「マキナ様が!?」
「しかし、あの方も固有術式使いですしな……」
「うむ……ま、まあ大丈夫でしょう……」
正直、有能とは思えなかった。
感じからすると、自分たちから情報を得ようとしている風には思えない。
よほど人材不足なのか、無能に片足を突っ込んでいるからこそ屋内に回されたのか……。
まあヴァラガが気にすべきは今のところヘル皇女の安否くらいである。
他は関係ないので、どうでもいい。
――とは言ったものの……《あれ》は少し目障りですねぇ。
ヴァラガは今、北門と東門の中間点あたりの廊下まで足を運んでいた。
ずっと彼はその男を追尾していた。
――ニオイくらいは、隠しておくべきでしょうに。
懐かしいニオイ。
終末郷のニオイ。
襲撃を予定している――もしくは現在襲撃を行っている――終ノ十示軍の情報は得ている。
今回襲撃をかけてきたのは終ノ八葬刃だと聞いた。
――九殲終将は、出てきませんでしたか。
終末郷のニオイを持つ男はヴァラガの尾行に気づいていない。
気配を消しているとはいえ、これに気づかない時点で程度は知れる。
音を立てずニョロニョロと迫る蛇のごとく、ヴァラガは男の背後にぴったりとはりついた。
ぽんっ。
肩に手を置くと、男がびっくりして声を上げた。
「うわっ!? な……何か、用か?」
ヴァラガは笑みを作った。
「隠し切れていない」
「は?」
「所属人数を誇示する数字を集団名に入れる場合、そこにはある先入観が存在します」
「何を、言っている……?」
「僕なら、その先入観を利用します」
男の声は震えていた。
動けないのだ。
動けば瞬殺されるのを理解しているのだろう。
ヴァラガは目を馬蹄のような形にし、嗤った。
「例えば、終ノ《八》葬刃と名乗ったら、僕なら予備として《九人目》を用意する」
「まさか、お、おまえ……」
「もしそうだとすれば、一般人に紛れてここにいる君は……一体《何番目》なんでしょうねぇ?」
「同じ、終末郷のっ――」
ゴキッ。
「嗅覚が弱いと、難儀しますよ」
名も知らぬ終ノ八葬刃の男の首を、ヴァラガは流れるような動作で折った。
「せめて僕に《一ノ瀆》くらいは使わせる実力者を送り込むべきでしたねぇ、終ノ十示軍」
大聖場の地図と情報を思い出す。
襲撃者の話をされた時、細かな情報をルノウスレッド側から伝えられた。
確か、術式機が壊れていて使用不可になっている厠があったと記憶している。
倉庫の近くの奥まった場所にあったはずだ。
ヴァラガはその厠へ向かい、予備のため、何も知らぬ一般人が紛れ込まぬよう《清掃中》の衝立を立てた。
鼻歌を鳴らしながら、服をすべて脱ぐ。
九番目――多分、この男が予備として送り込まれた九番目だろう――の男の死体も裸にする。
そして《解体》を開始。
もぎ、
潰し、
砕く。
便器が詰まらないよう、細かく、細かく、細かく潰し砕く。
ご機嫌な小さな鼻歌は続く。
まともな精神を持った人間がこんな《作業》を黙ってできようはずがない。
鼻歌でも歌っていなければ、気がどうにかなってしまいそうだ。
おぞましい行為ゆえか腕に鳥肌も立っている。
黙々と軽快な鼻歌を鳴らしながら、ヴァラガはてきぱき作業を続けた。
いい具合に細かくなったら、壊れていない術式機のついている便器にそれを落とす。
術式機を作動させ一気に流す。
便器の中に吸い込まれて人間だった《モノ》は消えてしまう。
最後は糞尿と混ざり合い、すぐに正体はわからなくなるであろう。
道具を使わずに素手でほとんど行えるのは、楽でいい。
肉体そのものが武器である場合、警戒されにくいのは利点である。
――うーむ、日頃から身体は鍛えておくべきですねぇ。
いざという時に役に立つ。
途中で飛び散ってしまった分の血液は九番目の男の衣類で拭きとる。
血を洗い流すのは、凝固しやすい温水ではなく冷水で。
自分の身体についた血もふき取り、爪の間に入り込んだ血も丹念に洗い落とす。
最後に備えつけの清掃用具で溜まった水を掃いて、排水溝に流した。
血を拭きとった布きれは細かくちぎって便器に流す。
最後にもう一度、手を洗う。
完了。
ひと仕事やり終えたヴァラガは汗をぬぐった。
「ふぅ、こんな作業……普通に考えて正気の沙汰ではないですよ。人間のやることじゃありませんね」
しかしおかげで大分綺麗になった。
ただ、血のニオイがまだ気になる程度には残っている。
手をさっと洗ったあと、ヴァラガは自分の服の裏ポケットから帝国製の噴霧器を取り出した。
シュ、シュッ。
噴霧器で香水をふりかける。
あとはこのニオイも自然と消えるだろう。
多少の違和感があっても人は思ったほど気にかけないものだ。
まさかここで《解体作業》があったとは思うまい。
ニオイの元を、実際に目にするまでは。
そんなものだ。
それにもしこの件が露わになっても、それはそれでかまわなかった。
極論、自分による行為だとバレてもかまいはしない。
その時は正直に話すし、必要があれば邪魔者の口は封じる。
同じように、解体してしまってもいい。
鼻歌を続けながら、ヴァラガは手洗い場の鏡で髪形を整えた。
そして念のためさらにもう一度香水をかけてから、そのまろやかなニオイを鼻に吸い込みつつ服を着る。
「ふぅ、僕にしては珍しく殊勝なことをしました」
無駄に騒ぎを起こさないための気まぐれだったが、まあ、南門に向かわなかったのでこれくらいはしてもいいだろう。
いざとなれば、この件を南門へ向かえなかった理由にもできる。
九番目の男がいたので、それと戦っていて行けなかった。
よし。
これでいこう。
「完璧です」
と思った瞬間、ヴァラガはあることに気づき口もとを斜めにした。
――しまった。
「説明するにも、存在を消すように処理しちまったから……肝心の証拠が残ってねぇじゃねぇか」
――まあ……言葉だけで足りない時は、その時に考えればいいでしょう。
眼鏡の蔓を押し上げると、やれやれ、と頭をかきながら、ヴァラガは試合を観戦しているヘル皇女のもとへと向かった。
試合場に戻って隣に座ると、ヘルが問うた。
「何をしていた、ヴァラガ?」
シャナトリスはヘルに対し、ヴァラガたちが聖樹騎士団に協力する旨を伝えていない。
では、自分も協力しよう――そんな具合に出しゃばってきて現場のお荷物になるのを避けたいからだと、シャナトリスはそう包み隠さずに言った。
実にヘル・ギュンタリオスの性格をよくわかっている、とヴァラガは思った。
「厠です」
「嘘をつけ。長すぎる」
「……ついでに、散歩を」
「怠慢だな。まあよい……見よ、あのアイラ・ホルンという娘を」
「あの娘が何か?」
「よい動きをしておるだろう。余の一押しだ」
「そうですか」
「……何か、におうな」
「厠で、香水をつけてきました」
「そんな趣味が貴様にあったか? 一体、何があった?」
「いえ、何か特別なことがあったわけではありませんよ」
ヴァラガはにっこり笑ってみせた。
「ただの、気まぐれです」




