30.「南門巨獣戦」【キュリエ・ヴェルステイン】
術式魔装に身を包んだキュリエは、聖素を込めたリヴェルゲイトをひと振りした。
剣から聖素の槍――《聖槍》が射出。
威力は若干落ちるが、様子見の攻撃としては優秀な攻撃だ。
まだ黒の巨獣は、身体を大きく捩じったままの体勢。
自らに攻撃が迫っているのを感知しているのかどうかは判断できない。
――バシュッ!――
巨獣の、跳躍音がした。
消失。
この感覚をキュリエは知っていた。
ある段階における速さの壁を越えたモノが起こしうる現象。
消失した、という錯覚。
敵から視線は外していなかった。
直視していた。
注視していた。
凝視していた。
なのに、追えなかった。
――大丈夫だ。
一ベウ(一秒)以下の時間で、キュリエは己を鼓舞する。
狼狽える必要はない。
超速で動いただけだ。
本当に《消えた》わけではない。
あの《ペェルカンタル》のように、認識外になったわけではない。
軌跡は、予測できるはずだ。
――ブォンッ!――
直後、風圧。
銀髪が風で巻き上がる。
羽根飾りの先端がへし折れたのがわかった。
「……っ」
追えはしなかったが、ぎりぎり《視え》た。
姿勢を落としながらの、斜め下への回避。
かろうじて、回避は成功。
キュリエの頭上には今、巨獣の胸元と頭部があった。
灰青色の瞳で、覆いかぶさる黒獣を見上げる。
――ぎョろッ――
濁り切った金色の凶眼が、キュリエを見下ろす。
「ヨ……ゲタ……ノ、ガ……ニン……ゲン、ガ……」
よけたのか、人間が。
そう聞こえた。
生存本能が告げた。
意識が巡るよりも速く、全身の細胞が、キュリエをこの場所から逃がそうとした。
そう、思えた。
――ヒュッ――
気づけば、キュリエは巨獣から間合いを取っていた。
そこから遅れて《離れろ》と、自分の意識がようやく信号を伝達。
そんな感覚。
確保できた距離は十ラータル(十メートル)程度。
距離を取って意識が追いついてきた直後、全身が総毛立った。
思い出したように噴き出してくる冷や汗。
本能に救われたか。
あの凶獣を見上げた瞬間、めまいを起こしそうになった。
平穏な海を凌辱し尽くす暴虐なる大嵐をその身に凝縮したかのような存在。
なんだというのか。
なんだというのだ。
謎へ迫ろうとする疑問思考を、キュリエは意識の中で切り落とした。
この思考は雑音だ。
雑音を捨て、今は生き残らねばならない。
ここでただ求めるべきは、生存――
一層、目を凝らす。
――動き出しの一瞬を、見逃すな。
ヒビガミの言葉は正しかった。
戦いが長引けば長引くほど、自分は相手の戦い方に《適合》できる。
きっと《視える》ようになる。
――バシュッ!――
巨獣が跳んだ。
今度は、追えた。
回避、可能。
「――――え?」
己の目を、疑った。
何が起こっているのかを理解できなかった。
こんなものは、初めてだった。
「なん、だ……これ、は……?」
超がつくほどの緩慢動作。
今まさに拳を放たんと身体をよじる巨獣が、目前にいた。
停止はしていない。
ゆっくりとだが、動いている。
黒の巨獣の身体はジリジリと、次の動作へと、気の遠くなりそうな速度で移行している。
――自分が加速しているのか?
――いや、違う。
――肌に触れる風は緩慢ではない。
直感的にキュリエは理解する。
――つまり――
現在この目前の敵だけが《超低速状態》にあるのだ。
この現象をどうのみ込めばよいのか。
この攻撃はなんなのだ?
超速攻撃ならば理解できる。
しかし敵の目前で《超低速状態》と化す攻撃など、どう理解すればいいのだ?
理性の空洞を、混乱の鐘の音が満たしていく。
――どうする?
――このまま攻撃を仕掛けるべきか?
――それとも――
鳥肌。
身体の奥の底の何かが、危機を告げた。
これもやはり本能の警告だったのか。
直感。
キュリエは、先ほどと同じく回避を選択。
――ヒュッ――
本能が決断し、身体が次の動作へ移行した、その瞬間だった。
――ブォンッ!――
再び、殺意に満ちた風圧が巻き起こった。
超速の黒き鉄球が刹那の影と化し、すぐ横を駆け抜けて行った。
真横を過ぎ去ったのは、処刑用の鉄槌。
息苦しさを増していく、呼吸。
拳が放たれたのは、まさに動き出そうとしたその瞬間だった。
見えなかった。
視えなかった。
ただ本能だけが、再び、回避を選択させた。
――あそこでもし、攻撃を選んでいたら。
死んでいた気がした。
この術式魔装を破壊し、おそらくは身体を拳で蹂躙されていた。
「はっ――はっ……はっ――っ」
まるで水中にいるような息苦しさ。
空気が薄く感じられる。
落ち着け、と理性が必死に信号を飛ばしてくる。
あの攻撃の意味を考えろ。
あの超低速状態の攻撃の正体はなんだ?
あれの正体を把握しなければ、こちらも動きを決断できない。
――バシュッ!――
巨獣、跳躍。
「ぐっ……!」
すでに、巨獣は眼前で超低速攻撃態勢に入っている。
奇妙な感覚を引き起こす攻撃だ。
時間感覚がおかしくなりそうだった。
咄嗟にキュリエは、誘導を仕掛けた。
攻撃を誘い出す。
意図は明確だった。
回避前提の誘導。
誘導の直後、動き出した処刑の拳が、側頭を横切って行った。
飛び退き、呼吸の間隔を短くしていく。
「はっ――ハッ……はっ――ハッ」
もう、一度。
巨獣が、超低速攻撃状態へ移行。
攻撃の誘導。
駆け抜ける、死線の一撃。
かろうじての、回避。
――わかった、ぞ。
今の二つの攻撃と、それまでに繰り出された攻撃の違い。
違いは、攻撃の速度だ。
いや、おそらく威力も違う。
――あれは、いわゆる《溜め》だ。
あの超低速状態は、例えば、矢を放つまでに弓を引き絞っているのに近い状態と考えられる。
引き絞れば引き絞るほど威力と速度が上がっていく。
こちらにあえて接近するのは、射程がそれほど長くないからであろう。
さらに、攻撃速度が確実に相手より速いという自負があってこそ成立する攻撃でもある。
相手が動いてからでも、先に攻撃をあてられる自信があるのだ。
つまり――生き残るためには、なるべく溜めの時間を作らせないために、矢継ぎ早に攻撃を仕掛けていく必要がある。
誘導で攻撃を二回、誘い出せた。
しかし誘導がそう何度も通じるとは思えない。
事実、巨獣の瞳には理解の色が灯りつつある。
感覚の研ぎ澄まされた今のキュリエには、直感的にそれがわかった。
こちらも相手を理解はしてきている。
少しずつ、あの巨獣への慣れも積み重なってきている。
けれど――反撃の糸口が、見えない。
攻撃の性質を理解しようとも、回避と攻撃を同時には行えない。
この相手にそれは不可能だ。
神経を削る回避を続けるのも厳しい。
こちらが《適合》する前に、神経が音をあげる方が早いだろう。
防御力。
そう、防御力が必要だ。
必要だが、羽根飾りが飴細工のように折られたことを考えると、この術式魔装が一撃に耐えられるかどうかは不安が残る。
――バシュッ!――
巨獣が、跳躍。
眼前で巨獣は超低速状態に入る。
攻撃を誘導し、キュリエは回避の機を、測――
巨獣が、誘導にのらない。
もう、見切られた。
誘導の失敗により、回避にも影響が出た。
巨獣の攻撃が放たれる直前、キュリエは本能で理解した。
完全回避は、不可能。
――なら、ば。
キュリエは後方へ跳び、少しでも衝撃を軽減する方を選んだ。
腕を交差させ、前身を防御。
「ぐ、ぅ――っ!」
――ガシャァッン!――
術式魔装の手甲部と鎧の前プレートが、破壊された。
衝突距離から考えて、五割以上は衝撃を逃がせたはずだ。
であるのに、この威力。
圧縮された空気の塊にも似た衝撃が、キュリエの腹を激しく打ち抜いた。
「がっ、ふ――っ!」
吐血したキュリエは衝撃で吹き飛び、ゴロゴロと地面を転がった。
「き、キュリエ……殿……」
あまりの巨獣の脅威に存在を忘れていた、聖樹騎士団員たち。
彼らも謎の怪物の出現に、動くどころか、今まで言葉を発せずにいたらしい。
「に……げて……くだ、さい……あの黒い獣は、桁が……違う……」
団員たちの顔に戦意が灯る。
「き、キュリエ殿を守るぞっ! やれそうならあの獣を引きつけて、大聖場から引き離す! いくぞ、みんな!」
「よ、せ……だめ、だ……っ」
どうにか身体を起こそうとするが、持ちあがらない。
受けた衝撃の影響が、まだ抜けていない。
団員たちの多くは、すくみ上がっていた。
無理もない。
それでも彼らは互いに互いを鼓舞し、己の役割を果たそうと奮起した。
しかし巨獣の暴虐の豪腕によって宙を舞い、吹き飛ばされて建物の壁にめり込み、全員が、何もできずに無力化された。
幸いだったのは、あの超低速攻撃を使わなかったことだろう。
邪魔な羽虫でも払いのけるみたいな攻撃だったおかげか、団員たちの半数以上はまだ息があった。
「く、そ……ぉっ!」
掴んだまま放さなかったリヴェルゲイトを杖にし、どうにかキュリエは立ち上がった。
まだ膝が震えている。
一つ、舌打ち。
「ヒビガミの、やつめ……こういう時にこそ、ちょっかいを……出してくるべき、だろ……おまえの好きな強い敵が、今、ここに……いる、ぞ……」
しかし都合よくあの男が現れるとも思えない。
今回はロキアも現れないだろう。
「ぺっ! ふぅぅ……」
口内の血を吐き捨て、息をつく。
今朝、聖武祭へ向かったセシリーの顔と背中を思い出す。
彼女と約束した。
必ずこの聖武祭を、守って見せると。
こんな自分でも、幸せをもらった恩返しができたら、嬉しいと思う。
ここで燃え尽きてもかまわない。
この敵は、必ず私が防いでみせる。
だから――
大量の聖素がキュリエから生み出され、長く相棒として幾多の戦いを共にしてきた聖魔剣に注がれていく。
――キュィィィィィィイイイイイイイイ――
心から動揺は、消え去っていた。
団員たちを蹴散らし終えた巨獣が聖魔剣の迸る発光に気づく。
――今の私が練り込める、ありったけの、聖素を――
リヴェルゲイトが、これまで一度も発したことのない唸り声を、発しはじめた。




