26.「欠落の巨獣」【キュリエ・ヴェルステイン】
脈絡のない、出現だった。
巨躯なるソレは通りの向こうから堂々たる歩調で近づいてくる。
目視できるほど荒い獣息。
全身が黒と金に彩られた巨体。
頭部は狼を想起させた。
他の種と比べるといささか人から離れている気もするが、おそらくは亜人種。
毛並みは金色。
金色の瞳に走る極細の黒い血管。
その瞳に、キュリエは言い知れぬ恐怖と狂気を感じた。
異様に発達したモモの筋肉。
太く血管の浮き上がった筋肉質の腕。
神々しいと評するに値する威容だった。
完全なる美の一つの到達点。
セシリー・アークライトとは別種の基準ではあるが、美のカタチとしては完全と呼ぶにふさわしいと感じられた。
だが、欠けている。
ソレには何かが欠けている気がした。
そう――致命的な《何か》が。
強さとか、身体における部位とか、そういったものではない。
言うなれば、概念に似た何か。
その存在の核として備わっていなくてはならない何か。
いびつな存在。
キュリエにはそう感じられた。
ソレは畏怖すべき完全さと、寂しいほどの欠落感を兼ね備えていた。
黒き獣は、まだら模様の服を着た人間の頭部を片手で掴み、引きずっていた。
――ズルッ、ズルッ――
力を失った足の先が地面に擦れ、哀しい音を立てていた。
頭部を掴まれている者の脱力具合と出血量を見る限り、あの紫と黒の服の人物はおそらくもう絶命している。
――アレは、なんだ?
二人とも、終ノ十示軍なのだろうか。
わからない。
――ゴチャッ――
肉と骨が圧潰される鈍い音。
死体の頭部が潰されたのだ。
――ブンッ――
ソレが、死体を投げ捨てた。
死体が建物の壁に衝突し、めり込む。
「おまえは、何者だ? 終ノ十示軍なのか?」
キュリエは質問を口にしていた。
「ナ、ニ……? ヅイ……ノ……ジュウジ、グン……? ザッギノ……オド、ゴ……ゴ、ゴ、ゴ……ゴ……ギ……」
言葉らしきものを口にはしているが、意思の疎通がまともにできるかは不明。
推察するに、ソレが今ほど口にした単語は二つ。
終ノ十示軍。
さっきの男。
そう喋ったに違いないだろう。
しかし、わからない。
この謎の亜人種が終ノ十示軍なのかどうかは、判断がつかない。
「ワ……レ……オ、オ、オ゛ウ……オ゛、ウ……ズ……ズゴ、ル……バン……ガ……」
今の言葉は一つも単語を組み立てられなかった。
キュリエは混乱していた。
本当に何者なのだろうか。
なぜアレは、ここいるのか。
四凶災や終ノ十示軍とも違う。
既知ではない、未知なる存在。
「ギ……ギ……ゴ、ロズ……イガ……イガイ、ノ……モノ、ドモ、ヲ……クヂク……ク、ヂ、ク……ギ……ギ……ギ……」
ざらついた濁った声。
破壊的禍々しさを内包した響き。
そして推察に至った二つの単語。
殺す。
駆逐。
――敵と、見るべきだろうな。
黒き殺意がソレから立ちのぼっている。
その赤く血走った金色の瞳が、狩りをする猛獣のごとく、キュリエを捉えていた。
「もう一度、聞く……おまえは、何者だ?」
「ギ……ギ……ガ……グ、ヂ、ク……」
駆逐。
まともな意思の疎通は、やはり不可能か。
――ポタッ――
冷たい汗が、地面に落ちた。
あの四凶災ゼメキス・アングレンを前にした時とは比べものにならない、全身が総毛立つほどの威圧感。
キュリエの中の警鐘の大きさは、薬の力で限界を超えた《無形遊戯》すらをも超えていた。
逃げろ、と心が吠える。
逃げられない、と心が鳴いている。
勝てるのか、と心が問う。
心は――沈黙した。
――ズシンッ――
ソレが、一歩、前へ出た。
隙がない。
否、もはや隙がどうこうという次元ですらない。
これは、包囲網。
相手は一人なのに、周囲に強力な包囲網を敷かれたような感覚。
「フ、フシュゥゥゥゥゥッ……! ゴ……ゴ、ロ……ス……ハ、サ、イ……ガ……オ、ウ……ゲ、キ……ッ!」
殺す。
破砕。
黒き巨人の殺意が、キュリエを完全に補足。
己の才を、呪うべきか。
相手の力量を測れてしまうこの才を、今日は、呪うべきなのだろうか。
――ググッ……ググ、グッ――
ソレが大きく身体を捩じった。
――ミシィ……ッ――
ソレの太い腕が、脚が、軋みを上げる。
攻撃体勢へ移行した。
キュリエはそう直感する。
「エ……エイン、ヘリ……エ……ル……? ワ……ワ、ガ……ラ……ナ……イ……ゴ……コロ……ズ……ッ」
わからない。
わからない、と言ったのだろうか。
わからないのは、キュリエも同じだった。
ただ、わかるのは死の予感。
この国に来てからの思い出が、なぜかキュリエの脳裏を駆け巡っていた。
苦しいこともあったが、この国でそれ以上の喜びを見つけることができた。
仲間が、できた。
あの終末郷にいた頃にはわからなかった《幸福》を、ついに、自分は理解できた気がした。
幸せは、あるんだ。
そう思えた。
死の予感が、もうすぐそこまで来ていた。
一転して自分は今、絶望の渦に巻き込まれようとしている。
「だが――」
リヴェルゲイトに聖素を注ぎ込む。
「どんな状況でもあいつは、諦めなかった……っ!」
死に抗わず、ただ無為に死ぬわけにはいかない。
ふと、タソガレの言葉を思い出した。
『人は意志の生き物だ。意志なき者は、避けられたはずの死を招く」
術式魔装、展開。
――生き残るんだ、絶対に――




