Ex9. 「くんれんがっしゅく!(1)」
聖武祭へ向けた訓練を続ける日々。
いよいよ暑期本番へと突入した王都は、連日うだるような暑さが続いていた。
戦闘授業の最中、暑さで具合が悪くなった生徒もいたと聞く。
セシリーさんによれば今年は例年と比べ特に暑さが厳しいという。
それでも、猛暑を理由に日々の訓練の手を抜くわけにはいかない。
アイラさんの稽古を終えた後、毎日の訓練はかかさず行っていた。
まあ、猛暑とはいえこのくらいの暑さなら日本の夏を経験している俺にとっては慣れ親しんだ暑さでもある。
顎に伝ってきた汗を拭う。
――ただ最近、少し疲労が溜まってきたかな……。
習得すべき技《双龍》の特訓成果もある段階以降、思うように出せていない。
長期的な疲労と停滞を同時に抱えているせいか、珍しく、少しだけしんどさに似た気分を覚える。
「――いや、まだだ!」
気合を入れるべく、ぴしゃりと両頬を打つ。
しんどさを理由に楽な方へ逃げても絶対、ろくな結果にならない。
こういう時こそ、何くそという気持ちで奮起すべきだ。
そうだ。
何も辛いことなんてない。
目標があって、それに突き進める環境にいるだけでも、俺は幸せなんだ。
それに聖武祭に臨む他のみんなだって必死に頑張っている。
だから、俺も頑張らなくては。
その日も日付が変わるまで、俺は訓練を続けた。
「根を詰め過ぎだ、馬鹿者」
翌日の昼休み、食堂でキュリエさんからお叱りを受けた。
「遅くまで修練場に残って訓練しているのは知っていたが、まさかそんな遅くまでやっていたとはな……しかも、この暑さの中」
訓練で疲れているだろうと思い、俺の家への訪問は自粛していたらしい。
だから、俺が何時まで修練場に残っているか知らなかったそうだ。
「けど、多少の疲れは感じ始めましたけど、体調の方は大丈夫なんです。ただ……昨日、例の必殺技の訓練結果が芳しくなくて、少ししんどく感じてしまって」
自分を責める気分でため息をつく。
キュリエさんは難しい顔をしている。
「……しんどさを感じたのは、昨日が初めてか?」
「だからこれはいけないなと思って、すぐ気合を入れ直したんですが……」
「少なくとも二週間はずっと同じ内容で訓練していたんだな?」
「? はい」
キュリエさんが、呆れの皺を眉間に寄せた。
「まずな、疲労を感じ始めたのが最近という時点で異常なんだ。普通その内容なら三日もすれば身体が悲鳴を上げる。しかもしんどさを覚え始めたのも、つい昨日のこと……成果の芳しくない内容の訓練を続けていてしんどいと感じない人間などいない。黙々と二週間も一人無心で訓練をやれるだけでも、大したものだ……って、なんだその顔は?」
「あの、何かいいことでもありました?」
「んん? どういう意味だ?」
「いえ、今日はやけに俺を褒めてくれるから普段より気分がいいのかと思って……」
「……あのな、私は半分呆れてるんだぞ?」
キュリエさんは両手でグラスを持つと、ほぅ、と小さく息を吐いた。
「やれやれだな……おまえは察しがいい方だが、私のことになるとどうも好意的に受け取りすぎるところがある……」
俺は頭を掻きながら言う。
「だって俺、キュリエさんには好意しかありませんから。あはは……だから、なんでも好意的に捉えようとするのかもしれません」
キュリエさんはトノア水を一口飲んでから、困った顔をした。
「もし禁呪の力を利用しようとする悪いやつにおまえが好意を持ったらと考えると、心から恐ろしいよ……」
「大丈夫ですって。キュリエさんくらい好きになる人なんて、多分、そうたくさんはいませんから」
ますます困った顔になり、最後には肩を落とすキュリエさん。
「他に誰もいないとは言わず《そうたくさんいない》と言うあたりが、おためごかしでないのを物語っているんだよなぁ……そして、今のはセシリーにも聞かせてやりたいところだ」
セシリーさんは今日、欠席だった。
彼女は家関係の用事で欠席することも多い。宿舎ではなく屋敷から通っているのも、あるいはそういった用事で休む場合を想定しているからなのだろうか。
ちなみにセシリーさんが休むと、ジークとヒルギスさんも自動的に休みとなるらしい。
「セシリーさん、訓練の方は順調ですか?」
「ん? ああ、まあな。今は私なりに考えた《ペェルカンタル》と《極空》対策を盛り込んだ戦い方を練習中だ。ただ――」
キュリエさんが懸念を顔に出し、口元を曲げる。
「最近あいつにも疲れが濃く出てき始めていてな……そろそろ休みを取らせるべきだと考えているんだ。おまえもあいつも頑張り屋なのはいいんだが、その……程度がな」
「さっきも言いましたけど、俺、身体の方はまだまだ大丈夫ですよ?」
「だが、少しであってもしんどいと感じたんだろ? なら心の方も休ませてやるべきだ。アイラなんかもこのところ、いささか気が張りすぎている印象だし……いいか? 程よい休息も、訓練の一環と考えろ。肝心の身体がやられてしまっては元も子もないぞ」
突然、キュリエさんが頭を抱えた。
「どうしました?」
「いやな……本来私は人にものを教えられるような立場ではないはずなんだが、気づけば最近、教官みたいな話ばかりしていると思ってな……」
「でもキュリエさんって教えるの上手いですし……この際、将来ここの教官になってしまう手もあるのでは?」
教官姿のキリッとした佇まいもよく似合うだろうし。
「教官の世界にもどうせ、家同士の関係やら何やらがあるだろう。だから個人的には遠慮願いたいところだな。学園長を見ていても、大変そうだし」
疲れていると言えば、マキナさんなんかは常に疲労が肩にのしかかっている印象である。
聖武祭に招待するルーヴェルアルガンと帝国の客人関係の雑事が増え、最近は特に忙しいみたいだ。
そのため、会う頻度も減っている。
会ったら会ったで、溜まった愚痴の絨毯爆撃が来そうだけど……。
「ともかく体力的にも精神的にも、休息は必要だぞ。わかったな?」
「訓練合宿、ですか」
キュリエさんから休息の重要性を説かれた日から、三日後。
昼食の料理もなくなろうかという頃、訓練合宿の話を切り出したのは、セシリー・アークライトだった。
「王都の北に位置するキールシーニャ領に、とある訓練施設があるのですが……そこは貴族たちが保養に使うことも多い場所でして、つまり、訓練と休息の両方を兼ねられるわけです」
「セシリーと話し合った結果、そこが第一候補に挙がってな」
「それにあそこなら、わたしたちも頑張りがいのある場所ですからね」
うん?
頑張りがいのある場所……?
どういう意味なのだろうか。
「何を頑張るのかは私にはわからんが……聞いた感じ、訓練施設もあるようだから訓練の感覚がなまる心配もないだろう」
先ほどのセシリーさん言葉には、キュリエさんもいまいちピンときていないようだった。
「呼び名は、ええっと……なんとか養地、といったか?」
キュリエさんの問いに、セシリーさんが答える。
「この国の者はキールシーニャ家が管理するその一帯を指して《イオワ養地》と呼んでいますね。元を辿ると、イオワ養地はキールシーニャ家がフェラリス家のシーラス浴場に対抗して作った場所だと言われています。訓練施設を併設したのは多分、シーラス浴場と差別化を図るためでしょう。目論見が成功してか、特に貴族たちからは人気の高い場所となっています。王都からは離れたいが遠出は厳しい、かつ暑期に適した場所となると、貴族たちはイオワ養地に行きたくなるようですね。暑期のイオワ、寒期のシーラスといったところでしょうか」
そこで少しだけセシリーさんの表情が曇る。
「ただ……場所の性格上、暑期は宿や施設に空きがないことも多く、宿泊用の部屋の数自体が少ないのもあって、シーラス浴場以上に空きを確保するのが難しいと言われています。何せ五大公爵家の者ですら、簡単にとはいかないようですから。シーラス浴場と違い一度キールシーニャ家を通す必要があるので、このあたりも少し壁が高くなっています」
ふむ、とキュリエさんが唸った。
「裏を返せば、イオワ養地はそれでも行きたくなる魅力があるわけだな」
セシリーさんが、はい、と頷く。
「ええっとつまり……今の話しぶりだと、まだそこに行けると決まったわけではないんですね?」
あくまで候補の一つ、といった段階か。
俺がそう尋ねると、セシリーさんはさらっと言った。
「いえ、実はもう部屋は確保できたんです」
「え? でもさっき、今の時期は確保が難しいって――」
アークライト家の力でどうにかしたのだろうか?
キールシーニャ家はアークライト家に好意的だと聞いたし……。
「先日キールシーニャ家に足を運んで受付役に頼んでみたのですが、宿泊予定も施設の使用予定もすでに埋まっていて、聖武祭までの期間の宿泊は難しいとのことでした。なので、仕方なく帰ろうとしたところ、そこにドリストス会長が現れまして。それで――」
事情を話したところ、なんと、キールシーニャ家の親族で埋まっていた部屋を譲ってもらえたという。
さらに訓練施設の使用もどうにかしてくれるのだとか。
セシリーさんが卓に肘をつき、ほっそりとした顎を手の甲にのせた。
「最初は、ドリストス会長も難色を示していたんですけど……」
ちらっ、とセシリーさんの目が俺を捉える。
「サガラ・クロヒコの日々の訓練の休息も兼ねた計画だと話したら、悩み抜いた果てに『一応、お父様に掛け合ってみますわ』と言って屋敷の奥へ姿を消したんです」
「で、戻って来たドリストス会長から『空きが取れましたわ』と告げられたと」
キュリエさんがセシリーさんの言葉を引き継いだ。
どうやらキュリエさんはすでに経緯を知っているらしい。
「クロヒコの名前が出て、明らかにドリストス会長の雰囲気が変わったんですよねぇ……だから多分、クロヒコのおかげなんだと思いますよ?」
「俺のおかげ、ですか?」
思い当たる節があるとすれば、前の模擬試合での借りを返すつもりで……といったあたりだろうか?
うーむ。
だとすれば、律儀な人だ。
しかも父親に掛け合って捻じ込めるあたり、ドリストス会長はそのあたりの力もある人なんだな……。
今度、お礼を言わないといけない。
「いずれにせよ、この時期のイオワ養地が確保できたのは僥倖でした。ただ……今話した流れからわかると思いますが、日取りはずらせません。予定として、五日後、二泊の予定です。まあ、初日は移動でほとんど終わってしまうと思いますが……」
「ん? 五日後っていうと、もう前期授業が終わっていますよね?」
「ええ。だから、授業の方は気にしなくて済みますよ?」
明後日はいわゆる終業式的な行事が控えている。
そこから後期が始まるまでは、授業は休みとなる。
まあ、言ってしまえば夏休みである。
この長期休みが導入されたのは《暑期の暑さがきついので教官も学生も授業に身が入らない》という、実に単純な理由からだったらしい。
ユグドラシエにもクーラーに似た術式機は存在するもののとても高価なため、学園の教室には導入できない。
そこで暑期の授業は休みとなったわけだ。
今年はノイズのゴーレムの件があって閉鎖されているが、一応聖遺跡の攻略は休暇中も可能だという。
ちなみに長期休暇の導入は五年前の話らしい。
なんでも、そのくらいの頃から暑期の気温が急激に跳ね上がったのだとか。
「そうそう、実は思いの他部屋数を空けてもらえまして。二人部屋を三部屋――つまり、あと三人分空きがあるんです。ですので、わたし、キュリエ、クロヒコの他に、あと三人同行できます。もし誰か誘いたい人がいれば――」
「あ、だったら――」
「アイラとレイなら私が誘っておいたぞ。二人とも、喜んで承諾してくれた」
キュリエさんが俺の言葉を先読みし、言った。
「て、手際がいいですね……俺、今まさにその二人の名前を出すところでした」
「あの二人はどうせ誘うことになるだろうからな。おまえも誘いたがるだろうし……まあ、機を見てセシリーにもすぐ伝えるつもりだったんだが」
セシリーさんはアイラさんとレイ先輩が来るのを今知ったようだが、意外そうな顔はしなかった。
多分、元々あの二人を誘うことは想定していたのだろう。
「では、わたし、キュリエ、クロヒコ、アイラ、レイで……空きは、あと一人ですね」
「ん? あと一人となると、ジークとヒルギスさんが――」
「ああ、あの二人は残念ながら今回日程が合わないんです」
セシリーさんが残念そうに苦笑する。
「特にヒルギスにとっては、イオワ行きにあたる三日間は毎年とても大事な日なので、きっぱり断られました。彼女があれほど感情を表に出して誘いを断るのは、その日関係くらいですね……はは……さすがのわたしも、あの状態のヒルギスには反論できません」
セシリーさんが苦笑いしていた。
なんでも毎年王都で骨董市みたいな催しがあるらしく、ヒルギスさんの数少ない毎年の楽しみがその期間限定の骨董市なのだとか。
しかしヒルギスさん、意外と渋い趣味の持ち主だったんだな……。
しかし、となると……残念だけど、今回ヒルギスさんは無理か。
「となると、今回はジークが?」
「と、考えていたのですが――」
ため息をつくセシリーさん。
「シーラス浴場の時といい、どうしてこう予定が重なるんですかね……ジークはジークで、イオワ行きの二日目にあたる日に、とても大切な人と食事に行く予定なんだそうです。万が一にも体調を崩すわけにはいかないので、前日も休息に使いたいと」
ああ、例の未亡人か……。
確かに、ジークにとっては絶対に外せない案件だな。
うーむ、なら他に誘うとなると、
「クーデルカ会長は……無理だろうなぁ」
キールシーニャ家との関係を考えると、これは難しいだろう。
しかし、せっかく貴重らしいイオワ養地とやらの宿泊枠が取れたのだから、誘える人がいたら是非誘いたいところだ。
「わたしとキュリエは他に誘う相手がいませんから、クロヒコに誘いたい相手がいたら誘ってみてください。もし同行する相手が決まったら……そうですね、できれば明後日までには教えてもらえるとありがたいです」
「でしたら是非、マキナ様を誘ってあげてくださいませんか?」
「マキナさんを?」
その日の放課後、俺は早めに訓練を切り上げて家に帰った。
家ではミアさんが夕食の支度をしてくれていた。
まず風呂で汗を流した後、俺はミアさんと二人で夕食をとった。
そして夕食の片づけが終わった頃、俺はミアさんに訓練合宿の件を話してみた。
するとミアさんの口から飛び出したのは、マキナさんを誘ってもらえないかという提案だった。
「もちろん誘えれば誘いたいですけど……マキナさん、今すごく忙しそうですし」
誘えるものなら本当はミアさんも誘いたかった。
だけど、学生ではないミアさんは侍女の仕事があるから二泊の日程は厳しいはずだ。
その話は先ほど、直接ミアさんにもした。
ミアさんは『わたくしを誘おうとしてくださったというだけで、ミアは幸せでございます』なんて言ってくれたけど、できることなら、やっぱり一緒に行きたかった。
ミアさんなら、セシリーさんやキュリエさんも歓迎してくれるはずだし。
でも、やはり今回は難しそうだ。
そして同じ理由で、マキナさんも選択肢からは外れていたのだが――
「そうですね……このところマキナ様は多忙を極めておりました。やはり聖武祭へ向けての準備に少々手間取っているようでして……ですが最近、ようやく一つ山を越えて、やや余裕が出てきたようなのです。ただ……やはり連日の雑務の影響で、疲労の色が濃いご様子で」
「そうだったんですか……」
あの人はあの人で、根を詰めるタイプだからなぁ。
「特に、聖武祭の招待客関係の調整には難儀されたようです。聖武祭は一応、聖ルノウスレッド学園の主催ですから……」
「でも今のミアさんの言い方だと、もう山場は越えたんですよね?」
「神経を磨り減らす案件はあらかた片付いた、とおっしゃっていました。今はどちらかというと、精神的な面でのお疲れを取りたいようですね。ふふ……クロヒコ様に会いたいと、お仕事中もそうぼやいておりましたよ?」
ふむ。
精神的な息抜きという意味では、イオワ養地はうってつけかもしれないな。
俺に会いたいってことは、愚痴を吐き出したいほど精神面で疲れているということだろう。
それにもし聖ルノウスレッド学園の学園長であるマキナさんがついてきてくれたら、保護者的な意味でも心強い気がする。
「ところで、ミアさんは……やっぱり難しいですかね?」
「そうでございますね……部屋の空き状況の問題もありますが、何よりわたくしの場合、マキナ様がいらっしゃらなくともやらねばならない仕事がありますので……二泊となると、やはり難しいですね」
逆に気を遣った笑みを向けられてしまった。
「わかりました。じゃあ……また別の機会に、どこか一緒に息抜きに行きましょうよ。王都内なら、大丈夫ですよね?」
俯きがちに、ミアさんが頬を赤らめる。
「はい……お気遣いありがとうございます、クロヒコ様」
「約束ですよ? ええっと……じゃあ俺、今回はマキナさんを誘ってみます」
「イオワ養地の件、のちほどわたくしからマキナ様に提案してもよろしいのですが――」
くすっ、と少し悪戯っぽく微笑みながら、ミアさんが置時計を見る。
「マキナ様は、まだ学園長室にいらっしゃると思います。ですので、今からクロヒコ様が学園長室へ足をお運びになり、直接誘ってみてはいかがでしょうか?」
ミアさんが人差し指を立て、微笑みながらウインクをしてみせた。
「その方がきっと、マキナ様も喜ばれると思いますよ?」




