第96話「第五禁呪と脅威の響き」
「遅れてすみません、セシリーさん」
言葉をかけながら振り返る。
彼女の姿に胸が痛んだ。
服の一部は破り取られ、頬が赤く腫れている。
そして唇の隙間から流れたのであろう、血の跡。
誰がやったのかは、言うまでもあるまい。
「クロヒコ! 後ろ!」
セシリーさんの声。
後ろを振り向く。
男が気勢を上げて襲いかかってきた。
身体を半回転させ、放たれた数撃の拳をかわす。
そして、眼前に聳え立つ巨躯の男を睨め上げる。
割れた男の額からは血が流れ、ひしゃげた鼻からも血が垂れていた。
歯も何本か砕けている。
ぎろり、と男の眼球が俺を捉えた。
「よくも邪魔してくれたな、ガキ」
左腕に力を込め、俺は言った。
「邪魔しに、きたんだよ」
男の目が訝しげに光った。
「何モンだ? その姿、その力……さっぱり見当がつかねぇが」
彼の目に異様と映っているのは、やはり左腕と翼か。
肩甲骨のあたりから伸びた黒い翼。
これは第五禁呪によって形成された翼である。
詠唱後、第五禁呪の情報が脳に流れ込んできた。
ひと言で言えば、第五禁呪は空を飛ぶことのできる禁呪。
ただし『空を飛ぶ』といっても、大きく飛び上がった後は次第に高度が下がっていく、という感じだが。
またこの力の及ぶ範囲は決まっているらしく、最初に詠唱した時に現れた巨大な二枚の羽から離れれば離れるほど効力は薄まるようである。
まあ、第五禁呪であの巨大な羽を次々と召喚すればどこまでも飛んで行くことは可能だろう。
が、おそらく乱発すればその分、第八禁呪と同じで解いた際の反動が跳ね上がるはずだ。
ゆえに連続使用は躊躇われる。
だとしても、俺にとっては十分だった。
もし上空からでなければ、セシリーさんを探すのにもっと手間取っただろう。
飛行中にある程度の加速が可能なのもありがたかった。
加えて、発動中は驚くほど視界がよくなる。
遠くのものが実にクリアに見えるのだ。
おおよその使い方をのみ込んだ俺はその後、空へと飛び上がり(最初は慣れるのに少し苦労したが)、適度な加速をしつつセシリーさんたちの姿を空から探した。
空を飛ぶ感動なんてものを感じる暇もなく、必死に目を凝らした。
そして、晶羊亭を目指す途中でセシリーさんを発見した。
結果として、ヒビガミはまさにベストなタイミングでベストな禁呪を持ってきてくれたといえるだろう。
これについては感謝しなければなるまい。
倒れ伏す老人とセシリーさんに目をやる。
老人はセシリーさんの祖父、ガイデンさんだろう。
まだ息はあるようだ。
…………。
最善、ではなかったんだろうけど。
ギリギリで間に合った、と思いたい。
何者だと問いを待つ男を睨みつけ、俺は答えを返した。
「あんたの味方じゃないことは、確かだな」
状態を確かめるようにして指で鼻の頭を摘まみ、男が笑う。
「着てる服が少し違うみてぇだが、聖樹士か?」
「……候補生だ」
男が鼻腔に溜まった血を、ふんっ、と出す。
「んなわけあるかよ。騎士団に所属してる聖樹士より候補生の方が強ぇなんてことが、あってたま――」
左腕の肘部分の穴から黒霧の噴射。
炸裂音。
急激な加速。
拳が、男の腹にめり込む。
「がっ、ふっ……!?」
「おしゃべりを、しに来たわけじゃない」
「て、てめっ……このおれを誰だと――」
「――四凶災だろ」
空を切る男の攻撃。
一足に間合いを詰める。
力を込めたアッパーを男の腹に打ち込む。
重々しい音と感触。
男の足が微かに宙に浮いた。
間髪入れず、二撃目。
急加速する拳。
男の鳩尾に、拳が深々とめり込む。
男の小さな眼球がせり出て、その口元から唾液が糸を引いた。
「う、ぐふぅっ……!? て……めぇ!」
男は気を入れ直すように咆哮すると、腕をやたらめったら振り回しはじめた。
が、見える。
男の攻撃が、見える。
そして感じられる確実な手応え。
ベシュガムと拳を合わせた時には感じられなかった感覚。
ダメージを与えられているという、感触。
「シャァァァァアアアアアアアアッ!」
男が絶叫と攻撃をまき散らしながら旋回、俺から距離をとった。
「やるじゃねぇか、ガキ」
男が地面に血を吐き飛ばす。
「これはおれも、本気でやっていいみてぇだな」
手の甲を見せ、男が前方に両腕を掲げた。
男の腕が発光しはじめる。
布地を隔てた向こうで、聖素の光が発生していた。
「『スヴェグルイン』て、聞いたことあるか?」
腕の間に覗く男の口元が不敵な笑みを形作った。
「普通ならスタンなんとかっつー血筋の人間しか使えねぇもんらしいが……オレはなんと、こいつが使えちまう。なぜだと思う?」
「まさか、術式刻印だとでも?」
驚愕の響きを滲ませてそう口にしたのは、セシリーさん。
おっ、と男の片眉が上がる。
「さすがセシリーお嬢サマ、鋭いぜ。そうさ、おれは術式刻印によってこの固有術式を使うことが――」
「馬鹿な……っ!」
セシリーさんが否定するかのごとく声を上げた。
「術式刻印……しかも固有術式の術式刻印など、ありえない!」
「シャシャシャ!」
男が哄笑する。
「それができるから四凶災なんだよ、セシリー」
ぐっ、とセシリーさんが口篭る。
「待ってろよ? さっきはちょっと油断しちまったが、すぐにこの亜人のなり損ないみてぇな包帯男を倒して、さっきの続きをしてやるからよ」
援護に入ろうとしてくれたのか、セシリーさんが立ち上がろうと試みる。
が、膝が震え、再び膝を地についてしまう。
俺は顔の向きを男へ戻し、再び左腕に力を込めた。
男も視線を俺へと戻す。
「おれの攻撃を一撃でも喰らっちまえば、あんなもんだぜ……さ、こっちも続きをやろうか?」
軽口こそ変わっていないが、男の空気が明らかに先までと一変している。
纏う空気が、それまでの比ではない。
いよいよ本気中の本気になった、ということなのだろう。
目に宿る色も、不吉さを増している。
「おれを本気にさせちまったこと後悔すんなよ、候補生?」
綺麗に生えそろった男の歯が、不気味に光った。
「てめぇの絶望したツラも見てみてぇなぁ? セシリーお嬢さまがぐちゃぐちゃにされるサマを目にして、どんな顔するのかをよ」
俺は無言のまま、第五禁呪の力で微かに地面から足先を浮かせ――突進。
さらに左腕を加速させる。
男が腕を閉じ、防御姿勢を取った。
「馬鹿が。わかってねぇ……この『スヴェグルイン』がどんなものなのか、てめぇはまるで――」
ビキィッ、と。
鉱物に罅が入ったような、音がして。
そして弾き飛ばされたかのごとく、男の腕がねじ開けられ――
俺の左拳が、
「ぶぐぁっ!?」
男の顔面に、めり込んだ。
男が後方へ吹き飛ぶ。
肩や腰を打ちつけながら二十メートルほど吹き飛ぶと、男は前のめりに倒れ込んだ。
男が、地面についた腕でゆっくりと上体を押し上げていく。
「ば、馬鹿な……す、スヴェグ、ルインを……ものともしねぇ、だと……!? 殴られた腕が……腕が、痛ぇ!? ふ、ふざっ、けんな……っ! なんだ……なんなんだ、あの男の、力……!? あんな攻撃力、ゼメキス……いや、下手すりゃあ、ベシュガムにも――」
違いすぎる、と思った。
俺は恐怖を覚える。
ベシュガムの、あの発言。
『我々はひとまとめに「四凶災」と呼ばれているらしいが……実はオレと他の兄弟の間には、埋めがたい大きな隔たりがある』
あれは紛れもない事実だったのだ。
兄弟同士の対抗意識ゆえに出た発言である可能性も考慮はしていた。
だから、ベシュガムと同等、あるいはそれに近い力を持つ他の四凶災の存在も覚悟はしていた。
しかし言葉通り、ベシュガム・アングレンは別格だったのだ。
ベシュガムと、今ほど殴り飛ばした男の、圧倒的な力量差。
攻撃力、防御力、スピード……あらゆる面において、あの男はベシュガムに劣っている。
やはり『スヴェグルイン』など関係なかった。
ベシュガム・アングレン自身が、規格外の怪物だったのだ。
よくも勝てたものだ、と今さらながらに思う。
だけど――これで、残りの四凶災がベシュガムよりは弱いことが判明した。
ならば心置きなく、こいつを倒した後は次の四凶災のところへ向かえる――
男が当惑と憤怒をないまぜにした表情で振り向いた。
俺はすでに男との間合いを詰めるべく、駆け出している。
「く、そがぁ……っ」
ダメージを受けた後の復帰は早かった。
男が立ち上がる。
回復力は高いらしい。
俺は、腰から刀を抜いた。
薄桃色の刀身。
名を――『狂い桜』。
*
「手短に聞く。『魔喰らい』はどうした?」
第五禁呪を発動させ飛び上がろうとした時、ヒビガミが俺に尋ねた。
「……折られた。あそこで死んでいる男に」
俺も手短に説明した。
ヒビガミが一瞬、ベシュガムの死体に顔を向ける。
「カカッ、馬鹿げているな。なんだと? あれを折っただと? まったく、ますます到着が遅れたのが悔やまれるな。そしてサガラ、よくあの男に勝ったものだ。おれの目は、曇っちゃいなかったというわけか」
「……預かった刀を折ってしまったのは、その……悪かったよ」
「なぁに、刀の一本や二本、折れたところで気になどしねぇよ。道具ってなぁ、持ち主の糧となったのならばその役目を十二分に果たしたといえる。そういう意味じゃ『魔喰らい』は己の役目を果たしたわけだな」
俺はヒビガミに背を向けた。
「悪いけど、今は急ぎたいんだ。そういう話は後で聞く」
「まあ待て」
ヒビガミが腰に差している刀のうち一本を抜き、差し出した。
少し戸惑う。
「これは?」
「『狂い桜』という妖刀だ。使え」
「え?」
「くれてやる、と言っているんだ。『魔喰らい』の代わりだ。質はおれが保証しよう」
黒い柄を見下ろす。
「いいのか? おそらく王都にはまだ他の四凶災が残ってる。もし遭遇した時、あんたはそっちの『無殺』だけで戦うことになる。もし必要なら、学園関係者の誰かに聖剣か魔剣を――」
「案ずるな」
ヒビガミは顎鬚に指の腹を滑らせながら、不敵に笑った。
「刀があろうがなかろうが、おれが強いという事実に変わりはない。もちろんこのおれを上回る強敵が出てくるならば、それはそれで大歓迎だがな」
虚勢ともはったりともいえないところが、この男の恐ろしい部分だろう。
どんな条件下であろうと他の四凶災との遭遇はむしろ望むところ、といった様子だ。
「理由が必要なら、そこの四凶災に勝った褒美とでも思っておけ。ここで己に死なれては少々つまらんのでな。まあ……おれもこれから他の四凶災を探して、王都内をぶらつくつもりだが」
「…………」
「どうした? 急いでいるんだろう? 受け取るならさっさと受け取れ。まあいらんのなら、その場に打ち捨てればいい。簡単な話だ」
今はベシュガムとの戦いで負った傷に、疲労もある。
相手の力量がもしベシュガムと同等だった場合、苦戦は必至。
さすがに視力を失うとなると、後にヒビガミと戦う時にネックとなるだろう。
ゆえに第三禁呪も無闇に使えない。
ならば、使える武器は一つでも多い方がいい。
「すまない、ありがたく使わせてもらう。呪文書の件も含めて……借りができた」
俺は刀を受け取ると、ヒビガミから刀の特性に関する説明を軽く受けつつ、鞘をベルトに差す。
そしてバランスを多少崩しながらも、俺は空へと飛び上がった。
*
「シャシャ……てめぇの攻撃力には、確かに目を瞠るもんがある」
立ち上がった男の顔には、未だに余裕が残っていた。
「だがどうかな? この『スヴェグルイン』は防御だけに使うもんじゃなく、攻撃にも使える。見たところそれほどてめぇに防御力があるとも思えねぇ。疲弊もしてるし、負傷もしてる。もし一撃でもその左腕以外の箇所に攻撃を当てられれば、おれが一気に優勢になるだろうなぁ?」
男が硬質化した腕を、引き絞るようにして後ろへ引いた。
「さ、存分にやり合おうぜ? 正々、堂々とな」
「そうやって一対一でやろうって空気を出しつつ、あそこに倒れてるガイデンさんかセシリーさんを隙を見て盾にするつもりなんだろ? 目線の外し方が逆に、わざとらしいよ」
男が舌打ちする。
「ったく、よく見てるじゃねぇか――ガキが!」
一転。
男が鬼気迫る形相で、攻撃を開始。
すでにダメージは抜けているのか
身体の頑強さは、男の言葉通りのようだ。
ちなみに先ほどの防御力における話だが、第八禁呪を盾に戻し、防いでみる手もある。
が、その必要はないのかもしれない。
なぜならば、
「こ、こいつ……っ!」
男は、まるで俺を捉えられていない。
第五禁呪による加速。
この速度に、男はついてくることができない。
そう――当たらないのであれば、防ぐ必要などない。
見える攻撃を、わざわざ防いでやる道理はない。
「がっ……!」
男の肩に、腿に、ふくらはぎに裂傷が走った。
切り傷がついた順が後になるにつれ、傷口が深くなっているのがわかる。
これが妖刀『狂い桜』の特性。
切った相手の血を吸えば吸うほどその切れ味を増す。
「くそっ、たれがぁぁああああ!」
痺れを切らしたかのようにみえるが、しかし攻撃自体は的確。
俺がいた場所の石畳を大槌のごとく振り下ろされた拳が破砕する。
が、すでに翼で飛び上がっていた俺は、すれ違いざまに縦回転しながら男の肩口を切り裂いた。
男の肩から血が吹き上がる。
それでも男は痛みなど意に介した様子もなくすぐさま反転、宙に浮く俺へ驚くべき跳躍力で飛びかかって来た。
高く飛び上がっての一撃というのはリスクが高い。
なぜならば、飛び上がってしまえば普通はもう落ちるべき場所に落ちるしかなくなるからだ。
場合によっては相手の恰好の的となってしまいかねない。
しかし第五禁呪の力により、今の俺は空中でも小回りが利いた。
第八禁呪でも似たようなことは可能だが、第五禁呪の自在さにはかなわない。
ゆえに、空中での無茶な方向転換、軌道が可能――
男の跳躍力と速度をもってしても、俺を捉えることはできない。
今度は逆に、男が着地する前に彼に追いすがり、俺は絶え間ない斬撃を浴びせた。
男の傷はより深くなり、血のしぶきが勢いを増す。
中空で血をまき散らしながら、男は地面を転がる。
転がりながら男は体勢を立て直し、どうにか戦闘態勢を取る。
すると男は一か八かとばかりに、セシリーさんやガイデンさんを盾にしようとした。
が、先に回り込んだ俺に、左腕で殴り飛ばされる。
術式刻印で硬質化させた腕で防ぐも、男の腕は悲鳴を上げる。
男が喰いしばっていた健康的な歯が、ぱきっ、と欠けた。
「がっ……て、めっ――」
立て直す暇を与えず、一撃。
二撃、三撃四撃、五、六、七――
休む間を与えず、切り刻むように男の肉に刃を埋め、その妖しげな吸血の刃を走らせる。
「くそ、がっ! 聞いてねぇ! こんなやつがルノウスレッドにいるなんざ、聞いて、ねぇぞ……! 聞いて、聞いてねぇぞぉぉぉぉおおおおおおおお!」
そんな断末魔にも似た絶叫を上げた後。
いよいよ男は力尽きた様子で、地面に両膝をついた。
ずしんっ、と槌を打ったかのような音が響く。
わずかに地面が揺らいだ気がした。
俺は男の首筋に刃を添えた。
いくら男の皮膚が硬いとはいえ、今の切れ味ならば容易に切り裂けるだろう。
「本当に、何、モンだ……? まさか……『獄』の出か?」
「『獄』とかいうのは知らないけど……さっき口にしてたベシュガムってやつなら、ここに来る前に倒してきた」
「なん、だとぉ?」
男がくしゃりと眉根を歪め、驚愕を顔に貼りつけた。
「あのベシュガムを倒した? シャ……シャシャ、馬鹿を言うんじゃねぇ。あのベシュガムが、てめぇみてぇなガキにやられるなんざ、あるわけ、が」
男が何か思い当たった顔になる。
俺の身体の傷や目の包帯を男が確認した。
身体の端々に刻まれた死闘を思わせる爪痕。
そして、ボロボロになった眼前の異形の男が生存しこの場にいるという事実。
ある疑念に塗れた仮説が、男の中で真実として形成されていくのがわかった。
「本当にベシュガムを、倒してきたってのか……?」
「ギリギリ、だったけど」
暫し黙り込んだ後、男は思い直した顔をした。
「いや、やっぱりありえねぇ……仮に『獄』の出だとしても、この世にあのベシュガムを倒せる人間がいるわけがねぇ。それに『獄』は一度、ベシュガムが喰い荒らしてる」
男はどこか自慢げに笑んだ。
「ゼメキスやソニは気づいてなかったかもしれねぇがな、おれは知ってんだよ。ベシュガムは兄弟の中じゃ別次元の存在だ。あの時……『獄』を喰い荒らした時、ベシュガムと一緒に行ったのはおれだけだったが、そこでおれは改めてベシュガムの異次元さを味わった。あの終末郷でも特別危険なことで有名な『獄』の連中ですら、ベシュガムには歯が立たなかったのさ。あいつは、おれたちとは何かが違う。そんなベシュガムに勝てる存在なんざおれには想像できねぇ。そうだな……もしベシュガムの敵になりうる未知数の存在がいるとすれば、実在すらわからねぇあの終末女帝か、コソコソ隠れ潜んでやがる噂に聞く、例の孤児――」
男に理解が走った。
「そうか、てめぇあの6院とやらの出身者か? いや……だが待てよ? あそこの出身者におれたちはとんと縁がなくて三、四人くらいしか会ってねぇが……どいつも一人残らず殺してる。あの程度の連中に、やはりベシュガムを殺せるとは思えねぇ」
得心いった顔になると、男が視線を上向けた。
「はったりだ。他の兄弟だな? 勝ったとしてもソニかゼメキスだろ? てめぇ、何か勘違いしてやがるな?」
「ベシュガム・アングレン。筒帽を被った、黒ずくめの男。額に太い斜め十字の傷。腕にあんたと同じ『スヴェグルイン』の術式刻印。さっき戦ったあの男について俺が知ってるのは、これくらいだけど」
男の瞼が目一杯に、上がった。
「ベシュガム……本当に負けた、のか? あの、ベシュガムが……こんな、ガキに……?」
「俺は、6院の出身者でもなければ、もちろんその終末女帝とかいう人でもない」
「なら、何モンだってんだ?」
「禁呪使い、と名乗っていいのかな」
「禁呪?」
「この姿も、禁呪の力だ。それ以外は……ほとんど、ただの学生だよ」
「……シャシャ、なるほど、禁呪か。実在したとはな。こいつは驚いた。ま、いいぜ……問題は、この先だ。なぁ、ただの学生どの?」
男が嘲弄する。
「さっきからとどめがこねぇと思ってたんだが……ただの学生どのは、ひょっとして人を殺すのに慣れていないのかな?」
「…………」
俺はすでにベシュガム・アングレンという人間を一人、殺している。
無我夢中だったのもあってその時は意識していなかったが、確かに俺は人を殺してしまっているのだ。
魔物を殺した時は、魔物だから、と思っていた。
が、四凶災は怪物じみているとはいえ、人間。
「シャシャシャシャ! わかんねぇ男だな! これほどの力を持ちながら人殺しは苦手ですってか!? だがどうする!? ここまで追い詰めておいて、おれを牢にお連れしますってわけにもいかねぇだろ!? それともとどめを誰か別の人間に変わってもらうか!? 四肢を切断でもして『命だけは奪っていません』ってか!?」
口元を引き結ぶ。
だけど――
「シャシャシャシャ! こいつはお笑い草だ! そら! 容赦なく殺してみろよ!? 勝利は目前だぜ!? てめぇがここでおれを殺さなけりゃあ、後で何が起こるかわからねぇぞ!? 大切なものを守ってみろよ、てめぇの手を穢すのと引き換えによ!?」
「…………」
「シャシャ! どうやら見込み違いだったみてぇだな! 学生であられる禁呪使いどのは、とんだ甘ちゃんだったわけか! 悔しいぜ……こんな覚悟の温いガキに、追い詰められちまうとはな。だが確信した。ベシュガムは負けてねぇ……こんな血反吐を吐きそうな甘さを残したガキが、ベシュガムを殺せるわけがねぇ!」
男は勢いづいた様子で周囲に血を吐き散らしながら凄む。
「所詮はガキだ! てめぇみてぇな頭がお花畑な人間は――」
しかし、男の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
「……いや、違ぇ。てめぇ――」
俺は一歩、前に踏み出す。
脅威。
そう。
この男は『セシリーさんにとっての脅威』。
ならば生かしておくべきではない。
生かしておく、道理などない。
男は笑みを浮かべたまま。
だが、その顔には微かな恐怖が宿っていた。
「シャ、シャシャシャ……そうかい。どうやら、おれの早とちりだったみてぇだな。てめぇ今、自分がどんな顔してるかわかるか? おれはその目、よぉ〜く知ってるぜ? そいつは、人を人とも思っちゃいねぇ目だ。そんな目をする人間を、おれはよく知ってる。いや、正しくは、知ってた、か……シャシャ、今のてめぇの目な? まるで、ベシュガ――」
男の首筋から、鮮血が噴き出す。
大量に。
その首は、半ばまで切り裂かれている。
ごりっ、という骨の感触が刃越しに伝わった。
そして俺は、そのまま刃を振りぬく。
「…………」
男の巨体が揺らぎ、横に倒れ伏した。
小刻みに痙攣している男の死体を見下ろす。
『大切なものを守ってみろよ、てめぇの手を穢すのと引き換えによ!?』
ぽつりと呟きが漏れる。
「守って、みせるさ」
発してから、それが自分の声であることに気づいた。
四凶災だったものへ無感動に視線を落としながら、しかし俺は、別の何かを見ているような気分になっていた。
「自分の手を穢す程度で大切な人たちを守れるなら、俺は迷わず手を穢す。そうすることで、大切な人たちが笑顔でいられるなら――」
異形と化した左手を見つめる。
――俺の手なんて、いくら穢れたってかまわない。
ふぅ、と息を吐き出す。
「……ま、穢れたなんて感覚も特にないんだけどな」
それの方が、むしろ問題なのかもしれないけど。
「…………」
なぜだろう。
その時ふと、以前ある男から投げかけられた言葉が頭の中に浮かんだ。
腹いっぱいまで血を吸った、煌めく桜色の刃。
その刃先からぽたりと、紅く鮮やかな血の雫が、地面に落ちた。
『テメェは正しく道を間違えれば、最高の邪悪になれる可能性がある』




