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聖樹の国の禁呪使い  作者: 篠崎芳
聖樹の国の禁呪使い 第一部
119/284

幕間21「宝石の煌めき」【セシリー・アークライト】


 マッソはすぐにセシリーの意図を理解したらしい。


「て、てめぇ――」

「ここでわたしが死ねばあなたは『目的』を果たすことができない……どうです? 図星ではありませんか?」


 マッソの手落ちは、できるなら無傷で手に入れたいと口走ってしまったことだ。

 殺したい、であればこの手は通用しまい。

 が、彼はセシリー・アークライトという『美術品』を手に入れたがっている。

 彼の目つきと今までの言動から、それは容易に推察できた。

 ならば『美術品』としての価値を失うような事態は、避けたいはず。


「それとも……死なずとも、この顔をずたずたに斬り裂くだけで、あなたにとっては価値がなくなるのかもしれませんね?」

「で、できねぇさ……んなこと……できるわけがねぇ。女が自分の顔を……自分で、なんざ」


 マッソがきつく唇を噛む。

 何かを思い出しているようだ。

 彼の表情には、迷いが生じはじめていた。


「いや……絶対にないとは言い切れねぇ、か……くそがっ……!」


 苦悩げに額をおさえながらマッソが尋ねる。


「で、どうしようってんだ? もしてめぇがそれをすれば、価値がなくなったてめぇも結局ジジイもろとも、おれに殺されるわけだが?」

「けれど、あなたも目的を果たせなくなる。様子を見ていればわかります……あなたはどうしても、美術品として価値あるわたしが欲しいのでしょう?」


 マッソが歯ぎしりする。


「見逃すつもりは、ねぇぞ?」


 ここだ、とセシリーはすかさず話を継いだ。


「そこでなのですが」

「あ?」

「取引と、いきませんか?」

「何?」

「祖父の命を保証するならば、わたしは自傷行為をしないと約束しましょう」


 眉を顰めるマッソ。


「……それで、どうなる?」

「人質という枷の外れたわたしが、あなたと一対一で戦う……正々堂々と。ただ、それだけです」


 マッソは顎に手をやると、口をへの字に曲げた。


「なるほど、な。ああ、そうか……人質がいなけりゃ、おれに勝てると思ってるわけか? そうか、そうか」


 体中に走る切り傷の一つにマッソが、手を添えた。


「確かにセシリーお嬢サマはこのおれ相手に、随分と健闘したもんなぁ」


 マッソの口元に不敵な笑みが戻る。


「いいぜ? その取引、のってやろうじゃねぇか。つまりてめぇは人質なしで、おれと『正々堂々』勝負をしてぇわけだろ?」

「交渉成立、ですか?」

「ああ、成立だ」


 すると、マッソがガイデンの状態を検めはじめた。

 気絶の度合いを確かめているようだ。


「それに一つ……いいことを思いついた。せっかくだ。愛しの孫がぐちゃぐちゃに穢されるところを、ジジイに見せつけてやる」


 検分を終えたマッソが、これならしばらくは起きねぇだろ、と呟く。


「シャシャ、ようやくおれにも少しわかってきたかもしれねぇな。ゼメキスの言う、甘美なる絶望ってやつがよ。ああ、このジジイは大事な宝物がずたずたに穢されていくサマを見て、どんな顔をするんだろうなぁ? そしてその時セシリー・アークライトは一体、どんな顔をしてる? シャシャシャシャ! ただ、己の欲望を満たすだけじゃあ決して得られねぇ愉悦……それが、他者の気持ちを想像することで得られる、愉悦か。と、なれば――」


 ガイデンの身体を地面にそっと横たえるマッソ。


「ここでジジイに死んでもらっちゃあ、おれとしても困るわな?」

「…………」


 負け惜しみ、ではなさそうだ。

 マッソの中にもガイデンを殺さぬ理由が生まれたらしい。

 とにもかくにも……一時的にではあれ、ガイデンの命を拾えたことは幸運だった。

 あとは――


 セシリーは細く息を吐くと、足を揃え、剣を構え直す。


 ――わたし次第、か。


 正直なところ。

 人質なしの一対一という条件で戦ったとしても勝算は薄いだろう。

 二人の間にはそれほどの力の差がある。

 とはいえ、ここで逃げることも不可能。

 マッソの跳躍力と走力から逃れられるとは思えないし、それだとガイデンをここへ置いていくことになってしまう。

 といって、すぐに降参してあの男の好きにさせるつもりもなかった。

 それに、とセシリーは碧色のフライアスの放つ燐光に目をくれる。


 この聖剣は、自分についてきてくれている。


 剣の稽古の際キュリエが口にした言葉を、セシリーは思い出す。


          *


「新しい聖剣、ですか?」


 ある日の放課後。

 セシリーは第一修練場で、キュリエから剣の稽古を受けていた。

 その休憩中、キュリエがふと聖剣の話を持ち出したのである。


「というより……おまえに合った聖剣、といった方がいいかな」

「わたしに合った聖剣、ですか?」

「聖遺跡での小型種との戦いを見てても思ったんだが、おまえが、こう動きたい、と思った時に、剣がおまえの頭の中にある動きについてきていない……そんな感じがしたんだよ」


 ぎこちなく口を曲げて、キュリエが頬をかく。


「すまん、上手く表現できなくて」

「いえ――」


 手元の聖剣に視線を落とす。

 聖剣は切れ味だけではなく、速度を増幅する機能を持つものもある。

 聖剣使いは、この速度の上昇を見越して戦闘の動きを想定することも多い。

 汚れた掌を布で拭きながら、キュリエが言った。


「もっと優れた力を持った聖剣があれば、おまえはもっと先へ行けると思うぞ」

「……ありがとうございます」

「表情が優れないな。どうした?」


 セシリーは睫毛を伏せ、微笑した。


「遠いな、と思って」

「遠い?」

「キュリエに稽古をつけてもらったおかげで、わたしは以前より確実に強くなったと思います。そのことは感謝しています。だけど、強くなればなるほど……キュリエとクロヒコが遠い存在なんだなって、痛感するんです」

「なるほど、な」


 言いたかったことをキュリエは察してくれたらしい。

 地面を二度、キュリエがつま先でつついた。


「けど……どうかな」

「どうかな、とは?」

「今はそう感じるかもしれない。でも、おまえはもっともっと強くなると思うよ。将来的には……あるいは、私よりも」


 意外な言葉にセシリーは、くすりと笑みを零す。


「ええ? キュリエよりもですか? さすがにそれは、お世辞ですよね?」

「いや、世辞じゃないよ。クロヒコから『あの日』のことを少し聞いたんだが……その時ヒビガミが『環境さえあれば化ける』みたいなこと言っていたというのが、少し気になってな。あのヒビガミが攫ってまで終末郷に放り込もうとしたってことは、あいつはそれだけおまえを買ってたってことだ」


 セシリーは、かっ、と踵を地面に弾く。


「そう、なんでしょうか」

「ヒビガミがおまえへの興味を急激に失ったのは、直後にクロヒコが出てきたからだろうしな。仕方ないさ。クロヒコは……あいつは、素質という意味では誰も比較対象にはならない。あんな勢いで駆け上がっていくやつなんて、私も初めてだ」


 苦笑するキュリエ。

 どことなく嬉しそうでもあった。

 セシリーは、青みを増してきた空を仰ぎ見た。


「強く、なれるでしょうか」


 ――あなたやクロヒコと、肩を並べられるほどに。


「素質はあるよ。それは私が保証する。だから――」


 キュリエは剣の柄を布で拭きながら、星の瞬き出した空を見上げる。

 そして口元を微かに緩めると、セシリーの聖剣を手元の剣の先で軽く小突いた。


「あとは、おまえ次第だ」 


          *


 ――わたし、次第。


 もうマッソとの戦いは始まっていた。

 セシリーも攻撃を当てること自体には、成功している。

 ただし、傍目から見れば決して優勢とは映らぬであろう。


「シャシャシャ! よくもまあ頑張るもんだ! 可愛いもんだぜ! そうやって死にもの狂いで戦ってる姿はそそるもんがあるぜ、セシリー様よぉ!?」


 フライアスによる切り傷は、問題なしといった様子。

 赤子の手を捻るくらいの感覚なのだろう。

 マッソの顔から見下した笑みが消えることはない。


「ん〜? 切られても痛がらねぇのが不思議だって顔してんな? シャシャ! おれは四兄弟の中じゃ特に痛みにゃ鈍感でよ!? そもそもここしばらくは雑魚ばっか相手にしてきたから、痛みらしい痛みを感じたことがなくてなぁ! 悪いな、強くてよ!」


 さらに勢いづくマッソの攻撃を、すんでのところでかいくぐる。

 捕獲せんと繰り出される手。

 その大きな手からぎりぎりで逃れるたび、全身が総毛立った。

 一度でも捕まればそれまで。

 この神がかり的な回避は、研ぎ澄まされた集中力に支えられている。


 ――集中力が切れたら、終わりだ。


 攻防を繰り返す中、力量差はその輪郭を鮮明にしていく。

 余力を十分に残すマッソ。

 一瞬でも判断を違えば致命的状況に陥るセシリー。

 誰が見ても実力的にマッソの方が上であろうことは、明白。

 一方のセシリーは、攻撃を避けるたびに神経が削られていく。

 それでも――セシリーは集中力を一瞬たりとも切らさず、持続させる。


 明らかに力の差がありながらここまでねばれているのは、条件が特殊というのも大きい。

 相手は、あの四凶災の一角。

 まず普通にやり合って勝てる相手ではあるまい。

 だが今のセシリーは有利に戦える条件下にある。

 マッソはセシリー・アークライトを傷つけずに手に入れたがっている。

 ゆえに、致命傷を与えるなど論外。

 つまり致命傷を与える攻撃は来ない。

 マッソは、本気になれない。

 そこにこそ、つけ入る隙があるはず――。


 ぎりぎりの攻防は続いた。


 そして、どれほどの時間が経過したであろうか。

 戦いは、ある種の膠着状態に陥っていた。


「い、いい加減におとなしく掴まりやがれ! てめぇが捕まるのも、どうせ時間の問題だろうが! あぁ!?」


 セシリーに返答する余裕はない。

 すれすれで迫りくる手から距離を取るのが、精一杯。

 そして距離を取る瞬間、斬撃の置き土産。

 僅かにではあるが、マッソの皮膚をフライアスの刃が削り取っていく。


「ちっ、ここまでやれるたぁ少しばかり予想外だったぜ……っ」


 ようやくマッソの顔にも苛立ちが見え隠れしはじめた。

 露骨な空振りこそないものの、今までセシリーには一度も触れることができていない。

 最初の頃は茶化す雰囲気だったが、時間が経つにつれマッソの表情は面倒事を前にしたものへと変化していった。

 ここまで回避が上手くいっているのはガイデンのおかげもあろう。

 彼のおかげで、マッソの攻撃動作に目を慣らすことができた。

 だが、それだけではない。


『おまえのその流れるような動きだが……磨けば、攻避一体の型として使えるかもしれないな』


 キュリエの言葉を思い出しながら、地を小刻みに蹴って移動し、身体を流麗にひねる。

 舞踏にも似た動きで、マッソの腕を翻弄する。

 その中で何度か、斬撃を繰り出す。


『どこまで役に立てるかわからんが、わたしも手伝うよ』


 この剣の型をより実戦的な型へと昇華できたのは、何にもましてキュリエの協力が大きい。

 彼女が、共にこの型を作り上げてくれた。

 今やセシリーにとってキュリエ・ヴェルステインは、よき友であると同時に、よき師でもあった。


 ――ありがとう、キュリエ。


 内心、キュリエに感謝を述べる。

 そして、剣撃を幾度も走らせながら、いつか、とセシリーは思う。

 いつか、キュリエやクロヒコと肩を並べられる存在になりたい。

 こんな時、セシリーなら大丈夫だ、と言ってもらえるような存在になりたい。

 守られるだけのお姫様にだけは、なりたくない。

 だから、


 ――ここでこの男を、倒す。


 その時だった。

 がくんっ、とセシリーの膝が折れた。

 常に動作を続けていたその動きがついに、止まった。

 その隙をマッソは見逃さない。

 好機と見て、すかさず腕を伸ばしてくる。


「シャシャシャ! ついに脚に限界が来やがったか!?」


 セシリーの細腕を掴みにかかるマッソ。

 瞬間、ぐっ、とセシリーは膝に力を入れ、持ち直す。

 足が馬鹿になりかけていたのは、演技ではなかった。

 が、演技でなかったことが、マッソの不用意な動作を招いた。

 思いもかけない、好機。

 対象を捕え損なった腕をかいくぐり、懐に入り込む。

 空を切るマッソの腕。

 飛び込むと同時。

 セシリーは、飛び退りながら斬撃を放つ。


 攻避一体。


 そして、


 ――ここだ。


 フライアスをもってしても、マッソの皮膚を深く斬り裂くことはできない。

 ゆえに、マッソもさして斬撃を受けることを気にしていないようだった。

 また、痛みにも鈍感な体質であるとも先ほど口にしていた。

 あえて斬撃を回避しないのは、その上体が幅広で、回避に向いていないのもあるかもしれない。

 ともかく、マッソの異様な皮膚の硬さを突破するのは困難。

 が、


 もし、同じ傷口を何度も正確になぞるほどの精密な攻撃ができるとすれば、どうだろう。


 一見、無我夢中でがむしゃらにつけられたように映る、いくつもの傷。

 しかしそれらの傷は、何度も同じ傷口がなぞられていた。

 すべて、である。

 すべての傷口は『ほぼ同じ回数』、なぞられたものだった。

 傷の深さに関しても、差はないに等しい。


 一撃でどのくらいの傷口を削れるか。

 セシリーはそれを感覚的に掴んでいた。

 力加減もほぼ完璧に、一定を維持。


 どの傷も、あと一撃加えれば深く達する直前まで来ている――。


 傷と呼べる『傷』に達する、その手前。

 目測では、そのはずである。

 セシリーはこの瞬間に賭けていた。

 一撃で深手を負わせるのは厳しい。

 しかし、時間をかけて削り取られたことで薄くなった壁であるならば――力を振り絞った次の一撃で、破壊することができるのではないか。

 深い傷を与えられる機会があるとすれば、マッソが自分を甘くみている、今しかない。


「シャシャ! てめぇの攻撃はこのおれには効かねぇと、あれほど――」


 セシリーはすべての力を振り絞ると、剣舞とも呼べる連撃を、放った。

 煌めく何本もの剣閃が、マッソの傷口へ一斉に襲いかかる。

 そして、


「……あぁ?」


 四凶災の血が、宙を舞った。


「な、に? 普通に、い、痛ぇ……?」


 マッソが首筋に手をやった。


「痛ぇ……だ? この、おれが……? ベシュガムでもゼメキスでもねぇやつの攻撃で……普通に痛ぇ、だとぉ……?」


 表情を歪めるマッソ。

 首をおさえる手の隙間から、血が伝ってくる。


 一番の狙いは、頸動脈だった。

 ちなみに二番目は、手首の腱。

 足の腱や脊椎と違い、正面からでも十分に狙える場所だ。


「てめぇ……せ、セシリー、アーク、ライト――っ!」


 マッソの血走った目が、かっ、と見開かれた。


「人が手加減してやってりゃあ……つ、つつ、つけあがりやがって! この、アマぁっ!」


 平手打ち、だったと思う。

 だったと思う、というのは、すでに視界に映る景色が流れていたからだ。

 悲鳴を上げたかどうかも、わからない。

 どうやら一瞬の間で距離を詰められ、平手打ちをくらったらしい。

 速度が、まるで違った。

 今までとは、明らかに。


 痺れにも似た痛みが、熱と一緒に頬に広がっていく。

 口の中も少し切ったようだ。

 鉄の味が広がる。

 どうやら、本気にさせてしまったらしい。

 四凶災を。


「し、しまった! やっちまった!」


 我に返った様子でマッソが、頭を抱えて駆け寄ってくる。


「あちゃ〜、しかも顔かよ! ちっ、何やってんだおれは!」


 どうにか身体を起こそうとしたが、受けた攻撃の影響か膝が笑って立ち上がってくれない。

 取り返しのつかないことをしてしまった顔で近寄って来たマッソが、必死に立ち上がろうとして失敗しているセシリーの様子を目にした。

 と、マッソは真顔で目を細めると、顎に手をやった。


「まあ……あれか。結果的に捕まえることには成功したんだから、よしとするべきか。けど、あ〜あ〜、頬が腫れちまってんじゃねぇか……って、口の中も切ったのか? くっそ、これだと血がついちまうかもなぁ。はぁ、世の中ってのは意外と上手くいかねぇもんだぜぇ……」


 嘆くマッソ。

 セシリーは手放さなかったフライアスを逆手に持ち、マッソを突こうとする。

 が、易々と両手の手首を捻られ、剣を取り零してしまう。


「くっ……」

「ほらほら、もう決着はついてんだからよ。速度を殺されたら、てめぇじゃそんなもんだろ。もう諦めな?」


 マッソは屈み込むと、くいっ、とセシリーの細い顎を掴んで上へ向けさせた。


「しかしまあ、頬が腫れてようが、口から血を流してようが……改めて、惚れ惚れする。ああ、待ちわびたぜ……この瞬間を。たまんねぇ」


 感極まった様子のマッソを、セシリーは睨みつける。

 

「そういや、ついつい本気を出しちまって悪かったなぁ、セシリーお嬢サマ?」


 それは、あからさまな嘲りの響き。


「シャシャ、勝てると思ってせっかく必死にがんばったのになぁ? ごめんなぁセシリーお嬢ちゃん? おれが、強すぎて」


 セシリーは、ぺっ、とマッソの顔面に血を吐きかけた。

 マッソが小馬鹿にするように両肩を上げる。


「なんとまあ、はしたないことで」


 口元に付着した血液をぺろりと舐め上げると、マッソが三日月状に口端を吊り上げた。


「シャシャ……なんだか久々にコッチ方面で胸が高まってきちまった、ぜ!」


 マッソがセシリーの左肩から手首までの服を、引きちぎった。


「……っ!」


 セシリーは引き裂かれた服の切れ端を一瞥し、唇を噛む。

 それでもすぐ、マッソを睨めつける。


「シャシャシャシャ! 信じられねぇほど綺麗な肌してやがる! こんな嘘みてぇな女をこれから好きにできるんだからよ! まったく、長生きはしてみるもんだぜ!」


 次にマッソは右脚の黒のタイツを引っ張り、破り捨てた。

 セシリーの反応を、楽しんでいる風だ。

 が、


「……何を、笑ってやがる?」

「いえ、ね」


 俯きがちに地面へ視線を落としながら、セシリーは言った。


「どうせあなたは舌を噛んで死のうとしても……させませんよね?」

「ほぅ、よくわかってるじゃねぇか?」


 見ていてわかった。

 というより、マッソが一番警戒しているのはそれだった。

 素振りをみせれば迷わず口に詰め物か何かされてしまうだろう。

 となると、喋ることすらもできなくなる。


「ならば諦めて従順になったふりでもして、隙を狙い殺そうかとも思ったんですが……それもまあ、やめました」


 理由は……ふと、彼の顔がちらついたせいだろうか。

 マッソを女として誘い込む行動に移ることが、どうしてもできなかった。

 何かとても大事なものを失ってしまうような……そんな思いに、駆られたのだ。


「…………」


 この状態では、両手を自由に動かすことは難しいだろう。

 ゆえに術式を描くのもも厳しい。

 武器もない。

 フライアスは離れた位置に落ちている。

 何より、もしなんらかの行動に出ようとしても、マッソの方が速いのは明らか。

 そして……自害もできない。


 ――打つ手なし、ですね。


 だけど、とセシリーは呟いた。


「それでも――」

「ん?」

「わたしは、負けない。おまえみたいな下種の思い通りには、ならない。おまえはこの身体を穢せたとしても――」


 真っ直ぐにマッソを見据える。

 そして毅然とした表情を作り、セシリーは不敵に笑ってみせた。



「わたしの心までは、穢せない」



 マッソは呆気にとられたような顔をしたかと思うと、一転、のけ反って大笑いした。


「シャシャシャシャシャ! てめぇは本当に最高の女だな、セシリー・アークライト!」

「……?」


 悔しがるかとも思ったが、予想もしていなかった反応が返ってきてセシリーは少し動揺した。

 今の発言でマッソが逆上でもして、また殴るなり平手打ちなりしてくれれば、フライアスを取りにいけるかとも思ったのだが……。


「これはわかる! ゼメキスが正しい! その精神はベキベキに折ってみたくなるな! ああ、こんだけでかい口を叩いてる女だからこそ、完膚なきまでに凹ましてみたくなるってもんだよなぁ!? わかるぜ、ゼメキス! おれにもようやく、てめぇの言う演出の大事さってもんがわかってきた! これだ! これがおれには足りなかったんだ!」


 それから、先ほど破った服の切れ端でマッソがセシリーの両の手首を拘束した。

 マッソはその大きな上半身でセシリーを覆うようにして立つと、鼻歌混じりに、セシリーの服の袖だった布で身体の血を拭きはじめる。

 ただしその間も、ぎらつく瞳はセシリーをしっかり捉えて離さない。


「一ついいことを教えてやるぜ、セシリー」

「…………」

「人間ってのはよ、どうあがいても過剰な苦痛と快楽には勝てねぇようにできてんのさ。どんなに意志が強いやつでも、終わりのない苦痛と快楽の波には絶対に耐えることができない。ゼメキスの横でおれはいつもそんな連中を見てきた……てめぇも必ず、堕ちる。断言するぜ」


 セシリーは視線を逸らし、返答もしなかった。

 マッソは出血していた傷口の血を拭き取ると、赤く染まった布切れを放り捨てた。

 見ると、もう傷の血は止まっている。


「さぁて……セシリーお嬢サマには、もう少しばかりその綺麗な肌を晒していただくとするかね?」


 にやつきながら、マッソが手を伸ばしてくる。

 セシリーは、身体から力を抜いた。


「…………」


 生き残ることは、できるのだろうか。

 また彼らと――彼と、再会できるだろうか。


 もし生き残ることが、できたとして。

 自分の身に起こったことを伝えたら彼は、どんな反応をするだろう。

 こんなことで嫌ったりするような人ではないと思う。

 むしろ、彼ならば過剰なほど気遣ってくれるのだろう。

 自分以上に心を痛めてくれるのだろう。

 必死に慰めの言葉を、かけ続けてくれるのだろう。

 そんな気が、する。

 だから――きっと、何も心配することはない。

 それでも、


 ――それでも。


「ごめん」


 セシリーはうつ伏せになったまま、ぽつりとつぶやいた。


「……ごめんね、クロヒコ」


 なぜ、謝罪の言葉が口を突いて出たのか。

 それは自分にもわからなかった。


「あぁ?」


 マッソが愉快がるような表情を浮かべて、セシリーの顔をまじまじと観察してきた。


「ひょっとして……泣いてんのかぁ? シャシャシャシャ! なんだなんだぁ!? あんだけ息巻いといてそれかよ!? けどまあ安心しな! これからてめぇは、このおれが別の意味で、たっぷり泣かせて――」




「その汚ねぇ手で、誰に触ろうとしてんだてめぇは」




 その突如として耳に入ってきた声にセシリーは思わず、面を上げた。


 ――え?


 黒い、何かが――

 そう、

 横合いから、黒い何かが物凄い速度で、飛んできて――



 マッソを一撃で、吹き飛ばした。



 吹き飛ばされた衝撃でマッソは、地面をゴロゴロと転がり、そのまま仰向けに倒れた。

 黒い何かは一瞬とも思える速度で、マッソに接近。

 その倒れた巨体の前に、立った。

 マッソが地面に手を突き、身体を起こそうとする。


「な、んだ? 何、が――」


 およそ人を殴る音とは思えぬ音が、響いた。

 次の瞬間、マッソの巨躯が石畳を砕き掘り、地面にめり込んだ。

 周囲の石畳に、ビキッ、と亀裂が走る。


「がっ、はっ……!? んだ、とぉ……!? なんだ、この、力……っ!? この、威力は――かはっ!」


 マッソが宙に向かって、吐血。

 同時に、その顔面に再び黒き拳が振り下ろされた。

 爆裂術式でも炸裂したかのような音が、響き渡る。


 石畳の破片が、それこそ爆発でもしたかのごとく、弾け飛ぶ。


 その頭部が見えなくなるほど、マッソは地面に陥没していた。

 四凶災を静かに見下ろす男。

 腕と頭に巻かれた包帯の端が、風に靡いていた。


 巻かれている包帯には血が滲んでいる。

 身体にも真新しい傷が窺えた。

 それは、まるで死闘を繰り広げてきた後のような……。


 黒い翼。

 異形の左腕。

 およそ『普通』の人間の姿とは言えまい。

 

 けれど、声でわかった。

 いや。

 わからない、わけがない。


「と、いうか」


 ――ここで、来るって。


 目頭に熱いものが滲んでくる。


 ――なんですか、それ。


 目元から零れたものが石畳にぽたぽたと落ちる。


 ――なんでここであなたは、来てくれちゃうんですか。


 守られるばかりのお姫様は嫌だと……そう思った、ばかりなのに。

 でも、

 だけど、

 そんな風に助けに、来られたら――


 ――嬉しくなっちゃうじゃ、ないですか。


 胸に溢れてくるもののせいで、自分の感情を上手く制御できない。


 ――今のは、


 震えて言うことをきかない唇をどうにか笑みの形に整えながら、セシリーは、掠れた声を喉の奥から絞り出した。


「今のは、ずるいだろ……ばかっ」


 さらに滲む視界の先に映る、彼の姿。


「……クロヒコ!」


 セシリーの呼び掛けに、彼がゆっくりと振り向く。

 左目に包帯を巻いたその顔に、彼はちょっと申し訳なさそうな、でも、どうにかセシリーを安心させようとしているかのような、そんな笑みを浮かべた。


「遅れてすみません、セシリーさん」

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