第93話「LIMIT」
ベシュガムが笑みを見せたのは今日、初めてのことだった。
「追いすがられる……このオレの強さに急激な速度で迫ってくる他者、か」
ベシュガムの表情から笑みが消える。
彼は俯くと、被っていた筒帽を掴んだ。
「誰かが己の強さに迫ってくるという感覚は、予想に反し、つまらんものだな。案外オレに並び立つ強さを持つ者が現れたとしたら、心が浮き立つものかと勝手に思っていたが――」
ベシュガムは筒帽を脱ぐと、地面に放った。
「存外、つまらんものだった」
風が森の木々を揺らした。
筒帽が風で転がっていく。
「自分以外の他者が急激に成長し迫ってくるというのは、ただただ目障りなだけ……ふん、どうやらオレは真の意味での『敵』を求めてはいなかったらしい」
ベシュガムの黒髪が風に靡く。
「そんな自分を発見したことが少々、意外だった。それがおかしくて、つい笑みが零れてしまった。気づいたよ。オレはオレが心から好きなのだとな。そうか。オレはオレだけが絶対的強者でありさえすれば、それでよかったわけか。宿敵など、求めてはいなかった」
ベシュガムが、短く笑んだ。
「まったくもって、なんという小物。これではマッソを笑えんな。人として完成し、絶対的強者としてこの世界に君臨するのは自分だけでいい……このオレも、見ようによっては低俗なのかもしれん。が――」
ベシュガムが再び笑みを消し、一歩、前に出た。
「オレは自らに、信仰心を持っていてな? オレにとって『ベシュガム・アングレン』とは、神的概念に迫った存在ともいえる。つまりオレは、人でありながら神に等しき存在なのだ。崇高なわけだ、オレは。ゆえに――」
まるで宣告するように、ベシュガムが、
「おこがましいぞ、禁呪の男」
クロヒコに指先を突きつけた。
「このオレに、迫ろうなどと」
彼の言っていることを要約すると、おそらくこういうことであろう。
自分の強さに迫る者など必要ない。
ただ自分だけが最強であればいい。
ベシュガム・アングレン。
彼の発想は、あのヒビガミとは対照的な位置にあるように思える。
ベシュガムは己以外の強者を求めていない。
一方あのヒビガミという男には、どこかで己を負かす強者を求めているような印象があった。
いうなれば、人を高みへと誘うような戦い方をしていた、とでも表現すべきか。
急激に成長していくクロヒコを見て、目障りと感じた男。
急速に成長していくクロヒコを見て、歓喜に染まった男。
サガラ・クロヒコが元いた世界の考え方に照らし合わせるならば、それは、競争原理を求める者と忌む者の違いに似ているかもしれない。
どちらが正しくどちらが邪かは、当然、見る者によって変わるであろうが、
――どちらも実ニ、人間的。
一見すると人間離れした二人ではあるが、そのどちらが抱く感情も、人間が抱く感情としては決して珍しいものではあるまい。
意識の片隅で『彼』は、そんな風に思った。
「何か、違和感がある……そうだな?」
ベシュガムがまた一歩、クロヒコに迫る。
そう。
クロヒコが先ほどから手足を地面に着いたまま動かずベシュガムが喋るに任せていたのには、理由があった。
体内で蠢く違和感。
それはベシュガムと戦う中で徐々に膨れ上がっていった感覚。
嘔吐感にも似た、感覚。
口の端から垂れた唾液をてらてらと光らせながら、クロヒコが唸る。
「グッ……ゥゥ……グゥゥ……ッ」
刹那――ベシュガムが、襲いかかった。
顔めがけ、鋭い蹴りが連続で飛んでくる。
クロヒコは回避するも、小規模な竜巻めいたベシュガムの拳の連打が休む間を与えない。
このまま防戦に徹していても、押し負ける。
「……グガァッ!」
身体に力をみなぎらせ反撃へ転じるクロヒコ。
そして再び始まる苛烈な殴打の応酬。
巨大なハンマーのごとき拳打の連撃が上からクロヒコを襲う。
クロヒコの身体は沈んでいき、その足が次第に地面へめり込んでいく。
「グッ……ギッ……ガッ……!」
ベシュガムが自分語りを始める前に行われた殴り合い。
見る者によっては互角に映ったかもしれない。
だが実際は全体的にクロヒコの方が押し負けていた。
クロヒコの負ったダメージに対しベシュガムの負ったダメージは、あまりに少なく見えた。
そもそもあの筒帽が戦闘中に脱げなかったこと自体、ベシュガムの余裕を表しているのではあるまいか。
彼の動きが彼にとってそう激しいものではなかったことを、物語っているのではないか。
背で受けた第三禁呪のことにしてもそうだ。
あの時ベシュガムは『魔喰らい』を折ろうとしていた。
彼は『魔喰らい』の力によって皮膚を硬くする術式刻印が使えなかった。
しかし、その背で第三禁呪を受け切った。
関係ないのだ。
おそらくベシュガム・アングレンにとって術式刻印なぞ、ほんの遊び道具にしか過ぎないのだ。
彼は己を、絶対的強者であると口にした。
その言葉は、決して偽りではない。
この男は絶対的強者。
それは揺るがぬ事実。
だが、それだけではない。
上がっている。
クロヒコは感じていた。
先ほどよりもベシュガムの攻撃力が、上がっていることに。
先刻から杭打ち機のように突き込まれている、前蹴り。
その威力が、速度が、明確な上昇を、見せていた。
「オレも驚いている。ふむ……感情だな、これは。憎しみ、嫌悪、嫉妬心、嗜虐心……驚いた。低俗と思っていた感情を乗せることで、これほど攻撃に力が入るものだとはな。この点だけは弟たちを馬鹿にできんな。感謝するぞ、禁呪の男!」
ベシュガムの回し蹴りがクロヒコのこめかみをとらえる。
「ガッ……ッ!」
引き攣る痛みと共に、ミシィッ、と首が軋み音をあげた。
すると地面から足が抜ける。
そのまま側頭部から倒れ込み、クロヒコは土を噛む。
直後、
「グッ……グエェェ……!」
クロヒコは残っていた胃の中のものを、吐き出した。
「禁呪を使用した影響か……己の力に喰われたな、禁呪の男」
激しい嘔吐と同時に、意識の領土への侵蝕が引いていくのをクロヒコ――
*
――俺は、感じた。
喰われる。
喰う。
「……そう、カ」
すぐに理解する。
超えたのだ。
許容量を。
限界を。
俺の内に棲まう『獣』は、相手の『力』を喰らう。
吸収する。
だがベシュガムの力が大きすぎて、喰らいきれなかった。
例えば、それは食欲だけが肥大化する一方、すでに胃の方がパンパンで耐え切れなくなっているような状態といえるだろう。
つまり……俺の器みたいなものが、まだベシュガムを喰らい切る域に達していなかったということか。
ヒビガミの時は、あいつが俺の強さに合わせていたから大丈夫だったのだろう。
だがベシュガムは……全身全霊をもって、俺を潰しにかかっている。
身体の変化がゆっくりと元に戻っていくのを感じる。
ただ第八禁呪の第二界を解いていないので、まだ左腕は変化したまま。
「く、そ」
意識を『獣』に完全に乗っ取られなかったのはともかく、
「畜生への変化も、底をついたか」
ベシュガムが足を振り上げた。
どうする?
どうやってこの男に、勝つ?
「終わりだ、禁呪の男」
降り注ぐベシュガムの硬い靴底。
「我、禁――」
顔面をベシュガムの足が、踏み潰した。
顔の骨が悲鳴を上げる。
遅れて痛み。
鼻の骨が、折れたかもしれない。
「無駄だ。そしてもう遅い。貴様はオレに憎まれ、無残に死ぬ」
一方的な蹂躙が、はじまった。
俺は腕と足で身体を固める。
回避は不可能。
この状況では防御に回るしかない
だがどうする?
次は……次の手は、どうする?
その時だった。
「もう、やめて!」
マキナさんの声が、聞こえた。
「マキ……ナさ……」
ベシュガムの攻撃が少しだけ緩む。
だがその攻撃をベシュガムが止めることはない。
手抜かりのない男だ。
俺は隙を見て、ベシュガムの足底に何度か拳を叩きつける。
が、効いている様子はない。
ベシュガムやマキナさんの表情はわからない。
この状況では、声しか――
「もういい! もういいから! 私が……私が悪かったのよ! あなたたち四凶災は、私を殺しにやって来たんでしょう!? 私が四凶災を殺す計画を立てていたから……そして、その計画の仲間あるシャナトリスがルノウスレッドを訪問する情報をどこかで聞きつけたから、ルノウスレッドにやって来たんでしょう!? だったら私を、殺せばいい! もう四凶災を殺そうなどと、思わないから! ここで命を明け渡して、約束するから! だから……彼を、殺さないで……私は、どうなってもかまわないから……だから、許して。お願い…………この国を、許して」
その声は後悔に満ち、震えていた。
駄目だ、マキナさん。
こいつはそんなことで人を許すようなやつじゃない。
それにベシュガムは、マキナさんやシャナトリスさんも見ても知っていた風ではなかった。
すでに名前も耳にしているはずだが、何か思うところがある感じもない。
目的は、マキナさんたちではない。
間断なく突き下ろされるベシュガムの足。
くそっ。
しかし、どうにかこの状態から抜け出さないと――
「何を、言っている?」
「え?」
ベシュガムの反応に唖然とする、マキナさんの声。
「貴様、何をわけのわからんことを言っている? オレたちが貴様を殺しに来ただと? 貴様が何を言っているのかわからん。我々がルノウスレッドに来た理由は――」
理解不能といった具合に、ベシュガムが言った。
「セシリー・アークライトだが?」
次話94話「叫びと、」を、30分後くらいに投稿いたします。




