55話 二人の関係
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荀イクは走っていた。
五胡の話も途中で抜け出し、走っていた。
(日陰………)
息が切れるのも関わらず、足を止めずただがむしゃらに走る。
日陰。これは真名である。今は徐福と名乗っているがこれは偽名である。いや、これには語弊がある。正確には仮名である。
彼は自分の姓も名も故郷も何もかも忘れている。その為、真名以外覚えていないのだ。
彼には特別な才能があった。
それは瞬間記憶能力と他者への感受性の高さだ。
その為に幼い頃、村で擬似的な信仰対象として崇められていた。
そして両親により、村人全員の感性を覚えさせられていた。いや、村人だけではなく、旅人や行商者なども含まれていた。
そして彼は生き神となった。
だが、その生活は突如として崩壊することとなる。
五胡の襲来により…………。
五胡により村は崩壊した。彼の両親も例外なく殺された。
ただ、彼だけが例外であった。
彼だけが村で唯一の生き残り、いや、生かされた者だった。
そして彼がどういった経緯でそうなったかは定かではないが、とある地方の村で彼は一人暮らしていた。記憶がない形で………。
そこには彼に知識を覚えさそうとするものは居らず、彼は生きるのに最低限の知識だけを覚えた。
だが不思議なことに彼には人が殺せなかった。一度だけ賊に襲われた村を守るために戦いに参加したが、彼が人を殺すことは出来なかった。覚悟の問題ではない。
それはまるで呪いのようだと思った。だが、それは彼にとって特には重要ではなかった。
いや、彼にとって重要なことなど何一つない。
彼はただ生きている。
他者がそうしているように………。
他者を模倣するように………。
だが、そこで彼に転機が訪れた。
それは曹操の陣営への参加であった。
そして荀イクへの忠義を誓うことであった。
それは彼にとって初めてのことであった。
自分が他者に何故、ここまで惹かれたのか。
それは本当に一目惚れだったのかもしれない。
そして彼は荀イクの為に働いた。それは彼にとってとても有意義で、楽しいことだった。
最初は疎まれた。それは感受性の高い彼には直ぐに分かった。
だが、それでも彼は働き続けた。
そんな彼にいつしか荀イクも心許していた。
いや、そんな彼だからこそなのか………。
真名を許された日、彼はとても嬉しかった。表情には現れないにしても彼は喜んでいた。
そこで記憶を失った彼が初めて自分の感情に芽生えたのだ。
他人の模倣でなく、自分自身の感情。
そこからどこか心に余裕ができた彼。
絡繰などの小さな楽しみができたし、魏の人々を見て、感情を“育んで”いった。
覚えたのではなく、育んだ。
己自身の感情を…………。
彼は魏での生活を楽しんでいた。無感情だった彼が少し笑えるくらいに。
ある日、荀イクに欲しい物がないかと聞かれた時、彼は何もないと答えた。
それは紛れもない本音だ。
彼は今の生活に満足していた。
そして彼は感情が芽生えて間もなく、嗜好というものが特になかった。
全ての感情が他者の模倣であった彼の感性は平均となっていた。
だからこそ激辛だろうが、極上の味だろうが、彼には普通に思えてしまう。
あらゆる物事を集めて束ねれば、それは平均となるのだ。
例えば美女の顔を足していくと平凡な顔となるように………。
そんな時、彼は荀イクに頭を撫でられた。
それは唐突であり、彼にはよく分からなかった。
だが荀イクが手を離した際に声が漏れたのだった。
彼自身にもそれが何故か分からなかった。
いや、彼は知らなかったのだ。
それでもそれが心地好かったことだけはなんとなく理解できたのだった。
そして彼は一層荀イクの為に働くことを心の中で誓った。
彼女の願いは自分の願いであり、彼女の望みは自分の望みであり、彼女の喜びこそが自分の喜びであると…………。
それが不殺の王佐との関係である。
「日、陰………」
荀イクがその場に到着した時、日陰は血溜まりの中に倒れ伏していた。
「何をしているの、早く衛生兵を呼びなさい!」
周りでただ呆然と見ていた兵に荀イクは怒鳴りつけた。
「そ、それが………あ、荀イク様!?」
兵の一人が何かを言う前に荀イクが日陰へ近づいてしまう。
「日陰!?大丈――――」
―――ヒュン。
後、一歩近づいていたら荀イクの首には卒塔婆が通っていただろう。
そう。日陰の殺戮は未だに続いているのだ。
日陰は動き続ける。その身が果てるまで………。
「日陰、アンタ…………」
日陰の目には何も映ってはいなかった。
いつもの奈落のような暗黒でも生きてる光があった。だが今はその光はなく、まるで虚構のような黒が日陰の瞳を支配していた。
「…………」
グッと手を握り締める荀イク。
それは何かを決意するかのように………。
そして一歩踏み出す。日陰の射程範囲へ……。
日陰はそれに緩慢な動作で卒塔婆を構える。
そして――――。
「日陰ッ!!」
荀イクは目を瞑り、日陰の名を力一杯に叫ぶ。
―――ヒュン。
耳元で風を切る音が聞こえた。
………だが、それだけだった。その後の衝撃は来なかった。
荀イクはゆっくりと目を開けると自分の首もとに寸止めされた卒塔婆が見えた。
それは力が果てたからか?それとも荀イクへの忠義のためか?
「―――桂、花様」
「日陰ッ!?」
ポトリと卒塔婆を落とし、前に倒れる日陰を荀イクが支える。
「……すみま…せん。……僕は――」
「喋らないで。今、衛生兵を呼ぶわ」
「……いえ……これは……返り、血です……から……」
日陰に外傷はなかった。ただ内部が駄目だった。
日陰は人を殺すことを知らない。だから人を殺す際に余計な力が入り自分の体を痛めつけてしまう。
それに卒塔婆武麗奴の時のように振るえば振るほどに日陰の体はボロボロになっていくのだ。
「……僕は……桂花様に………刃を……」
「いいのよ。そんなこと」
荀イクは日陰を抱き締めながら言う。
「いいのよ。アンタはよくやってくれたわ。一回の失敗くらいなによ。私はそんな心の狭い女じゃないわよ。日陰、今は休みなさい。これは命令よ」
と荀イクは日陰の頭を撫でた。
「………はい。承りました」
そうして日陰の意識は落ちていった。心が安らかなうちに………。




