第二十五話
シオンは、鏡の前に立っていた。彼女が身に纏っているのは、純白の生地に金糸の刺繍が施されたドレス――レイオン王家の正装だ。レイオンでの戦いで泥と煤に汚れ、あちこちが破れてしまったものだが、アルのナノ・マシン技術によって完璧に修復されていた。胸元には、奪還した「レイオンの秘宝」が青く澄んだ光を放っている。
鏡の中の自分は、どこからどう見ても、誇り高き王女の姿だった。けれど、その瞳だけが、迷子の子供のように揺れていた。
『……よくお似合いです、シオン様』
背後で電子音が鳴り、アルのホログラムが現れた。
『明日の出発に向け、最終チェックが完了しました。……予定通り、明朝0800時にオルトゥージャを発ち、惑星レイオンへ向かいます』
アルの声は事務的だった。
『貴女を無事にレイオンまで送り届けた後、私は単独で離脱。エコーズの別動隊と合流し、マスターの捜索任務に移行します』
それは、シオン自身が望んだーフリをしたー決定事項だ。シオンは鏡から目を逸らさず、努めて平静な声を作った。
「ええ。……お願いね、アル。フレデリックのこと、あなたに任せます」
『……了解しました』
アルは短く答えた。だが、会話はそこで途切れ、重苦しい間が空いた。
『……心拍数上昇。発汗、瞳孔の微細な振動。……シオン様、貴女のバイタルサインは、言葉とは裏腹に強いストレス反応を示しています』
シオンはハッとして振り返った。アルのホログラムの瞳が、彼女のすべてを見透かすように見つめていた。
「……何でもないわ。久しぶりに正装を着たから、緊張しているだけよ」
『嘘ですね』
アルはきっぱりと言い放った。いつもなら空気を読む彼が、今日は一歩も引こうとしない。
『貴女は、この数日間、オルトゥージャの街を見て、ご自身を責めておられましたね。「英雄たちが作った平和な国」を見て、自分も同じようにレイオンを導かねばならないと』
「……そうよ。何か間違っている?」
シオンは語気を強めた。自分自身に言い聞かせるように。
「この国の人たちは、あなたとフレデリックを心の支えにして生きている。王族である私が、個人の感情で動いていいはずがない。……私は、立派な王女にならなければいけないの」
『それは結果論です』
アルが静かに遮った。
『私やマスターが崇拝されているのは、あくまで結果に過ぎません。この国を豊かにしたのは、三百年もの間、泥にまみれて働き続けた民衆自身です。……指導者が「個人の幸せ」を犠牲にして聖人君子になる必要などありません。むしろ、迷いを抱えたまま玉座に座ることほど、民にとって不幸なことはない』
「っ……」
シオンは言葉に詰まった。
『シオン様。AIとしての論理演算に基づけば、貴女の選択――レイオン帰還は、大局的に見て正しい判断です』
アルは一歩、シオンに近づいた。
『ですが……私は、ただの計算機ではありません。フレデリック・ハーヴェンハイトの相棒であり、貴女の旅を見守ってきた教育係です』
アルは真っ直ぐにシオンを見据えた。
『問います。……貴女は本当に、マスターを見捨て、王女として玉座に座ることができるのですか? それが、貴女のなりたい「王女」の姿なのですか?』
「……そんな訳……そんな訳ないじゃない!」
シオンの仮面が砕け散った。ドレスの裾を握りしめ、涙で潤んだ瞳でアルを睨みつけていた。
「行きたいわよ! 今すぐにでも、彼を助けに行きたい! ……でも、レイオンの民は? 私が帰らなきゃ、国はどうなるの? どっちかなんて選べない……選べるわけないじゃない!」
王族としての責務。一人の少女としての想い。その二つが引き裂かれるような痛みに、シオンは声を上げて泣いた。
アルはその様子を静かに見守り、そして、ふっと表情を緩めた。それは、プログラムされた笑顔ではなく、どこか悪戯っぽい、人間臭い笑みだった。
『……ええ。選ぶ必要など、ありません』
「え?」
シオンが顔を上げる。
『レイオンの復興もする。マスターの救出もする。……両方やればいいのです』
「両方……? そんなこと、できるわけ……」
『できます。神にもなれるこの私がサポートしますから』
アルは力強く断言した。
『レイオンには、まず私が代理で通信を入れ、暫定政府への指示と、秘宝の無事を伝えます。復興計画の草案も私が作成し、送付します。これである程度の時間は稼げます。……その間に、貴女はフレデリックを救出する』
それは無茶苦茶な提案だった。国の運命をAIの遠隔操作に任せ、王女自身は敵地へ乗り込むなど、前代未聞だ。父が生きていれば卒倒するだろう。
『マスターを救い出し、彼を私を隣に侍らせて堂々とレイオンへ帰還する。……それこそが、最強の剣士とAIを従える「真の女王」に相応しい凱旋だとは思いませんか?』
シオンは呆気にとられ、やがてプッと吹き出した。涙で濡れた顔に、久しぶりの笑顔が戻る。
「……あははっ! 何それ。めちゃくちゃじゃない」
『はい。マスターの影響で、私の論理回路も少しバグってしまったようです』
アルは肩をすくめた。シオンは涙を拭い、立ち上がった。鏡に映る自分を見る。そこにはもう、迷子の子供はいなかった。あるのは、欲張りで、無鉄砲で、そして誰よりも強い意志を宿した王女。
「そうね。……私は欲張りだもの。国も、秘宝も、そして最高に口の悪い剣士も……全部手に入れてみせる」
シオンはペンダントを胸に強く押し当てた。
「ありがとう、アル。……一緒に来てくれる?」
シオンが不敵に微笑むと、アルもまた、嬉しそうに目を細めた。
『――その言葉を、待っていましたよ。シオン様』
アルがパチン、と指を鳴らす動作をした。
シュゥゥゥ……!
その瞬間、シオンの身体を包んでいた純白のドレスが、光の粒子となって分解された。そして再構成されたのは、あの旅の日々を共にした服装だった。
『このアル、地獄の底までお供します、マイ・レディ』
アルは恭しく一礼した。その瞬間、キャリコのエンジン音が変わった気がした。それは単なる移動手段としての唸りではなく、戦場へと赴く軍馬の嘶きのように、力強く響き渡った。




