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XROSSPHERE~クロスフィア〜蒼の王女と不死身の剣士  作者: 東山小月
第二章:『美しく醜い世界』
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第九話

 ステーション『アラクネ』の居住区画は、すえた油と腐敗臭、そして安っぽい芳香剤の匂いが混ざり合った、吐き気を催すような大気で満たされていた。

 頭上を走るパイプからは汚水が滴り、極彩色のネオン看板が、路上に座り込む浮浪者たちの虚ろな瞳を照らしている。


「……ひどい匂い」


「口呼吸にしておけ。鼻が腐るぞ」


 フレデリックはコートの襟を立て、周囲を鋭く警戒しながら歩を進める。

 その隣を歩くシオンは、真新しいナノスーツに身を包みローブで姿を隠していたが、隠しきれない王女としての品位がこのスラム街では異質に映り、周囲からの粘着質な視線を集めていた。


「おい、見ろよあの姉ちゃん」


「上玉だ。売り飛ばせばイイ値がつくぜ」


 下卑た囁き声。シオンは身を縮こまらせながら、フレデリックの背中を追う。

 ガレッゾの情報を求めて酒場を回ったが、成果は芳しくない。「カルマンディがアラクネに来ているらしい」という噂以外、具体的な居場所は掴めていなかった。


「……おい、ガキ! 待てやコラァ!」


 不意に、路地裏から怒号が響いた。

 シオンが足を止めて覗き込むと、薄汚い服装の少年が、三人の屈強な男たちに取り囲まれているのが見えた。男たちは腕に刺青を入れた借金取りだ。


「盗み食いとはいい度胸だな。代金代わりに、その腕一本置いてけや!」


「や、やだ! 離せよ!」


 男の一人が少年を蹴り飛ばし、錆びたナイフをちらつかせている。

 明らかに過剰な暴力。

 だが、通りを行き交う人々は誰一人として足を止めない。関わり合いになれば自分も食われると知っているからだ。


「……酷い」


「見るな。よくある光景だ」


 踏み出そうとしたシオンの肩を、フレデリックが強く掴んで制止した。


「ここはレイオンじゃない。弱肉強食がルールだ。あのガキも、盗みを働いた報いを受けてるだけだ」


「でも、殺されてしまいます!」


「放っておけ。俺たちは目立つわけにはいかないんだ」


 フレデリックの声は冷徹だった。

 だが、シオンの視界の端で、男がナイフを振りかぶるのが見えた瞬間――。


「――っ!」


 シオンはフレデリックの手を振り払い、飛び出していた。

 理屈ではない。目の前で失われる命を見過ごすことなど、彼女の魂が許さなかった。


「やめなさい!!」


 凛とした声が路地裏に響く。

 男たちがぎょっとして振り返る。


「あぁ? なんだ嬢ちゃん、ヒーローごっこか?」


「そこを退きなさい。その子に手を出したら許しません!」


「ハッ! 笑わせるな!」


 男の一人が、ニヤニヤと笑いながら鉄パイプを振り回し、シオンに襲いかかった。

 シオンは一歩も退かなかった。

 怖い。それでも恐怖を押し殺し感覚を研ぎ澄ませていく。


(お願い、力を……!)


 シオンが掌を突き出す。

 体の中を駆け巡る力の奔流、蒼い火花が散った。


 ドンッ!!


 蒼い炎による衝撃波が放たれ、男の巨体が紙切れのように吹き飛んだ。

 彼はゴミ箱に突っ込み、気絶する。


「な、なんだコリャ!?」


「ひぃっ、化け物だ!」


 残りの男たちは、シオンの掌に揺らめく蒼い光を見て、悲鳴を上げて逃げ去っていった。

 静寂が戻る。シオンは肩で息をしながら、へたり込んでいる少年に歩み寄った。


「……大丈夫? 怪我はない?」


 シオンは優しく微笑み、手を差し伸べた。

 少年は涙目で震えている。助かった安堵に泣いているのだと、シオンは思った。

 だが。


「……っ!!」


 少年はシオンの手を取る代わりに、隠し持っていた鋭利なガラス片を抜き放った。

 狙いはシオンの首筋。

 殺意の込められた一撃。


(え……?)


 あまりに予想外の行動に、シオンの反応が遅れる。

 ガラスの切っ先が喉元に迫る――。


 ガシィッ!


 シオンの目の前、数センチの距離で、少年の腕が万力のような力で止められていた。

 横から割り込んだフレデリックだ。


「……礼儀のなってないガキだな」


 フレデリックは無表情のまま、少年の手首を捻り上げた。

 少年は「ぎゃっ!」と悲鳴を上げ、ガラス片を取り落とす。


「離せ! この女、金持ってんだろ! よこせ……ヒッ!」


 フレデリックの殺気を感じた少年は、強引に腕を引きはがし路地の闇へと消えていった。

 シオンは呆然と、その小さな背中を見送ることしかできなかった。


          *


 少し離れた、人気の少ない廃棄区画。

 フレデリックは情報端末を確認しながら、沈黙を続けるシオンに声をかけた。


「……わかったか、お姫様」


 彼の声に、皮肉の色はない。淡々とした事実の確認だけがあった。


「あのガキにとって、お前は『救世主』じゃない。『カモ』だ。綺麗な服を着て、隙だらけで歩いてる金づるだ。助けられた恩なんて感じる余裕は、ここの連中にはない」


 シオンは俯き、自分の手を握りしめた。

 震えが止まらない。

 自分が殺されかけた恐怖よりも、助けようとした相手に拒絶されたショックの方が大きかった。


「……お前の正義感は立派だがな。ここではそれが命取りになる。見ろ、余計なことをしたせいで、俺たちの顔が割れた。ガレッゾの耳に入るのも時間の問題だ」


「……はい」


「わかったら、次からは自分の身を守ることだけ考えろ。他人の不幸に首を突っ込むな」


 フレデリックはそう吐き捨て、歩き出そうとした。

 だが。


「……嫌です」


 小さな、けれどはっきりとした声が、彼の足を止めた。

 シオンが顔を上げる。その瞳には涙が溜まっていたが、決して揺らいではいなかった。


「貴方の言うことは正しいと思います。私は世間知らずで、馬鹿でした。……でも」


 彼女は胸に手を当て、真っ直ぐにフレデリックを見据えた。


「目の前で苦しんでいる人を見捨てるくらいなら、私は馬鹿でいい。騙されても、裏切られても……私は、私が信じる父に教わった『王としての誇り』を捨てたくありません!」


 フレデリックは目を丸くし、数秒間、言葉を失った。

 この期に及んで、まだそんな青臭いことを言うのか。

 裏切られた直後だというのに、彼女の瞳に宿る「蒼い炎」は、消えるどころかより強く燃え上がっている。


(……呆れた奴だ)


 だが、不快ではなかった。

 利害と暴力だけで回るこの世界で、その愚直なまでの信念は、皮肉にも眩しく見えた。

 かつて自分が信じ、そして失ってしまった「何か」を持っている。


「……勝手にしろ」


 フレデリックは端末をしまい、背を向けた。

 その口元が、わずかに緩んでいることを、シオンは気づかなかった。


「その代わり、刺されても泣きつくなよ。……行くぞ、お姫様」


「あっ……はい! 待ってください!」


 シオンが慌てて後を追う。

 その背中はまだ頼りないが、アラクネの汚れた空気の中でも、彼女だけは決して染まらないだろう。

 フレデリックはそう確信しながら、薄汚れた路地を先導した。


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