第九話
ステーション『アラクネ』の居住区画は、すえた油と腐敗臭、そして安っぽい芳香剤の匂いが混ざり合った、吐き気を催すような大気で満たされていた。
頭上を走るパイプからは汚水が滴り、極彩色のネオン看板が、路上に座り込む浮浪者たちの虚ろな瞳を照らしている。
「……ひどい匂い」
「口呼吸にしておけ。鼻が腐るぞ」
フレデリックはコートの襟を立て、周囲を鋭く警戒しながら歩を進める。
その隣を歩くシオンは、真新しいナノスーツに身を包みローブで姿を隠していたが、隠しきれない王女としての品位がこのスラム街では異質に映り、周囲からの粘着質な視線を集めていた。
「おい、見ろよあの姉ちゃん」
「上玉だ。売り飛ばせばイイ値がつくぜ」
下卑た囁き声。シオンは身を縮こまらせながら、フレデリックの背中を追う。
ガレッゾの情報を求めて酒場を回ったが、成果は芳しくない。「カルマンディがアラクネに来ているらしい」という噂以外、具体的な居場所は掴めていなかった。
「……おい、ガキ! 待てやコラァ!」
不意に、路地裏から怒号が響いた。
シオンが足を止めて覗き込むと、薄汚い服装の少年が、三人の屈強な男たちに取り囲まれているのが見えた。男たちは腕に刺青を入れた借金取りだ。
「盗み食いとはいい度胸だな。代金代わりに、その腕一本置いてけや!」
「や、やだ! 離せよ!」
男の一人が少年を蹴り飛ばし、錆びたナイフをちらつかせている。
明らかに過剰な暴力。
だが、通りを行き交う人々は誰一人として足を止めない。関わり合いになれば自分も食われると知っているからだ。
「……酷い」
「見るな。よくある光景だ」
踏み出そうとしたシオンの肩を、フレデリックが強く掴んで制止した。
「ここはレイオンじゃない。弱肉強食がルールだ。あのガキも、盗みを働いた報いを受けてるだけだ」
「でも、殺されてしまいます!」
「放っておけ。俺たちは目立つわけにはいかないんだ」
フレデリックの声は冷徹だった。
だが、シオンの視界の端で、男がナイフを振りかぶるのが見えた瞬間――。
「――っ!」
シオンはフレデリックの手を振り払い、飛び出していた。
理屈ではない。目の前で失われる命を見過ごすことなど、彼女の魂が許さなかった。
「やめなさい!!」
凛とした声が路地裏に響く。
男たちがぎょっとして振り返る。
「あぁ? なんだ嬢ちゃん、ヒーローごっこか?」
「そこを退きなさい。その子に手を出したら許しません!」
「ハッ! 笑わせるな!」
男の一人が、ニヤニヤと笑いながら鉄パイプを振り回し、シオンに襲いかかった。
シオンは一歩も退かなかった。
怖い。それでも恐怖を押し殺し感覚を研ぎ澄ませていく。
(お願い、力を……!)
シオンが掌を突き出す。
体の中を駆け巡る力の奔流、蒼い火花が散った。
ドンッ!!
蒼い炎による衝撃波が放たれ、男の巨体が紙切れのように吹き飛んだ。
彼はゴミ箱に突っ込み、気絶する。
「な、なんだコリャ!?」
「ひぃっ、化け物だ!」
残りの男たちは、シオンの掌に揺らめく蒼い光を見て、悲鳴を上げて逃げ去っていった。
静寂が戻る。シオンは肩で息をしながら、へたり込んでいる少年に歩み寄った。
「……大丈夫? 怪我はない?」
シオンは優しく微笑み、手を差し伸べた。
少年は涙目で震えている。助かった安堵に泣いているのだと、シオンは思った。
だが。
「……っ!!」
少年はシオンの手を取る代わりに、隠し持っていた鋭利なガラス片を抜き放った。
狙いはシオンの首筋。
殺意の込められた一撃。
(え……?)
あまりに予想外の行動に、シオンの反応が遅れる。
ガラスの切っ先が喉元に迫る――。
ガシィッ!
シオンの目の前、数センチの距離で、少年の腕が万力のような力で止められていた。
横から割り込んだフレデリックだ。
「……礼儀のなってないガキだな」
フレデリックは無表情のまま、少年の手首を捻り上げた。
少年は「ぎゃっ!」と悲鳴を上げ、ガラス片を取り落とす。
「離せ! この女、金持ってんだろ! よこせ……ヒッ!」
フレデリックの殺気を感じた少年は、強引に腕を引きはがし路地の闇へと消えていった。
シオンは呆然と、その小さな背中を見送ることしかできなかった。
*
少し離れた、人気の少ない廃棄区画。
フレデリックは情報端末を確認しながら、沈黙を続けるシオンに声をかけた。
「……わかったか、お姫様」
彼の声に、皮肉の色はない。淡々とした事実の確認だけがあった。
「あのガキにとって、お前は『救世主』じゃない。『カモ』だ。綺麗な服を着て、隙だらけで歩いてる金づるだ。助けられた恩なんて感じる余裕は、ここの連中にはない」
シオンは俯き、自分の手を握りしめた。
震えが止まらない。
自分が殺されかけた恐怖よりも、助けようとした相手に拒絶されたショックの方が大きかった。
「……お前の正義感は立派だがな。ここではそれが命取りになる。見ろ、余計なことをしたせいで、俺たちの顔が割れた。ガレッゾの耳に入るのも時間の問題だ」
「……はい」
「わかったら、次からは自分の身を守ることだけ考えろ。他人の不幸に首を突っ込むな」
フレデリックはそう吐き捨て、歩き出そうとした。
だが。
「……嫌です」
小さな、けれどはっきりとした声が、彼の足を止めた。
シオンが顔を上げる。その瞳には涙が溜まっていたが、決して揺らいではいなかった。
「貴方の言うことは正しいと思います。私は世間知らずで、馬鹿でした。……でも」
彼女は胸に手を当て、真っ直ぐにフレデリックを見据えた。
「目の前で苦しんでいる人を見捨てるくらいなら、私は馬鹿でいい。騙されても、裏切られても……私は、私が信じる父に教わった『王としての誇り』を捨てたくありません!」
フレデリックは目を丸くし、数秒間、言葉を失った。
この期に及んで、まだそんな青臭いことを言うのか。
裏切られた直後だというのに、彼女の瞳に宿る「蒼い炎」は、消えるどころかより強く燃え上がっている。
(……呆れた奴だ)
だが、不快ではなかった。
利害と暴力だけで回るこの世界で、その愚直なまでの信念は、皮肉にも眩しく見えた。
かつて自分が信じ、そして失ってしまった「何か」を持っている。
「……勝手にしろ」
フレデリックは端末をしまい、背を向けた。
その口元が、わずかに緩んでいることを、シオンは気づかなかった。
「その代わり、刺されても泣きつくなよ。……行くぞ、お姫様」
「あっ……はい! 待ってください!」
シオンが慌てて後を追う。
その背中はまだ頼りないが、アラクネの汚れた空気の中でも、彼女だけは決して染まらないだろう。
フレデリックはそう確信しながら、薄汚れた路地を先導した。




