第二章:命の灯火
焼け焦げた李邸の石畳の上、玄耀は膝をついていた。
目の前には、血に染まった鈴蘭の髪紐が落ちていた。
ほんのわずかな香りさえも、今は土と煤に埋もれ、消えかけている。
「……全部、守れなかった」
その言葉を口にした瞬間、喉が裂けるような痛みが走った。
悔しさか、それとも怒りか──否、そんなものではない。
それは、言葉にできないほどの虚無感。
心が、まるで削り取られたように、空っぽになっていた。
でも、玄耀は剣を握っていた。
無意識のうちに、それだけを握りしめていた。
「いつでも、戦えるように──」
その本能だけで、彼は静かに立ち上がり、燃え盛る屋敷の奥へ足を踏み入れた。
焼け落ちる柱の下で、倒れた侍女の影が見えた。
彼に従い、命を捧げた高春の姿も消えた。
すべてが過去になっていく中で──
「──まだ、生きていてくれて、よかった」
その声は、炎の向こうから、確かに届いた。
玄耀が剣を構えると同時に、その気配を感じ取った。
すぐに顔を上げ、驚きとともに声を漏らす。
「……思穎?」
煙の中から現れた少女。
銀色の髪は煤に染まりながらも、どこか凛とした光を放っていた。
思穎──彼女は精霊を紡ぐ巫女であり、帝都直属の神官でもある。
神事で何度も顔を合わせてきた彼女は、ただの同士ではない。
志を同じくする、心の支えでもあった。
思穎の目には、玄耀の痛みがすべて映し出されているようだった。
彼女はかつて、神官として無数の命を預かり、過去の戦争で心を痛めていた。
だが、彼女はその痛みを抱えながらも、常に誰かを支え続けてきた。
彼女にとって、玄耀の存在は、ただの戦友や仲間ではなく、心の中で最も信頼できる相手だった。
それは、彼の剣を通じて、彼の心の奥深くに触れたからだ。
「急いで。ここはもう、時間がないわ」
思穎は彼の手を取ろうとした。
だが、玄耀はそれを振り払うように言った。
「……なぜ来た」
「逃げろ、思穎。俺はもう──」
「あなたを置いて、逃げられるわけないでしょう!」
その声は、まるで炎を突き破るように、玄耀の心を貫いた。
思穎の言葉が、玄耀の胸に響き渡る。
彼の心の奥底──今まで誰も触れられなかったその最も深い部分にまで、彼女の声は届いていた。
思穎の心の中でも、彼の痛みが呼び覚まされる。
彼女は、戦争で家族を失い、両親の無念を胸に抱えて生きてきた。
けれど、彼女の耐えがたい苦しみを、玄耀が分かち合ってくれたことで、彼女もまた立ち上がれたのだ。
それだけに、彼が今、すべてを諦めようとしていることが耐えられなかった。
「李家は滅びました。でも……あなたはまだ、生きている」
その言葉に、玄耀の胸が痛んだ。
「あなたの剣は、まだ何も終えていない」
「……終わったんだよ。すべて……俺の手で終わったんだ……!」
玄耀は呻くように吐き出した。
言葉にならぬ感情が、堰を切ったように溢れ出す。
「助けられなかった。家族も、民も。
俺の剣は、ただの飾りだった……。理想なんて、虚構だった……!」
目を閉じると、妹の泣き声が耳に響く。
厳格だった父の背中、母の温かな手、兄の信頼に満ちた眼差し。
全てが剣の影に消えた。
「俺は……生きている資格なんて──」
その言葉が続かない。
思穎は、そっと彼の胸に手を当てた。
そして、歌うように囁いた。
「では、あなたの痛みの中で、私は何度も祈ります。
誰よりも強く、弱かったあなたの心が、それでも生きようとする限り──
私は、あなたの隣にいます」
その言葉が、炎よりも温かく、彼の胸に染み込む。
玄耀の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
それは、もはや止めようとしても止められなかった。
思穎の手が、静かに彼の手を握る。
「逃げるわけじゃない。……これは、“繋ぐ”ための撤退よ。
未来に、もう一度あなたが立ち上がるために──」
その言葉が、玄耀の心の中で、何かを呼び覚ました。
思穎の術によって、結界が張られる。
爆音とともに、屋敷の天井が崩れかける中、彼女は玄耀の手を強く握った。
そして、共に闇の抜け道へと飛び込んだ。
その瞬間、玄耀はほんの少し目を閉じた。
──これが、最後だと思っていた。
だがまだ、誰かが手を差し伸べてくれるなら──
「思穎……ありがとう」
地の底を走る密道を抜け、遠くに夜空の月が見えたとき──
玄耀の中で、確かに何かが変わり始めていた。
剣を握る手が、わずかに力を取り戻していた。
それでも、痛みは残る。
家族の死、帝国への憎しみ、己の無力。
それらは深く彼の中に沈んで、まだ出口を見つけられずにいる。
──そして彼は、荒野へと旅立った。
魂の底で、再び“何か”と向き合う日が来ることを、知らぬまま。




