第七章 恐怖の正義
走るたびに、足元のアスファルトがじりじりと熱を返す。
音香の心臓が、喉の奥で跳ねていた。
呼吸が浅い。
でも、足を止められない。
夕暮れの街は、色を失ったガラス片のように冷たくきらめいていた。
音香と葉介は、警告の出た通りへ向かって走り続けた。
近づくほどに騒音が増える。
人々のざわめき、警備アナウンス、ドローンの羽音──
それらが重なり合い、不協和音のように耳に刺さる。
『害意レベル上昇──』
『周辺女性は防衛準備──』
いつもの機械の声。
しかし今日ほど、その"無機質さ"が恐ろしく思えた日はない。
音香は、バッグの中で震える許可証を感じた。
──また。
──また、誰かが撃たれる。
その予感が、背筋を冷やしていた。
「見えてきた……!」
音香が指差した先に、人だかりができていた。
街灯の下、警備ドローンが赤い光を点滅させている。
人だかりの中心に、ひとりの青年が立ち尽くしていた。
二十代前半だろうか。
顔は蒼白で、両手を高く上げている。
その手が、震えていた。
「違うんです、本当に通りかかっただけで! 俺、何もしてない! 信じてください!」
青年の声は、必死だった。
だが、その必死さが、逆に周囲の恐怖を煽る。
──なぜそんなに必死なのか。
──何か隠しているのではないか。
疑念が、空気の中で膨らんでいく。
群衆の女性たちは、それぞれ許可証に手をかけている。
指先が震えている人もいれば、
すでに銃口を向けている人もいた。
恐怖は伝染する。
HazardEyeの判定よりも早く。
『害意予測:58%』
看板に映し出された数字が、群衆の空気をさらに煽った。
「60近い……危険よ!」
「許可証構えて!」
「誰か呼んだほうがいい!」
ざわつきの中で、音香は強く息を吸った。
この空気、知っている。
あの日。
路地裏で倒れた男性。
紅林の震える手。
麻痺銃の匂い。
(また……誰かが撃たれる)
胸の奥で、いやな予感が形を作る。
あの日の路地裏。
紅林の震える手。
倒れた男性。
その記憶が、フラッシュバックする。
──もう、嫌だ。
音香の足が、勝手に動いた。
「音香さん、危ないから前に出ちゃ──」
葉介の言葉を遮るように、音香は群衆の前へ踏み出した。
理性は「やめろ」と叫んでいた。
でも、身体は止まらない。
あの日、撃たなかったことを後悔していない。
なら、今日も──
今日も、撃たせるわけにはいかない。
「ちょっと待ってください!」
自分の声が、驚くほど大きく響いた。
その瞬間、ざわつきが一瞬だけ止まった。
だが、その空白を切り裂くように、青年の後方から、一人の女性が歩み出た。
腰の許可証を固く握り、震える息を整え、瞳には“恐怖を正義に変えた人間”特有の鋭さ。
「危険です……! あの数字を見てください! 本当に“何もしない”って、信じられるんですか?」
青年が震える。
「ち、違う……! 本当に違うんだ……!」
群衆の空気が膨れあがる。
『害意予測:63%』
数字は、恐怖を吸って肥大化していく。
(やめて……数字のせいで人を撃たないで……)
音香は前に出ようとした。
その瞬間──
「止まりなさい」
静かな、けれど有無を言わさぬ声が背後から響いた。
音香と葉介、そして周囲の人々が振り返る。
人だかりの外側に、黒い制服の女が立っていた。
伊佐見亜弓。
冷たい光を浴びても揺るがない姿勢。
まっすぐに人を射抜く眼差し。
だが、音香には見えた。
その奥に潜む、微かな影を。
「……あなた、どうしてここに?」
音香が呟くと、亜弓は答えず、人だかりの中央へと進んだ。
群衆が、道を開ける。
彼女の持つ「権威」が、恐怖よりも強かった。
「みなさん、聞いてください」
その声は、静かだった。
でも、重かった。
群衆のざわめきが、一瞬だけ止まる。
「害意予測63%という数値は——」
亜弓は、周囲を見渡した。
「"恐怖の増幅"が起きたときの典型的な推移です」
群衆から、困惑の声が漏れる。
「本来、単独の男性の行動としては、危険行動ではありません。この数値は、周囲の恐怖が積み重なって上昇したものです」
亜弓は、青年の前に立った。
「あなた。両手をそのままにして、深呼吸をしなさい」
青年は、震えながら従った。
「……そう。みなさんも、落ち着いてください」
しかし──群衆の恐怖は、そんなに簡単には収まらない。
「落ち着けって言われて落ち着けるわけないでしょ!」
一人の女性が叫んだ。
「システムが警告を出してるのよ! もし誰かが襲われたらどうするの!?」
亜弓は、その女性を見つめた。
「では、あなたは──」
亜弓の声が、一段低くなった。
「自分が"恐怖"を感じたから、撃つのですか? それとも、"システムが言ったから"、撃つのですか?」
女性が、言葉に詰まった。
「どちらにしても──」
亜弓は、周囲を見渡した。
「自分の恐怖を、"正義"のふりをして押しつけないでください」
許可証の光がいくつも点滅し、その場の空気は、少しの刺激で爆発するような緊張を孕んでいた。
そのとき、ドローンの警告音が一段高くなった。
『害意予測:71%──』
群衆の悲鳴。
青年は崩れそうになり、周りの女性たちが一斉に身構える。
その瞬間──
音香の中で、何かが弾けた。
「やめて!!」
叫びが、夕暮れに割れた。
足が勝手に動いた。
理性なんて、どこかに消えていた。
気づけば、青年の前に立っていた。
両腕を広げ、盾になるように。
「撃たないで!!!」
周囲から悲鳴が上がる。
「危険よ!何してるの!?」
「避けて!そこにいたら撃たれるわよ!」
「わかってる!!」
音香の声が、震えた。
「わかってるけど!!! でも——でも、もう嫌なの!!」
涙が頬を伝った。
自分でも驚くほど、感情があふれ出していた。
「わたし、さっき許可証が勝手に人を危険だって判定したの! あれは……"本物の害意"じゃない!! 誰かの恐怖が混ざっただけ!!」
音香は、群衆を見渡した。
「お願い……。撃つ前に、考えて。本当に怖いのか。それとも、システムが怖がれって言ってるだけなのか」
群衆は息を呑んだ。
葉介も言う。
「お願いします! 落ち着いてください、このままじゃ──ただの誤判定です!」
だが、その言葉は重い不安の中で沈みかけた。
その空気を、亜弓の冷静な声が支えた。
「……私が保証します」
人々が彼女を見る。
「この青年は撃たれるべきではありません。恐怖の伝染で数値が上昇しているだけ。今撃てば、それは“正当防衛”ではありません」
亜弓は、あの冷たい目をさらに鋭くし、周囲を見渡す。
「……自分の恐怖を、“正義”のふりをして押しつけないでください」
その言葉は、誰も反論できない強さを持っていた。
しばらくして、青年の害意スコアはゆっくり下がり始めた。
『害意予測:71 → 54 → 33 → 12%』
ドローンの光も弱まり、ようやく周囲に呼吸が戻っていく。
青年は崩れ落ち、涙をこぼした。
「……ありがとうございました……本当に……」
音香は、胸に残る強い鼓動を感じながら答えた。
「……撃たなくてよかった」
群衆が散り始めた。
青年は、地面に座り込んだまま、肩を震わせていた。
音香が近づくと、彼は顔を上げた。
「……ありがとうございました……本当に……」
その目は、涙で濡れていた。
「俺……もうダメだと思った……何もしてないのに……殺されるって……」
音香は、何も言えなかった。
ただ、彼の肩に手を置いた。
「……大丈夫。もう、大丈夫だから」
その言葉が、どこまで本当なのか。
音香自身、わからなかった。
人々が散り、夕暮れの色が夜の青に変わりはじめた頃。
亜弓は音香に近づいた。
「……危険なことをしましたね」
叱るような声だったが、瞳にはかすかな安堵があった。
「あなた……怖くなかったの?」
「怖かったです。でも、それ以上に……“撃つほうが怖かった”」
亜弓は静かに頷いた。
「……あの日、私も同じでした」
その言葉には、深い痛みが混じっていた。
音香は、息を呑んだ。
「……亜弓さん、撃ったこと……あるんですね」
亜弓は、一度だけ目を閉じた。
「あります」
その声は、静かだった。
「あなたが思っているより、ずっと軽く……ずっと簡単に」
亜弓は、自分の手を見つめた。
「引き金は、羽のように軽かった。システムが"撃て"と言った。私は、従った。それだけでした」
音香は、何も言えなかった。
「でも──」
亜弓の声が、わずかに震えた。
「その後、ずっと重い。毎日、あの日のことを思い出す。撃った瞬間の音倒れた人の顔。全部、消えない」
音香の目に、涙が滲んだ。
「だから……」
亜弓は、音香を見た。
「だから、私は"観測者"になった。撃つ人を増やさないために。自分と同じ道を歩ませないために」
亜弓の声には、初めて人間らしい揺れがあった。
「あなたは……特別です、橘花さん。“撃たなかった女性”は、統計上ほとんどいない」
亜弓は言い切った。
「あなたは……この街を変える可能性がある」
その言葉は、褒め言葉ではなく、未来の重荷のように響いた。
「音香さん」
葉介が歩いてきた。
「大丈夫ですか……?」
「……うん。大丈夫じゃないけど、大丈夫にするよ」
彼は迷った末に、そっと彼女の肩に手を置いた。
その手の温度が、今日の冷たい恐怖を少しだけ融かしていく。
「あなたが前に出てくれて……助かった。俺、何もできなかった」
「違うよ。あなたが“言ったこと”があったから、わたしは動けたの」
音香は、ゆっくり息を吐く。
「“何が人間かはまだ分かる”って。あれ、すごく大事な言葉だった」
葉介の目が、驚きと何か温かいものに揺れた。
「……音香さん、あなたは——」
言いかけたそのとき。
遠くで、再び警告音が鳴った。
今日はもう、何件目だろう。
だが、音香は立ち止まらなかった。
「葉介。これから……しばらく忙しくなるかもしれない」
「え?」
「“観測対象”にされたの。撃たなかったから。これからは……もっと見張られると思う」
葉介は唇を噛んだ。
「それ……俺のせいじゃないですか?」
「違うよ」
音香は小さく笑った。
「あなたと話してなかったら、わたし……今日の青年を庇わなかったと思う。撃つ側のままでいた」
風が吹き、髪が揺れた。
「だから……ありがとう」
「…………」
葉介は言葉を失ったように立ち尽くしたが、やがて小さな声で言った。
「俺も、逃げません。あなたが“撃たない未来”を選ぶなら……俺はそれを撮ります。どんな形でも」
音香は、その言葉を胸に沈めた。
「……じゃあ、約束ね」
二人は並んで歩き出す。
夕暮れの消え残る空の下、同じ方向へ。
その背中を、亜弓はしばらく見つめていた。
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「……あなたたちは、もう戻れないわね」
それは、警告だった。
そして、羨望だった。
亜弓は、自分の手を見つめた。
──私は、もう戻れない。
──撃った過去から、逃げられない。
でも、あの二人は──
「まだ、間に合うかもしれない」
その呟きは、祈りに近かった。
街の硝子に走った亀裂は、もう誰にも止められない。
でも、その亀裂の先に何があるのか、それは、まだ誰にもわからなかった。
亜弓は、夜の空を見上げた。
ドローンの光が、星のように冷たく瞬いていた。




