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更新率九十二パーセント ─武装する乙女─  作者: 真野真名


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第七章 恐怖の正義




 走るたびに、足元のアスファルトがじりじりと熱を返す。


 音香の心臓が、喉の奥で跳ねていた。

 呼吸が浅い。

 でも、足を止められない。


 夕暮れの街は、色を失ったガラス片のように冷たくきらめいていた。

 音香と葉介は、警告の出た通りへ向かって走り続けた。

 近づくほどに騒音が増える。

 人々のざわめき、警備アナウンス、ドローンの羽音──

 それらが重なり合い、不協和音のように耳に刺さる。


『害意レベル上昇──』

『周辺女性は防衛準備──』


 いつもの機械の声。

 しかし今日ほど、その"無機質さ"が恐ろしく思えた日はない。


 音香は、バッグの中で震える許可証を感じた。


 ──また。


 ──また、誰かが撃たれる。


 その予感が、背筋を冷やしていた。


「見えてきた……!」


 音香が指差した先に、人だかりができていた。

 街灯の下、警備ドローンが赤い光を点滅させている。


 人だかりの中心に、ひとりの青年が立ち尽くしていた。

 二十代前半だろうか。

 顔は蒼白で、両手を高く上げている。

 その手が、震えていた。


「違うんです、本当に通りかかっただけで! 俺、何もしてない! 信じてください!」


 青年の声は、必死だった。


 だが、その必死さが、逆に周囲の恐怖を煽る。


 ──なぜそんなに必死なのか。

 ──何か隠しているのではないか。


 疑念が、空気の中で膨らんでいく。


 群衆の女性たちは、それぞれ許可証に手をかけている。

 指先が震えている人もいれば、

 すでに銃口を向けている人もいた。


 恐怖は伝染する。

 HazardEyeの判定よりも早く。


『害意予測:58%』


 看板に映し出された数字が、群衆の空気をさらに煽った。


「60近い……危険よ!」

「許可証構えて!」

「誰か呼んだほうがいい!」


 ざわつきの中で、音香は強く息を吸った。


 この空気、知っている。


 あの日。

 路地裏で倒れた男性。

 紅林の震える手。

 麻痺銃の匂い。


(また……誰かが撃たれる)


 胸の奥で、いやな予感が形を作る。


 あの日の路地裏。

 紅林の震える手。

 倒れた男性。


 その記憶が、フラッシュバックする。


 ──もう、嫌だ。


 音香の足が、勝手に動いた。


「音香さん、危ないから前に出ちゃ──」


 葉介の言葉を遮るように、音香は群衆の前へ踏み出した。

 理性は「やめろ」と叫んでいた。

 でも、身体は止まらない。

 あの日、撃たなかったことを後悔していない。

 なら、今日も──


 今日も、撃たせるわけにはいかない。


「ちょっと待ってください!」


 自分の声が、驚くほど大きく響いた。

 その瞬間、ざわつきが一瞬だけ止まった。


 だが、その空白を切り裂くように、青年の後方から、一人の女性が歩み出た。


 腰の許可証を固く握り、震える息を整え、瞳には“恐怖を正義に変えた人間”特有の鋭さ。


「危険です……! あの数字を見てください! 本当に“何もしない”って、信じられるんですか?」


 青年が震える。


「ち、違う……! 本当に違うんだ……!」


 群衆の空気が膨れあがる。


『害意予測:63%』


 数字は、恐怖を吸って肥大化していく。


(やめて……数字のせいで人を撃たないで……)


 音香は前に出ようとした。


 その瞬間──


「止まりなさい」


 静かな、けれど有無を言わさぬ声が背後から響いた。

 音香と葉介、そして周囲の人々が振り返る。

 人だかりの外側に、黒い制服の女が立っていた。


 伊佐見亜弓。


 冷たい光を浴びても揺るがない姿勢。

 まっすぐに人を射抜く眼差し。


 だが、音香には見えた。

 その奥に潜む、微かな影を。


「……あなた、どうしてここに?」


 音香が呟くと、亜弓は答えず、人だかりの中央へと進んだ。


 群衆が、道を開ける。

 彼女の持つ「権威」が、恐怖よりも強かった。


「みなさん、聞いてください」

 その声は、静かだった。

 でも、重かった。


 群衆のざわめきが、一瞬だけ止まる。


「害意予測63%という数値は——」

 亜弓は、周囲を見渡した。

「"恐怖の増幅"が起きたときの典型的な推移です」


 群衆から、困惑の声が漏れる。


「本来、単独の男性の行動としては、危険行動ではありません。この数値は、周囲の恐怖が積み重なって上昇したものです」


 亜弓は、青年の前に立った。


「あなた。両手をそのままにして、深呼吸をしなさい」


 青年は、震えながら従った。


「……そう。みなさんも、落ち着いてください」


 しかし──群衆の恐怖は、そんなに簡単には収まらない。


「落ち着けって言われて落ち着けるわけないでしょ!」


 一人の女性が叫んだ。


「システムが警告を出してるのよ! もし誰かが襲われたらどうするの!?」


 亜弓は、その女性を見つめた。


「では、あなたは──」


 亜弓の声が、一段低くなった。


「自分が"恐怖"を感じたから、撃つのですか? それとも、"システムが言ったから"、撃つのですか?」


 女性が、言葉に詰まった。


「どちらにしても──」

 亜弓は、周囲を見渡した。

「自分の恐怖を、"正義"のふりをして押しつけないでください」


 許可証の光がいくつも点滅し、その場の空気は、少しの刺激で爆発するような緊張を孕んでいた。


 そのとき、ドローンの警告音が一段高くなった。


『害意予測:71%──』


 群衆の悲鳴。


 青年は崩れそうになり、周りの女性たちが一斉に身構える。


 その瞬間──


 音香の中で、何かが弾けた。


「やめて!!」


 叫びが、夕暮れに割れた。


 足が勝手に動いた。

 理性なんて、どこかに消えていた。

 気づけば、青年の前に立っていた。

 両腕を広げ、盾になるように。


「撃たないで!!!」


 周囲から悲鳴が上がる。


「危険よ!何してるの!?」

「避けて!そこにいたら撃たれるわよ!」


「わかってる!!」

 音香の声が、震えた。

「わかってるけど!!! でも——でも、もう嫌なの!!」

 涙が頬を伝った。

 自分でも驚くほど、感情があふれ出していた。


「わたし、さっき許可証が勝手に人を危険だって判定したの! あれは……"本物の害意"じゃない!! 誰かの恐怖が混ざっただけ!!」


 音香は、群衆を見渡した。


「お願い……。撃つ前に、考えて。本当に怖いのか。それとも、システムが怖がれって言ってるだけなのか」


 群衆は息を呑んだ。


 葉介も言う。


「お願いします! 落ち着いてください、このままじゃ──ただの誤判定です!」


 だが、その言葉は重い不安の中で沈みかけた。

 その空気を、亜弓の冷静な声が支えた。


「……私が保証します」


 人々が彼女を見る。


「この青年は撃たれるべきではありません。恐怖の伝染で数値が上昇しているだけ。今撃てば、それは“正当防衛”ではありません」


 亜弓は、あの冷たい目をさらに鋭くし、周囲を見渡す。


「……自分の恐怖を、“正義”のふりをして押しつけないでください」


 その言葉は、誰も反論できない強さを持っていた。


 しばらくして、青年の害意スコアはゆっくり下がり始めた。


『害意予測:71 → 54 → 33 → 12%』


 ドローンの光も弱まり、ようやく周囲に呼吸が戻っていく。


 青年は崩れ落ち、涙をこぼした。


「……ありがとうございました……本当に……」


 音香は、胸に残る強い鼓動を感じながら答えた。


「……撃たなくてよかった」



 群衆が散り始めた。


 青年は、地面に座り込んだまま、肩を震わせていた。


 音香が近づくと、彼は顔を上げた。


「……ありがとうございました……本当に……」


 その目は、涙で濡れていた。


「俺……もうダメだと思った……何もしてないのに……殺されるって……」


 音香は、何も言えなかった。


 ただ、彼の肩に手を置いた。


「……大丈夫。もう、大丈夫だから」


 その言葉が、どこまで本当なのか。

 音香自身、わからなかった。



 人々が散り、夕暮れの色が夜の青に変わりはじめた頃。


 亜弓は音香に近づいた。

「……危険なことをしましたね」


 叱るような声だったが、瞳にはかすかな安堵があった。


「あなた……怖くなかったの?」


「怖かったです。でも、それ以上に……“撃つほうが怖かった”」


 亜弓は静かに頷いた。

「……あの日、私も同じでした」


 その言葉には、深い痛みが混じっていた。


 音香は、息を呑んだ。

「……亜弓さん、撃ったこと……あるんですね」


 亜弓は、一度だけ目を閉じた。

「あります」


 その声は、静かだった。

「あなたが思っているより、ずっと軽く……ずっと簡単に」


 亜弓は、自分の手を見つめた。


「引き金は、羽のように軽かった。システムが"撃て"と言った。私は、従った。それだけでした」


 音香は、何も言えなかった。


「でも──」

 亜弓の声が、わずかに震えた。

「その後、ずっと重い。毎日、あの日のことを思い出す。撃った瞬間の音倒れた人の顔。全部、消えない」


 音香の目に、涙が滲んだ。


「だから……」

 亜弓は、音香を見た。

「だから、私は"観測者"になった。撃つ人を増やさないために。自分と同じ道を歩ませないために」


 亜弓の声には、初めて人間らしい揺れがあった。


「あなたは……特別です、橘花さん。“撃たなかった女性”は、統計上ほとんどいない」

 亜弓は言い切った。

「あなたは……この街を変える可能性がある」


 その言葉は、褒め言葉ではなく、未来の重荷のように響いた。




「音香さん」


 葉介が歩いてきた。

「大丈夫ですか……?」


「……うん。大丈夫じゃないけど、大丈夫にするよ」


 彼は迷った末に、そっと彼女の肩に手を置いた。

 その手の温度が、今日の冷たい恐怖を少しだけ融かしていく。


「あなたが前に出てくれて……助かった。俺、何もできなかった」


「違うよ。あなたが“言ったこと”があったから、わたしは動けたの」

 音香は、ゆっくり息を吐く。

「“何が人間かはまだ分かる”って。あれ、すごく大事な言葉だった」


 葉介の目が、驚きと何か温かいものに揺れた。


「……音香さん、あなたは——」

 言いかけたそのとき。


 遠くで、再び警告音が鳴った。


 今日はもう、何件目だろう。


 だが、音香は立ち止まらなかった。


「葉介。これから……しばらく忙しくなるかもしれない」


「え?」


「“観測対象”にされたの。撃たなかったから。これからは……もっと見張られると思う」


 葉介は唇を噛んだ。


「それ……俺のせいじゃないですか?」


「違うよ」


 音香は小さく笑った。


「あなたと話してなかったら、わたし……今日の青年を庇わなかったと思う。撃つ側のままでいた」


 風が吹き、髪が揺れた。


「だから……ありがとう」


「…………」


 葉介は言葉を失ったように立ち尽くしたが、やがて小さな声で言った。


「俺も、逃げません。あなたが“撃たない未来”を選ぶなら……俺はそれを撮ります。どんな形でも」


 音香は、その言葉を胸に沈めた。


「……じゃあ、約束ね」


 二人は並んで歩き出す。

 夕暮れの消え残る空の下、同じ方向へ。


 その背中を、亜弓はしばらく見つめていた。


 小さく、誰にも聞こえない声で呟く。


「……あなたたちは、もう戻れないわね」


 それは、警告だった。

 そして、羨望だった。


 亜弓は、自分の手を見つめた。


 ──私は、もう戻れない。

 ──撃った過去から、逃げられない。


 でも、あの二人は──


「まだ、間に合うかもしれない」


 その呟きは、祈りに近かった。


 街の硝子に走った亀裂は、もう誰にも止められない。


 でも、その亀裂の先に何があるのか、それは、まだ誰にもわからなかった。


 亜弓は、夜の空を見上げた。


 ドローンの光が、星のように冷たく瞬いていた。




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