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更新率九十二パーセント ─武装する乙女─  作者: 真野真名


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第六章 亀裂の音




 夕暮れの空は、薄い赤を帯びながらゆっくり夜へ溶け込んでいた。

 空の端を警備ドローンが水平に滑り、音もなく影だけを落としていく。


 学院のそばにある小さな橋。


 川というより、都市排水が流れる細い水路。

 水は濁っていて、街の底に流れる何かを運んでいるようだった。


 ここは昔から人が少ない。

 監視カメラの死角でもなければ、HazardEyeの優先区域でもない。

 ただ、忘れられているだけの場所。


 音香は何度か、ひとりでここに立ち止まったことがあった。

 この街で、唯一「見られていない」と感じられる場所だった。


 その欄干にもたれかかるようにして、未奈川葉介が立っていた。

 薄い光の中で、彼の影が水面に揺れている。


 音香が近づくと、葉介は小さく手を上げた。


「……お疲れさまです」


「お疲れさま」


 音香は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「思っていたより、怖いところだったけど……生きて帰ってきたよ」

 その声が、震えていた。


 葉介は、そんな彼女の表情をじっと見つめてから、静かに言った。

「あなたは……強いですね」


「違うよ」

 音香は首を振った。

「強くない。ただ……」


「ただ?」


「守りたかっただけ」


「何を?」


 音香は、欄干を握りしめた。

「自分の"感じ方"を」


 葉介の目が、わずかに見開かれた。


「誰が危険かじゃなくて……何を怖がっているのか、自分で決めたい。HazardEyeに教えられるんじゃなくて。数値で示されるんじゃなくて。自分の心で、感じたい」


 その言葉に、葉介は何も言えなかった。

 ただ、深く頷いた。


「観測センターで……何を言われたんですか?」


 音香は、少し間を置いてから答えた。


「"撃たない選択"は記録されるって」


「……記録?」


「定期的に面談して、ログを提出して……」

 音香の声が、わずかに震えた。


「わたしの感じた恐怖が、数値として残されるんだって。何に怯えたか。何を怖がらなかったか。全部、データになる」


「それは──」


「自由じゃないよね」

 音香は、自分で言葉を遮った。


「でも、"撃つ自由"よりはまだましだと思った。少なくとも、誰かを傷つけることは……ない」


 暗い川面に波紋が広がるように、静かな沈黙が落ちた。

 音香は両手で欄干を掴み、少し前のめりになる。

「葉介……。あのね、わたし……昨日、本当に怖かった。人を撃ちそうになって……その手が止まらなくて……自分で自分が分からなくなる感覚が、一番怖かった」


 葉介はゆっくり近づき、彼女の隣に並んだ。

 風が少し吹き、光の反射が水面で揺れる。


「……俺も、怖かったですよ」


「何が?」


 葉介は、水面を見つめたまま答えた。

「あなたが、自分の恐怖だけで消えてしまいそうで」


 音香は、顔を上げた。


「あの日、路地で銃口を向けられたときは——」

 葉介は一度言葉を切った。

「正直、死ぬかと思いました。でも、それより怖かったのは……」


「それより?」


「あなたが"撃つ側"に追い詰められるほうが、ずっと怖かった」


 音香は、息を呑んだ。

「どうして……?」


「だって」

 葉介は、初めて音香の目を見た。

「あなたが引き金を引いたら、壊れるのは相手だけじゃない。

 あなた自身も、壊れてしまう。

 それが……一番怖かった」


 音香の目に、涙が滲んだ。


 そんなふうに自分のことを考えてくれる人が、この街にまだいたのかと。


「あなたは……怖い人じゃない」


「……でも、撃てるよ。許可証があるから」


「あなたが撃つんじゃない。撃とうとしてるのは、街です。システムです。あなたじゃない」


 その言葉は、救いであり、刃でもあった。


 静寂が橋の上にたまる。

 二人の影が、並んで水に揺れる。


「葉介……あのね」


 音香は、言葉を選んでから続けた。


「わたし、これ以上、ひとりで“感じ方”を管理できる自信がないの。誰が怖いか、何が怖いか……全部、HazardEyeに上書きされそうで」


「大丈夫ですよ」


「どうして?」


「俺も……同じだからです」

 葉介は、少し照れたように笑った。

「俺だって、何が"危険"なのか分からない」

 葉介は、小さく笑った。

「でも、"何が人間か"は……まだわかる気がする」


 その言葉に、音香は胸を突かれた。


 ──人間。


 その単語が、こんなにも強い意味を持つ時代が来るとは思わなかった。


 害意スコアでもなく、防衛レベルでもなく、ただ「人間」であること。


 それを測る基準は、もうHazardEyeには残っていない。


「葉介……」


 音香は、震える声で言った。


「……わたしも、まだわかる。あなたが、人間だって」


 その言葉に、葉介の手が、わずかに震えた。


 彼は、ゆっくりと音香の手に触れた。


 音香は、驚いて顔を上げる。

「これ……許可証に記録されますか?」


 葉介は、小さく笑った。

「たぶん。でも……記録されてもいい」


 音香の手が、彼の手を握り返した。

 その温度が、現実だった。


 水面が、二人の影を揺らしながら流れていく。



***



 同じ頃。


 観測センターの薄暗い部屋で、

 伊佐見亜弓はひとり、机に手をついていた。


 面談の記録を読み返す。

 橘花音香の表情。

 迷いながら言った言葉。

 震えていた手。


 “撃たない”という選択。

 それは、単なる行動ではない。

 HazardEyeが測定できない、“自律した恐怖の扱い方”。


 亜弓は、ディスプレイの前で静かに目を閉じた。


(あの子は、あの日の私に似ている)


 その思考が胸に浮かび、亜弓の指が小さく震えた。


 かつて、まだHazardEyeが今ほど強制的ではなかった頃。


 亜弓は撃った。


 相手は、ただ夜道を歩いていただけの男性だった。

 フードを被っていた。

 少し、足早だった。

 それだけで、HazardEyeのスコアが跳ね上がった。

 彼女は、システムの指示に従った。

 引き金を引いた。


 男は倒れた。


 その後、調査の結果──

 彼は何の害意も持っていなかったことが判明した。

 ただ、終電に遅れそうで急いでいただけだった。


 亜弓は「正当防衛」として処理された。

 誰も彼女を責めなかった。

 むしろ、「システムに従った模範的行動」と評価された。


 でも──亜弓自身は知っていた。


(あれは……正しさなんかじゃなかった)


 あの日から、彼女は夜、眠れなくなった。

 閉じた瞼の裏に、倒れた男の姿が浮かぶ。


 彼の家族はどうなったのか。

 彼の人生は、どう変わったのか。


 その答えを、亜弓は知らない。

 知ろうとしても、記録は「適切に処理された」の一文で終わっていた。


 だから、亜弓は「観測者」になった。

 撃たずに済ませる者を、少しでも守るために。


 だが、救うことなどできていない。


 画面には、今日だけで十件以上の誤作動報告が並んでいる。

 市民の不安。

 男性の退避指示。

 女性の過剰反応。

 どれも、薄く、しかし確実に、街を締め付けている。


(この街は……そろそろ限界よ)


 亜弓の小さな呟きは、誰にも届かない。

 だが、その代わりに別の通知音が鳴った。


『重要ログ:未奈川葉介

 不明データ保持の可能性──検知』


 亜弓は、画面を凝視した。


 彼が持つ映像。

 "赤ラベル"の誤作動映像。

 本来、消去されるはずのもの。


(彼が捕まれば……橘花さんも巻き込まれる)


 その想像が、亜弓の胸を締め付けた。

 橘花音香。

 "撃たない"という選択をした、稀少な女性。


 彼女を失うことは──


(あの日の私を、もう一度生み出すことになる)


 亜弓は、自分の手を見つめた。

 この手が、かつて引き金を引いた。

 もう、誰にもそれをさせたくない。


 亜弓は、画面を閉じた。


 部屋の静寂が、耳に痛い。

 壁に掛けられた時計が、規則正しく時を刻んでいる。

 その音が、まるで心臓の音のように聞こえた。


 あの日の心臓の音。

 引き金を引く前の、恐怖と使命感が混ざり合った鼓動。

 亜弓は、自分の胸に手を当てた。

 今も、同じ音がしている。


(私は……まだ、"撃った女"のままだ)


 その事実から、逃げられない。


 でも……

 だからこそ、あの二人を守れるかもしれない。


 亜弓は、コートを羽織り、部屋を出た。

 廊下の照明が、彼女の影を長く伸ばす。

 その影は、まるで引き金を引いたあの日から、ずっと彼女についてきているようだった。



***



 橋の上。


 風が落ち着き、辺りが静寂に包まれた頃。

 音香は、そっと葉介に言った。

「ねぇ……あなたの撮った映像。危険だよね?」


 葉介は、覚悟したように頷いた。

「はい。本当は、持ってはいけない。でも……消したら、何が起きているか誰にも伝えられない」


「あなたは……どうしたいの?」


「……街を、そのまま残したい。見える形で。誰かが怖くない世界じゃなくて、“誰が怖がっているのか分かる世界”にしたい」


 言葉の意味は難しい。

 けれど胸に染み込んでいく。


「音香さんは?」


「わたしは……」

 少し黙り、そして呟いた。

「撃たない未来を、信じたい」


 その言葉が、夜の空気に溶けた。


 その瞬間──


 二人の間に、淡い光が差し込んだような気がした。


 けれど、それは一瞬だった。

 その光を断ち切るように、橋の近くの道路でサイレンが鳴り響いた。


 警告放送。


『注意──この区域において害意レベルが上昇しています』


 音香の許可証が、バッグの中で震え始めた。


『付近で"害意誤判定"の疑いが発生。全女性は許可証を準備し──』


 まただ。


 音香と葉介は、同時に顔を上げた。


 遠くの道に、揺れる影。

 走る人々。

 悲鳴。

 ドローンの赤い光。


 音香の胸が、冷たくなった。


「……行かなきゃ」


「危ないですよ!」

 葉介が腕を掴む。


「それでも」

 音香は、彼の目を見た。


「また、誰かが撃たれるかもしれない。紅林さんみたいに、壊れる人が出るかもしれない。それを……見ていられない」


 葉介は、一瞬だけ迷った。

 でも、すぐに言った。

「俺も行きます」


「でも——」


「俺、記録者ですから」

 葉介は、カメラを取り出した。


「あなたが撃たないなら、俺は撮る。それが、俺たちにできることです」


 音香は、小さく頷いた。


 二人は並んで走り出した。

 沈みゆく夕暮れの中、確かな足音を刻みながら。


 街の亀裂の音が、遠くでまたひとつ、かすかに響いていた。




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