第五章 観測者の部屋
東京の朝は、どこか薄く震えていた。
遠くの高層ビル群の上空を、ドローンの影がゆっくり横切る。
昨日の“広域誤作動”の余韻が、街の空気の端々にまだ残っている。
橘花音香は、ベランダに出て深く息を吸い込んだ。
冷たい外気が肺の奥に触れる。
でも、冷たさが心地よかった。
昨夜から、体の芯が熱いままだった。
目の前で崩れた紅林実倭。
許可証の強制解除。
そして、「あなたの行動は記録される」と告げた女性。
伊佐見亜弓。
国家女性保安庁・第三課。
“恐怖の運用”を管理する立場の人。
その冷ややかで揺れのない眼差しを思い出す。
あの目は、音香を“危険なもの”としてではなく、“異例のもの”として見ていた。
予測不能で、分類不能で、だからこそ、記録すべき対象として。
音香は髪を耳にかけ、スマホを開いた。
新着通知──やはり来ている。
『国家女性保安庁 第三課より通達
橘花音香様
本日、午後三時より面談を実施します。
場所:第四地区・観測センター会議室A
※遅刻・欠席の場合、再評価対象になります』
……評価。
その単語が、背筋に薄い針を刺したように感じられた。
午後三時。
第四地区の観測センターは、外観こそ普通のオフィスビルに見えたが、出入り口の金属探知ゲートと、壁一面のカメラが空気を重くしていた。
音香が受付を通ると、無表情の女性職員が案内する。
「橘花音香様。こちらです」
案内された廊下は、病院のように白かった。
足音が、やけに大きく響く。
自分の靴音が、自分のものではないように聞こえる。
天井の照明が均一に光を落とすせいで、影がほとんど生まれない。
──影のない場所。
その事実に気づいた瞬間、背筋がぞくりとした。
影がないということは、どこにも隠れる場所がないということだ。
この廊下のどこに立っても、全てが見える。
全てが、記録される。
音香は無意識に、自分の歩幅を狭めていた。
できるだけ静かに。
できるだけ目立たないように。
でも、それすらも記録されているのだろう。
「失礼します」
案内役が扉を開けると、その向こうに彼女がいた。
伊佐見亜弓。
昨日と同じ黒い制服。
姿勢は寸分も乱れていない。
まっすぐに立ち、眉ひとつ動かさず音香を見つめている。
「橘花音香さん。どうぞ」
部屋は狭い。
机と椅子がひとつずつ。
壁にはHazardEyeの行動ログ監視画面が並び、街の情報が絶え間なく流れている。
ここが、“観測者の部屋”。
音香が座ると、亜弓は向かいの椅子に腰掛けた。
表情に感情はない。
だが、その瞳の奥には、どこか“揺れ”が潜んでいるように見えた。
「まず最初に確認します。昨夜、あなたは許可証の強制シャットダウンを行いましたね?」
「……はい」
「理由を聞かせてください」
その声は、淡々としていた。
咎めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ“事実”を求める声。
音香は、息を整えた。
「……怖かったからです」
「誰が?」
「わたしです。男性じゃなくて……その……“恐怖の数値”が勝手に上がっていくのが怖かった。相手じゃなくて……自分が何を怖がっているのか分からなくなるのが」
亜弓の瞳に、微かな動きが揺れた。
「続けてください」
音香は、一度息を吸った。
「もしあのまま撃っていたら——」
言葉が、途切れる。
「もしあのまま撃っていたら、私は……"撃った理由"を自分で説明できなかったと思います」
「説明できない、とは?」
亜弓の声が、わずかに鋭くなった。
「HazardEyeが『怖がれ』と命令したから撃つのか、私が本当に守りたくて撃つのか……その境界が消えてしまうのが、何より恐ろしかったんです」
「……」
「だから……システムより先に、自分の判断で止めました」
数秒の沈黙。
亜弓は、ゆっくりと瞬きをした。
それは、何かを飲み込むような動作だった。
「あなたは──」
亜弓は、慎重に言葉を選んだ。
「自分の恐怖を、信じられなくなったということですか」
「……はい」
「それは──それは、この国の女性の多くが感じていることです」
亜弓はゆっくりと視線を落とした。
机に置いた端末を指先で軽く滑らせると、映し出されたのは——昨日の行動ログ。
音香が男性の横を通った瞬間のスコア変動。
許可証の震動。
強制シャットダウン。
「あなたの判断は……“規範の外側”です」
言葉は冷たかった。
けれど、その続きは違った。
「しかし、異常ではありません」
音香は驚いて顔を上げた。
「え……?」
「HazardEyeは“恐怖の数値化”を基本方針としていますが、最近、誤作動が多発しているのは事実です。あなたの行動は、“正しく恐怖できないシステム”に対して行われた防衛行為とも解釈できます」
「……じゃあ、わたしは……」
「処罰対象ではありません」
その瞬間、肩の力が抜けた。
息が、胸の奥まで落ちていく。
「ただし──」
亜弓は、机の向こうから音香を見つめた。
「あなたは、“撃たない選択をした稀少な例”です。国家女性保安庁は、その判断を重要視します。今後、あなたの行動を継続的に観測したい」
「観測……?」
嫌な予感が胸を掠めた。
「はい。あなたは、“恐怖を自律判断する女性”として、統計的にも価値があります。毎週のログ提供、月二回の面談……場合によっては外部活動にも同行していただくことがあります」
「……わたしは、監視されるんですか?」
「監視ではありません。“観測”です」
音香は、その違いを問いただそうとした。
でも、亜弓の目を見て、言葉を飲み込んだ。
その目は、自分もまた「観測される側」だった時代を知っているような目だった。
「……断れないんですよね?」
「はい。国家にとって、“撃たなかった判断”は重要ですから」
そのとき、亜弓の声がわずかに揺れた。
「……あなたのような人間は、少ないんです。本当に」
言い終えたあと、亜弓は一瞬だけ目を伏せた。
その仕草は、昨日の厳しい姿からは想像できなかった。
音香は、勇気を振り絞って言った。
「亜弓さんは……撃ったこと、あるんですか?」
部屋の空気が、凍った。
亜弓は、表情ひとつ変えなかった。
でも、その肩が、わずかに硬くなった。
数秒の沈黙。
それは、答えより雄弁だった。
「……この話は」
亜弓の声が、いつもより低くなった。
「ここではできません」
音香は、何も言えなかった。
「でも——」
亜弓は、一度だけ目を閉じた。
「いつか、伝える時が来るかもしれません」
その「かもしれません」という言葉の中に、音香は、深い痛みを感じた。
亜弓は、何かを撃った。
そして、それを後悔している。
あるいは、後悔すらできないほど、麻痺している。
どちらにしても……
この人は、自分と同じ「恐怖」を抱えている。
面談を終えて外に出ると、夕暮れが街を赤く染めていた。
ドローンの光がその赤に溶け、どこか不吉な夕焼けになっていた。
観測センターを出て、しばらく歩いた。
夕暮れの街は、いつもより静かだった。
人々の足取りが、どこか重い。
スマホが震えた。
『未奈川です。面談、無事に終わりましたか?』
音香は、立ち止まった。
画面の文字を見つめる。
その一行が、今日一日で一番優しい言葉に思えた。
返信を打つ手が、少しだけ震えた。
『……無事じゃないけど、終わりました』
送信して、少し間を置いてから、もう一度打ち込んだ。
『少し……歩きたい気分です』
数秒後、返信が届いた。
『よかったら、一緒に歩きませんか』
音香の目に、涙が滲んだ。
それは悲しみの涙ではなく、誰かが自分を待っていてくれたことへの、安堵の涙だった。
胸が、温かくなる。
今日の冷たい空気の中で、それは痛いほど優しかった。
『場所、決めて』
打ち込みながら、音香は気づいた。
自分が、初めて「誰かに会いたい」と思っていることに。
恐怖ではなく、期待から。
『学院の近くの橋。人が少ない。静かです』
『……わかった。行きます』
スマホをしまい、音香は歩き出した。
足取りは、さっきより軽かった。
観測センターのガラス壁が、彼女の姿を映していた。
そこには、強くも優しくもない、ただ"人間らしい揺れ"を抱えた自分がいた。
その揺れこそが、昨日、紅林を止めた理由だ。
その揺れこそが、今日、亜弓の目を揺らした理由だ。
そして、その揺れこそが——
これからの街を変える"はじまり"になるのかもしれない。
音香は、ガラスに映る自分の顔をもう一度見た。
そこには、昨日までの自分とは違う何かがあった。
恐怖だけで動く自分ではなく、システムに従うだけの自分でもなく、自分で選んだ「撃たない」という選択を抱えた自分。
その顔は、少しだけ誇らしかった。
夕暮れの空が、ガラスに映り込んでいる。
その空は、硝子越しに少しだけ割れて見えた。
亀裂は、まだ小さい。
でも、確かにそこにあった。




