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更新率九十二パーセント ─武装する乙女─  作者: 真野真名


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第五章 観測者の部屋




 東京の朝は、どこか薄く震えていた。

 遠くの高層ビル群の上空を、ドローンの影がゆっくり横切る。

 昨日の“広域誤作動”の余韻が、街の空気の端々にまだ残っている。


 橘花音香たちばな おとかは、ベランダに出て深く息を吸い込んだ。


 冷たい外気が肺の奥に触れる。

 でも、冷たさが心地よかった。

 昨夜から、体の芯が熱いままだった。


 目の前で崩れた紅林実倭。

 許可証の強制解除。

 そして、「あなたの行動は記録される」と告げた女性。

 伊佐見亜弓いさみ あゆみ

 国家女性保安庁・第三課。

 “恐怖の運用”を管理する立場の人。


 その冷ややかで揺れのない眼差しを思い出す。

 あの目は、音香を“危険なもの”としてではなく、“異例のもの”として見ていた。

 予測不能で、分類不能で、だからこそ、記録すべき対象として。


 音香は髪を耳にかけ、スマホを開いた。


 新着通知──やはり来ている。


『国家女性保安庁 第三課より通達

 橘花音香様

 本日、午後三時より面談を実施します。

 場所:第四地区・観測センター会議室A

 ※遅刻・欠席の場合、再評価対象になります』


 ……評価。

 その単語が、背筋に薄い針を刺したように感じられた。






 午後三時。


 第四地区の観測センターは、外観こそ普通のオフィスビルに見えたが、出入り口の金属探知ゲートと、壁一面のカメラが空気を重くしていた。


 音香が受付を通ると、無表情の女性職員が案内する。


「橘花音香様。こちらです」


 案内された廊下は、病院のように白かった。

 足音が、やけに大きく響く。

 自分の靴音が、自分のものではないように聞こえる。

 天井の照明が均一に光を落とすせいで、影がほとんど生まれない。


 ──影のない場所。


 その事実に気づいた瞬間、背筋がぞくりとした。


 影がないということは、どこにも隠れる場所がないということだ。

 この廊下のどこに立っても、全てが見える。

 全てが、記録される。


 音香は無意識に、自分の歩幅を狭めていた。

 できるだけ静かに。

 できるだけ目立たないように。

 でも、それすらも記録されているのだろう。


「失礼します」

 案内役が扉を開けると、その向こうに彼女がいた。


 伊佐見亜弓。


 昨日と同じ黒い制服。

 姿勢は寸分も乱れていない。

 まっすぐに立ち、眉ひとつ動かさず音香を見つめている。


「橘花音香さん。どうぞ」


 部屋は狭い。

 机と椅子がひとつずつ。

 壁にはHazardEyeの行動ログ監視画面が並び、街の情報が絶え間なく流れている。

 ここが、“観測者の部屋”。


 音香が座ると、亜弓は向かいの椅子に腰掛けた。


 表情に感情はない。

 だが、その瞳の奥には、どこか“揺れ”が潜んでいるように見えた。


「まず最初に確認します。昨夜、あなたは許可証の強制シャットダウンを行いましたね?」


「……はい」


「理由を聞かせてください」


 その声は、淡々としていた。

 咎めるでもなく、慰めるでもなく。

 ただ“事実”を求める声。


 音香は、息を整えた。


「……怖かったからです」


「誰が?」


「わたしです。男性じゃなくて……その……“恐怖の数値”が勝手に上がっていくのが怖かった。相手じゃなくて……自分が何を怖がっているのか分からなくなるのが」


 亜弓の瞳に、微かな動きが揺れた。

「続けてください」


 音香は、一度息を吸った。

「もしあのまま撃っていたら——」

 言葉が、途切れる。


「もしあのまま撃っていたら、私は……"撃った理由"を自分で説明できなかったと思います」


「説明できない、とは?」

 亜弓の声が、わずかに鋭くなった。


「HazardEyeが『怖がれ』と命令したから撃つのか、私が本当に守りたくて撃つのか……その境界が消えてしまうのが、何より恐ろしかったんです」


「……」


「だから……システムより先に、自分の判断で止めました」


 数秒の沈黙。


 亜弓は、ゆっくりと瞬きをした。

 それは、何かを飲み込むような動作だった。


「あなたは──」

 亜弓は、慎重に言葉を選んだ。

「自分の恐怖を、信じられなくなったということですか」


「……はい」


「それは──それは、この国の女性の多くが感じていることです」


 亜弓はゆっくりと視線を落とした。

 机に置いた端末を指先で軽く滑らせると、映し出されたのは——昨日の行動ログ。


 音香が男性の横を通った瞬間のスコア変動。

 許可証の震動。

 強制シャットダウン。


「あなたの判断は……“規範の外側”です」

 言葉は冷たかった。

 けれど、その続きは違った。


「しかし、異常ではありません」


 音香は驚いて顔を上げた。

「え……?」


「HazardEyeは“恐怖の数値化”を基本方針としていますが、最近、誤作動が多発しているのは事実です。あなたの行動は、“正しく恐怖できないシステム”に対して行われた防衛行為とも解釈できます」


「……じゃあ、わたしは……」


「処罰対象ではありません」


 その瞬間、肩の力が抜けた。

 息が、胸の奥まで落ちていく。


「ただし──」


 亜弓は、机の向こうから音香を見つめた。

「あなたは、“撃たない選択をした稀少な例”です。国家女性保安庁は、その判断を重要視します。今後、あなたの行動を継続的に観測したい」


「観測……?」

 嫌な予感が胸を掠めた。


「はい。あなたは、“恐怖を自律判断する女性”として、統計的にも価値があります。毎週のログ提供、月二回の面談……場合によっては外部活動にも同行していただくことがあります」


「……わたしは、監視されるんですか?」


「監視ではありません。“観測”です」


 音香は、その違いを問いただそうとした。

 でも、亜弓の目を見て、言葉を飲み込んだ。


 その目は、自分もまた「観測される側」だった時代を知っているような目だった。


「……断れないんですよね?」


「はい。国家にとって、“撃たなかった判断”は重要ですから」


 そのとき、亜弓の声がわずかに揺れた。


「……あなたのような人間は、少ないんです。本当に」


 言い終えたあと、亜弓は一瞬だけ目を伏せた。

 その仕草は、昨日の厳しい姿からは想像できなかった。


 音香は、勇気を振り絞って言った。

「亜弓さんは……撃ったこと、あるんですか?」


 部屋の空気が、凍った。


 亜弓は、表情ひとつ変えなかった。

 でも、その肩が、わずかに硬くなった。


 数秒の沈黙。

 それは、答えより雄弁だった。


「……この話は」

 亜弓の声が、いつもより低くなった。

「ここではできません」


 音香は、何も言えなかった。


「でも——」

 亜弓は、一度だけ目を閉じた。

「いつか、伝える時が来るかもしれません」


 その「かもしれません」という言葉の中に、音香は、深い痛みを感じた。


 亜弓は、何かを撃った。

 そして、それを後悔している。

 あるいは、後悔すらできないほど、麻痺している。


 どちらにしても……


 この人は、自分と同じ「恐怖」を抱えている。




 面談を終えて外に出ると、夕暮れが街を赤く染めていた。

 ドローンの光がその赤に溶け、どこか不吉な夕焼けになっていた。


 観測センターを出て、しばらく歩いた。

 夕暮れの街は、いつもより静かだった。

 人々の足取りが、どこか重い。


 スマホが震えた。


『未奈川です。面談、無事に終わりましたか?』


 音香は、立ち止まった。

 画面の文字を見つめる。

 その一行が、今日一日で一番優しい言葉に思えた。

 返信を打つ手が、少しだけ震えた。


『……無事じゃないけど、終わりました』

 送信して、少し間を置いてから、もう一度打ち込んだ。

『少し……歩きたい気分です』


 数秒後、返信が届いた。


『よかったら、一緒に歩きませんか』


 音香の目に、涙が滲んだ。

 それは悲しみの涙ではなく、誰かが自分を待っていてくれたことへの、安堵の涙だった。

 胸が、温かくなる。

 今日の冷たい空気の中で、それは痛いほど優しかった。


『場所、決めて』

 打ち込みながら、音香は気づいた。


 自分が、初めて「誰かに会いたい」と思っていることに。

 恐怖ではなく、期待から。


『学院の近くの橋。人が少ない。静かです』


『……わかった。行きます』


 スマホをしまい、音香は歩き出した。

 足取りは、さっきより軽かった。


 観測センターのガラス壁が、彼女の姿を映していた。

 そこには、強くも優しくもない、ただ"人間らしい揺れ"を抱えた自分がいた。


 その揺れこそが、昨日、紅林を止めた理由だ。

 その揺れこそが、今日、亜弓の目を揺らした理由だ。

 そして、その揺れこそが——


 これからの街を変える"はじまり"になるのかもしれない。


 音香は、ガラスに映る自分の顔をもう一度見た。

 そこには、昨日までの自分とは違う何かがあった。

 恐怖だけで動く自分ではなく、システムに従うだけの自分でもなく、自分で選んだ「撃たない」という選択を抱えた自分。


 その顔は、少しだけ誇らしかった。


 夕暮れの空が、ガラスに映り込んでいる。

 その空は、硝子越しに少しだけ割れて見えた。


 亀裂は、まだ小さい。

 でも、確かにそこにあった。





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